Tie up ribbon to a tail
日が昇って少ししてから起き出したリディアは、部屋にエドガーの姿が無いことに首を傾げた。
「父さま。エドガーは? まだ起きてないの?」
「彼なら、人間界に出掛けたよ。用事があるみたいでね」
「こんな朝早くから?」
流しを見ても、朝食を食べた形跡は無い。せめて一緒に朝ごはんぐらい食べればいいのにと、リディアは唇を尖らせた。
「エドガーって、人間界に何をしに行ってるの?」
父親は大学とやらに出掛けているらしいが、エドガーが何をしに行っているのか、リディアは知らなかった。詳しいことを聞いても、人間界のことなどろくに知らないリディアが理解できるはずもなかったが、それにしてもエドガーは何も教えてくれないと不満に思う。
「さあ……何だったかな」
「父さまも知らないの?」
「とくに聞いたことはないからね」
紅茶を飲みながら、父親は穏やかな口調でそう答える。父親らしいとも言えたが、普通はもう少し気にするものではないのだろうかとリディアは呆れた。そりゃあ、エドガーとは何の血の繋がりも無いし、その上種族だって違うけれど。それでももう何年も一緒に暮らしている、家族のような存在なのに。
少しするとニコも起きて来て、三人だけの静かな朝食が始まった。食べ終わると、すぐに父親も仕事に出掛けてしまった。簡単に後片付けを終えてから、リディアも家を出た。一緒に来るかと聞いたけれど、ニコはソファの上にふんぞり返ったまま首を横に振った。
「今日こそはできるようになるんだから」
たどり着いたいつもの川辺で、リディアはひょいっと川面を覗き込んだ。
ぴくぴくと動く三角の耳。これが消えたらどんな風になるのだろうかと想像する。
羨ましくて、エドガーの人間の耳を触ったことなら何度もある。エドガーはくすぐったそうな顔をしていた。頭のてっぺんではなく、顔の両脇に耳が生えるというのが、リディアにしてみれば信じられない。
「ここに耳が生えるのよね……」
今は何も無いその場所をゆっくりとさする。人間の耳はどんな感じなのだろうか。エドガーに聞くと、獣の耳よりも音が聞こえにくいという。「それじゃ不便じゃない」とリディアは言ったが、「その方がよく眠れるよ」と言われて納得した。確かにそれは魅力的だ。
獣の耳は、たくさんの音を聞き取ることができる。
リディアはそれほど耳がいい方ではないけれど、人によっては三軒隣の家の物音まで聞き取ることができるらしい。
薄い茶色の毛で覆われたその耳を、リディアゆっくりと撫でる。よくエドガーにそうされるように。獣人は、その証である耳や尻尾を他人に触られることをひどく嫌う。とくに敏感な場所だからだろう。リディアの耳に触れるのはエドガーぐらいだ。父親だって、よほどのことがなければ触れてこない。
エドガーに撫でられるのは好き。
でも、一日でも早く、消せるようになりたいと思わずにはいられない。
深く息を吸い込んで、深呼吸をする。
落ち着かなければ、獣消しはできない。
獣消しになれた大人でも、驚いたり興奮したりすると、獣消しが解けてしまう。自分の心臓の音に集中するといいよ、と言ったのはエドガーだった。村に来てから、少なくともリディアが見ている前では一度も獣消しを解いたことがないエドガーのアドバイスだ。その通りにすればできるに違いないと思って、リディアはぎゅっと目を閉じる。
もう十分大人になったつもりだ。
そりゃ、子供っぽいところだってまだたくさんあるけれど。
それでも村を走り回って遊んでいるような子供ではないし、大人の仲間入りをしつつあると思う。料理だってそこそこできるようになったし、そんな簡単には泣かなくなった。
だから獣消しだって十分にできるはず。
胸に手を当てて、心臓の音を感じる。どくんどくんと、ゆっくり動く心臓に呼吸を合わせる。
風の音も妖精達のおしゃべりも、次第に聞こえなくなる。ぴくぴくと動いていた両耳は、ぴんっと立ったまま動かない。聞こえるのは自分の心臓の音だけ。
何だか、できそうな気がする。
高揚する気持ちを抑え、もう一度、ゆっくりと息を吸い込んだ時だった。
「こんな所で何やってるの?」
びっくりした。
慌ててリディアは立ち上がった。声のした方に振り返ると、つまらなさそうな顔をした一人の青年が立っていた。
牧師館の息子だ。こんな狭い村だから、村人はほとんどが顔見知りだが、リディアは年の近いこの青年と仲良く遊んだ記憶は無い。それを言えば、リディアは他のだれとも仲が良かった覚えは無いのだが。 今もアンディは、こんな村外れの、だれも来ないような川べりに一人で座り込んでいたリディアを、不審なものでも見るかのような目で眺めてくるから、リディアもついむっとして顔をしかめてしまう。
「べつに、何だっていいでしょ」
喧嘩腰に言い返してしまう。
元々きつい顔立ちと、この性格の所為で、アンディを始めとする村の若い子達からは敬遠されていると知っていたが、今更どうにもならない。
「いつも日中は見かけないと思ったら、一人でこんな所に来てるんだ?」
呆れたとでも言わんばかりの声音だった。よっぽどの暇人だとでも言いたいのだろうか。
「あたしが何をしようが、そんなのあたしの勝手でしょ。ほっといてちょうだい」
決して暇なわけではなく、獣消しの練習をしに来ているのだ。家にいるよりも、静かな川辺で練習をした方がずっと集中できる。
せっかく、今日はいい調子だったのに。邪魔をするように現れたアンディに、八つ当たりだとはわかっていても、ついむかむかとしてしまう。
「何なの? 何か用事でもあるの?」
「……別に。ただの散歩だよ」
「じゃ、さっさとどこかに行ってちょうだい」
アンディがここにいては、練習ができない。
お互いにイライラするだけなのだから、用事があるわけでもないアンディはすぐさまこの場を去ってくれるだろうと思っていたのに、彼は何を考えているのかわからない顔でその場に留まっている。
「きみってさ、いつもつんけんした物言いをするよね」
だってそれは、アンディの態度に苛立ってしまうから。
不必要につんけんしているわけではない。けれど改めてそう言われると、何だか胸が痛い。
悪いことをしてしまったような気がして、リディアは少し反省する。少なくとも今は、アンディは何か気に障るようなことを言ったわけではない。友好的な態度にも、とても見えはしないのだが。
「……獣消しの練習をしてたのよ」
「獣消しの?」
アンディは人間の姿をしている。もう今から一年ほど前に、獣消しができるようになっているからだ。
それも何だかリディアは気に入らないのだ。昔はよく、アンディは友達にリディアの悪口を吹き込んでいた。アンディと相性が合わないのは仕方ない。けれど友達にわざわざ言わなくてもいいだろうと腹が立ったものだから、今でも何となくアンディと顔を合わせると、無意味に喧嘩腰になってしまうのだ。その上、アンディの方が先に一人前になってしまっただなんて。
「あれって、別に練習するものじゃないだろ。自然にできるようなるんだし」
アンディは肩をすくめた。バカなことをしているとでも言いたげな、呆れきった顔をしながら。
やっぱり言うべきじゃなかったと、リディアはとたんに後悔した。だからアンディと話すのは嫌なのだ。
「確かにあたしは、ちょっとはつんけんしてるかもしれないけど。あなただっていつも、人をバカにしたようなことばっかり言うのね」
少なくともエドガーは、そんなことは言わなかった。
自然にできるようになるとは言いながらも、毎日練習に出掛けるリディアにがんばってと言ってくれた。何て違いだろうと思う。
もう今日は練習を続ける気になれなくて、アンディがこの場を立ち去らないのなら、あたしがいなくなってやるとリディアは歩き始めた。
「待ってくれよ。何も別に、バカになんてしてないだろ」
横を通り抜けようとした時、腕を掴まれた。
父親とエドガー以外の男の人に触れられることには慣れていない。
リディアも驚いたが、アンディも同じぐらいには驚いているようだった。目を見開いてリディアを見る。何なのよ、とリディアは口の中だけで呟いた。
「あの……」
腕を離して、と言いたいのに、言葉にならない。
アンディは何か考え込んでいるようだった。言葉が見つからないかのように。居心地の悪い沈黙だった。まだ嫌味な言葉を言われた方がマシだとすら思った。
どうにかして。
「何をしてるんだ?」
助けの声は、すぐに聞こえてきた。
今度は顔を向けなくたってわかる。ほっと息を吐きながら、リディアは顔を上げた。
「……エドガー」
「リディアに、何をしてるんだ? その手を離せ」
ゆっくりとそう言いながら、エドガーは一歩ずつ近づいてくる。リディアに顔を向けずに、ただアンディを睨みつけている。言い様のないその威圧的な雰囲気に、リディアは少なからず驚いた。いつもリディアに笑顔を向ける時は、もっと穏やかな雰囲気をしているのに。
「別に俺は、何も……」
「聞こえなかったのか? 手を離せと言ったんだ」
村長よりもずっと偉そうな声。
人狼だから? リディア達獣人の中で、一番強く、それゆえに権力を誇るのはリカントロープだと聞いたことがある。
普段のエドガーを見ていれば、そんなこと、すっかり忘れてしまえるのに。
退屈そうな顔はそのままに、アンディは手を離すと、村へと戻る道を走って行った。その後姿をぼんやりと眺めるリディアに、エドガーはゆっくり近づいてくると、安心したようにその頭を抱え込んだ。
「リディア、大丈夫?」
「え? えぇ、平気よ」
突然腕を掴まれて驚いたが、ただそれだけだ。
大丈夫も何も無いのにと驚くリディアに、エドガーはリディアの頭を抱え込んだまま、その髪を撫でて息をもらす。
「まったく、油断してたな。僕に隠れてこんな所で君を口説く男がいるだなんて。腕の一本ぐらい折ってやった方が、他の男への牽制にもなって良かったかもしれない」
「何言ってるのよ。そんなんじゃないったら」
エドガーの胸を押して身体を離す。
父親とエドガーだけは、リディアのことを美人だとか可愛いだとか言ってくれるが、それは家族としての欲目だと十分に理解しているつもりだ。
アンディだって、嫌味を言ってくることはあっても、口説いてくることなんて絶対にありえないとわかっている。
「君は本当に鈍いよね」
エドガーは笑いながらため息をつく。何よ、とリディアは唇を尖らした。
リディアの身体を離し、エドガーは今までリディアが座っていた場所に腰を下ろす。「おいでよ」と手招きをされて、リディアもその隣に腰掛けた。
日の光りが、川面にキラキラと反射して眩しい。だけど、同じぐらいにはエドガーも眩しいわとリディアは思う。村中の女の子がエドガーに憧れている。種族が違うから、結婚できないことなんてみんなわかっているけれど、それでもエドガーと少しでも話をしたくて仕方ないのだ。村を歩けば、どこに行ってもエドガーはすぐ女の子達に囲まれてしまう。
そうしたエドガーを見るのはどうしてか辛くて、エドガーが他の女の子としゃべりだすと、リディアはさりげなくその場を離れる。そんな時のエドガーは、少し遠い人に思えてしまう。
でもこうして二人きりでいる時は、すごく安心していられるのだ。他の村の子達と違って、エドガーは絶対にリディアの悪口なんて言わないし、それどころか、可愛いとすら言って抱きしめてくれる。
「今日は朝早くから出掛けてたのね」
「あぁ、うん。ちょっと用事があってね。昨日寝る前に思い出したものだから、言えなくてごめん」
「何の用事だったの?」
教えてくれないだろうなと思ったけれど、エドガーは普通通りの様子で再び口を開いた。
「人と会う予定があったんだ」
「わざわざ、人間界で?」
「この村には呼べなかったんだ。リカントロープだったからね」
エドガーと、同じ種族の。
確かに、見知らぬ人狼がいきなり村にやって来たとなれば大騒ぎになってしまう。だからわざわざ、人に紛れて人間界で会ったのだろう。
「何の用事だったの?」
突っ込みすぎだろうか。そう思ったが、エドガーは気にした様子は無かったから、聞いてもいいことなのだろうとリディアは判断する。
「他のリカントロープのことを、色々とね。遠く離れた場所では、激しい縄張り争いも起こってるみたいだ。やっぱり同族のことは気になるからね。用事ついでに近くに来た時には、寄ってもらうよう頼んでるんだ」
あぁそうだ。エドガーの生まれ故郷はここではないのだ。
同じ家で暮らして、一緒の食卓を囲んでいると忘れてしまう。
寂しそうな素振りも、そう話していてさえ懐かしそうな様子も見せないから、つい忘れてしまうのだけれど。
本来ならば、こうして一緒に暮らすことなんてできないはずなのだ。ずっと遠い場所で、出会うことすら無かったはず。
「……帰りたくなる?」
同じ、狼の所へ。
その気持ちはわかる。リディアだって、のどかなこの村が好きだ。自分一人だけが、他の種族の村で暮らすことなんて想像もできない。帰りたくて仕方が無いはずだ。
けれどエドガーは微笑むと、リディアの長い髪を手に取った。鉄錆色と陰口を叩かれるその髪を、大事そうに手で梳いていく。
「君のいる所が、僕の帰る場所だよ」
嬉しくて、泣き出しそうになってしまった。
頷かれたらどうしようかと思った。エドガーがいなくなってしまうことを考えたら、それだけで悲しかった。
帰りたいと思う気持ちはわかるのに、それでも寂しいから帰らないで欲しいなんて、自分勝手なことを考えるリディアにも、エドガーは優しげに微笑んでくれる。さっきの、アンディに対する態度が嘘のように。本当に、見間違えだたのではないかと思えてしまう。
「あぁそうだ。君にお土産があったんだ」
思い出したように言うと、エドガーは内ポケットから取り出したそれを、リディアの膝の上に落とした。
明るい、ライムグリーンのリボンだ。余った布の切れ端で作ったようなリボンではなくて、つやつやとした肌触りのいい生地だった。
「かわいい」
思わずリディアが頬を緩めてそう呟くと、エドガーは嬉しそうに頷いた。
「君の瞳の色に似ているなと思ったんだ」
「あたしの?」
こんなにキレイな色ではなかったはずだ。珍しい色で、その上きつい顔立ちなのも加わって、村の子達とは仲良くなれない。
「うん。僕を見つめる瞳は、いつだって神秘的だよ。ずっと見ていると吸い込まれそうになる」
「……そんなことばっかり言って」
エドガーの甘い台詞なんて信じてはいけない。
それでも、そう言われると嬉しくて、ますます手の中のリボンが素敵に思えてきた。
「ありがとう。嬉しいわ」
「結んであげようか?」
そうしたいような口調だった。
恥ずかしいが、それ以上に結びたい気持ちもあって、じゃあ、とリディアは少し考えた。
「尻尾の先に結んでくれる?」
髪を結うのはあまり好きではなかったから、尻尾をエドガーの膝にちょこんと乗せた。
男の人にしては細い指が、器用にリボンを結んでいく。きつくはないが、そう簡単に解けないだろう強さだ。風にリボンが揺れる。可愛くなった気がして、リディアはふりふりと尻尾を揺らした。
「うん、すごく可愛い」
エドガーの手が、さらりと尻尾を撫でた。突然だと驚くけど、そうでなければ、エドガーに触られることは平気だ。
何となく、尻尾の先っぽでエドガーの身体をぽんぽんと叩いた。エドガーは笑って、さらにリディアの尻尾を撫でる。
「エドガーの尻尾ってどんな風なの?」
ふと思って、リディアは尋ねてみた。
「どうって、別に普通だよ」
「普通って言われてもわからないわよ。あたしは狼の尻尾なんて見たことないんだから」
普段は饒舌なエドガーが、どうしてこの話題になると口が重くなるのかリディアはわからない。
よっぽど言いたくない理由でもあるのだろうか。けれど同じ獣人なのにどうしてなのだろう。
「何色? 髪と同じ?」
「さあ、何色だったかな。もう長いこと自分でも見てないからなぁ」
「忘れるわけないでしょ、自分のことなんだから」
リディアは少し怒ってみせたが、エドガーはちっとも聞いた様子はなかった。とぼけたように肩をすくめている。
色ぐらい教えてくれたっていいじゃない。
さっきよりも少し強い力でエドガーの身体をぱしぱしと叩く。けれどその内、エドガーに尻尾を押さえられてしまった。駄目だよ、とでも言いたげな目で見つめらながら。
「そろそろ昼食だよ、リディア。家に帰ってサンドイッチでも作ろう」
そう言われればお腹がすいた。
エドガーの手につかまって立ち上がりながら、リディアはサンドイッチには何を挟もうかなと考え始めた。
「父さま。エドガーは? まだ起きてないの?」
「彼なら、人間界に出掛けたよ。用事があるみたいでね」
「こんな朝早くから?」
流しを見ても、朝食を食べた形跡は無い。せめて一緒に朝ごはんぐらい食べればいいのにと、リディアは唇を尖らせた。
「エドガーって、人間界に何をしに行ってるの?」
父親は大学とやらに出掛けているらしいが、エドガーが何をしに行っているのか、リディアは知らなかった。詳しいことを聞いても、人間界のことなどろくに知らないリディアが理解できるはずもなかったが、それにしてもエドガーは何も教えてくれないと不満に思う。
「さあ……何だったかな」
「父さまも知らないの?」
「とくに聞いたことはないからね」
紅茶を飲みながら、父親は穏やかな口調でそう答える。父親らしいとも言えたが、普通はもう少し気にするものではないのだろうかとリディアは呆れた。そりゃあ、エドガーとは何の血の繋がりも無いし、その上種族だって違うけれど。それでももう何年も一緒に暮らしている、家族のような存在なのに。
少しするとニコも起きて来て、三人だけの静かな朝食が始まった。食べ終わると、すぐに父親も仕事に出掛けてしまった。簡単に後片付けを終えてから、リディアも家を出た。一緒に来るかと聞いたけれど、ニコはソファの上にふんぞり返ったまま首を横に振った。
「今日こそはできるようになるんだから」
たどり着いたいつもの川辺で、リディアはひょいっと川面を覗き込んだ。
ぴくぴくと動く三角の耳。これが消えたらどんな風になるのだろうかと想像する。
羨ましくて、エドガーの人間の耳を触ったことなら何度もある。エドガーはくすぐったそうな顔をしていた。頭のてっぺんではなく、顔の両脇に耳が生えるというのが、リディアにしてみれば信じられない。
「ここに耳が生えるのよね……」
今は何も無いその場所をゆっくりとさする。人間の耳はどんな感じなのだろうか。エドガーに聞くと、獣の耳よりも音が聞こえにくいという。「それじゃ不便じゃない」とリディアは言ったが、「その方がよく眠れるよ」と言われて納得した。確かにそれは魅力的だ。
獣の耳は、たくさんの音を聞き取ることができる。
リディアはそれほど耳がいい方ではないけれど、人によっては三軒隣の家の物音まで聞き取ることができるらしい。
薄い茶色の毛で覆われたその耳を、リディアゆっくりと撫でる。よくエドガーにそうされるように。獣人は、その証である耳や尻尾を他人に触られることをひどく嫌う。とくに敏感な場所だからだろう。リディアの耳に触れるのはエドガーぐらいだ。父親だって、よほどのことがなければ触れてこない。
エドガーに撫でられるのは好き。
でも、一日でも早く、消せるようになりたいと思わずにはいられない。
深く息を吸い込んで、深呼吸をする。
落ち着かなければ、獣消しはできない。
獣消しになれた大人でも、驚いたり興奮したりすると、獣消しが解けてしまう。自分の心臓の音に集中するといいよ、と言ったのはエドガーだった。村に来てから、少なくともリディアが見ている前では一度も獣消しを解いたことがないエドガーのアドバイスだ。その通りにすればできるに違いないと思って、リディアはぎゅっと目を閉じる。
もう十分大人になったつもりだ。
そりゃ、子供っぽいところだってまだたくさんあるけれど。
それでも村を走り回って遊んでいるような子供ではないし、大人の仲間入りをしつつあると思う。料理だってそこそこできるようになったし、そんな簡単には泣かなくなった。
だから獣消しだって十分にできるはず。
胸に手を当てて、心臓の音を感じる。どくんどくんと、ゆっくり動く心臓に呼吸を合わせる。
風の音も妖精達のおしゃべりも、次第に聞こえなくなる。ぴくぴくと動いていた両耳は、ぴんっと立ったまま動かない。聞こえるのは自分の心臓の音だけ。
何だか、できそうな気がする。
高揚する気持ちを抑え、もう一度、ゆっくりと息を吸い込んだ時だった。
「こんな所で何やってるの?」
びっくりした。
慌ててリディアは立ち上がった。声のした方に振り返ると、つまらなさそうな顔をした一人の青年が立っていた。
牧師館の息子だ。こんな狭い村だから、村人はほとんどが顔見知りだが、リディアは年の近いこの青年と仲良く遊んだ記憶は無い。それを言えば、リディアは他のだれとも仲が良かった覚えは無いのだが。 今もアンディは、こんな村外れの、だれも来ないような川べりに一人で座り込んでいたリディアを、不審なものでも見るかのような目で眺めてくるから、リディアもついむっとして顔をしかめてしまう。
「べつに、何だっていいでしょ」
喧嘩腰に言い返してしまう。
元々きつい顔立ちと、この性格の所為で、アンディを始めとする村の若い子達からは敬遠されていると知っていたが、今更どうにもならない。
「いつも日中は見かけないと思ったら、一人でこんな所に来てるんだ?」
呆れたとでも言わんばかりの声音だった。よっぽどの暇人だとでも言いたいのだろうか。
「あたしが何をしようが、そんなのあたしの勝手でしょ。ほっといてちょうだい」
決して暇なわけではなく、獣消しの練習をしに来ているのだ。家にいるよりも、静かな川辺で練習をした方がずっと集中できる。
せっかく、今日はいい調子だったのに。邪魔をするように現れたアンディに、八つ当たりだとはわかっていても、ついむかむかとしてしまう。
「何なの? 何か用事でもあるの?」
「……別に。ただの散歩だよ」
「じゃ、さっさとどこかに行ってちょうだい」
アンディがここにいては、練習ができない。
お互いにイライラするだけなのだから、用事があるわけでもないアンディはすぐさまこの場を去ってくれるだろうと思っていたのに、彼は何を考えているのかわからない顔でその場に留まっている。
「きみってさ、いつもつんけんした物言いをするよね」
だってそれは、アンディの態度に苛立ってしまうから。
不必要につんけんしているわけではない。けれど改めてそう言われると、何だか胸が痛い。
悪いことをしてしまったような気がして、リディアは少し反省する。少なくとも今は、アンディは何か気に障るようなことを言ったわけではない。友好的な態度にも、とても見えはしないのだが。
「……獣消しの練習をしてたのよ」
「獣消しの?」
アンディは人間の姿をしている。もう今から一年ほど前に、獣消しができるようになっているからだ。
それも何だかリディアは気に入らないのだ。昔はよく、アンディは友達にリディアの悪口を吹き込んでいた。アンディと相性が合わないのは仕方ない。けれど友達にわざわざ言わなくてもいいだろうと腹が立ったものだから、今でも何となくアンディと顔を合わせると、無意味に喧嘩腰になってしまうのだ。その上、アンディの方が先に一人前になってしまっただなんて。
「あれって、別に練習するものじゃないだろ。自然にできるようなるんだし」
アンディは肩をすくめた。バカなことをしているとでも言いたげな、呆れきった顔をしながら。
やっぱり言うべきじゃなかったと、リディアはとたんに後悔した。だからアンディと話すのは嫌なのだ。
「確かにあたしは、ちょっとはつんけんしてるかもしれないけど。あなただっていつも、人をバカにしたようなことばっかり言うのね」
少なくともエドガーは、そんなことは言わなかった。
自然にできるようになるとは言いながらも、毎日練習に出掛けるリディアにがんばってと言ってくれた。何て違いだろうと思う。
もう今日は練習を続ける気になれなくて、アンディがこの場を立ち去らないのなら、あたしがいなくなってやるとリディアは歩き始めた。
「待ってくれよ。何も別に、バカになんてしてないだろ」
横を通り抜けようとした時、腕を掴まれた。
父親とエドガー以外の男の人に触れられることには慣れていない。
リディアも驚いたが、アンディも同じぐらいには驚いているようだった。目を見開いてリディアを見る。何なのよ、とリディアは口の中だけで呟いた。
「あの……」
腕を離して、と言いたいのに、言葉にならない。
アンディは何か考え込んでいるようだった。言葉が見つからないかのように。居心地の悪い沈黙だった。まだ嫌味な言葉を言われた方がマシだとすら思った。
どうにかして。
「何をしてるんだ?」
助けの声は、すぐに聞こえてきた。
今度は顔を向けなくたってわかる。ほっと息を吐きながら、リディアは顔を上げた。
「……エドガー」
「リディアに、何をしてるんだ? その手を離せ」
ゆっくりとそう言いながら、エドガーは一歩ずつ近づいてくる。リディアに顔を向けずに、ただアンディを睨みつけている。言い様のないその威圧的な雰囲気に、リディアは少なからず驚いた。いつもリディアに笑顔を向ける時は、もっと穏やかな雰囲気をしているのに。
「別に俺は、何も……」
「聞こえなかったのか? 手を離せと言ったんだ」
村長よりもずっと偉そうな声。
人狼だから? リディア達獣人の中で、一番強く、それゆえに権力を誇るのはリカントロープだと聞いたことがある。
普段のエドガーを見ていれば、そんなこと、すっかり忘れてしまえるのに。
退屈そうな顔はそのままに、アンディは手を離すと、村へと戻る道を走って行った。その後姿をぼんやりと眺めるリディアに、エドガーはゆっくり近づいてくると、安心したようにその頭を抱え込んだ。
「リディア、大丈夫?」
「え? えぇ、平気よ」
突然腕を掴まれて驚いたが、ただそれだけだ。
大丈夫も何も無いのにと驚くリディアに、エドガーはリディアの頭を抱え込んだまま、その髪を撫でて息をもらす。
「まったく、油断してたな。僕に隠れてこんな所で君を口説く男がいるだなんて。腕の一本ぐらい折ってやった方が、他の男への牽制にもなって良かったかもしれない」
「何言ってるのよ。そんなんじゃないったら」
エドガーの胸を押して身体を離す。
父親とエドガーだけは、リディアのことを美人だとか可愛いだとか言ってくれるが、それは家族としての欲目だと十分に理解しているつもりだ。
アンディだって、嫌味を言ってくることはあっても、口説いてくることなんて絶対にありえないとわかっている。
「君は本当に鈍いよね」
エドガーは笑いながらため息をつく。何よ、とリディアは唇を尖らした。
リディアの身体を離し、エドガーは今までリディアが座っていた場所に腰を下ろす。「おいでよ」と手招きをされて、リディアもその隣に腰掛けた。
日の光りが、川面にキラキラと反射して眩しい。だけど、同じぐらいにはエドガーも眩しいわとリディアは思う。村中の女の子がエドガーに憧れている。種族が違うから、結婚できないことなんてみんなわかっているけれど、それでもエドガーと少しでも話をしたくて仕方ないのだ。村を歩けば、どこに行ってもエドガーはすぐ女の子達に囲まれてしまう。
そうしたエドガーを見るのはどうしてか辛くて、エドガーが他の女の子としゃべりだすと、リディアはさりげなくその場を離れる。そんな時のエドガーは、少し遠い人に思えてしまう。
でもこうして二人きりでいる時は、すごく安心していられるのだ。他の村の子達と違って、エドガーは絶対にリディアの悪口なんて言わないし、それどころか、可愛いとすら言って抱きしめてくれる。
「今日は朝早くから出掛けてたのね」
「あぁ、うん。ちょっと用事があってね。昨日寝る前に思い出したものだから、言えなくてごめん」
「何の用事だったの?」
教えてくれないだろうなと思ったけれど、エドガーは普通通りの様子で再び口を開いた。
「人と会う予定があったんだ」
「わざわざ、人間界で?」
「この村には呼べなかったんだ。リカントロープだったからね」
エドガーと、同じ種族の。
確かに、見知らぬ人狼がいきなり村にやって来たとなれば大騒ぎになってしまう。だからわざわざ、人に紛れて人間界で会ったのだろう。
「何の用事だったの?」
突っ込みすぎだろうか。そう思ったが、エドガーは気にした様子は無かったから、聞いてもいいことなのだろうとリディアは判断する。
「他のリカントロープのことを、色々とね。遠く離れた場所では、激しい縄張り争いも起こってるみたいだ。やっぱり同族のことは気になるからね。用事ついでに近くに来た時には、寄ってもらうよう頼んでるんだ」
あぁそうだ。エドガーの生まれ故郷はここではないのだ。
同じ家で暮らして、一緒の食卓を囲んでいると忘れてしまう。
寂しそうな素振りも、そう話していてさえ懐かしそうな様子も見せないから、つい忘れてしまうのだけれど。
本来ならば、こうして一緒に暮らすことなんてできないはずなのだ。ずっと遠い場所で、出会うことすら無かったはず。
「……帰りたくなる?」
同じ、狼の所へ。
その気持ちはわかる。リディアだって、のどかなこの村が好きだ。自分一人だけが、他の種族の村で暮らすことなんて想像もできない。帰りたくて仕方が無いはずだ。
けれどエドガーは微笑むと、リディアの長い髪を手に取った。鉄錆色と陰口を叩かれるその髪を、大事そうに手で梳いていく。
「君のいる所が、僕の帰る場所だよ」
嬉しくて、泣き出しそうになってしまった。
頷かれたらどうしようかと思った。エドガーがいなくなってしまうことを考えたら、それだけで悲しかった。
帰りたいと思う気持ちはわかるのに、それでも寂しいから帰らないで欲しいなんて、自分勝手なことを考えるリディアにも、エドガーは優しげに微笑んでくれる。さっきの、アンディに対する態度が嘘のように。本当に、見間違えだたのではないかと思えてしまう。
「あぁそうだ。君にお土産があったんだ」
思い出したように言うと、エドガーは内ポケットから取り出したそれを、リディアの膝の上に落とした。
明るい、ライムグリーンのリボンだ。余った布の切れ端で作ったようなリボンではなくて、つやつやとした肌触りのいい生地だった。
「かわいい」
思わずリディアが頬を緩めてそう呟くと、エドガーは嬉しそうに頷いた。
「君の瞳の色に似ているなと思ったんだ」
「あたしの?」
こんなにキレイな色ではなかったはずだ。珍しい色で、その上きつい顔立ちなのも加わって、村の子達とは仲良くなれない。
「うん。僕を見つめる瞳は、いつだって神秘的だよ。ずっと見ていると吸い込まれそうになる」
「……そんなことばっかり言って」
エドガーの甘い台詞なんて信じてはいけない。
それでも、そう言われると嬉しくて、ますます手の中のリボンが素敵に思えてきた。
「ありがとう。嬉しいわ」
「結んであげようか?」
そうしたいような口調だった。
恥ずかしいが、それ以上に結びたい気持ちもあって、じゃあ、とリディアは少し考えた。
「尻尾の先に結んでくれる?」
髪を結うのはあまり好きではなかったから、尻尾をエドガーの膝にちょこんと乗せた。
男の人にしては細い指が、器用にリボンを結んでいく。きつくはないが、そう簡単に解けないだろう強さだ。風にリボンが揺れる。可愛くなった気がして、リディアはふりふりと尻尾を揺らした。
「うん、すごく可愛い」
エドガーの手が、さらりと尻尾を撫でた。突然だと驚くけど、そうでなければ、エドガーに触られることは平気だ。
何となく、尻尾の先っぽでエドガーの身体をぽんぽんと叩いた。エドガーは笑って、さらにリディアの尻尾を撫でる。
「エドガーの尻尾ってどんな風なの?」
ふと思って、リディアは尋ねてみた。
「どうって、別に普通だよ」
「普通って言われてもわからないわよ。あたしは狼の尻尾なんて見たことないんだから」
普段は饒舌なエドガーが、どうしてこの話題になると口が重くなるのかリディアはわからない。
よっぽど言いたくない理由でもあるのだろうか。けれど同じ獣人なのにどうしてなのだろう。
「何色? 髪と同じ?」
「さあ、何色だったかな。もう長いこと自分でも見てないからなぁ」
「忘れるわけないでしょ、自分のことなんだから」
リディアは少し怒ってみせたが、エドガーはちっとも聞いた様子はなかった。とぼけたように肩をすくめている。
色ぐらい教えてくれたっていいじゃない。
さっきよりも少し強い力でエドガーの身体をぱしぱしと叩く。けれどその内、エドガーに尻尾を押さえられてしまった。駄目だよ、とでも言いたげな目で見つめらながら。
「そろそろ昼食だよ、リディア。家に帰ってサンドイッチでも作ろう」
そう言われればお腹がすいた。
エドガーの手につかまって立ち上がりながら、リディアはサンドイッチには何を挟もうかなと考え始めた。
***
リディアとエドガーは割りと仲良しな感じで。
女の子に耳と尻尾をくっつけるのはすごく可愛いなと思うのですが、
男キャラに同じようにくっつけようとすると、ものすごく違和感を覚えます。
エドガーなんて、リディアを前にしてたらいつも尻尾がふりふりしちゃうよ!
(08.8.2)
リディアとエドガーは割りと仲良しな感じで。
女の子に耳と尻尾をくっつけるのはすごく可愛いなと思うのですが、
男キャラに同じようにくっつけようとすると、ものすごく違和感を覚えます。
エドガーなんて、リディアを前にしてたらいつも尻尾がふりふりしちゃうよ!
(08.8.2)