airothrope


ゆらゆらと揺れる川面を、リディアはじっと見つめていた。
そこに映っているのは、鉄錆色と陰口を叩かれる赤茶色の髪をした一人の少女だ。そこから生えている、クリーム色の三角の耳は、風を受けて時たまぴくぴくと小刻みに動く。
「……んーっ」
ぎゅっと目をつぶり力を込める。二つの三角の耳に意識を集中するようにして。
けれど再び目を開いても、耳は依然そこにあるままだ。頭に引っ込み、代わりに顔の横に人間の耳が現れることもない。尻尾も同じだ。耳を触り、尻尾を触り、リディアは今日何度目かわからないため息をもらした。
「……どうしてできないのかしら」
「なんだ、まだ練習してるのか? リディアもこりないよな」
昼寝をしていたニコは、目をさすりながら呆れたようにそう言った。こりないって何よ、とむっとしつつも、リディアは相棒にすがるような目を向けた。
「ねぇ。どうやったら獣消しってできるの?」
「知るかよ。おれは人猫じゃねえっての」
「……そうよね。猫だものね」
「妖精だよ!」
何とも頼りにならない相棒だと、リディアはため息をついた。
獣人にとって、獣消しができるのは一人前の証だ。一昨年辺りから、そろそろだろうかと気にはなっていたのだが、今年に入ってもちっともできるようになる気配が無くて、リディアは焦りだしていた。
村では、同い年の子達が次々と一人前になり、大人たちに混じって人間界へ行くようになっている。そうして、そこでの面白おかしい出来事を話して回るのだ。
悔しいから、羨ましい顔なんて絶対にしないけれど、それでも自分より年下の女の子が耳と尻尾を消して村中を歩き回っていると、とにかく焦ってしまって仕方が無い。もしかしたら、このままでは一番のビリになってしまうかとも思えて、そうして毎日人の来ない川べりへとやって来ては、リディアは一人で獣消しの練習をしているのだ。
だが、その成果はちっとも現れない。
「そんな焦って練習したって仕方無いんじゃないか?」
川面に姿を映し、もう一度、と全身に力を込めるリディアを見て、ニコはそう言ってくる。
「だって、あたしだけいつまで経ってもできないだなんて嫌だもの。どうするのよ、あたしだけずっと半人前のままだったら」
「練習したからってできるようになるとは思えないけどな。みんな言ってるじゃないか、いつの間にかできるようになってたってさ」
「そりゃそうだけど……」
でも、練習することが無駄とは思えない。
何もせず、ただその時を待っているなんてとてもリディアにはできないから、だからこうして毎日この場所へとやって来るのだ。
「安心しろよ。今までこの村で、獣消しができなかった奴はいないからさ。いくらリディアでもその内できるようになるよ」
いくらあたしでもって何なのよ。
ニコは慰めてくれているつもりなのだろうが、どうも素直に喜べない。周りに取り残される気持ちなんて、妖精のニコにはわからないだろうからなおさらだ。
いつか、では駄目なのに。今日か明日にでもできるようになりたいのだ。
「案外、焦ってるからできないのかもしれないぜ」
そんなものなのだろうか。
「ま、おれはもう帰るからさ。練習したきゃ好きなだけしてろよ」
慰めてくれたかと思えば、やっぱりニコは冷たいし。
「好きなだけしてるわよ」
「あっそ」
そして、本当にニコは一人で帰ってしまった。薄情な猫よね、と小さく呟いて、リディアは再び川面を覗き込んだ。
この耳と尻尾が消えることは、本当にあるのだろうかと不安になってくる。獣消しは一人前の証。一人前になれない、何か理由でもあるのだろうか。
もしかして子供っぽいとか?
「で、でも、子供っぽくてもできてる子はいるし……」
じゃあもっと、何か別の理由があるのだろうか。
考え始めると、どんどん不安が加速していく。この村で初めて、獣消しのできない人猫になったらどうすればいいのか。
「ま、まさかそんな、ね」
そんなことあるわけないと自分に言い聞かせて、リディアは再び練習を始めた。
不安になっているぐらいなら、その分練習をした方がいい。
早く一人前になって、彼と一緒に人間界に行きたいのだから。





家のドアを開ける前から、いい匂いが漂ってきていた。
「おかえり、リディア」
「ただいま。……あ、ごめんなさい、今日の食事当番あたしなのに」
慌てて駆け寄ると、エドガーは鍋をかき回しながら「別にいいよ」と柔らかく微笑んだ。
「ちょうど今日は暇だったから。鶏肉のシチューだけど、いいかな?」
「えぇ。エドガーの作る料理美味しいもの」
あたしが作るのよりよっぽど、と、リディアは心の中で呟く。
料理の上手い男の人なんて反則だと思う。リディアが苦労するじゃがいもの皮むきだって、エドガーはすらすらとこなしてしまう。手伝っているつもりが、むしろ邪魔になっているようで、エドガーと一緒に料理をするのは少し苦痛だったりもするぐらいだ。エドガーはそんな顔をしないから余計に。
「僕は、リディアの手料理が好きだけどな」
「美味しくないじゃない、あたしの料理って」
「リディアが作ってくれたってだけで、僕には十分美味しく思えるよ」
「……またそんなこと言って。だれにでも言ってるんでしょ」
エドガーの口から口説き文句が垂れ流しなことなんて、この村では周知の事実だ。けれどそれを真に受けて、のぼせ上がってしまう女性が後を絶たないのは、そうした台詞を口にする時のエドガーが、とても嘘やお世辞を言っているようには到底見えないからだ。
日の光りを集めてきらきらと輝くような金髪も、扇情的な灰紫の瞳も。その一つ一つだけでも十分すぎるほど魅力的なパーツを揃えているというのに、加えて、この辺りでは絶対に見かけないような端整な顔立ちをしている。
この村だけでも、一体どれだけの女性がエドガーに想いを寄せてきたのか、一番間近で見ていたリディアだって覚えてはいない程なのだ。
だから彼の褒め言葉なんて、一々真に受けていたら仕方が無いとわかっているのに、それでも言われると嬉しくて、リディアは頬を緩ませないように気をつけながら相手をしなくてはいけない。
「だれにでもなんて。リディアにしか言ってないよ。リディア以外の女の子の手料理なんて、食べる機会はそう無いし」
「嘘ばっかり。しょっちゅう色んな女の子が、焼きたてのパンとかフルーツケーキとか持ってくるじゃない」
その全部をリディアが見ているわけではないが、妖精達からよく話は聞いているのだ。
「だって、一々だれがくれたのかなんて覚えてないよ。何人もの女の子が一緒に来るんだから」
「……最低」
「でも、味を覚えてたって、リディアの手料理が一番美味しいことには変わらないよ」
十分煮込んだ鍋をどかしてから、エドガーはさらりとリディアの髪に触れる。こんなのエドガーの常套句。本気にしたら駄目よと思いながらも、嬉しくなるのを止められない。
「……ほんとに?」
そんなことを聞いてしまって。あたしってばバカみたい。
「本当だよ。リディアが一番可愛いんだから」
可愛いと料理が美味しいとは、何の関係も無いだろうと思うのだけれど、見つめられてそんなことを言われれば、どう返事をしていいのかもわからなくなってしまう。
「ところで、リディア。今日はだれにもいじめられなかった?」
「平気よ。だれにも会わなかったもの」
「そう、ならいいけど。だれかに悪口を言われたり、からかわれたりしたら、すぐ僕に言うんだよ。二度とそんな口なんてきけないようにしてやるからね」
「……気持ちだけ受け取っておくわ」
到底素直に頷く気にはなれなくて、リディアはコップに水をいれてから椅子に座り込んだ。
心配しているのに、とでも言いたげにリディアを見つめるエドガーに、リディアは大きなため息をつく。
確かにリディアは、この村の中では少し浮いた存在だった。昔から、村人達よりも妖精達と関わる方が楽で、幼い頃から妖精とばかり遊んでいた。それが成長した今もどうにも抜けきれなくて、年の近い女の子達ともいまいち友達にはなれないままだった。
小さな村だから、村人全員が顔見知りという状態で、リディアのような存在は稀だった。だから男の子達からは、顔を合わせればからかわれるのが日常だった。
もっとも、エドガーがいる場合だけは違ったけれど。
「ねぇリディア。僕は君のことが心配なんだよ。お願いだから、何かあったらすぐ僕に言ってくれ。それだけは約束してほしいんだ」
「それは嬉しいけど……」
エドガーに言うと、何だかとてつもなくひどいことになりそうなのだ。
自分の力を考えてほしいと思う。エドガーにかかったら、本当に男の子と達をこてんぱんにすることなんて朝飯前なのだろうから。
まじまじと、リディアはエドガーを見上げる。整った顔立ちと眩しい金髪。そこからは三角の耳なんて生えていない。
この村に来た時からずっと、エドガーは獣消しをしているから、リディアはエドガーがどんな耳と尻尾をしているのかまだ知らない。聞いても、「別に普通だよ」と言われるだけだった。
絶対にエドガーは、獣消しを解こうとはしない。その理由は村人のだれもが知っている。
人猫族―――アイオスロープ―――が暮らすこの村において、エドガーの存在は異端だった。
エドガーは人猫ではない。獣人の中でも最強の力を誇るとされる、人狼族―――リカントロープ。
そんな彼だから、人猫の男の子達を相手にすることなんてわけもないはずなのだ。それを思えば、例え本当にいじめられたとしたって、とても素直に言う気にはなれなくて、リディアは冷たい水を一気に喉に流し込んだ。


リカントロープであるエドガーが、どうしてこの村で暮らすことになったのか、詳しいことはリディアはよく知らなかった。
エドガーがやって来たのは、今から五年程前のこと。縄張り争いの激しいリカントロープは、それゆえに殺し合いにまで発展することがあるらしいとは聞いていた。そんな理由から、エドガーはこの村へとやって来たらしい。
そうして五年前のその日から、エドガーはカールトン家の一員となった。
狼が来ると聞いて、怖かったことをリディアは覚えている。それまではリカントロープなんて話の中だけの存在で、獰猛で恐ろしいということしかリディアは知らなかったから、そんな狼が来れば自分は食べられてしまうのだと思い込んで、エドガーが来た日も川べりに逃げ込んで、食べられたくないと泣いていた。
それでも、いざ顔を合わせたエドガーは、とても獰猛そうにも恐ろしそうにも見えなくて、リディアは拍子抜けしてしまったのだが。
けれどその後、リディアをいじめにきた男の子達数人を、たったの数秒でやっつけてしまったのだから、ある意味恐ろしい狼というのは当たっていたのかもしれない。
家族のようで、兄のようで、一番の友達のような、一言では言えないけれど、とにかく大事な人。
「……早く、一緒に人間界に行けるようになればいいのに」
リディア達が暮らすのは、本当に小さな村だ。
畑もあるにはあるけれど、とても村人全員を養うには足りない広さだ。
だから獣消しができる大人たちは、人間のフリをして人間界へ行く。そうして仕事に就きお金を稼ぎ、人間界で食べ物や衣類を買ってくる。リディアの父も、数年前からある大学の教授をやっている。『大学』も『教授』も、リディアにとってはいまいちよくわからない言葉だ。
早く人間界に行きたい。
エドガーはよく人間界の話をしてくれるし、お土産だって買ってきてくれるけど、一緒に行けたらきっともっと楽しいはずだ。同じものを見て、同じものを感じられたら。家で土産話を聞くよりも、ずっと、ずっと。
「……だから、早く、一人前にならなくちゃ」
毛布を口元まで引っ張りあげた。
明日も川に行こう。そして練習をしようとリディアは思った。
***

長編連載スタート。まだ序章も序章ですが…基本路線はシリアスだったりします。
ずっと前からネタはあったのですが、ようやく書けて満足!
色々と無駄に設定練ってるので、そこら辺も書き切れたらいいなぁと思います。
ちなみに。リカントロープは実在する言葉ですが、アイオスロープは俗語です。
そういうの考えるのもすごく楽しい!

(08.7.30)