不機嫌な理由なんて、つまり
その日、ずっとエドガーの機嫌が悪かった。
いや、本当にそうなのかはわからない。仕事があるからと出かけてしまったエドガーは、昼食にも夕食の席にもやって来なかった。もちろんお茶の時間などあるはずもない。
始めは気にしなかったリディアも、夕食が終わってしばらくしてもエドガーが帰ってこないとなると、不安を覚えずにはいられなかった。もしかしたら、エドガーに避けられているのだろうか?
「あの伯爵のことなんて、気にする必要もねぇだろ」
「冷たいのね、ニコってば」
ソファに腰掛けブランデーを舐めているニコはご機嫌だった。エドガーの機嫌が悪かろうが何だろうが、ニコにはどうでもいいことなのだろう。そんな風に思えれば楽だとわかっていても、リディアにはとても真似できそうにはなかった。
「明日になれば、どうせまたいつもみたく朝っぱらから口説いてくるんだろ? 普段はさんざん、少し静かにしてほしいだの何だの言ってるじゃないかよ」
「それはそうだけど……だって、エドガーがあんなに怒ると思わなかったんだもの。仕事が忙しくても、夕食は一緒に食べてくれたじゃない。それなのに、まだ帰ってきてもいないみたいだし……あたし、何かしちゃったのかしら」
心当たりは全くないと言いたがったが、思い当たることといえば一つしかなかった。午前中の、ライブラリでのことだ。
あの時のエドガーはずいぶんと機嫌が悪そうだった。仕事で何か大変なことでもあったのだろうとリディアは考えたのだが、もしそうではなかったとしたら? リディアがその原因だったとしたら……。いくら誘われたからとはいえ、図々しくお邪魔すべきではなかったのかもしれない。エドガーの友人だというのに、そのエドガーを差し置いておしゃべりをしていたのだから、エドガーが怒るのも当然のような気がしてきた。
そう思うと、リディアは急にそわそわしてきた。ニコの言う通り、明日になってエドガーがいつも通りになっていればいい。聞いているだけで恥ずかしくなるような甘い囁きも、明日は我慢して聞くことができるだろう。けれどまだ機嫌が直ってなかったら? 一晩経ったことで、余計に悪化していたらどうすればいいのか。
こんな時、リディアはどうすればいいのかわからない。
人に嫌われることや、仲間外れにされることには慣れている。いや、そもそも『仲間』にすらなれていなかったのだから。それを悔しいと思うどころか、当たり前だと受け入れてしまっていたリディアにとって、いまだに人付き合いは苦手なままだ。好かれるのは嬉しいと思う。けれど何だか不思議な感じで、少しの戸惑いが残っている。兄を怒らせてしまった時の対処法などさっぱりわからなかった。
こんな時に頼りにしたい相棒のニコは、ブランデーのおかげか程よい眠気に包まれてきたようだった。ソファの上でうとうととまどろんでいる。人の気も知らないで、とリディアは眉を寄せる。全く妖精は気ままなものだ。
もうそろそろベッドに入る頃だとわかっていたが、エドガーのことが気になって眠気はちっともやって来ない。うろうろと部屋の中を歩き回るリディアは、馬車の音を聞いて窓へと急いだ。今屋敷に帰ってきたばかりの馬車、あれは間違いなくエドガーの乗っているものだ。エドガーはこんな遅い時間までどこにいたのだろう。
悩んでいたのは数秒だった。こんな気持ちのままベッドに入るなんてごめんだ。ぱたぱたと走り出すリディアの足音に、ニコは片目をうっすらと開けたが、リディアが部屋を出て行くのを見ると再びその目を閉じた。まったく、リディアには付き合っていられない。あんな伯爵の一挙一動に振り回されて。
ニコに呆れられているとは知らずに、リディアは暗い廊下を走っていた。こんな時間ともなれば、起きているのは数え切れるだけの使用人しかいない。屋敷の中はずいぶんとしんとしている。足音が大きく聞こえた。
「どうなさいましたか」
「あ、レイヴン」
エドガーの部屋にほど近い辺りで、今日も無表情なレイヴンとすれ違った。かもし出す雰囲気ほど怖い人ではないのだとわかってはいても、まだレイヴンと二人きりになるのは少し緊張する。笑顔の一つでも見せてくれればもっと親しみも沸くのというのに、レイヴンの笑顔なんて今まで一度もリディアは見たことがない。
「あの、エドガーは……」
普通なら、リディアの歯切れの悪い言葉を聞き、何かを感じ取ってもいいようなものなのだが、レイヴンには到底無理というものだった。
「お部屋にいらっしゃいます」
「えぇ、それはわかってるんだけど……」
今も簡潔に答えたレイヴンに、リディアは少し戸惑っていた。そんなリディアを目の前にして、レイヴンも少し困惑しているようだった。とはいっても、その表情は少しも変わっていないのだから、リディアには本当のところはよくわからないのだ。
「レイヴン。兄さまは怒ってた? 昼間は機嫌が悪かったでしょう? 何が原因なのかわかる?」
「わかりません」
勇気を振り絞って聞いたリディアに、レイヴンはあっさりすぎるほどにはあっさりと答えてくれた。がっかりしつつも、相手がレイヴンでは仕方ないかとリディアは思い直すことにする。
「えぇ、わかったわ。自分で聞くことにするわ。引き止めちゃってごめんなさい、レイヴン。おやすみなさい」
「お休みなさいませ」
レイヴンに見送られながら歩き出し、すぐにその部屋にたどり着いた。ノックをしたけれど返事が無い。音が小さすぎたのか、それとももう寝室に行ってしまったのか。
迷ったのは数秒で、リディアはそっと扉を開いた。部屋の中は薄暗かったか、ソファに寝そべっている金髪を見逃すことは無かった。
「……兄さま?」
もう寝ちゃった?
声をかけると、飛び起きるようにしてエドガーは身体を起こした。眠っていたわけではないようだった。振り返った灰紫の瞳は、射るような厳しさでリディアを見つめた。
「リディア。どうしたんだ? こんな時間に」
温かく迎え入れてくれそうにない雰囲気に、リディアは部屋を訪ねてきたことをとたんに後悔した。
「ちょっと話したいことがあって……でも、やっぱり明日にするわ。ごめんなさい、兄さま」
すぐさま踵を返して、リディアは部屋を出るつもりだった。ドアノブを掴んで静かにドアを開ける。けれど開いたばかりのドアはまたすぐに閉められた。背後から伸びたエドガーの長い腕が、扉を押さえ付けていた。
「……エドガー?」
「せっかく来てくれたんだ。慌てて帰る必要は無いだろう? ゆっくりしていきなよ」
背中にぴたりとくっつくように身を寄せたエドガーが、耳元でそう囁いた。思わずリディアはぶるりと身体を震わせた。
「酒を飲んでたんだ。君も突き合ってくれるだろう?」
「え、あたし、お酒飲めないわ」
「大丈夫。慣れれば飲めるようになるよ」
強引にリディアを振り向かせると、エドガーは熱い唇を額に落としてからソファへと戻っていった。空いていたグラスに酒を注ぎ、リディアを見ると微笑んだ。少し危険な笑みだった。
「ほら、リディア。おいで」
「……兄さま、酔ってるの?」
近づいたエドガーからは強いアルコールの匂いがした。きっと外でも飲んでいたのだろう。その割りには足取りも呂律もしっかりとしている。
「酒に? それとも君に? その魅惑的な金緑の瞳になら、僕はいつだって酔わされているけどね」
隣に腰掛けたリディアに、エドガーは半ば無理やりにグラスを押しつけた。琥珀色の液体を見てリディアは考え込んだ。こんな強そうな酒、絶対に飲めるわけがない。
「ほら、リディア」
エドガーは自分のグラスに口を付けると、すぐさま傾け一気にその中身を飲み干してしまった。唇に残った液体を舌で舐めとる、そんないつものエドガーらしくない態度にリディアは戸惑った。
「そんな薄着一枚じゃ寒いだろう? 飲めば身体の底から暖まる。人肌には劣るけどね」
言ってくつっと喉を鳴らすエドガーに、リディアは困惑した眼差しを向けた。エドガーはどこを見て笑っているのだろう。
「無理よ。あたし、こんなに強いお酒なんて飲めないわ。この匂いだけでダメだもの」
「もったいない。何か忘れたい時には、これはもってこいの酒なんだよ。浴びるように飲んで眠ってしまえば、面倒な現実はもう手の届かない場所にある」
夢を語るような声音で言うエドガーに、リディアはあやふやに頷いた。それって、ただ単に酔っ払っただけなんじゃ……
「飲めないのなら、味だけでも教えてあげようか」
リディアの手からグラスを取り上げ、テーブルの上に音を立てて置くと、エドガーは二人の間の距離を詰めてきた。一気にその顔が近くなる。エドガーの金髪が、リディアの顔にかかるぐらいには。
「え、ど……」
「苦い酒を飲んだ後は、甘いお菓子を楽しむのも悪くないね」
エドガーの唇が額に降ってきた。いつもの家族のキスだと思うには、あまりに長いことそのまま留まり続けるので、リディアは思わず目をつぶってしまった。それがいけなかった。
ゆっくりと時間をかけて、エドガーの唇は移動していく。両の目蓋にキスをされている時、リディアはただ黙って震えているしかなかった。怖いのではない。ただ、どうしてか震えが止まらない。
「リディア……」
エドガーが口にするだけで、自分の名前がとたんに甘い響きを持っているように聞こえるのはなぜなのだろう。大きな手の平が両肩を包んでいる。捕まえようとしているのではなくて、その手はずいぶん優しかった。
頬に移動した唇は、まるでリディアの肌の感触を楽しんでいるようだった。この触れ合いはいつまで続くのだろう? 一秒が永遠に感じられた。頬というにはあまりに唇に近い場所に、音を立ててキスをされてリディアは身体を跳ねさせた。
吐息が、唇にかかった。リディアが少し身動きするだけで、すぐそこの温もりに触れられてしまいそうだった。そうなったら、どうなってしまうのだろう? エドガーは今、何を考えているの?
逃げることも自分から動くこともできずに、リディアは固まったようにじっと座っていた。膝の上で両手をぎゅっと握り締めた。唐突に、エドガーは身体を放した。
「……エドガー?」
そろそろと目を開けたリディアは、困ったように口元を押さえているエドガーを見て驚いた。苦い笑みを浮かべながら、どうすればいいのかわからないとでも言うかのようにリディアを見ていた。
「……ごめん。ちょっと酔いが回ってきたみたいだ」
そう言う割にはエドガーの口調はずいぶんしっかりとしていたが、リディアはこくんと頷いておいた。態度に出ないだけで、実のところエドガーはかなり酔っているのかもしれない。今日のエドガーは少しおかしいから。
「もうベッドに入った方がよさそうだ」
エドガーは立ち上がり、そのまま寝室に向かうのかと思いきや、リディアに右手を差し伸べてきた。
「おいで、リディア。寝る前に本を読んであげるよ」
「兄さま、寝なくていいの?」
「可愛い妹に物語を読み聞かせてあげるぐらいの余裕ならあるさ」
一転して、エドガーの声はずいぶんと明るくなっていた。リディアの手を引いて寝室へと入っていく。ベッド脇のサイドテーブルの上には、読みかけの本が一冊置かれたままになっていた。
ベッドの中に潜り込んで、リディアはエドガーが隣にやってくるのを待っていた。エドガーは隣に腰掛け、毛布をリディアの口元まで引っ張り上げる。額にかかった髪を優しく撫でる、それはもういつものエドガーそのものだった。さっきのエドガーとは何かが違う。例えば、口元に浮かんでいる笑みだとかが。
「さぁ、昨日はどこまで読んだっけ?」
「……エドガー。あたしそれよりもね、聞きたいことがあるの」
口元までかけられた毛布の端をいじくりながら、リディアはじっとエドガーを見上げた。
「今日、どうして怒ってたの? 夕食に帰ってこなかったのは、あたしと一緒に食べるのが嫌で……」
「リディア」
言葉を遮るように名前を呼んだエドガーは、何かを言おうと口を開けたものの、その口からすぐに声は出てこなかった。珍しく、言葉に困っているようだった。それにますますリディアは不安になった。
「君が悪いわけじゃないんだよ、リディア」
優しく額を撫でながら言われたって、そんな言葉、簡単に信じられるものじゃない。不満を口元だけで表してじっと見上げるリディアに、エドガーはますます困ったように微笑んだ。けれど諦めずにリディアが見つめ続けると、エドガーは観念したように肩を落とした。
「君は初めて僕と会った時、ずいぶんと素敵な態度を取ってくれたよね。人さらい呼ばわりされたのは生まれて初めてだったよ」
「だって、あれは……」
仕方なかったじゃないと言いかけて、リディアは居心地の悪さにぎゅっと唇を結んだ。エドガーの今の眼差しはずいぶんと意地が悪いと思う。それに今更そんな話を持ち出すだなんて卑怯だ。
「女性に好意を持たれるのは僕の特技だと思っていたんだけどね。君に出会って、僕はそんな自信もこてんぱんにされてしまったんだよ、リディア。」
「それは……そんなの知らないわよ。あたしの所為だって言いたいの?」
「そうじゃない。だけどねリディア、僕は君の信頼を勝ち取るために、それはもう毎日思い悩んでいたんだよ。どうしたらこの可愛い妖精は笑顔を見せてくれるんだろうって」
リディアが屋敷に来たばかりの頃のエドガーは、とても思い悩んでいたようには見えなかった。リディアの意見など無視してやりたいように振る舞っている、我儘な貴族そのものだとリディアは思っていた。
「それなのにね、リディア。僕が苦労して勝ち取った笑顔を、君は他の男にはいやに簡単に見せるんだね」
エドガーの声音は少し固くて、やっと本当のことを話してくれたのだとわかった。けれどわかったのはそれだけで、エドガーが何を言いたいのかはさっぱりだった。
「キアンとずいぶん打ち解けた様子だったじゃないか」
「フェニックス子爵?」
重ねて言われた言葉にリディアは首を傾げる。エドガーは苛立ったようにわずかに眉を寄せた。
「手にキスをされても嫌がらなかっただろう」
まるでそれが、この上もないほどの大罪であるかのような声だった。
「だって、あれは挨拶でしょう?」
「僕が君に同じ『挨拶』をした時には平手打ちをされたけどね」
「……びっくりしただけよ!」
エドガーはどうしてそんなことを言うのだろう? まるで拗ねている子供のような……。毛布に包まってなんかいられなくてリディアは身体を起こした。
「あのね、エドガー。わかってるでしょうけど、あたしはあなたに会う前は、そんな挨拶をされたことも、そもそもまともに女の子として扱われたことすら無かったんだから。あなたとは何もかも初めて尽くしで……何も知らなかったんだから。今はただ慣れただけじゃない」
「僕とは初めて尽くし、ね。なかなかいい響きじゃないか」
「もう、ふざけないでよ、エドガー!」
不機嫌だったのはエドガーだというのに、楽しそうに口の端を上げて呟く様子はとてもそうは見えない。機嫌がすぐに変わるんだからと、リディアは呆れて小さなため息をついた。
「わかってるよ、リディア。僕の目は節穴じゃない。君がどこかの男を好きになったりなんかしたらすぐにわかるさ。でもダメだね、頭ではそう理解してるのに、実際に君が男と楽しそうにしゃべっているのを見るだけで、こんなにも落ち着かなくなる」
エドガーの台詞には、自嘲気味な響きが色濃く含まれていた。口元は笑みの形を刻んでいたが、それはずいぶんと心細い笑みだった。
「……どうして?」
「君に恋い焦がれているからかな」
また、そんなことばっかり言って。
「兄さまはどうせ、会う女の人全員に恋してるんでしょ」
「そう思う?」
顔を覗き込まれて尋ねられれば、エドガーの灰紫の瞳に囚われてしまって、返事をすることができなかった。知ったような口振りをしたって、リディアには社交界でのエドガーがどんな振る舞いをしているのかなんてわからない。屋敷の中でのエドガーが、リディアにとっての全てなのだ。
もう夜も更けたというのに、二人してベッドに座り込んで何をしているのだろうか。明日は朝食の時間に合わせて起きることができないかもしれない。
「もう寝ない?」
欠伸をもらしながらリディアは言った。ここに来るまでは色々と言いたいことを考えていたはずなのに、何だかもうどうでもよくなってしまった。今はただ眠ってしまいたい。
「……それが、別の意味のお誘いなら嬉しいんだけどね」
「何のこと?」
リディアが首をかしげて尋ねると、エドガーは笑って何でもないよと答える。エドガーはよくリディアには意味のわからないことを言う。
柔らかな枕に頭をうずめると、先ほどと同じようにエドガーが毛布をかけてくれる。違うのは、今度は隣にエドガーも潜り込んだことだ。
サイドランプを消せば、部屋は暗闇に包まれる。目が慣れた頃には、エドガーの指がリディアの頬を撫でていた。
くすぐったいとも言わずに、リディアはその指を受け入れていた。何かを語り掛けるように、エドガーはゆっくりとリディアの頬を撫で続ける。
目をつぶりながら、リディアはエドガーの言葉を思い出していた。あたしとフェニックス子爵がしゃべっていたことが気に入らなかっただなんて。
「……エドガー?」
「うん?」
毛布の下のエドガーの手を探しだして、リディアはぎゅっと握った。
「あたし、自分のベッドよりも、こっちの方が寝やすいのよ」
エドガーがいるから。
それは言葉にはしなかったが、エドガーにはどうしてかわかってしまったようだった。
返事の代わりに額にキスが降ってきた。エドガーの笑顔が見えたような気がした。
それに満足して、リディアは目を閉じた。エドガーも満足してくれていればいいなと思った。
明日、朝起きたら真っ先に、欲しかった本をねだってみよう。きっとエドガーは、笑顔で頷いてくれるはずだから。
いや、本当にそうなのかはわからない。仕事があるからと出かけてしまったエドガーは、昼食にも夕食の席にもやって来なかった。もちろんお茶の時間などあるはずもない。
始めは気にしなかったリディアも、夕食が終わってしばらくしてもエドガーが帰ってこないとなると、不安を覚えずにはいられなかった。もしかしたら、エドガーに避けられているのだろうか?
「あの伯爵のことなんて、気にする必要もねぇだろ」
「冷たいのね、ニコってば」
ソファに腰掛けブランデーを舐めているニコはご機嫌だった。エドガーの機嫌が悪かろうが何だろうが、ニコにはどうでもいいことなのだろう。そんな風に思えれば楽だとわかっていても、リディアにはとても真似できそうにはなかった。
「明日になれば、どうせまたいつもみたく朝っぱらから口説いてくるんだろ? 普段はさんざん、少し静かにしてほしいだの何だの言ってるじゃないかよ」
「それはそうだけど……だって、エドガーがあんなに怒ると思わなかったんだもの。仕事が忙しくても、夕食は一緒に食べてくれたじゃない。それなのに、まだ帰ってきてもいないみたいだし……あたし、何かしちゃったのかしら」
心当たりは全くないと言いたがったが、思い当たることといえば一つしかなかった。午前中の、ライブラリでのことだ。
あの時のエドガーはずいぶんと機嫌が悪そうだった。仕事で何か大変なことでもあったのだろうとリディアは考えたのだが、もしそうではなかったとしたら? リディアがその原因だったとしたら……。いくら誘われたからとはいえ、図々しくお邪魔すべきではなかったのかもしれない。エドガーの友人だというのに、そのエドガーを差し置いておしゃべりをしていたのだから、エドガーが怒るのも当然のような気がしてきた。
そう思うと、リディアは急にそわそわしてきた。ニコの言う通り、明日になってエドガーがいつも通りになっていればいい。聞いているだけで恥ずかしくなるような甘い囁きも、明日は我慢して聞くことができるだろう。けれどまだ機嫌が直ってなかったら? 一晩経ったことで、余計に悪化していたらどうすればいいのか。
こんな時、リディアはどうすればいいのかわからない。
人に嫌われることや、仲間外れにされることには慣れている。いや、そもそも『仲間』にすらなれていなかったのだから。それを悔しいと思うどころか、当たり前だと受け入れてしまっていたリディアにとって、いまだに人付き合いは苦手なままだ。好かれるのは嬉しいと思う。けれど何だか不思議な感じで、少しの戸惑いが残っている。兄を怒らせてしまった時の対処法などさっぱりわからなかった。
こんな時に頼りにしたい相棒のニコは、ブランデーのおかげか程よい眠気に包まれてきたようだった。ソファの上でうとうととまどろんでいる。人の気も知らないで、とリディアは眉を寄せる。全く妖精は気ままなものだ。
もうそろそろベッドに入る頃だとわかっていたが、エドガーのことが気になって眠気はちっともやって来ない。うろうろと部屋の中を歩き回るリディアは、馬車の音を聞いて窓へと急いだ。今屋敷に帰ってきたばかりの馬車、あれは間違いなくエドガーの乗っているものだ。エドガーはこんな遅い時間までどこにいたのだろう。
悩んでいたのは数秒だった。こんな気持ちのままベッドに入るなんてごめんだ。ぱたぱたと走り出すリディアの足音に、ニコは片目をうっすらと開けたが、リディアが部屋を出て行くのを見ると再びその目を閉じた。まったく、リディアには付き合っていられない。あんな伯爵の一挙一動に振り回されて。
ニコに呆れられているとは知らずに、リディアは暗い廊下を走っていた。こんな時間ともなれば、起きているのは数え切れるだけの使用人しかいない。屋敷の中はずいぶんとしんとしている。足音が大きく聞こえた。
「どうなさいましたか」
「あ、レイヴン」
エドガーの部屋にほど近い辺りで、今日も無表情なレイヴンとすれ違った。かもし出す雰囲気ほど怖い人ではないのだとわかってはいても、まだレイヴンと二人きりになるのは少し緊張する。笑顔の一つでも見せてくれればもっと親しみも沸くのというのに、レイヴンの笑顔なんて今まで一度もリディアは見たことがない。
「あの、エドガーは……」
普通なら、リディアの歯切れの悪い言葉を聞き、何かを感じ取ってもいいようなものなのだが、レイヴンには到底無理というものだった。
「お部屋にいらっしゃいます」
「えぇ、それはわかってるんだけど……」
今も簡潔に答えたレイヴンに、リディアは少し戸惑っていた。そんなリディアを目の前にして、レイヴンも少し困惑しているようだった。とはいっても、その表情は少しも変わっていないのだから、リディアには本当のところはよくわからないのだ。
「レイヴン。兄さまは怒ってた? 昼間は機嫌が悪かったでしょう? 何が原因なのかわかる?」
「わかりません」
勇気を振り絞って聞いたリディアに、レイヴンはあっさりすぎるほどにはあっさりと答えてくれた。がっかりしつつも、相手がレイヴンでは仕方ないかとリディアは思い直すことにする。
「えぇ、わかったわ。自分で聞くことにするわ。引き止めちゃってごめんなさい、レイヴン。おやすみなさい」
「お休みなさいませ」
レイヴンに見送られながら歩き出し、すぐにその部屋にたどり着いた。ノックをしたけれど返事が無い。音が小さすぎたのか、それとももう寝室に行ってしまったのか。
迷ったのは数秒で、リディアはそっと扉を開いた。部屋の中は薄暗かったか、ソファに寝そべっている金髪を見逃すことは無かった。
「……兄さま?」
もう寝ちゃった?
声をかけると、飛び起きるようにしてエドガーは身体を起こした。眠っていたわけではないようだった。振り返った灰紫の瞳は、射るような厳しさでリディアを見つめた。
「リディア。どうしたんだ? こんな時間に」
温かく迎え入れてくれそうにない雰囲気に、リディアは部屋を訪ねてきたことをとたんに後悔した。
「ちょっと話したいことがあって……でも、やっぱり明日にするわ。ごめんなさい、兄さま」
すぐさま踵を返して、リディアは部屋を出るつもりだった。ドアノブを掴んで静かにドアを開ける。けれど開いたばかりのドアはまたすぐに閉められた。背後から伸びたエドガーの長い腕が、扉を押さえ付けていた。
「……エドガー?」
「せっかく来てくれたんだ。慌てて帰る必要は無いだろう? ゆっくりしていきなよ」
背中にぴたりとくっつくように身を寄せたエドガーが、耳元でそう囁いた。思わずリディアはぶるりと身体を震わせた。
「酒を飲んでたんだ。君も突き合ってくれるだろう?」
「え、あたし、お酒飲めないわ」
「大丈夫。慣れれば飲めるようになるよ」
強引にリディアを振り向かせると、エドガーは熱い唇を額に落としてからソファへと戻っていった。空いていたグラスに酒を注ぎ、リディアを見ると微笑んだ。少し危険な笑みだった。
「ほら、リディア。おいで」
「……兄さま、酔ってるの?」
近づいたエドガーからは強いアルコールの匂いがした。きっと外でも飲んでいたのだろう。その割りには足取りも呂律もしっかりとしている。
「酒に? それとも君に? その魅惑的な金緑の瞳になら、僕はいつだって酔わされているけどね」
隣に腰掛けたリディアに、エドガーは半ば無理やりにグラスを押しつけた。琥珀色の液体を見てリディアは考え込んだ。こんな強そうな酒、絶対に飲めるわけがない。
「ほら、リディア」
エドガーは自分のグラスに口を付けると、すぐさま傾け一気にその中身を飲み干してしまった。唇に残った液体を舌で舐めとる、そんないつものエドガーらしくない態度にリディアは戸惑った。
「そんな薄着一枚じゃ寒いだろう? 飲めば身体の底から暖まる。人肌には劣るけどね」
言ってくつっと喉を鳴らすエドガーに、リディアは困惑した眼差しを向けた。エドガーはどこを見て笑っているのだろう。
「無理よ。あたし、こんなに強いお酒なんて飲めないわ。この匂いだけでダメだもの」
「もったいない。何か忘れたい時には、これはもってこいの酒なんだよ。浴びるように飲んで眠ってしまえば、面倒な現実はもう手の届かない場所にある」
夢を語るような声音で言うエドガーに、リディアはあやふやに頷いた。それって、ただ単に酔っ払っただけなんじゃ……
「飲めないのなら、味だけでも教えてあげようか」
リディアの手からグラスを取り上げ、テーブルの上に音を立てて置くと、エドガーは二人の間の距離を詰めてきた。一気にその顔が近くなる。エドガーの金髪が、リディアの顔にかかるぐらいには。
「え、ど……」
「苦い酒を飲んだ後は、甘いお菓子を楽しむのも悪くないね」
エドガーの唇が額に降ってきた。いつもの家族のキスだと思うには、あまりに長いことそのまま留まり続けるので、リディアは思わず目をつぶってしまった。それがいけなかった。
ゆっくりと時間をかけて、エドガーの唇は移動していく。両の目蓋にキスをされている時、リディアはただ黙って震えているしかなかった。怖いのではない。ただ、どうしてか震えが止まらない。
「リディア……」
エドガーが口にするだけで、自分の名前がとたんに甘い響きを持っているように聞こえるのはなぜなのだろう。大きな手の平が両肩を包んでいる。捕まえようとしているのではなくて、その手はずいぶん優しかった。
頬に移動した唇は、まるでリディアの肌の感触を楽しんでいるようだった。この触れ合いはいつまで続くのだろう? 一秒が永遠に感じられた。頬というにはあまりに唇に近い場所に、音を立ててキスをされてリディアは身体を跳ねさせた。
吐息が、唇にかかった。リディアが少し身動きするだけで、すぐそこの温もりに触れられてしまいそうだった。そうなったら、どうなってしまうのだろう? エドガーは今、何を考えているの?
逃げることも自分から動くこともできずに、リディアは固まったようにじっと座っていた。膝の上で両手をぎゅっと握り締めた。唐突に、エドガーは身体を放した。
「……エドガー?」
そろそろと目を開けたリディアは、困ったように口元を押さえているエドガーを見て驚いた。苦い笑みを浮かべながら、どうすればいいのかわからないとでも言うかのようにリディアを見ていた。
「……ごめん。ちょっと酔いが回ってきたみたいだ」
そう言う割にはエドガーの口調はずいぶんしっかりとしていたが、リディアはこくんと頷いておいた。態度に出ないだけで、実のところエドガーはかなり酔っているのかもしれない。今日のエドガーは少しおかしいから。
「もうベッドに入った方がよさそうだ」
エドガーは立ち上がり、そのまま寝室に向かうのかと思いきや、リディアに右手を差し伸べてきた。
「おいで、リディア。寝る前に本を読んであげるよ」
「兄さま、寝なくていいの?」
「可愛い妹に物語を読み聞かせてあげるぐらいの余裕ならあるさ」
一転して、エドガーの声はずいぶんと明るくなっていた。リディアの手を引いて寝室へと入っていく。ベッド脇のサイドテーブルの上には、読みかけの本が一冊置かれたままになっていた。
ベッドの中に潜り込んで、リディアはエドガーが隣にやってくるのを待っていた。エドガーは隣に腰掛け、毛布をリディアの口元まで引っ張り上げる。額にかかった髪を優しく撫でる、それはもういつものエドガーそのものだった。さっきのエドガーとは何かが違う。例えば、口元に浮かんでいる笑みだとかが。
「さぁ、昨日はどこまで読んだっけ?」
「……エドガー。あたしそれよりもね、聞きたいことがあるの」
口元までかけられた毛布の端をいじくりながら、リディアはじっとエドガーを見上げた。
「今日、どうして怒ってたの? 夕食に帰ってこなかったのは、あたしと一緒に食べるのが嫌で……」
「リディア」
言葉を遮るように名前を呼んだエドガーは、何かを言おうと口を開けたものの、その口からすぐに声は出てこなかった。珍しく、言葉に困っているようだった。それにますますリディアは不安になった。
「君が悪いわけじゃないんだよ、リディア」
優しく額を撫でながら言われたって、そんな言葉、簡単に信じられるものじゃない。不満を口元だけで表してじっと見上げるリディアに、エドガーはますます困ったように微笑んだ。けれど諦めずにリディアが見つめ続けると、エドガーは観念したように肩を落とした。
「君は初めて僕と会った時、ずいぶんと素敵な態度を取ってくれたよね。人さらい呼ばわりされたのは生まれて初めてだったよ」
「だって、あれは……」
仕方なかったじゃないと言いかけて、リディアは居心地の悪さにぎゅっと唇を結んだ。エドガーの今の眼差しはずいぶんと意地が悪いと思う。それに今更そんな話を持ち出すだなんて卑怯だ。
「女性に好意を持たれるのは僕の特技だと思っていたんだけどね。君に出会って、僕はそんな自信もこてんぱんにされてしまったんだよ、リディア。」
「それは……そんなの知らないわよ。あたしの所為だって言いたいの?」
「そうじゃない。だけどねリディア、僕は君の信頼を勝ち取るために、それはもう毎日思い悩んでいたんだよ。どうしたらこの可愛い妖精は笑顔を見せてくれるんだろうって」
リディアが屋敷に来たばかりの頃のエドガーは、とても思い悩んでいたようには見えなかった。リディアの意見など無視してやりたいように振る舞っている、我儘な貴族そのものだとリディアは思っていた。
「それなのにね、リディア。僕が苦労して勝ち取った笑顔を、君は他の男にはいやに簡単に見せるんだね」
エドガーの声音は少し固くて、やっと本当のことを話してくれたのだとわかった。けれどわかったのはそれだけで、エドガーが何を言いたいのかはさっぱりだった。
「キアンとずいぶん打ち解けた様子だったじゃないか」
「フェニックス子爵?」
重ねて言われた言葉にリディアは首を傾げる。エドガーは苛立ったようにわずかに眉を寄せた。
「手にキスをされても嫌がらなかっただろう」
まるでそれが、この上もないほどの大罪であるかのような声だった。
「だって、あれは挨拶でしょう?」
「僕が君に同じ『挨拶』をした時には平手打ちをされたけどね」
「……びっくりしただけよ!」
エドガーはどうしてそんなことを言うのだろう? まるで拗ねている子供のような……。毛布に包まってなんかいられなくてリディアは身体を起こした。
「あのね、エドガー。わかってるでしょうけど、あたしはあなたに会う前は、そんな挨拶をされたことも、そもそもまともに女の子として扱われたことすら無かったんだから。あなたとは何もかも初めて尽くしで……何も知らなかったんだから。今はただ慣れただけじゃない」
「僕とは初めて尽くし、ね。なかなかいい響きじゃないか」
「もう、ふざけないでよ、エドガー!」
不機嫌だったのはエドガーだというのに、楽しそうに口の端を上げて呟く様子はとてもそうは見えない。機嫌がすぐに変わるんだからと、リディアは呆れて小さなため息をついた。
「わかってるよ、リディア。僕の目は節穴じゃない。君がどこかの男を好きになったりなんかしたらすぐにわかるさ。でもダメだね、頭ではそう理解してるのに、実際に君が男と楽しそうにしゃべっているのを見るだけで、こんなにも落ち着かなくなる」
エドガーの台詞には、自嘲気味な響きが色濃く含まれていた。口元は笑みの形を刻んでいたが、それはずいぶんと心細い笑みだった。
「……どうして?」
「君に恋い焦がれているからかな」
また、そんなことばっかり言って。
「兄さまはどうせ、会う女の人全員に恋してるんでしょ」
「そう思う?」
顔を覗き込まれて尋ねられれば、エドガーの灰紫の瞳に囚われてしまって、返事をすることができなかった。知ったような口振りをしたって、リディアには社交界でのエドガーがどんな振る舞いをしているのかなんてわからない。屋敷の中でのエドガーが、リディアにとっての全てなのだ。
もう夜も更けたというのに、二人してベッドに座り込んで何をしているのだろうか。明日は朝食の時間に合わせて起きることができないかもしれない。
「もう寝ない?」
欠伸をもらしながらリディアは言った。ここに来るまでは色々と言いたいことを考えていたはずなのに、何だかもうどうでもよくなってしまった。今はただ眠ってしまいたい。
「……それが、別の意味のお誘いなら嬉しいんだけどね」
「何のこと?」
リディアが首をかしげて尋ねると、エドガーは笑って何でもないよと答える。エドガーはよくリディアには意味のわからないことを言う。
柔らかな枕に頭をうずめると、先ほどと同じようにエドガーが毛布をかけてくれる。違うのは、今度は隣にエドガーも潜り込んだことだ。
サイドランプを消せば、部屋は暗闇に包まれる。目が慣れた頃には、エドガーの指がリディアの頬を撫でていた。
くすぐったいとも言わずに、リディアはその指を受け入れていた。何かを語り掛けるように、エドガーはゆっくりとリディアの頬を撫で続ける。
目をつぶりながら、リディアはエドガーの言葉を思い出していた。あたしとフェニックス子爵がしゃべっていたことが気に入らなかっただなんて。
「……エドガー?」
「うん?」
毛布の下のエドガーの手を探しだして、リディアはぎゅっと握った。
「あたし、自分のベッドよりも、こっちの方が寝やすいのよ」
エドガーがいるから。
それは言葉にはしなかったが、エドガーにはどうしてかわかってしまったようだった。
返事の代わりに額にキスが降ってきた。エドガーの笑顔が見えたような気がした。
それに満足して、リディアは目を閉じた。エドガーも満足してくれていればいいなと思った。
明日、朝起きたら真っ先に、欲しかった本をねだってみよう。きっとエドガーは、笑顔で頷いてくれるはずだから。
(07.10.7)