なんてあなたは心配性な
どうしてこう一々大げさなのだろうと、髪を弄んでいるエドガーに対して、リディアはそう思わずにはいられなかった。
「あぁリディア。君に一週間も会えないだなんて、淋しさのあまり僕はどうにかなってしまいそうだよ」
「お仕事なんだから仕方ないじゃないの」
冷たくしようと思ったわけではないのだが、呆れてしまってついついきつい言い方になってしまった。
エドガーはリディアの髪を弄ぶ手を止めて、機嫌を損ねたようにじっとリディアを見ている。落ち着かないから、そういう眼差しは止めてほしいとリディアは思う。
「君は僕に会えなくても寂しくないのかい、リディア」
「寂しくないってわけじゃないけど……」
何だか、こんな会話を以前にも交わしたような気がする。と言うか、エドガーが二日以上の外泊をする時には必ず聞いている。
「君も一緒に連れて行ければいいのにな。そうしたらつまらない領地の見回りも楽しくなるに違いないのに」
「つまらないってね、兄さま」
今頃その領地では、エドガーが来るとあって準備に大忙しだろうに。当の本人ときたら何ともひどい言い種だ。
「僕が伯爵になってからまだあまり経っていなくてね。マナーハウスも改装中なんだ。それが終わったらぜひ君と一緒に行きたいな、リディア」
「えぇ、そうね」
領地のマナーハウスだなんて、リディアにはもう想像もできない世界だ。この屋敷だけでも大変な豪邸だと思うのに、たくさんの領地を持って、さらにそこにもこんな立派な屋敷があるだなんて信じられないほどだ。なのにエドガーは、さらにリディアを驚かせるようなことを言ってくれる。
「あぁそうだ、どうせなら君のための家も作ろうか」
「え? 家?」
「そう。こんな屋敷じゃなくてさ、小さくて可愛らしい、君がくつろげるような家を。それでそうだな、花がたくさん咲いている庭も作ろうか。のんびりお茶を飲めるようなテラスを作ってもいいし……もちろん君の好みを聞いて、リディア好みの家を作ってあげよう。どうだい?」
どうだいって、そんなことを聞かれても。
「え、あの、エドガー、冗談よね?」
「何で僕がこんな冗談を言わなきゃいけないんだ?」
至極真面目な顔でエドガーは言うものだから、リディアは慌てた。この調子じゃ、本気でそんな家を作りかねない。
「い、いいわよ。あたし家なんかいらないわよ!」
「どうして? 君はこういう広い家よりも、小さくて可愛い家の方が好きなんだろう? それなら領地に君好みの家の一つや二つあったって……」
「いらないったら! ここで生活してるのに、どうして他に家が必要になるのよ? それともエドガーは、あたしをそっちの家で暮らさせるつもり?」
「まさか」
思いのほか、エドガーは真剣な顔でそう言った。口元には笑みが浮かんでいるけれど、その瞳はじっとリディアを見つめている。そんな優しげでかつ甘い眼差しは、兄が妹に向けるにしてはいささか熱がこもりすぎているようにリディアには思えて、どうにも全身が落ち着かなくなる。もぞもぞとしてしまう。
「リディアがそう言うのなら、この話は無しにしよう。君が喜んでくれると思ったんだけど」
残念だなとエドガーは呟くから、リディアは何だか申し訳ない気持ちになってしまった。エドガーの申し出を断ったのは、あまりにお金のかかる壮大な話すぎたからで、その気持ちは確かに嬉しかったのだ。ただやりすぎだと思えてしまっただけで。
「あの……じゃあ、お土産を買ってきてくれる?」
リディアが何かおねだりをすると、とたんにエドガーはいつだって機嫌を直してくれるのだ。ねだられることのどこがそんなに嬉しいのか、リディアにはさっぱりわからない。我侭な子だと思われないだろうかと、いつだって言う方はびくびくしているのに。
「もちろん。頼まれなくても買っていくつもりだったけどね。何がいい?」
「えっと」
とは言ったものの、何も浮かばない。だって帽子から服から靴からアクセサリーから可愛いぬいぐるみにいたるまで、三日に一度は新しい物が届くぐらいなのだ。読みたい本ならあったが、そんなのは町の本屋に行けば済むことだ。お土産にはならない。
けれどエドガーがあまりに幸せそうにリディアの返事を待っているから、今更やっぱりいらないとは言えなくなってしまった。
「じゃあ、えっと……あの、可愛いお花があったらつんできてくれる?」
考えた末にリディアがそう言うと、エドガーは目を見開いた。呑気に花をつむ暇なんて無いのだろうか。
「まったく、リディア……」
「あの、ダメかしら。仕事で行くんだから忙しい? だったら別に無くても」
「そうじゃなくてね」
エドガーの長い指が、さらりとリディアの頬をなでる。ただそれだけなのに、まるで全身を抱きしめられたように、心の底からほっとする。エドガーの指の温もりに安心してしまえる。
「まったく、何て君は無欲な子なんだろうね? 君が望めば何だって叶えてあげられるぐらいの力を僕は持ってるんだよ」
確かにそうなのだろうと、信じてしまえるような声音だった。本当にエドガーは、リディアが何を望んでも叶えようとしてくれるのだろう。そして大抵のことは思い通りにしてしまうのだ。
「……何でも?」
「可愛い君の望みならね」
「なら、なるべく早く帰ってきてくれる?」
仕事だから仕方ないと、そう思っているのは確かにリディアの本心だ。
けれど同時に、早く帰ってきてほしいと、そう思っているのだって紛れも無いリディアの本心で。
少し赤くなったリディアの頬に、エドガーは唇を落としてきた。もちろん、と耳元で囁かれる。そのまま軽く耳朶をかまれて、くすぐったさにリディアは笑った。
こんな風に、毎日が幸せだから。だから、これ以上何かを望むことなんてなくなってしまうだけで。
別に無欲なわけじゃないとリディアは思う。
だってこの生活がずっと続けばいいのにと、リディアはいつだってそれを望んでるのだから。
*
早く帰ってきてねと、エドガーを見送ったその三日後のことだった。
「もう、待ちなさいったら!」
リディアが屋敷中を走り回って追いかけているのは、こっそり部屋に入り込んで悪戯をしでかした小妖精だった。悪意が無いのはわかっていたが、かと言って見過ごすわけにはいかなかった。
「待ちなさい…っ!」
小さい妖精は、ちょこまかと廊下を走って行く。すれ違ったメイド達が、奇妙な顔でリディアを見るのは、メイド達には妖精の姿が見えないからだ。一体リディアが何を追いかけているのかわからないのだろう。 後でどう噂されるかわからないと思いながらも、とにかくリディアは妖精を追いかけるのに夢中になっていた。ふざけて部屋を荒らしてくれた妖精を、絶対に捕まえて叱ってやらなければ気が済まなかった。
「逃げるんじゃないわよ!」
リディアの剣幕に怯えているわけではなく、これも一種の遊びだと思っているようだった。ちらちらとこちらを振り返りながら、妖精は楽しげな足取りで駆けていく。階段の手すりの上を滑っていく妖精を、リディアもまた追いかけていく。
「待ちなさ……!」
そう怒鳴りながら、階段を下りようとした瞬間。
足が、滑った。
がくんと身体が傾いで、視界が揺らぐ。
宙に浮いたような浮遊感を、確かにリディアは身体全体で感じていた。―――落ちる。
「……っ!」
痛みは無いのに、その衝撃は大きくて。落ちたと思った瞬間に、リディアの意識は暗くなった。
けれどそれは、瞬きをするぐらいの時間だとリディアは思っていた。一瞬目を瞑ったぐらいの時間だと。
しかしリディアが目を開けた瞬間、視界に入ってきたのは見慣れた天井だった。身体を包んでいるのは柔らかい毛布で、リディアは寝室のベッドの中にいた。
「お気づきになりましたか」
「……アーミン?」
声がして顔を向けると、ほっとしたように微笑むアーミンの姿があった。どうしてアーミンがそんな安心したような顔になるのかわからない。身体を起こそうとした瞬間、体中がとにかく痛んで、わずかに浮いた身体はそのまま再びベッドへと倒れこんでしまった。
「起き上がらないで下さい。足の骨にヒビが入っているんですから」
「ひ、び……?」
そんなバカなと目を見開くリディアに、けれどアーミンは言葉を続ける。
「そうです。骨折とまでは行かなかったようですが、階段から落ちた際に強く足をぶつけたようで……それに全身にも打撲があります。ですので、しばらくは安静になさって下さい。お医者さまもそう言っていましたよ」
数秒目をつぶっていただけだと思っていたのに、もう医者に診察されるぐらいの時間が経っていただなんて。
それに、足にヒビ? 全身に打撲? いきなりすぎて、何のことだかわからない。
「あ、たし……?」
「どうしてこうなったのか、おわかりですか? 幸い、頭はぶつけていないようですが……」
それでももしやと、不安そうに尋ねてくるアーミンに、リディアは記憶をさぐった。本当に頭はぶつけていないようで、すぐさま思い出すことができた。
「あたし、走ってて……階段を下りようとして、足を滑らせたのよ……それで」
「そうですか」
きちんと思い出せたことに、今度こそ本当にアーミンは安心したようだった。リディアが目覚めるまでの間、アーミンにどれだけの心配をかけたのだろうと思うと、本当に申し訳なかった。ごめんなさいと、何回謝っても足りないぐらいだ。
「あの、ごめんなさいアーミン。走って階段を下りたりしたら危ないって、わかってはいたんだけど……」
「私に謝られる必要はありません。ですが、危険なのでもう二度となさらないで下さい」
いつもよりも厳しい声音だった。それも当然だろうと思ったから、リディアは素直に頷いた。
本当に、何てバカなことをしてしまったんだろう。妖精を叱りつけるどころか、こんな大怪我までしてしまうだなんて。もしかしたら命を落とすことだってあったのだと思うと、今更ながらに身体が震えた。
「……本当にごめんなさい」
「リディアさん」
謝らないでくれと、アーミンが視線だけでそう伝えてくるから、リディアはもうその言葉も言えなくなってしまった。
ただ、どうしようもないぐらい気持ちが沈みこんで、毛布を頭の上まで引っ張り上げた。
一体どれぐらいの間、一人ベッドの中にいなくてはいけないのだろうと、そう考えるとどこまでも落ち込めて仕方なかった。
額に触れる温かさに、まさかとは思いつつも、リディアは目を開けることができなかった。
だってそんなの、こうやってリディアに触れてくる人なんて、今はこの屋敷にはいない。こんな風にくすぐったくなるほどの優しい指で、リディアに触れてくる人なんて。
「……リディア」
名前を呼ばれて、睫毛が震えた。
「エドガー……?」
目を開けた先にいたのは、間違いなく彼だった。あと数日は会えないのだと思っていたから、突然のその姿に驚いた。
「どうしたの? まだ帰ってくる予定じゃ……」
「そんなの途中で切り上げてきたに決まってるだろ」
どこか怒っているような声音でエドガーは言う。部屋はいつの間にか暗くなっていて、灯されたランプの明かりが柔らかくエドガーの髪を照らしていた。
切り上げてきた。そう言うことは簡単だけど、実際にそれがどれほど大変なことなのか、そのぐらいのことはリディアにだってわかる。思いついてすぐに、それじゃあ行こうと気軽にできるものではないのだ。
「どうしてそんな……だって、仕事で……そんな」
呆然と、そう呟くリディアに。エドガーは、目を細めて。
「君が」
喉の奥から絞りだすような、声、だった。
「階段から落ちたって知らせを聞いて……それでも僕が、何事も無かったように仕事を続けられると思ったのか?」
かすれた声は、どれだけエドガーがリディアのことを心配していたのかを、そのまま現しているようだった。
「兄、さま……」
「……息が止まったよ、本当に」
リディアの身体に負担をかけない程度の力で、エドガーはぎゅっと小さな身体を抱きしめる。まるでリディアの存在を、そうして確かめてでもいるかのように。その腕が、かすかに震えていることに、リディアは驚いて目を見開かずにはいられなかった。
「リディア……」
こんなにも不安そうな、普段の自信に満ちた笑顔を欠片も残さず消してしまったエドガーを見るのは初めてのことで。
「―――どうしてそんな顔をするの?」
それがただただ不思議で、リディアはそう問いかけてしまった。
「君こそどうしてそんなことを聞くんだ?」
反対にそう問い返される。心外そうな顔で。
「だって」
心配されることに、想われることに慣れていないから。
どうして仕事を切り上げてまでと、そんな顔をするまでと、不思議に思えて仕方ないのだ。
エドガーのくれる温もりに、慣れたつもりでもやはりそれにはまだ時間がかかるようで。
大事にされるということが。
やっぱりまだ、リディアにはよくわからない。
「……あたしなんかより、仕事の方がずっと大事だし」
「リディア」
ずいぶんと近い所に、エドガーの灰紫の瞳はあった。睨み付けられるように見つめられて、リディアは身体を小さくさせる。
「僕が大事な妹よりも優先させるものが他にあると、君は本気で思っているのかい?」
「だっ、て……」
本当は。そうじゃないと思いたい。エドガーのその言葉を、そのままに信じてしまいたい。
仕事よりも思ってくれていると、素直にそれを嬉しがることができればいいのに。
けれどそうすることができないのは、どうしても消せないしこりがどこかに残っているからで。
「僕の言葉は信じられない?」
リディアの気持ちを読み取ったように、エドガーは口元だけで小さく笑う。
「そういうわけじゃないけど……」
「君にとって、人から好かれているということを受け入れるのはそんなに難しいこと?」
難しいと言うよりも、わからない。大事にされることにまだ慣れていないから。
「すぐに慣れろと言ってるわけじゃない。わからないのなら、わかるまで何十回だって君に愛の言葉を捧げるよ」
それは家族愛よね?
「でもね、リディア。あまりに君がいつまで経ってもわからないようなら、どこにもお嫁に行けないような身体にしてしまうよ」
まあ元から、お嫁になんてやるつもりは無いけどね、と。
リディアにはよく意味のわからないことを、実に楽しげな笑顔でエドガーは口にした。
「あたし、どこかにお嫁に行けるだなんて思ってないわ」
「それでいいんだよ」
エドガーはどうしてか満足そうだった。お嫁にも行かず、ずっと家にいるような妹を、彼は鬱陶しいと思わないのだろうか。
うーんと悩んでしまったリディアの頭を撫でながら、エドガーは小さくため息をついて苦笑した。そんな顔すら魅力的に見えるのだから、本当に何て人なのだろう。
「それにしても、また派手な怪我をしてくれたものだね。これじゃ当分動けないだろう」
「……仕方ないわ。自分のせいだもの」
だれを恨むこともできっこない。あえて言うとすればあの小妖精だが、今はそんな気力も残ってはいなかった。これからしばらくの間、ベッドの中の生活が続くのだと思うと、それだけで嫌気が差してくる。じっとしているのは苦手なのに。
「これじゃ、当分僕も仕事ができないな」
「どうして? 大人しくベッドの中にいるしかないんだもの。もう階段から落ちたりなんかしないんだから、安心して仕事に行けるじゃない」
「だってそうしたら、リディアは退屈だろう?」
だからどうだと言うのだろう。首を傾げるリディアに、エドガーは楽しそうに笑った。
「退屈な妹の相手をするのも、兄としての立派な仕事だとは思わないかい?」
「……だってそうしたら、エドガーの仕事は?」
「もちろんするさ。でもそうだな、書類の類はこの部屋に持ってきてやればいいし……君の顔を見ながらだと、仕事もはかどりそうだな」
「あの、そこまでしなくていいってば。あたし一人で大丈夫だから」
リディアがそう言っても、エドガーが引き下がってくれるわけなんてなかった。
「ダメ。心配だから」
「兄さまって過保護じゃない?」
「心配性なだけだよ」
似たようなものじゃないと、リディアは心の中でそっと呟く。
「それぐらいのことをしたんだから、過保護な兄に心配されることぐらい、我慢しないといけないよリディア」
この上もなく、実に幸せそうな顔でエドガーはそう言った。
我慢、と。エドガーは、そう言ったけれど。
我慢なんてする必要は、本当はリディアには無いのだ。
だってそうしてエドガーと一緒にいられるのなら、それはリディアにとっては嬉しい時間に他ならないのだから。
そんなことは絶対、エドガーには教えてあげないけれど。
「あぁリディア。君に一週間も会えないだなんて、淋しさのあまり僕はどうにかなってしまいそうだよ」
「お仕事なんだから仕方ないじゃないの」
冷たくしようと思ったわけではないのだが、呆れてしまってついついきつい言い方になってしまった。
エドガーはリディアの髪を弄ぶ手を止めて、機嫌を損ねたようにじっとリディアを見ている。落ち着かないから、そういう眼差しは止めてほしいとリディアは思う。
「君は僕に会えなくても寂しくないのかい、リディア」
「寂しくないってわけじゃないけど……」
何だか、こんな会話を以前にも交わしたような気がする。と言うか、エドガーが二日以上の外泊をする時には必ず聞いている。
「君も一緒に連れて行ければいいのにな。そうしたらつまらない領地の見回りも楽しくなるに違いないのに」
「つまらないってね、兄さま」
今頃その領地では、エドガーが来るとあって準備に大忙しだろうに。当の本人ときたら何ともひどい言い種だ。
「僕が伯爵になってからまだあまり経っていなくてね。マナーハウスも改装中なんだ。それが終わったらぜひ君と一緒に行きたいな、リディア」
「えぇ、そうね」
領地のマナーハウスだなんて、リディアにはもう想像もできない世界だ。この屋敷だけでも大変な豪邸だと思うのに、たくさんの領地を持って、さらにそこにもこんな立派な屋敷があるだなんて信じられないほどだ。なのにエドガーは、さらにリディアを驚かせるようなことを言ってくれる。
「あぁそうだ、どうせなら君のための家も作ろうか」
「え? 家?」
「そう。こんな屋敷じゃなくてさ、小さくて可愛らしい、君がくつろげるような家を。それでそうだな、花がたくさん咲いている庭も作ろうか。のんびりお茶を飲めるようなテラスを作ってもいいし……もちろん君の好みを聞いて、リディア好みの家を作ってあげよう。どうだい?」
どうだいって、そんなことを聞かれても。
「え、あの、エドガー、冗談よね?」
「何で僕がこんな冗談を言わなきゃいけないんだ?」
至極真面目な顔でエドガーは言うものだから、リディアは慌てた。この調子じゃ、本気でそんな家を作りかねない。
「い、いいわよ。あたし家なんかいらないわよ!」
「どうして? 君はこういう広い家よりも、小さくて可愛い家の方が好きなんだろう? それなら領地に君好みの家の一つや二つあったって……」
「いらないったら! ここで生活してるのに、どうして他に家が必要になるのよ? それともエドガーは、あたしをそっちの家で暮らさせるつもり?」
「まさか」
思いのほか、エドガーは真剣な顔でそう言った。口元には笑みが浮かんでいるけれど、その瞳はじっとリディアを見つめている。そんな優しげでかつ甘い眼差しは、兄が妹に向けるにしてはいささか熱がこもりすぎているようにリディアには思えて、どうにも全身が落ち着かなくなる。もぞもぞとしてしまう。
「リディアがそう言うのなら、この話は無しにしよう。君が喜んでくれると思ったんだけど」
残念だなとエドガーは呟くから、リディアは何だか申し訳ない気持ちになってしまった。エドガーの申し出を断ったのは、あまりにお金のかかる壮大な話すぎたからで、その気持ちは確かに嬉しかったのだ。ただやりすぎだと思えてしまっただけで。
「あの……じゃあ、お土産を買ってきてくれる?」
リディアが何かおねだりをすると、とたんにエドガーはいつだって機嫌を直してくれるのだ。ねだられることのどこがそんなに嬉しいのか、リディアにはさっぱりわからない。我侭な子だと思われないだろうかと、いつだって言う方はびくびくしているのに。
「もちろん。頼まれなくても買っていくつもりだったけどね。何がいい?」
「えっと」
とは言ったものの、何も浮かばない。だって帽子から服から靴からアクセサリーから可愛いぬいぐるみにいたるまで、三日に一度は新しい物が届くぐらいなのだ。読みたい本ならあったが、そんなのは町の本屋に行けば済むことだ。お土産にはならない。
けれどエドガーがあまりに幸せそうにリディアの返事を待っているから、今更やっぱりいらないとは言えなくなってしまった。
「じゃあ、えっと……あの、可愛いお花があったらつんできてくれる?」
考えた末にリディアがそう言うと、エドガーは目を見開いた。呑気に花をつむ暇なんて無いのだろうか。
「まったく、リディア……」
「あの、ダメかしら。仕事で行くんだから忙しい? だったら別に無くても」
「そうじゃなくてね」
エドガーの長い指が、さらりとリディアの頬をなでる。ただそれだけなのに、まるで全身を抱きしめられたように、心の底からほっとする。エドガーの指の温もりに安心してしまえる。
「まったく、何て君は無欲な子なんだろうね? 君が望めば何だって叶えてあげられるぐらいの力を僕は持ってるんだよ」
確かにそうなのだろうと、信じてしまえるような声音だった。本当にエドガーは、リディアが何を望んでも叶えようとしてくれるのだろう。そして大抵のことは思い通りにしてしまうのだ。
「……何でも?」
「可愛い君の望みならね」
「なら、なるべく早く帰ってきてくれる?」
仕事だから仕方ないと、そう思っているのは確かにリディアの本心だ。
けれど同時に、早く帰ってきてほしいと、そう思っているのだって紛れも無いリディアの本心で。
少し赤くなったリディアの頬に、エドガーは唇を落としてきた。もちろん、と耳元で囁かれる。そのまま軽く耳朶をかまれて、くすぐったさにリディアは笑った。
こんな風に、毎日が幸せだから。だから、これ以上何かを望むことなんてなくなってしまうだけで。
別に無欲なわけじゃないとリディアは思う。
だってこの生活がずっと続けばいいのにと、リディアはいつだってそれを望んでるのだから。
*
早く帰ってきてねと、エドガーを見送ったその三日後のことだった。
「もう、待ちなさいったら!」
リディアが屋敷中を走り回って追いかけているのは、こっそり部屋に入り込んで悪戯をしでかした小妖精だった。悪意が無いのはわかっていたが、かと言って見過ごすわけにはいかなかった。
「待ちなさい…っ!」
小さい妖精は、ちょこまかと廊下を走って行く。すれ違ったメイド達が、奇妙な顔でリディアを見るのは、メイド達には妖精の姿が見えないからだ。一体リディアが何を追いかけているのかわからないのだろう。 後でどう噂されるかわからないと思いながらも、とにかくリディアは妖精を追いかけるのに夢中になっていた。ふざけて部屋を荒らしてくれた妖精を、絶対に捕まえて叱ってやらなければ気が済まなかった。
「逃げるんじゃないわよ!」
リディアの剣幕に怯えているわけではなく、これも一種の遊びだと思っているようだった。ちらちらとこちらを振り返りながら、妖精は楽しげな足取りで駆けていく。階段の手すりの上を滑っていく妖精を、リディアもまた追いかけていく。
「待ちなさ……!」
そう怒鳴りながら、階段を下りようとした瞬間。
足が、滑った。
がくんと身体が傾いで、視界が揺らぐ。
宙に浮いたような浮遊感を、確かにリディアは身体全体で感じていた。―――落ちる。
「……っ!」
痛みは無いのに、その衝撃は大きくて。落ちたと思った瞬間に、リディアの意識は暗くなった。
けれどそれは、瞬きをするぐらいの時間だとリディアは思っていた。一瞬目を瞑ったぐらいの時間だと。
しかしリディアが目を開けた瞬間、視界に入ってきたのは見慣れた天井だった。身体を包んでいるのは柔らかい毛布で、リディアは寝室のベッドの中にいた。
「お気づきになりましたか」
「……アーミン?」
声がして顔を向けると、ほっとしたように微笑むアーミンの姿があった。どうしてアーミンがそんな安心したような顔になるのかわからない。身体を起こそうとした瞬間、体中がとにかく痛んで、わずかに浮いた身体はそのまま再びベッドへと倒れこんでしまった。
「起き上がらないで下さい。足の骨にヒビが入っているんですから」
「ひ、び……?」
そんなバカなと目を見開くリディアに、けれどアーミンは言葉を続ける。
「そうです。骨折とまでは行かなかったようですが、階段から落ちた際に強く足をぶつけたようで……それに全身にも打撲があります。ですので、しばらくは安静になさって下さい。お医者さまもそう言っていましたよ」
数秒目をつぶっていただけだと思っていたのに、もう医者に診察されるぐらいの時間が経っていただなんて。
それに、足にヒビ? 全身に打撲? いきなりすぎて、何のことだかわからない。
「あ、たし……?」
「どうしてこうなったのか、おわかりですか? 幸い、頭はぶつけていないようですが……」
それでももしやと、不安そうに尋ねてくるアーミンに、リディアは記憶をさぐった。本当に頭はぶつけていないようで、すぐさま思い出すことができた。
「あたし、走ってて……階段を下りようとして、足を滑らせたのよ……それで」
「そうですか」
きちんと思い出せたことに、今度こそ本当にアーミンは安心したようだった。リディアが目覚めるまでの間、アーミンにどれだけの心配をかけたのだろうと思うと、本当に申し訳なかった。ごめんなさいと、何回謝っても足りないぐらいだ。
「あの、ごめんなさいアーミン。走って階段を下りたりしたら危ないって、わかってはいたんだけど……」
「私に謝られる必要はありません。ですが、危険なのでもう二度となさらないで下さい」
いつもよりも厳しい声音だった。それも当然だろうと思ったから、リディアは素直に頷いた。
本当に、何てバカなことをしてしまったんだろう。妖精を叱りつけるどころか、こんな大怪我までしてしまうだなんて。もしかしたら命を落とすことだってあったのだと思うと、今更ながらに身体が震えた。
「……本当にごめんなさい」
「リディアさん」
謝らないでくれと、アーミンが視線だけでそう伝えてくるから、リディアはもうその言葉も言えなくなってしまった。
ただ、どうしようもないぐらい気持ちが沈みこんで、毛布を頭の上まで引っ張り上げた。
一体どれぐらいの間、一人ベッドの中にいなくてはいけないのだろうと、そう考えるとどこまでも落ち込めて仕方なかった。
額に触れる温かさに、まさかとは思いつつも、リディアは目を開けることができなかった。
だってそんなの、こうやってリディアに触れてくる人なんて、今はこの屋敷にはいない。こんな風にくすぐったくなるほどの優しい指で、リディアに触れてくる人なんて。
「……リディア」
名前を呼ばれて、睫毛が震えた。
「エドガー……?」
目を開けた先にいたのは、間違いなく彼だった。あと数日は会えないのだと思っていたから、突然のその姿に驚いた。
「どうしたの? まだ帰ってくる予定じゃ……」
「そんなの途中で切り上げてきたに決まってるだろ」
どこか怒っているような声音でエドガーは言う。部屋はいつの間にか暗くなっていて、灯されたランプの明かりが柔らかくエドガーの髪を照らしていた。
切り上げてきた。そう言うことは簡単だけど、実際にそれがどれほど大変なことなのか、そのぐらいのことはリディアにだってわかる。思いついてすぐに、それじゃあ行こうと気軽にできるものではないのだ。
「どうしてそんな……だって、仕事で……そんな」
呆然と、そう呟くリディアに。エドガーは、目を細めて。
「君が」
喉の奥から絞りだすような、声、だった。
「階段から落ちたって知らせを聞いて……それでも僕が、何事も無かったように仕事を続けられると思ったのか?」
かすれた声は、どれだけエドガーがリディアのことを心配していたのかを、そのまま現しているようだった。
「兄、さま……」
「……息が止まったよ、本当に」
リディアの身体に負担をかけない程度の力で、エドガーはぎゅっと小さな身体を抱きしめる。まるでリディアの存在を、そうして確かめてでもいるかのように。その腕が、かすかに震えていることに、リディアは驚いて目を見開かずにはいられなかった。
「リディア……」
こんなにも不安そうな、普段の自信に満ちた笑顔を欠片も残さず消してしまったエドガーを見るのは初めてのことで。
「―――どうしてそんな顔をするの?」
それがただただ不思議で、リディアはそう問いかけてしまった。
「君こそどうしてそんなことを聞くんだ?」
反対にそう問い返される。心外そうな顔で。
「だって」
心配されることに、想われることに慣れていないから。
どうして仕事を切り上げてまでと、そんな顔をするまでと、不思議に思えて仕方ないのだ。
エドガーのくれる温もりに、慣れたつもりでもやはりそれにはまだ時間がかかるようで。
大事にされるということが。
やっぱりまだ、リディアにはよくわからない。
「……あたしなんかより、仕事の方がずっと大事だし」
「リディア」
ずいぶんと近い所に、エドガーの灰紫の瞳はあった。睨み付けられるように見つめられて、リディアは身体を小さくさせる。
「僕が大事な妹よりも優先させるものが他にあると、君は本気で思っているのかい?」
「だっ、て……」
本当は。そうじゃないと思いたい。エドガーのその言葉を、そのままに信じてしまいたい。
仕事よりも思ってくれていると、素直にそれを嬉しがることができればいいのに。
けれどそうすることができないのは、どうしても消せないしこりがどこかに残っているからで。
「僕の言葉は信じられない?」
リディアの気持ちを読み取ったように、エドガーは口元だけで小さく笑う。
「そういうわけじゃないけど……」
「君にとって、人から好かれているということを受け入れるのはそんなに難しいこと?」
難しいと言うよりも、わからない。大事にされることにまだ慣れていないから。
「すぐに慣れろと言ってるわけじゃない。わからないのなら、わかるまで何十回だって君に愛の言葉を捧げるよ」
それは家族愛よね?
「でもね、リディア。あまりに君がいつまで経ってもわからないようなら、どこにもお嫁に行けないような身体にしてしまうよ」
まあ元から、お嫁になんてやるつもりは無いけどね、と。
リディアにはよく意味のわからないことを、実に楽しげな笑顔でエドガーは口にした。
「あたし、どこかにお嫁に行けるだなんて思ってないわ」
「それでいいんだよ」
エドガーはどうしてか満足そうだった。お嫁にも行かず、ずっと家にいるような妹を、彼は鬱陶しいと思わないのだろうか。
うーんと悩んでしまったリディアの頭を撫でながら、エドガーは小さくため息をついて苦笑した。そんな顔すら魅力的に見えるのだから、本当に何て人なのだろう。
「それにしても、また派手な怪我をしてくれたものだね。これじゃ当分動けないだろう」
「……仕方ないわ。自分のせいだもの」
だれを恨むこともできっこない。あえて言うとすればあの小妖精だが、今はそんな気力も残ってはいなかった。これからしばらくの間、ベッドの中の生活が続くのだと思うと、それだけで嫌気が差してくる。じっとしているのは苦手なのに。
「これじゃ、当分僕も仕事ができないな」
「どうして? 大人しくベッドの中にいるしかないんだもの。もう階段から落ちたりなんかしないんだから、安心して仕事に行けるじゃない」
「だってそうしたら、リディアは退屈だろう?」
だからどうだと言うのだろう。首を傾げるリディアに、エドガーは楽しそうに笑った。
「退屈な妹の相手をするのも、兄としての立派な仕事だとは思わないかい?」
「……だってそうしたら、エドガーの仕事は?」
「もちろんするさ。でもそうだな、書類の類はこの部屋に持ってきてやればいいし……君の顔を見ながらだと、仕事もはかどりそうだな」
「あの、そこまでしなくていいってば。あたし一人で大丈夫だから」
リディアがそう言っても、エドガーが引き下がってくれるわけなんてなかった。
「ダメ。心配だから」
「兄さまって過保護じゃない?」
「心配性なだけだよ」
似たようなものじゃないと、リディアは心の中でそっと呟く。
「それぐらいのことをしたんだから、過保護な兄に心配されることぐらい、我慢しないといけないよリディア」
この上もなく、実に幸せそうな顔でエドガーはそう言った。
我慢、と。エドガーは、そう言ったけれど。
我慢なんてする必要は、本当はリディアには無いのだ。
だってそうしてエドガーと一緒にいられるのなら、それはリディアにとっては嬉しい時間に他ならないのだから。
そんなことは絶対、エドガーには教えてあげないけれど。
(07.5.7)