不機嫌な理由なんて、つまり
家庭教師による本日の授業が終わったと同時に、リディアはノートとペンを片付けると勢い良く部屋を飛び出した。
「お嬢さま! お行儀良くなさって下さいませ!」
部屋の中から家庭教師の怒鳴り声が聞こえてくる。はいはい、とその時だけは走るのを止めたが、角を曲がったとたんにリディアはまた走り出した。
エドガーはどこにいるのだろう? この時間なら書斎だろうか。けれど最近は調べ物でもあるのか、ライブラリにいる時間の方が多かったことを思い出して、リディアは廊下を右に曲がった。家庭教師に何度怒られようが、気になったことがあれば走り出してしまう癖はどうにも直りそうになった。元々、穏やかなどという気性とは程遠いのだから仕方ない。
エドガーを見つけたら、リディアは頼みごとをするつもりだった。おねだり、と言った方がいいのかもしれない。もちろんリディアがねだるのは、新しいドレスでも宝石のあしらわれたネックレスでもない。そんな物は別にこれ以上欲しくもないし、リディアがねだる前に次々とエドガーが買い与えてくれる。欲しいのは、今日家庭教師に教えてもらったとある本だった。
孤児院にいた頃ろくな教育も受けていなかったリディアは、最近になってようやく一通りな読み書きができるようになった。そんなリディアに家庭教師が勧めてくれる本は、どれもリディアの好みにぴったり合うもので、ライブラリから探し出しては熱心に読みふけったり、エドガーに読んでもらったりしていたのだ。けれど今日家庭教師が教えてくれたのはつい先日発売されたばかりの物で、だからこそリディアはエドガーにねだって買ってもらおうと思ったのだ。
ねだる、という行為には、やはり少しばかりの抵抗が付きまとう。エドガーは迷惑だなんて顔はしないし、むしろ嬉しそうに笑ってキスをしてくれるのだが、それでもリディアの中の抵抗感は消えはしないのだ。罪悪感とも申し訳なさとも違う何かが―――自分などがそこまでしてもらっていいのだろうか、あたしなんかが……と、考え始めればキリがないほどなのだ。
けれどそれが本の場合だと、これも立派な勉強になるのだし、家庭教師に勧められたのだからと、そう自分を納得させることができるのだから不思議だった。ドレスやアクセサリーほど高価な買い物ではないからなのかもしれない。もちろんいくら宝石を買ったところで、エドガーにとってはちっとも痛手なんかにならないことはわかっていたけれど。
スカートを摘み上げながら、リディアはぱたぱたと廊下を走る。午後のお茶の時間や、夕食の時間にねだればいいなんてことははなから頭になかった。だって今ねだれば、もしかしたら午後には一緒に買い物に行けるかもしれないのだ。本屋は、今リディアが一番好きな場所だった。
「兄さま、いる?」
もし仕事が忙しいようだったら後にしよう。そう思いながらライブラリのドアを開けたリディアは、そこに予想もしなかった男性二人の姿を目にして、驚きに立ちすくんでしまった。
エドガーよりも明るい、蜂蜜色の髪をした青年と、艶やかな黒髪の青年だった。二人とも立派な身なりをしている青年で、一目でリディアはエドガーの友人だと悟った。そしてあまりの恥ずかしさに、ドアノブを握ったまま消えてしまいたくなった。ノックもせずに部屋に飛び込んでくるだなんて最悪だ。礼儀作法の欠片も無いではないか。
「……あ、あの、ごめんなさい。失礼しましたっ」
「待って、ミス・アシェンバート」
慌てて扉を閉めようとしたリディアは、やんわりとその閉まりかかる扉を押さえる手に、びっくりして顔を上げた。
「せっかくいらして下さったのですから、よろしければお茶の相手をして頂けませんか? アシェンバード伯爵もそろそろ戻ってくる頃だと思いますよ」
「え……」
穏やかな笑顔を浮かべた青年は、リディアの無作法などちっとも気にしてはいないようだった。それどころか、まるで友人のような気さくな笑顔でお茶に誘ってくれる。その親切にありがとうと言うべきか、それとも遠慮すべきなのか、リディアにはさっぱりわからなかった。こんな時はどうするのが、一番礼儀正しく見えるのだろうか。そんなの、今更なような気もするけれど。
「男同士で飲むお茶というのは、どうもあまり美味しく感じられないんですよ。どうぞ私を助けると思って、同席して頂けませんか?」
何だかまるで、エドガーみたいなことを言う人だ。それとも貴族というのは、皆こんなしゃべり方をするのだろうか。
エドガーみたいだと思えば、緊張も少しは和らぐような気がした。貴族の礼儀作法はわからないが、ここまで言ってもらったのに断っては失礼というものだろう。
「じゃあ、あの……お邪魔します」
「どうぞ、ミス・アシェンバート」
その呼び名には、どうやっても慣れそうにはない。躊躇うリディアの手を取ると、青年は空いている椅子まで案内してくれた。そこまでされるのが、申し訳ないような恥ずかしいようなで、リディアは真っ直ぐ青年の顔を見ることもできなかった。椅子に腰掛けて、小さな声でお礼を言うのが精一杯だった。青年は軽くリディアの手にキスをしてから離れて行った。
そこらの女の人よりもよっぽどキレイな黒髪をしている、とリディアは思った。どんな手入れをすればあんなにもつやつやとした髪になるのだろう。じっと見つめるのは失礼だとわかっていても、ついつい視線が髪に行ってしまう。もちろん髪だけでなく、その浮かんだ笑顔も完璧だ。瞳はこのロンドンでは滅多に見ることのできないキレイな空色で、どことなくエドガーと似た雰囲気をかもし出している人だった。でも、この人は女癖が悪そうには見えない。
リディアの視線に気づくと、青年はにこりと微笑んだ。リディアのためにわざわざお茶まで入れてくれる。
「紹介が遅れました。私はキアン・フェニックス。爵位は子爵です。彼はパーシー・マイヤーズ伯爵。エドガーとはイートンからの付き合いなんですよ」
受け取ったティーカップに口をつけながら、リディアはこくんと頷く。蜂蜜色の髪をしたマイヤーズ伯爵は、あまりおしゃべりではないようだった。リディアと視線が合っても軽く会釈をするだけで、口を開こうとはしなかった。もっとも、その分もフェニックス子爵がしゃべってくれるのだが。
リディアのそんな思いを読み取ったかのように、フェニックス子爵は申し訳なさそうに―――けれどどこか悪戯っぽく微笑んだ。
「マイヤーズ卿はずいぶんと無愛想でしょう? 許してやって下さい。女性が苦手なんですよ。美しいレディを前にすると、とたんにあがってしまうらしい」
「……キアン。勝手なことを言うな」
苦虫を噛み潰したような顔でマイヤーズ伯爵は言った。そんな様子を見て、フェニックス子爵はおかしそうに笑う。
「本当のことだろう? ついこの間だって、ほら、ワルツの最中に相手のレディに見惚れてドレスの裾を踏んづけていたじゃないか。まさか忘れたわけじゃないだろう?」
ドレスの裾を踏んづけた? それはまた……。リディアは目を丸くした。
「だからあれは見惚れてたわけじゃなくて、考え事をしていただけだって何度も言っただろう? おまえといいエドガーといい、しつこいにも程があるぞ!」
「女好きだっていうのに、上手くその相手ができないとは悲しいことこの上ないね。我らが友人のアシェンバート伯爵に、少し手ほどきでもしてもらったらどうだい? 少しは上手く女性を口説けるようになるんじゃないかな」
「おまえもエドガーも似たようなもんだろうが。いつまでもふらふらしてないで、いい加減身を固めろと言いたいね。結婚しない内から、次々と子供だけは現れそうじゃないか」
「私はそんなミスはしないよ、だれかさんとは違ってね……おっと、女性を前にする話じゃなかったな」
すみませんと謝るフェニックス子爵に、リディアはいいえと首をふった。男の人同士の遠慮のない会話というのは面白い。もっとも、エドガーの名前が出て来るのは気になったが。社交界で、エドガーはそんなに色んな女の人を口説いているのだろうか。
「誘っておきながら、あなたを無視した会話をしてしまい申し訳ありません」
「いいえ、そんなことは……あたしの方こそ、お邪魔しちゃってすみません。あの、お客様がいるとは知らなくて……」
「いいんですよ。私たちは、一度あなたとゆっくり話をしてみたいと思っていたんです。思いもがけずその機会に恵まれて幸運でした」
私たち、という言葉にリディアは首を傾げた。フェニックス子爵はくすりと笑う。口の端を少し上げただけだというのに、実に魅力的な微笑みだった。惹き込まれそうになるような微笑だ。
「アシェンバート伯爵から、あなたの話を聞いていたということもありますが―――先日も、私はここにお邪魔していたんですよ。あの時も同じようにやって来られたでしょう?」
「あの時……え、あ、もしかして」
「子猫は元気ですか?」
その台詞は決定打だった。恥ずかしさにリディアは今すぐ逃げ出したくて仕方がなかった。一度ばかりか、二度も部屋に飛び込んでくるところを見られてしまうだなんて―――自分の粗忽さが心底から嫌になった。どれほどお転婆な女の子だと思われただろう。
「子猫は、元気です。エドガーが飼ってもいいって言ってくれて……」
「アシェンバート伯爵は、ずいぶんとあなたに甘いようでしたからね。仲間内でも、ずいぶんと噂になっていたんですよ」
一体それはどんな噂だというのか。気になったが、尋ねる勇気はリディアにはなかった。エドガーはよくあんなお転婆を引き取ったとか、そんなことを噂されていたらどうしよう。
「屋敷でのエドガーはどんな様子なんですか? いつ見ても彼は完璧な井出たちで、およそ欠点など無い様子ですからね。でも、あなたの前では違う顔も見せるんでしょう、ミス・アシェンバート?」
「……それは俺も気になるな」
二人に見つめられて、リディアは困った。そんな、話して面白いようなことは何もない。朝から晩まで甘い口説き文句を囁かれていることを言ってみようか? そんなことをすれば、エドガーは妹相手に一体何をしているのだと、あらぬことを思われても不思議ではない。
「あたしは、エドガーがよそでどんな様子なのか知らないけど……でも、別に変わらないと思うわ。あたしから見ても、何か隙のない人だなって思うし……」
「妹相手にも隙を見せないのか。まったく、どれだけ完ぺき主義な男なんだろうな、彼は」
フェニックス子爵は呆れたようにそうもらした。マイヤーズ伯爵と目を合わせて肩をすくめる。エドガーはよほど友人達の前でも完璧な様子らしい。エドガーらしいといえばそうだが、少しぐらい欠点や足りないところがあった方が、周りの人は親しみを覚えるものではないだろうか。
「あの、でも、すごく良くしてくれるわ。仕事が忙しいのに相手をしてくれるし、本を読んでくれたりとか―――」
どうして必死になっているのだろうと思いながら、リディアは気がつくと熱い声音でそう言っていた。本当は本を読んでくれるどころか、そのまま一緒に眠ってしまうのだが、それはさすがに恥ずかしすぎて言えなかった。この年にもなって家族と一緒に寝るだなんてありえないことだろう。
リディアの熱い口調に、フェニックス子爵はいささか驚いたようだった。目を丸くしてしげしげとリディアを見つめる。けれどその視線は少しも不愉快には感じられなかった。フェニックス子爵が、きちんとリディアに礼儀を示してくれていることがわかっているからだろう。
「いやはや、聞いたかい、パーシー? やはりエドガーは女性の心を掴むのが上手いな。君も手本にするといい。気になる女性がいたら本を読み聞かしてやるんだね。ころっと落ちること間違いなしさ」
「俺とエドガーを一緒にするな。やつの真似なんか死んでもしないね」
「それはそれは」
くっくと喉を鳴らしてフェニックスは笑った。何かおかしなことを言ってしまっただろうかとリディアは少し心配になる。
「社交界にはお出でになられないんですか、ミス・アシェンバート?」
右手を取られ、軽く握られたものだから、リディアは焦る。
「あ、あの、あたしは……」
「エドガーは、あなたを独り占めするつもりなのかな。こんなに可憐なレディを屋敷に閉じ込めておくとは、アシェンバート伯爵の罪は重い。あなたがどこかのパーティーにいらっしゃれば、私は真っ先にダンスを申し込みますよ」
右手に押し付けられた唇は、ずいぶんと熱い。先ほどの挨拶のキスとは違って、すぐには手から離れない。
助けを求めるように、気がつくとリディアはマイヤーズ伯爵に視線をやっていた。けれど彼は呆れたようにフェニックスを見るばかりで、リディアの視線には気づかなかった。助けは思いもしないところからやってきた。
「―――僕の妹に手を出すとは、君の罪もずいぶんと重いようだね、キアン」
顔を上げなくてもその声の主がだれなのかはわかっていたし、どれだけ不機嫌なのかもリディアにはすぐにわかった。恐る恐る振り返ったリディアは、エドガーがフェニックス子爵を睨みつけているのを見て小さくなった。
「やあ、エドガー。君がなかなか妹君を紹介してくれないから、自分で知り合うことにしたよ。こんな可愛らしいレディを独り占めするなんて良くないね。宝石は皆で愛でるものだろう?」
「それ以上余計なことは言わない方がいい、キアン。僕の従者に君の首をへし折るよう命じたいところを、ぐっと堪えているんだからね。僕の自制心に感謝してくれ」
物騒なことをさらりと言うと、エドガーはリディアの腰に手を回すようにして椅子から立ち上がらせた。その際に、フェニックス子爵にキスをされた手の甲を、さりげない仕草でエドガーがふき取ったことにリディアはもちろん気づいていた。
「どうして君がここで、僕の友人達と楽しそうに談笑しているんだい、リディア?」
エドガーは怒っている。なのに無理矢理笑顔を浮かべている様子は、怖い以外の何物でもない。こんな時のエドガーは恐ろしいほど攻撃的な雰囲気になっているから、リディアは何も言えなくなってしまうのだ。
「彼女を責めないでやってくれ、エドガー。君を探しに来たミス・アシェンバートを、お茶に誘ったのは私なんだ」
助け舟を出してくれたのはありがたかったが、「君が誘った?」と眉を寄せるエドガーの機嫌は、ますます悪化したようだった。今のエドガーには、きっと何を言っても無駄なのだ。
「部屋に戻ってるんだ、リディア」
「……はい、兄さま」
不機嫌な声で命令されても、逆らおうという気にはもちろんならなかった。エドガーに会ったら本をねだろうと思っていたのに、もちろんそんなことはできなかった。
とぼとぼと扉まで歩いていく。ライブラリから出ていく時に、ちらっと部屋の中を覗いてみた。フェニックス子爵は申し訳なさそうに微笑んでいた。マイヤーズ伯爵も苦笑している。二人に小さく頭を下げてから、リディアは扉を閉めた。
エドガーがどうしてあんなに不機嫌だったのか、リディアにはさっぱりわからない。
何か仕事で大変なことでもあったのだろうかと考えながら、早くエドガーの機嫌が良くなりますようにと、リディアはとりあえずそう祈っておいた。
「お嬢さま! お行儀良くなさって下さいませ!」
部屋の中から家庭教師の怒鳴り声が聞こえてくる。はいはい、とその時だけは走るのを止めたが、角を曲がったとたんにリディアはまた走り出した。
エドガーはどこにいるのだろう? この時間なら書斎だろうか。けれど最近は調べ物でもあるのか、ライブラリにいる時間の方が多かったことを思い出して、リディアは廊下を右に曲がった。家庭教師に何度怒られようが、気になったことがあれば走り出してしまう癖はどうにも直りそうになった。元々、穏やかなどという気性とは程遠いのだから仕方ない。
エドガーを見つけたら、リディアは頼みごとをするつもりだった。おねだり、と言った方がいいのかもしれない。もちろんリディアがねだるのは、新しいドレスでも宝石のあしらわれたネックレスでもない。そんな物は別にこれ以上欲しくもないし、リディアがねだる前に次々とエドガーが買い与えてくれる。欲しいのは、今日家庭教師に教えてもらったとある本だった。
孤児院にいた頃ろくな教育も受けていなかったリディアは、最近になってようやく一通りな読み書きができるようになった。そんなリディアに家庭教師が勧めてくれる本は、どれもリディアの好みにぴったり合うもので、ライブラリから探し出しては熱心に読みふけったり、エドガーに読んでもらったりしていたのだ。けれど今日家庭教師が教えてくれたのはつい先日発売されたばかりの物で、だからこそリディアはエドガーにねだって買ってもらおうと思ったのだ。
ねだる、という行為には、やはり少しばかりの抵抗が付きまとう。エドガーは迷惑だなんて顔はしないし、むしろ嬉しそうに笑ってキスをしてくれるのだが、それでもリディアの中の抵抗感は消えはしないのだ。罪悪感とも申し訳なさとも違う何かが―――自分などがそこまでしてもらっていいのだろうか、あたしなんかが……と、考え始めればキリがないほどなのだ。
けれどそれが本の場合だと、これも立派な勉強になるのだし、家庭教師に勧められたのだからと、そう自分を納得させることができるのだから不思議だった。ドレスやアクセサリーほど高価な買い物ではないからなのかもしれない。もちろんいくら宝石を買ったところで、エドガーにとってはちっとも痛手なんかにならないことはわかっていたけれど。
スカートを摘み上げながら、リディアはぱたぱたと廊下を走る。午後のお茶の時間や、夕食の時間にねだればいいなんてことははなから頭になかった。だって今ねだれば、もしかしたら午後には一緒に買い物に行けるかもしれないのだ。本屋は、今リディアが一番好きな場所だった。
「兄さま、いる?」
もし仕事が忙しいようだったら後にしよう。そう思いながらライブラリのドアを開けたリディアは、そこに予想もしなかった男性二人の姿を目にして、驚きに立ちすくんでしまった。
エドガーよりも明るい、蜂蜜色の髪をした青年と、艶やかな黒髪の青年だった。二人とも立派な身なりをしている青年で、一目でリディアはエドガーの友人だと悟った。そしてあまりの恥ずかしさに、ドアノブを握ったまま消えてしまいたくなった。ノックもせずに部屋に飛び込んでくるだなんて最悪だ。礼儀作法の欠片も無いではないか。
「……あ、あの、ごめんなさい。失礼しましたっ」
「待って、ミス・アシェンバート」
慌てて扉を閉めようとしたリディアは、やんわりとその閉まりかかる扉を押さえる手に、びっくりして顔を上げた。
「せっかくいらして下さったのですから、よろしければお茶の相手をして頂けませんか? アシェンバード伯爵もそろそろ戻ってくる頃だと思いますよ」
「え……」
穏やかな笑顔を浮かべた青年は、リディアの無作法などちっとも気にしてはいないようだった。それどころか、まるで友人のような気さくな笑顔でお茶に誘ってくれる。その親切にありがとうと言うべきか、それとも遠慮すべきなのか、リディアにはさっぱりわからなかった。こんな時はどうするのが、一番礼儀正しく見えるのだろうか。そんなの、今更なような気もするけれど。
「男同士で飲むお茶というのは、どうもあまり美味しく感じられないんですよ。どうぞ私を助けると思って、同席して頂けませんか?」
何だかまるで、エドガーみたいなことを言う人だ。それとも貴族というのは、皆こんなしゃべり方をするのだろうか。
エドガーみたいだと思えば、緊張も少しは和らぐような気がした。貴族の礼儀作法はわからないが、ここまで言ってもらったのに断っては失礼というものだろう。
「じゃあ、あの……お邪魔します」
「どうぞ、ミス・アシェンバート」
その呼び名には、どうやっても慣れそうにはない。躊躇うリディアの手を取ると、青年は空いている椅子まで案内してくれた。そこまでされるのが、申し訳ないような恥ずかしいようなで、リディアは真っ直ぐ青年の顔を見ることもできなかった。椅子に腰掛けて、小さな声でお礼を言うのが精一杯だった。青年は軽くリディアの手にキスをしてから離れて行った。
そこらの女の人よりもよっぽどキレイな黒髪をしている、とリディアは思った。どんな手入れをすればあんなにもつやつやとした髪になるのだろう。じっと見つめるのは失礼だとわかっていても、ついつい視線が髪に行ってしまう。もちろん髪だけでなく、その浮かんだ笑顔も完璧だ。瞳はこのロンドンでは滅多に見ることのできないキレイな空色で、どことなくエドガーと似た雰囲気をかもし出している人だった。でも、この人は女癖が悪そうには見えない。
リディアの視線に気づくと、青年はにこりと微笑んだ。リディアのためにわざわざお茶まで入れてくれる。
「紹介が遅れました。私はキアン・フェニックス。爵位は子爵です。彼はパーシー・マイヤーズ伯爵。エドガーとはイートンからの付き合いなんですよ」
受け取ったティーカップに口をつけながら、リディアはこくんと頷く。蜂蜜色の髪をしたマイヤーズ伯爵は、あまりおしゃべりではないようだった。リディアと視線が合っても軽く会釈をするだけで、口を開こうとはしなかった。もっとも、その分もフェニックス子爵がしゃべってくれるのだが。
リディアのそんな思いを読み取ったかのように、フェニックス子爵は申し訳なさそうに―――けれどどこか悪戯っぽく微笑んだ。
「マイヤーズ卿はずいぶんと無愛想でしょう? 許してやって下さい。女性が苦手なんですよ。美しいレディを前にすると、とたんにあがってしまうらしい」
「……キアン。勝手なことを言うな」
苦虫を噛み潰したような顔でマイヤーズ伯爵は言った。そんな様子を見て、フェニックス子爵はおかしそうに笑う。
「本当のことだろう? ついこの間だって、ほら、ワルツの最中に相手のレディに見惚れてドレスの裾を踏んづけていたじゃないか。まさか忘れたわけじゃないだろう?」
ドレスの裾を踏んづけた? それはまた……。リディアは目を丸くした。
「だからあれは見惚れてたわけじゃなくて、考え事をしていただけだって何度も言っただろう? おまえといいエドガーといい、しつこいにも程があるぞ!」
「女好きだっていうのに、上手くその相手ができないとは悲しいことこの上ないね。我らが友人のアシェンバート伯爵に、少し手ほどきでもしてもらったらどうだい? 少しは上手く女性を口説けるようになるんじゃないかな」
「おまえもエドガーも似たようなもんだろうが。いつまでもふらふらしてないで、いい加減身を固めろと言いたいね。結婚しない内から、次々と子供だけは現れそうじゃないか」
「私はそんなミスはしないよ、だれかさんとは違ってね……おっと、女性を前にする話じゃなかったな」
すみませんと謝るフェニックス子爵に、リディアはいいえと首をふった。男の人同士の遠慮のない会話というのは面白い。もっとも、エドガーの名前が出て来るのは気になったが。社交界で、エドガーはそんなに色んな女の人を口説いているのだろうか。
「誘っておきながら、あなたを無視した会話をしてしまい申し訳ありません」
「いいえ、そんなことは……あたしの方こそ、お邪魔しちゃってすみません。あの、お客様がいるとは知らなくて……」
「いいんですよ。私たちは、一度あなたとゆっくり話をしてみたいと思っていたんです。思いもがけずその機会に恵まれて幸運でした」
私たち、という言葉にリディアは首を傾げた。フェニックス子爵はくすりと笑う。口の端を少し上げただけだというのに、実に魅力的な微笑みだった。惹き込まれそうになるような微笑だ。
「アシェンバート伯爵から、あなたの話を聞いていたということもありますが―――先日も、私はここにお邪魔していたんですよ。あの時も同じようにやって来られたでしょう?」
「あの時……え、あ、もしかして」
「子猫は元気ですか?」
その台詞は決定打だった。恥ずかしさにリディアは今すぐ逃げ出したくて仕方がなかった。一度ばかりか、二度も部屋に飛び込んでくるところを見られてしまうだなんて―――自分の粗忽さが心底から嫌になった。どれほどお転婆な女の子だと思われただろう。
「子猫は、元気です。エドガーが飼ってもいいって言ってくれて……」
「アシェンバート伯爵は、ずいぶんとあなたに甘いようでしたからね。仲間内でも、ずいぶんと噂になっていたんですよ」
一体それはどんな噂だというのか。気になったが、尋ねる勇気はリディアにはなかった。エドガーはよくあんなお転婆を引き取ったとか、そんなことを噂されていたらどうしよう。
「屋敷でのエドガーはどんな様子なんですか? いつ見ても彼は完璧な井出たちで、およそ欠点など無い様子ですからね。でも、あなたの前では違う顔も見せるんでしょう、ミス・アシェンバート?」
「……それは俺も気になるな」
二人に見つめられて、リディアは困った。そんな、話して面白いようなことは何もない。朝から晩まで甘い口説き文句を囁かれていることを言ってみようか? そんなことをすれば、エドガーは妹相手に一体何をしているのだと、あらぬことを思われても不思議ではない。
「あたしは、エドガーがよそでどんな様子なのか知らないけど……でも、別に変わらないと思うわ。あたしから見ても、何か隙のない人だなって思うし……」
「妹相手にも隙を見せないのか。まったく、どれだけ完ぺき主義な男なんだろうな、彼は」
フェニックス子爵は呆れたようにそうもらした。マイヤーズ伯爵と目を合わせて肩をすくめる。エドガーはよほど友人達の前でも完璧な様子らしい。エドガーらしいといえばそうだが、少しぐらい欠点や足りないところがあった方が、周りの人は親しみを覚えるものではないだろうか。
「あの、でも、すごく良くしてくれるわ。仕事が忙しいのに相手をしてくれるし、本を読んでくれたりとか―――」
どうして必死になっているのだろうと思いながら、リディアは気がつくと熱い声音でそう言っていた。本当は本を読んでくれるどころか、そのまま一緒に眠ってしまうのだが、それはさすがに恥ずかしすぎて言えなかった。この年にもなって家族と一緒に寝るだなんてありえないことだろう。
リディアの熱い口調に、フェニックス子爵はいささか驚いたようだった。目を丸くしてしげしげとリディアを見つめる。けれどその視線は少しも不愉快には感じられなかった。フェニックス子爵が、きちんとリディアに礼儀を示してくれていることがわかっているからだろう。
「いやはや、聞いたかい、パーシー? やはりエドガーは女性の心を掴むのが上手いな。君も手本にするといい。気になる女性がいたら本を読み聞かしてやるんだね。ころっと落ちること間違いなしさ」
「俺とエドガーを一緒にするな。やつの真似なんか死んでもしないね」
「それはそれは」
くっくと喉を鳴らしてフェニックスは笑った。何かおかしなことを言ってしまっただろうかとリディアは少し心配になる。
「社交界にはお出でになられないんですか、ミス・アシェンバート?」
右手を取られ、軽く握られたものだから、リディアは焦る。
「あ、あの、あたしは……」
「エドガーは、あなたを独り占めするつもりなのかな。こんなに可憐なレディを屋敷に閉じ込めておくとは、アシェンバート伯爵の罪は重い。あなたがどこかのパーティーにいらっしゃれば、私は真っ先にダンスを申し込みますよ」
右手に押し付けられた唇は、ずいぶんと熱い。先ほどの挨拶のキスとは違って、すぐには手から離れない。
助けを求めるように、気がつくとリディアはマイヤーズ伯爵に視線をやっていた。けれど彼は呆れたようにフェニックスを見るばかりで、リディアの視線には気づかなかった。助けは思いもしないところからやってきた。
「―――僕の妹に手を出すとは、君の罪もずいぶんと重いようだね、キアン」
顔を上げなくてもその声の主がだれなのかはわかっていたし、どれだけ不機嫌なのかもリディアにはすぐにわかった。恐る恐る振り返ったリディアは、エドガーがフェニックス子爵を睨みつけているのを見て小さくなった。
「やあ、エドガー。君がなかなか妹君を紹介してくれないから、自分で知り合うことにしたよ。こんな可愛らしいレディを独り占めするなんて良くないね。宝石は皆で愛でるものだろう?」
「それ以上余計なことは言わない方がいい、キアン。僕の従者に君の首をへし折るよう命じたいところを、ぐっと堪えているんだからね。僕の自制心に感謝してくれ」
物騒なことをさらりと言うと、エドガーはリディアの腰に手を回すようにして椅子から立ち上がらせた。その際に、フェニックス子爵にキスをされた手の甲を、さりげない仕草でエドガーがふき取ったことにリディアはもちろん気づいていた。
「どうして君がここで、僕の友人達と楽しそうに談笑しているんだい、リディア?」
エドガーは怒っている。なのに無理矢理笑顔を浮かべている様子は、怖い以外の何物でもない。こんな時のエドガーは恐ろしいほど攻撃的な雰囲気になっているから、リディアは何も言えなくなってしまうのだ。
「彼女を責めないでやってくれ、エドガー。君を探しに来たミス・アシェンバートを、お茶に誘ったのは私なんだ」
助け舟を出してくれたのはありがたかったが、「君が誘った?」と眉を寄せるエドガーの機嫌は、ますます悪化したようだった。今のエドガーには、きっと何を言っても無駄なのだ。
「部屋に戻ってるんだ、リディア」
「……はい、兄さま」
不機嫌な声で命令されても、逆らおうという気にはもちろんならなかった。エドガーに会ったら本をねだろうと思っていたのに、もちろんそんなことはできなかった。
とぼとぼと扉まで歩いていく。ライブラリから出ていく時に、ちらっと部屋の中を覗いてみた。フェニックス子爵は申し訳なさそうに微笑んでいた。マイヤーズ伯爵も苦笑している。二人に小さく頭を下げてから、リディアは扉を閉めた。
エドガーがどうしてあんなに不機嫌だったのか、リディアにはさっぱりわからない。
何か仕事で大変なことでもあったのだろうかと考えながら、早くエドガーの機嫌が良くなりますようにと、リディアはとりあえずそう祈っておいた。
(07.10.3)