Thanks To 250000 ! [ 兄妹シリーズより ]


ポール・フォーマンが、メイフェアに面したその白亜の屋敷、アシェンバート邸に足を踏み入れたのは、実に数ヶ月ぶりのことだった。
「おや、これはフォーマン様。旦那様がお待ちですよ」
「あぁ、はい」
久しぶりに訪れた伯爵邸は相変わらずの豪華絢爛な様で、一応お抱え画家という立場のポールではあるが、まだまだ駆け出しの彼は来る度に落ち着きを無くして辺りを見回してしまう。
「それにしても、急に呼ばれて驚きました。そういえば、ここ最近は伯爵にお会いしていませんでしたし……どこか具合でも悪かったんでしょうか?」
伯爵家の有能な執事の後を歩きながらそう尋ねると、トムキンスは驚いたような顔で振り返った。何かまずいことを言ってしまっただろうかとポールは焦る。
「フォーマン様はご存知ではありませんでしたか」
「いえ、あの、何が……?」
「旦那様はすこぶるお元気ですよ。以前にも増して」
「はぁ……」
以前にも増してといわれても、以前から十分元気ではなかったか、とポールは首を傾げる。とくに女性を前にした時のアシェンバード伯爵は、いつ見ても生き生きしていたような気がする。
「トムキンスさん!」
ポールのそんな回想をさえぎったのは、どこからか響いてきた、そんな元気な少女の声だった。
トムキンスは立ち止まり、くるりと振り返る。釣られて同じように振り返ったポールの目に映ったのは、癖のない赤茶の髪を下ろしたまま廊下を走ってくる、年頃の少女の姿だった。この屋敷で見るのは初めてだ。
「リディアさん。どうかなさいましたか?」
「トムキンスさん、馬車を用意してほしいの」
「どこかにお買い物でも?」
「えぇ。ちょっと雑貨屋さんに行きたくて……」
「旦那様は何と仰っておいでですか?」
トムキンスのその言葉に、リディアを呼ばれた少女はあからさまにむっと顔をしかめた。子供っぽいその表情に、一体この少女はいくつなのだろうとポールは考える。背格好だけなら、もう十分大人のように見えるのに、そうして浮かべる表情はずいぶん子供染みているのだ。
「旦那様のお許しがないと、馬車の用意はできませんね、リディアさん」
「どうして? ちょっと買い物に行くだけよ。エドガーには迷惑なんてかけないし……」
「迷惑がどうという問題ではなく、旦那様は心配なさっているんですよ」
「雑貨屋さんに行くぐらいで、何の心配があるっていうのよ? 馬車を出してもらえば迷子になる心配だって無いじゃない。そんなこと心配してる暇があるなら、家の帳簿の心配でもすればいいんだわ。いらないって言ってるのにまたあんなにドレスを買ってきて。バカじゃないのかしら」
アシェンバード伯爵のことを、そんな風にこき下ろす少女は初めてだ。
思わずまじまじと見つめてしまったポールに、リディアの視線がぶつかる。ポールの存在に初めて気づいたのか、「あっ」と小さな声を上げると、リディアは恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「……あの、兄さまのお友達?」
「画家のポール・フォーマン様ですよ」
リディアの問いに、ポールよりも先にトムキンスがそう答える。画家とは言っても、まだ駆け出しで……とポールが言うよりも先に、リディアはぱっと顔を輝かせた。
「画家さんなの? あたし画家さんに会うの初めてだわ」
「いえ、そんな、絵を買って下さるのはアシェンバート伯爵ぐらいで……」
「今日はエドガーに呼ばれたんですか? 新しい絵を描くために」
「えぇ、はい、多分そうだと思うんですけど」
アシェンバード伯爵のことを、エドガーと名前で呼び捨てる様にポールは驚いた。
もっとも、そんな女性には幾人か会ったことはある。皆、エドガーとは人並み以上に親しい間柄の女性だった。けれど今目の前にいるこの少女が、とてもそんな間柄とは思えない。エドガー、と口にした時のリディアの様子はひどくあけすけで、間違っても内緒の恋人の名前を囁く様子ではなかったのだ。恋愛に疎いポールでも、そのぐらいのことはわかる。
「ライブラリで旦那様がお待ちですよ。リディアさんも同席されたらいかがですか」
「あたしがいたら邪魔じゃないかしら」
「旦那様はそんなことは仰いませんよ。むしろ喜ばれますよ」
執事がそんなことを勝手に決め付けていいのかとポールは少し不安に思う。
けれどそれがまぎれも無い事実であったと知るのは、ほんの数分後のことである。


「やぁ、ポール。よく来てくれたね。それにリディアも一緒か。どうやら紹介する手間が省けたようだね」
久方ぶりに会ったアシェンバート伯爵は相変わらず完璧な井出たちで、その眩しさにポールはぱちぱちと瞬きをした。そんなポールの横を、リディアはさっと駆け抜けていく。
「兄さま、画家さんが来るだなんて知らなかったわ。どうして教えてくれなかったの?」
「君を驚かそうと思って。これで機嫌をなおしてくれないかな、僕の妖精」
「あっ……だってあれは……もう、あんなふうにふざけたりしないで! あたしはあなたの玩具じゃないんだから」
「もちろん、玩具だなんて思ったことはないよ。だけどねリディア、君が可愛すぎるのがいけないんだよ。だからついついちょっかいを出したくなる」
二人の親密そうな様子に、ポールはぽかんと口を開いた。
伯爵と親しい女性なら何人か知っているポールだが―――この『親しさ』は、明らかにそれとは違うとわかる。
それに大体、兄さまというその呼び方は一体……。
「とりあえず座ってくれ。ゆっくりお茶でも飲もう。ほら、君が気に入ってくれたジンジャーマンクッキーもあるよ、リディア。あぁ、ポールも良かったら食べるといい」
「はぁ……」
頷きながらポールは椅子に腰掛けた。この伯爵邸で、ジンジャーマンクッキーを見たのは初めてだ。可愛らしい人形の形を象ったそのクッキーは、子供が喜ぶお菓子そのものといった感じで、あまり甘い物が得意ではないポールはそれほど食べたいとは思わない。
「あの、伯爵。そちらのお嬢さんは一体……」
「あぁ。僕の遠縁の子で、少し前に引き取ったんだ。両親を亡くしていてね。義妹のリディアだよ」
「えっ。引き取ったって、本当ですか」
「……もしやとは思ったけど、本当に知らないのか、君は」
呆れたようにエドガーは呟き、すみませんとポールは頭をかいた。
色々と名高いアシェンバード伯爵は、いつだって人々の噂の的だった。社交界でも、低俗なペーパー誌でも。恐らくはエドガーが引き取ったという遠縁の少女のことも噂にはなっていたのだろうが、それをポールが知らなかったのは、いつだって彼は世間の噂なんて物にとんと疎いからである。
「ここ最近、ずっと取りかかってる絵があって……しばらく家に閉じこもりきりだったものですから」
「そんなことだろうと思ったよ。まぁ僕も、最近は君のことを忘れていたからおあいことも言えるけどね。お転婆な妖精は、一人で屋敷を抜け出して迷子になったり怪我をしたり木に登ったりで、君のことを思い出す暇もなかったんだよ、ポール」
迷子や怪我はともかく、木に登ったり……?
「エドガー!」
真っ赤になって怒鳴るリディアを見て、まさか、とポールは思う。この、いたって普通な可愛らしい少女が?
「リディア、口の端にクッキーのかすが付いてるよ」
怒鳴りつけられたエドガーは、けれどくすくすと楽しげに笑いながら、腕を伸ばしてリディアの口元を拭っていく。それを見て、恥ずかしそうにリディアは少し俯く。
「だれも取らないんだから、もっとゆっくり食べていいんだよ。君のライバルのニコだって今はいないんだし」
「そ、そんな意地汚くないわ、あたしは」
「そうかな。運ばれてきたクッキーを見た時、身を乗り出したように見えたんだけど。あれは僕の気のせいだったのかな」
それはポールも見ていた。もちろんポールは意地汚いなどとは思わず、よほどお菓子が好きなのだなと思っただけだったが。
ぐっと言葉につまったリディアは、その通りだと自分でもわかっていたから、言い返す言葉が見つからなかったのだろう。真っ赤な顔で口を開けたまま言葉を探している。わずかな沈黙に、ポールまでが緊張してきた。
「……兄さまの意地悪っ!」
やっとの思いでリディアの口から飛び出た言葉は、あまり語彙の豊富でない子供が怒った時に言う言葉そのもので―――思わずポールは噴き出してしまった。女性に対して失礼だとは思いつつも、堪え切れなかった。
「す、すみません、伯爵」
慌てて謝ったが、見るとエドガーも同じように笑い出している。おかげで助かったが、リディアの機嫌は降下していく一方のようだった。
「まったく、君は……意地悪なんて言われたら敵わないな。あぁほら、機嫌をなおしてくれ。せっかく仲直りをしたばっかりなんだから。ね?」
「もうエドガーなんて知らないわよ…っ」
「リディア」
情け無さそうな声を出しながらも、エドガーの瞳は笑っている。
つまりこんな風に、先ほどもきっと些細な理由で喧嘩をしていたのだろうなと、疎いポールにも容易く予想はできた。
今までに見たことのない伯爵だ。けれどこんな楽しげな様子を見るのも初めてで、ポールはしみじみとその驚きをかみ締めた。アシェンバード伯爵がここまで一人の女性に夢中になる様を見たのは初めてだ。それも相手が義妹だなんて。
「今日ポールを呼んだのは、君の部屋に飾らせる絵を描かせようと思ったからなんだよ。ポールは妖精画家なんだ」
「……本当に?」
その言葉に、どうしてリディアが反応するのか、ポールにはわからない。けれど伯爵は満足そうに頷いた。
「そうだよ。だから君も気に入るんじゃないかなと思って。怒らせてしまったお詫びに、どうかな?」
リディアは目に見えて気持ちを動かされたようだった。だというのに迷った風情なのは、まだエドガーに対する苛立ちが残っているからなのかとポールは思ったが、リディアの口から出てきた言葉は思いも寄らぬものだった。
「だけど……そんな、あたしの部屋に飾るために、わざわざ描いてもらうなんて……申し訳ないわ」
「何を言ってるんだ、リディア。画家はそれで稼いでるんだよ。申し訳ないどころかありがたい話じゃないか。だろう、ポール」
「えぇ、それはもちろん」
意気込んでポールは頷いた。今のところ、駆け出し画家のポールの絵に金を出してくれるのなんて、このアシェンバード伯爵ぐらいのものなのだ。少し地味だと言われるポールの絵は、派手な絵を好む貴族の趣味からは少し外れる。どうしてアシェンバード伯爵が目をかけてくれるのかもよくわからないぐらいなのだ。
「でも、そうだね。まずはリディアがポールの絵を気に入ってくれないことには始まらないな」
まだ迷った様子のリディアを見て、エドガーはそんなことを言う。え? と、リディアとポールのどちらもが顔を上げた。
「今日は時間はあるんだろう、ポール。その辺で簡単なスケッチでもしてきてくれ。そうだな、風景とか花の絵とか……。そのぐらいなら夜までに描けるだろう、ポール」
「え、えぇ。簡単なのでしたら何枚かは……」
「よし、それで話は決まりだ。僕とリディアはちょっと出かけるから、君はその間に絵を描いておいてくれ。リディアが気に入ってくれたら部屋に飾る絵を頼もう」
貴族らしい横柄な態度。けれど嫌味な風には映らず、むしろこの堂々とした様に、ポールは安心感すら覚える。この人に付いていけば大丈夫だと、そんな風に思わせる力をこの若い伯爵は持っているような気がするのだ。だからこそ、社交界でも一際目立った存在なのだ、この伯爵は。
「どこに行くの、兄さま?」
「君に新しいドレスを仕立ててあげようと思って。最近若い女性の間で人気の店があるんだ。まだ行ったことはなかったからね」
よほどアシェンバード伯爵は、この新しくできた義妹が可愛くて仕方がないらしい。ポールはそう思い微笑ましい気持ちにすらなったのだが、当のリディアは顔を顰めたのだから驚きだった。
「もういいわよ、新しいドレスなんて。あたしがあと十人いたって余るぐらいあるんだから」
「だけどリディア、君はこの間若草色のドレスを破いたばかりだろう。君の瞳に合わせて作ったやつだったんだよ。僕も気に入っていて……」
「だから、何度も言うけど、あたしはあなたの着せ替え人形じゃありませんから! ドレスも靴も帽子もアクセサリーももういりません! そんなに買いたかったらあなたがつければ?」
「……あのね、リディア」
先ほどとは打って変わって、心底からエドガーは言葉につまったようだった。
ポールも驚いていた。女性は皆、ドレスやアクセサリーが好きな生き物だとばかり思っていた。それとも、閉口させるぐらい伯爵の贈り具合がすごいのか。
「それにあたし、ポールさんが絵描くの見たいわ」
「えっ」
思わぬ矛先の方向に、ポールは驚きの声を上げる。
「ポールさん、あたしが傍で見てたら邪魔ですか?」
「え、いえ、邪魔ではないですけど……でもあの、とくに面白くもないと思うんですが」
「そんなことないわ。画家さんに会うの初めてだから、どんな風に絵を描くのか興味あるんです。きっと見てるだけで楽しいわ」
そう言って無邪気な笑みを浮かべられてしまえば、もうポールはどう言えばいいのかわからない。元々、女性を相手に雄弁に語れるような、そんなアシェンバード伯爵のような口は持ち合わせてはいないのだ。
「……僕と買い物に行くより、ポールと一緒にいたいって言うのかい、リディア」
不機嫌さを隠すことのない伯爵の声音に、ポールはびくりと身体を跳ねさせる。
「いえ、あの、伯爵」
あえて言うのなら、リディアは別にポールと一緒にいたいわけではなく、ただ画家に興味があるだけだ。そう言おうとしたのだが、伯爵の不機嫌な笑みに言葉は続かなかった。
「兄さまと一緒に買い物に行きたくないだけよ」
リディアは弁解のようにそう言ったが、それではエドガーの機嫌をますます損ねるだけだ。どうしてそれに本人は気づかないのか。
「なるほど。初対面でここまでリディアに好かれるだなんてね。ぜひともその秘訣を教えてもらいたいものだよ、ポール」
「は、伯爵。いえあの、これはちょっと違うと思いますけど」
ポールがこれほどまでに焦っているというのに、当のリディアはのんきに残っていたジンジャーマンクッキーを食べている。エドガーが不機嫌なことに気づかないのか、気づいていても大したことではないと思っているのか。どちらにしろ、小心者のポールには真似のできないことである。
「あの、リディアさん。せっかく伯爵が誘って下さってるんですし、二人で出かけてきた方がよろしいのでは……」
クッキーを飲み込んでから顔を上げたリディアは、エドガーに顔を向け、そこでようやく自分の兄が不機嫌なことに気づいたようだった。
「だったら、エドガーも来ればいいのに」
リディアの言葉に、男二人はそろって目を見開いた。
「だって、外でスケッチするんでしょう? 今日は天気もいいし、風が気持ちいいわ。お茶とスコーンを持っていってもいい? 外で食べると気持ちいいでしょう?」
ね? と可愛らしく小首を傾げておねだりをする様は、妹が兄に対する態度そのもので、見ているポールも微笑ましくなってしまう。
毒気を抜かれたように、伯爵はやれやれと両肩を落とす。何もわかっていない風情のリディアは、不思議そうにそんなエドガーを見つめている。
「わかったよ、リディア。ポールに付き合ってみんなでピクニックといこうじゃないか。すぐにバスケットの用意をしてもらおう。アーミンとレイヴンも呼んでくるといい」
「ニコも忘れちゃダメよ。お菓子を食べ損なったら絶対にいじけるもの」
「君みたいに?」
もう、とリディアは頬を膨らます。ごめんごめんと謝るエドガーを見ながら、とりあえず機嫌が良くなったことにポールはほっと胸をなでおろした。
それにしても、伯爵と一緒にピクニックだなんて、妙な話になったものだ。
「みんなを呼んでくるわ。それからお菓子の準備も」
慌てたようにリディアは部屋から駆け出していく。とても淑女とは言えないような態度だが、不思議と無作法には映らない。足取りが軽やかだからなのかもしれない。
「可愛いだろう、僕の妹は」
「……そうですね」
「手を出したら殺すからね」
「………………わかってます」
にこやかな伯爵の笑みに、ポールは引きつった笑みを返すので精一杯だった。
この話は、25万を踏んで下さったけいさんにお捧げします。
って、25万ていつだよ、って話ですが……うわわブログ見たら去年の6月でした、踏まれたのは。
今もう1月ですけど。30万が目前だー! と気づいて焦ってリク消化にかかりました^^;
リクされたのは、『第三者から見た独占欲ばりばりのエドガーと無自覚に丸め込むリディア』でした。
第三者、ってことで、初めて兄妹にポールを出してみました。実はサイト初登場のポールさん。
何かちょっと独占欲ばりばりエドガーってのが弱かったかな、とは思うのですが……
うわわ、がんばったんですがこれが手一杯、です。けいさんこんなのですみません>_<
遅くなった上にリク未消化な感じですが、少しでもお楽しみ頂ければ幸いです……!
さーてこれで安心して30万迎えられるー!


(08.1.12)