猫と伯爵とその妹君と
「まったく最近の君ときたら、少し付き合いが悪いんじゃないか?」
一人がそう口を開いたのをきっかけに、まるで待ってましたと言わんばかりに集まった面々はそうだそうだと頷いた。
「近頃はどこのパーティーにも参加していないそうじゃないか。君がいるのといないのとじゃ、ご婦人方の盛り上がりが違うっていうのにさ」
「先日のフォルス家のパーティー! リリス嬢がそれはもう派手に着飾ってたってのに、君が来ないんで不機嫌なことこの上なかったぞ? だれとも踊らないんで、フォルス子爵が困ってたのなんのって!」
さぞかし愉快な光景だったのか、友人たちは思い出して派手に笑いあった。立派な髭が自慢のフォルス子爵が、可愛い愛娘に困らされている様子は、確かにさぞ楽しい光景だったのだろう。
「君が何か体調でも崩したんじゃって噂まで出始めたぐらいでね。俺らはそれを確かめるためにわざわざこうして出迎えたってのに、本人はぴんぴんしてるときたもんだ!」
「まるで僕が健康だったらいけないみたいな言い方じゃないか」
ライブラリーのソファに思い思いに腰掛けた面々に視線をやって、エドガーは小さく苦笑した。
「そうは言ってないけどな。心配した俺らの気持ちはどうなるってことだよ」
「君の場合は心配というよりも、興味本位で来ただけのような気もするけどね?」
「ちがいない!」
全員で笑えば、笑われた本人は面白くなさそうに頬杖をついた。そんな様子を眺めながら、手袋をはめた手を組んでエドガーは口を開く。
「心配してくれたところ申し訳ないんだけど、身体を壊していたのは僕ではなく妹の方でね。でもそれももう治ったようだから、そろそろまたパーティーの方にも顔を出すよ」
「君の妹が? そんなにひどい病気だったのかい?」
「階段から落ちて足にヒビが入ってしまってね」
答えると、集まった友人たちはそろって目を見開いた。
「それはまた……」
「まだ足の骨で済んで幸いだったな。首だったら命が無かったところだろう」
「まったくだよ。お転婆で何をするかわからない妹でね。目を離せないから困ったものだよ」
そんなところが可愛いのだとエドガーとしては思っているのだが、それは友人たちにはあまり理解されないようだった。皆困惑したように首を傾げている。
「だからって……何も君がずっと付いていなくても良かったんじゃないか? 看病なんて召使にやらせればいいじゃないか」
―――ずっと側にいてくれなくてもいいのよ?
申し訳なさそうに、リディアからも何度もその台詞を聞かされた。そのたびに何度だってエドガーも言ったものだ。僕がいたいからいるんだよ、と。
リディアの言葉には愛しさが溢れるだけだったけれど、今の友人の言葉にはどうしてか嫌悪感を覚えた。彼に悪意があるとは思えない。生まれながらに召使に囲まれ育ってきた環境の者であれば、だれだって自然に口から出るものだろう。実際エドガーだってそう思っている部分はある。大きな責任を負う代わりに、他者を従える権力を持っているのが貴族というものだ。
「僕があの子の傍にいてやりたかったんだよ」
事実は違うのかもしれない。
いてあげたいのではなく、いたかった。それはリディアのためというよりは、離れられない自分のためで。
「……何だ、すっかりベタ惚れだな?」
「どんな女にもなびかなかったエドガーがな!」
「そんなに可愛いお嬢さんなのかい、おまえの妹君は? おまえをそこまで夢中にさせるぐらいかい?」
「そりゃあもう」
微笑み一つでそう答えれば、集まった面々は呆れたように苦笑をもらした。
どれだけ呆れてくれたって構わない。リディアに出会ってからは、社交界で目にする宝石で着飾った令嬢達が、とたんに色褪せて見えるようになってしまった。リディアに感じる自由さと純粋な笑みと温かさを、彼女達にはちっとも感じることができないから。
あんな微笑を、多分エドガーは浮かべることはできない。自分には無いものを兼ね備えているリディアだから、きっとここまで惹かれたのだ。出会った瞬間にも、その笑顔に魅せられてしまった。
自分を卑下することに慣れ切ってしまったリディアは、まだ当分それには気づかないようだけれど。そんなリディアを見ているのもまた楽しいものだ。
「そろそろどこかの令嬢と浮いた話でも出るかと思いきや、どうやらそれは遠いようだな? そんなに妹に夢中になってるのなら」
「浮いた話といえば、君の方こそどうなんだ? 以前会った時、気になる女性がいると言っていたじゃないか」
「そうなのか? 初耳だぞ?」
「あ、いや、それは……」
人をからかうのは得意でも、注目が自分に集まるととたんにうろたえるのがおかしいところだ。
くつりと喉を鳴らしながら、執事のいれた味わい深い紅茶を口に運んだ時のことだった。
「兄さまっ!」
ばたんと大きな音を立てて扉を開けながら、飛び込んできたのは話題の自慢の妹で。
そのあまりにいきなりな登場に、思わずエドガーは紅茶を吹きかけた。もちろんイギリス紳士たるもの、そんなみっともない真似はできるはずもない。何とかその紅茶を飲み込んで、エドガーは椅子から立ち上がった。
「リディア? 一体どうしたんだい?」
「兄さま! 兄さま、あの……っ」
駆け寄ってきたリディアは、そこでようやくライブラリーにエドガー以外にも人がいることに気づいたようだった。皆、突然のリディアの登場に驚いて目を見開いている。一身に注目を浴びたリディアは、それに気づきとたんに身体を小さくさせた。
「あ、ごめんなさい……あの、お客さまがいるって知らなくて……何でもないの、ごめんなさい!」
「待って、リディア」
すぐさま踵を返して逃げようとするリディアの腰をつかまえて、こちらを向けさせる。金緑の瞳を覗き込めば、リディアがとんでもなく恥ずかしい思いをしているのだろうことがわかった。ずいぶんはしたない真似をしてしまったと、そう後悔しているのだろうが、エドガーからしてみればこんなのはどうでもいいことだった。
「ここにいるのは僕の友人で、客なんて大層なものじゃないよ。暇さえあれば人の家に来てだらだら過ごしているだけなんだから」
「おいおい、それはちょっとひどい言い方じゃないか? 一応君のことを心配して……」
そんな文句の言葉はさらりと無視して、エドガーはさらにリディアの顔を覗き込んだ。
「何かあって僕の所に来たんだろう?」
話してくれ、と目を見て言えば、リディアは堰を切ったようにしゃべりだした。
「あの、エドガー、とにかく大変なの。子猫が……あぁもう、落ちちゃうかもしれないの! あたし助けようとしたんだけど、上手く登れなくて……!」
「子猫? 登る? 一体何を……そういえばリディア、君は一体何て格好をしてるんだい?」
リディアの唐突な登場にばかり意識が向いていたが、改めて見れば、リディアが今来ている淡い緑のドレスの端々は破れている。どこかに引っ掛けでもしたかのように。
「だから大変なの! エドガー、いいから来て!」
「リディア?」
ご婦人に腕を引かれることならよくあったが、こんな風にぐいぐいと、色気の欠片もなく引っ張られたのは初めてだ。
エドガーと同じか、それ以上には呆気に取られているような友人達の視線に見送られて、エドガーはリディアに引っ張られたままライブラリーを出るしかなかったのだった。
*
「おい、今の……」
扉は閉まり、しばらくの時間が経ってからのことだった。口を開くまでには、それぐらいの時間が必要だった。
「いや、何とも……強烈な印象のお嬢さんだったね」
いやはや参ったなと、一人は額を押さえて呟いた。けれど面白そうなその声音からは、決して失望の念は感じられない。むしろその反対だ。
艶やかで癖のない赤茶の髪と、あまり他では見かけない印象的な瞳の少女だった。絶世の美女というわけではないが、ついつい声をかけたくなってしまうような可愛らしい少女だ。あのエドガーが夢中になっている少女というには外見的魅力は物足りなかったが、あんな調子で日々エドガーを振り回しているのかと思えば実に楽しい。興味深い少女だ。
「まさかこんな偶然、エドガーの手中の珠を垣間見れることになるとは思わなかったな」
「あいつのさっきの顔、見たか? 俺らも人のことは言えないだろうが、あいつのあんな間抜けな顔、そうそう見ることはできないさ!」
「そりゃ違いない!」
思い出して、彼らは一斉に笑った。彼らにとってエドガー・アシェンバート伯爵というのはもちろんかけがえのない友人の一人ではあったのだが、そのあまりの完璧さに、少々歯がゆい思いをしていたのも事実なのだ。人間だれしも、少しばかり欠点があった方が付き合いやすいというもの。エドガーにとっての弱点はあの妹君かと思えば、なおさら先ほどの顔が愉快に思えて、しばらく彼らの間からは笑いが絶えなかった。放っておかれていることなどちっとも気になどはならなかった。
どれだけの笑い声が、彼らの口から上ったのだろう。
それが終わったのは、ある一人の発した声の所為だった。
「おい……見てみろよ、あそこ!」
興奮した声を出した一人の視線の先は、窓の向こうだった。アシェンバート伯爵家の庭ともなれば、もちろん専属の庭師が何人もおり、いつ来ても綺麗な文句のつけどころもない庭園だ。一体そこに何があるというのだろうか。
「あそこだよ、あそこ!」
彼らはそろって窓へと寄って行く。指差された先にいたのは、一本の大木。その木の根元にいる、エドガーとその妹だった。
「何してるんだ? あそこで……何か騒いでたけど、あそこで何があるって言うんだ?」
「上を見上げてるな……何かいるのか? そういやさっき、子猫がどうとか言ってたな。あそこに子猫でもいるんじゃないのか?」
遠く離れたここからでは、エドガー達の姿は見えても、恐らくいるのであろう子猫の姿は見えなかった。けれど確かにそうなのだろう、二人は上を見上げている。エドガーはともかく、その妹はそれはもう興奮した様子で、エドガーの周りをちょろちょろしながら彼の服を思い切り引っ張っている。もうとっくに社交界デビューしていていもおかしくない年頃だというのに、妙に子供っぽいなとその様子を見て彼らは思う。けれどそれ以上に不思議なのは、少女のその態度をエドガーはちっとも迷惑そうには思っていないところだった。
「多分そうなんだろうな。子猫が木に登ったはいいものの、降りれなくなったってとこか……それであのお嬢さん、自分で助けようとしたが無理でエドガーに助けを求めたってことか?」
「そんな猫ぐらい気にしなきゃいいのになぁ。いやまぁ、女子供は猫が好きな生き物だがな。でも何もエドガーじゃなくても、そこらの使用人に言えばいいことじゃないか」
「でも、優しいお嬢さんじゃないか。子猫のためにあんなに必死になって」
くすっと笑いながら一人が言う。確かに優しいことに変わりはないが、同時に子供っぽいと思ったことも確かだった。猫一匹のために木に登ろうとするレディーなんて彼らは知らない。彼らが社交界で出会う女性というのは、皆淑やかで教養にとんだ、そして扇子の裏で噂話に花を咲かせる人種だった。
女性というのは、男にとっては一生理解できない存在だ。気高く繊細で、かと思えばそこらの男よりも度胸があったり。
さて、一体この少女は、一体どんな女の顔を隠しているのだろう? 焦った様子でエドガーの服を引っ張っているこの少女には、一体どんな?
彼らの視線は、もう少しだってエドガーとその妹から離されはしなかった。離せるわけもない。こんな興味深い一幕を見れることはそうそうない。そして彼らは、さらに衝撃的な光景を目にすることになるのだ。
「おい……エドガー、あれ、何やってるんだ!?」
「木に足引っ掛けて……いや、そんな、まさか」
彼らのその予感は的中した。
心配そうな妹に見守られる中、エドガー・アシェンバート伯爵は木の枝を掴むと、驚くほどの身の軽さでするすると木に登り始めてしまったのだ。
「…………」
「…………」
「…………ま、マジか?」
伯爵が、木登り。
社交界でその名を馳せる、知らぬ者などいないほどの、ご婦人方に圧倒的な人気を誇る、女たらしのあのアシェンバード伯爵が、木登り。
呆然とする彼らの前で、ついにエドガーの姿は見えなくなった。多い茂った葉に隠されて。落ちてこないところを見ると、無事に登り続けているのだろう。馬の扱いの上手いエドガーは、木の扱いも上手かったのか―――そんなわけもわからない思考回路になりかけたところで、ざーっとエドガーが落ちてきた。いや、着地したのだ。
その手に抱かれている小さな白い物は、きっと子猫なのだろう。エドガーはそっと妹にそれを渡す。受け取った妹は、木登りまでしたエドガーに何か感謝の言葉を言うこともなしに、屋敷へと駆け出して行ってしまった。やれやれとでも言うように、エドガーは額を押さえる。けれどその顔の、何て満足そうなことなのだろう。「まったく仕方ないねあの子は」と、そんな声が聞こえてくるかのような。
エドガーはそのまま何事も無かったかのように歩き出す。またここに戻ってくるのだろう。いや、それとも、猫を抱えた妹の所に行くのだろうか。
「いや、何か、俺ら……」
すごい場面を、見てしまったのではないだろうか。
「いやぁ、まさか……彼があそこまであのお嬢さんにベタ惚れだったとは、ねぇ……」
どんな女性を口説いている時だって、自分を曲げるということはしなかったあのエドガーが。
紳士のプライドも何もかも、あの少女の前では何も意味など無いかのように。
「もしかして数年後には、あの子との結婚式の招待状が届くんじゃない?」
「いや、だって、妹だろ? まさかなぁ……」
と言いつつも、思い切り否定もできなくて。
まだ社交界では、この少女の存在はあまり大きな話題にはなっていない。だから今はまだいい。けれどお披露目された日には、一体どんな騒ぎになることやら―――それを想像するのは、楽しい反面確かに恐ろしいことでもあった。
「いやはや、全く……あいつはいつでも、平穏とは無縁の生活をしてるよなぁ」
その呟きに、彼らはそろって首を縦に振ったのだった。
そしてその頃当のアシェンバート伯爵は、可愛い子猫に夢中になっている妹に、「ねぇリディア、ここには僕もいるんだよ?」と、大人気ない焼餅をやいていたとかいないとか。
一人がそう口を開いたのをきっかけに、まるで待ってましたと言わんばかりに集まった面々はそうだそうだと頷いた。
「近頃はどこのパーティーにも参加していないそうじゃないか。君がいるのといないのとじゃ、ご婦人方の盛り上がりが違うっていうのにさ」
「先日のフォルス家のパーティー! リリス嬢がそれはもう派手に着飾ってたってのに、君が来ないんで不機嫌なことこの上なかったぞ? だれとも踊らないんで、フォルス子爵が困ってたのなんのって!」
さぞかし愉快な光景だったのか、友人たちは思い出して派手に笑いあった。立派な髭が自慢のフォルス子爵が、可愛い愛娘に困らされている様子は、確かにさぞ楽しい光景だったのだろう。
「君が何か体調でも崩したんじゃって噂まで出始めたぐらいでね。俺らはそれを確かめるためにわざわざこうして出迎えたってのに、本人はぴんぴんしてるときたもんだ!」
「まるで僕が健康だったらいけないみたいな言い方じゃないか」
ライブラリーのソファに思い思いに腰掛けた面々に視線をやって、エドガーは小さく苦笑した。
「そうは言ってないけどな。心配した俺らの気持ちはどうなるってことだよ」
「君の場合は心配というよりも、興味本位で来ただけのような気もするけどね?」
「ちがいない!」
全員で笑えば、笑われた本人は面白くなさそうに頬杖をついた。そんな様子を眺めながら、手袋をはめた手を組んでエドガーは口を開く。
「心配してくれたところ申し訳ないんだけど、身体を壊していたのは僕ではなく妹の方でね。でもそれももう治ったようだから、そろそろまたパーティーの方にも顔を出すよ」
「君の妹が? そんなにひどい病気だったのかい?」
「階段から落ちて足にヒビが入ってしまってね」
答えると、集まった友人たちはそろって目を見開いた。
「それはまた……」
「まだ足の骨で済んで幸いだったな。首だったら命が無かったところだろう」
「まったくだよ。お転婆で何をするかわからない妹でね。目を離せないから困ったものだよ」
そんなところが可愛いのだとエドガーとしては思っているのだが、それは友人たちにはあまり理解されないようだった。皆困惑したように首を傾げている。
「だからって……何も君がずっと付いていなくても良かったんじゃないか? 看病なんて召使にやらせればいいじゃないか」
―――ずっと側にいてくれなくてもいいのよ?
申し訳なさそうに、リディアからも何度もその台詞を聞かされた。そのたびに何度だってエドガーも言ったものだ。僕がいたいからいるんだよ、と。
リディアの言葉には愛しさが溢れるだけだったけれど、今の友人の言葉にはどうしてか嫌悪感を覚えた。彼に悪意があるとは思えない。生まれながらに召使に囲まれ育ってきた環境の者であれば、だれだって自然に口から出るものだろう。実際エドガーだってそう思っている部分はある。大きな責任を負う代わりに、他者を従える権力を持っているのが貴族というものだ。
「僕があの子の傍にいてやりたかったんだよ」
事実は違うのかもしれない。
いてあげたいのではなく、いたかった。それはリディアのためというよりは、離れられない自分のためで。
「……何だ、すっかりベタ惚れだな?」
「どんな女にもなびかなかったエドガーがな!」
「そんなに可愛いお嬢さんなのかい、おまえの妹君は? おまえをそこまで夢中にさせるぐらいかい?」
「そりゃあもう」
微笑み一つでそう答えれば、集まった面々は呆れたように苦笑をもらした。
どれだけ呆れてくれたって構わない。リディアに出会ってからは、社交界で目にする宝石で着飾った令嬢達が、とたんに色褪せて見えるようになってしまった。リディアに感じる自由さと純粋な笑みと温かさを、彼女達にはちっとも感じることができないから。
あんな微笑を、多分エドガーは浮かべることはできない。自分には無いものを兼ね備えているリディアだから、きっとここまで惹かれたのだ。出会った瞬間にも、その笑顔に魅せられてしまった。
自分を卑下することに慣れ切ってしまったリディアは、まだ当分それには気づかないようだけれど。そんなリディアを見ているのもまた楽しいものだ。
「そろそろどこかの令嬢と浮いた話でも出るかと思いきや、どうやらそれは遠いようだな? そんなに妹に夢中になってるのなら」
「浮いた話といえば、君の方こそどうなんだ? 以前会った時、気になる女性がいると言っていたじゃないか」
「そうなのか? 初耳だぞ?」
「あ、いや、それは……」
人をからかうのは得意でも、注目が自分に集まるととたんにうろたえるのがおかしいところだ。
くつりと喉を鳴らしながら、執事のいれた味わい深い紅茶を口に運んだ時のことだった。
「兄さまっ!」
ばたんと大きな音を立てて扉を開けながら、飛び込んできたのは話題の自慢の妹で。
そのあまりにいきなりな登場に、思わずエドガーは紅茶を吹きかけた。もちろんイギリス紳士たるもの、そんなみっともない真似はできるはずもない。何とかその紅茶を飲み込んで、エドガーは椅子から立ち上がった。
「リディア? 一体どうしたんだい?」
「兄さま! 兄さま、あの……っ」
駆け寄ってきたリディアは、そこでようやくライブラリーにエドガー以外にも人がいることに気づいたようだった。皆、突然のリディアの登場に驚いて目を見開いている。一身に注目を浴びたリディアは、それに気づきとたんに身体を小さくさせた。
「あ、ごめんなさい……あの、お客さまがいるって知らなくて……何でもないの、ごめんなさい!」
「待って、リディア」
すぐさま踵を返して逃げようとするリディアの腰をつかまえて、こちらを向けさせる。金緑の瞳を覗き込めば、リディアがとんでもなく恥ずかしい思いをしているのだろうことがわかった。ずいぶんはしたない真似をしてしまったと、そう後悔しているのだろうが、エドガーからしてみればこんなのはどうでもいいことだった。
「ここにいるのは僕の友人で、客なんて大層なものじゃないよ。暇さえあれば人の家に来てだらだら過ごしているだけなんだから」
「おいおい、それはちょっとひどい言い方じゃないか? 一応君のことを心配して……」
そんな文句の言葉はさらりと無視して、エドガーはさらにリディアの顔を覗き込んだ。
「何かあって僕の所に来たんだろう?」
話してくれ、と目を見て言えば、リディアは堰を切ったようにしゃべりだした。
「あの、エドガー、とにかく大変なの。子猫が……あぁもう、落ちちゃうかもしれないの! あたし助けようとしたんだけど、上手く登れなくて……!」
「子猫? 登る? 一体何を……そういえばリディア、君は一体何て格好をしてるんだい?」
リディアの唐突な登場にばかり意識が向いていたが、改めて見れば、リディアが今来ている淡い緑のドレスの端々は破れている。どこかに引っ掛けでもしたかのように。
「だから大変なの! エドガー、いいから来て!」
「リディア?」
ご婦人に腕を引かれることならよくあったが、こんな風にぐいぐいと、色気の欠片もなく引っ張られたのは初めてだ。
エドガーと同じか、それ以上には呆気に取られているような友人達の視線に見送られて、エドガーはリディアに引っ張られたままライブラリーを出るしかなかったのだった。
*
「おい、今の……」
扉は閉まり、しばらくの時間が経ってからのことだった。口を開くまでには、それぐらいの時間が必要だった。
「いや、何とも……強烈な印象のお嬢さんだったね」
いやはや参ったなと、一人は額を押さえて呟いた。けれど面白そうなその声音からは、決して失望の念は感じられない。むしろその反対だ。
艶やかで癖のない赤茶の髪と、あまり他では見かけない印象的な瞳の少女だった。絶世の美女というわけではないが、ついつい声をかけたくなってしまうような可愛らしい少女だ。あのエドガーが夢中になっている少女というには外見的魅力は物足りなかったが、あんな調子で日々エドガーを振り回しているのかと思えば実に楽しい。興味深い少女だ。
「まさかこんな偶然、エドガーの手中の珠を垣間見れることになるとは思わなかったな」
「あいつのさっきの顔、見たか? 俺らも人のことは言えないだろうが、あいつのあんな間抜けな顔、そうそう見ることはできないさ!」
「そりゃ違いない!」
思い出して、彼らは一斉に笑った。彼らにとってエドガー・アシェンバート伯爵というのはもちろんかけがえのない友人の一人ではあったのだが、そのあまりの完璧さに、少々歯がゆい思いをしていたのも事実なのだ。人間だれしも、少しばかり欠点があった方が付き合いやすいというもの。エドガーにとっての弱点はあの妹君かと思えば、なおさら先ほどの顔が愉快に思えて、しばらく彼らの間からは笑いが絶えなかった。放っておかれていることなどちっとも気になどはならなかった。
どれだけの笑い声が、彼らの口から上ったのだろう。
それが終わったのは、ある一人の発した声の所為だった。
「おい……見てみろよ、あそこ!」
興奮した声を出した一人の視線の先は、窓の向こうだった。アシェンバート伯爵家の庭ともなれば、もちろん専属の庭師が何人もおり、いつ来ても綺麗な文句のつけどころもない庭園だ。一体そこに何があるというのだろうか。
「あそこだよ、あそこ!」
彼らはそろって窓へと寄って行く。指差された先にいたのは、一本の大木。その木の根元にいる、エドガーとその妹だった。
「何してるんだ? あそこで……何か騒いでたけど、あそこで何があるって言うんだ?」
「上を見上げてるな……何かいるのか? そういやさっき、子猫がどうとか言ってたな。あそこに子猫でもいるんじゃないのか?」
遠く離れたここからでは、エドガー達の姿は見えても、恐らくいるのであろう子猫の姿は見えなかった。けれど確かにそうなのだろう、二人は上を見上げている。エドガーはともかく、その妹はそれはもう興奮した様子で、エドガーの周りをちょろちょろしながら彼の服を思い切り引っ張っている。もうとっくに社交界デビューしていていもおかしくない年頃だというのに、妙に子供っぽいなとその様子を見て彼らは思う。けれどそれ以上に不思議なのは、少女のその態度をエドガーはちっとも迷惑そうには思っていないところだった。
「多分そうなんだろうな。子猫が木に登ったはいいものの、降りれなくなったってとこか……それであのお嬢さん、自分で助けようとしたが無理でエドガーに助けを求めたってことか?」
「そんな猫ぐらい気にしなきゃいいのになぁ。いやまぁ、女子供は猫が好きな生き物だがな。でも何もエドガーじゃなくても、そこらの使用人に言えばいいことじゃないか」
「でも、優しいお嬢さんじゃないか。子猫のためにあんなに必死になって」
くすっと笑いながら一人が言う。確かに優しいことに変わりはないが、同時に子供っぽいと思ったことも確かだった。猫一匹のために木に登ろうとするレディーなんて彼らは知らない。彼らが社交界で出会う女性というのは、皆淑やかで教養にとんだ、そして扇子の裏で噂話に花を咲かせる人種だった。
女性というのは、男にとっては一生理解できない存在だ。気高く繊細で、かと思えばそこらの男よりも度胸があったり。
さて、一体この少女は、一体どんな女の顔を隠しているのだろう? 焦った様子でエドガーの服を引っ張っているこの少女には、一体どんな?
彼らの視線は、もう少しだってエドガーとその妹から離されはしなかった。離せるわけもない。こんな興味深い一幕を見れることはそうそうない。そして彼らは、さらに衝撃的な光景を目にすることになるのだ。
「おい……エドガー、あれ、何やってるんだ!?」
「木に足引っ掛けて……いや、そんな、まさか」
彼らのその予感は的中した。
心配そうな妹に見守られる中、エドガー・アシェンバート伯爵は木の枝を掴むと、驚くほどの身の軽さでするすると木に登り始めてしまったのだ。
「…………」
「…………」
「…………ま、マジか?」
伯爵が、木登り。
社交界でその名を馳せる、知らぬ者などいないほどの、ご婦人方に圧倒的な人気を誇る、女たらしのあのアシェンバード伯爵が、木登り。
呆然とする彼らの前で、ついにエドガーの姿は見えなくなった。多い茂った葉に隠されて。落ちてこないところを見ると、無事に登り続けているのだろう。馬の扱いの上手いエドガーは、木の扱いも上手かったのか―――そんなわけもわからない思考回路になりかけたところで、ざーっとエドガーが落ちてきた。いや、着地したのだ。
その手に抱かれている小さな白い物は、きっと子猫なのだろう。エドガーはそっと妹にそれを渡す。受け取った妹は、木登りまでしたエドガーに何か感謝の言葉を言うこともなしに、屋敷へと駆け出して行ってしまった。やれやれとでも言うように、エドガーは額を押さえる。けれどその顔の、何て満足そうなことなのだろう。「まったく仕方ないねあの子は」と、そんな声が聞こえてくるかのような。
エドガーはそのまま何事も無かったかのように歩き出す。またここに戻ってくるのだろう。いや、それとも、猫を抱えた妹の所に行くのだろうか。
「いや、何か、俺ら……」
すごい場面を、見てしまったのではないだろうか。
「いやぁ、まさか……彼があそこまであのお嬢さんにベタ惚れだったとは、ねぇ……」
どんな女性を口説いている時だって、自分を曲げるということはしなかったあのエドガーが。
紳士のプライドも何もかも、あの少女の前では何も意味など無いかのように。
「もしかして数年後には、あの子との結婚式の招待状が届くんじゃない?」
「いや、だって、妹だろ? まさかなぁ……」
と言いつつも、思い切り否定もできなくて。
まだ社交界では、この少女の存在はあまり大きな話題にはなっていない。だから今はまだいい。けれどお披露目された日には、一体どんな騒ぎになることやら―――それを想像するのは、楽しい反面確かに恐ろしいことでもあった。
「いやはや、全く……あいつはいつでも、平穏とは無縁の生活をしてるよなぁ」
その呟きに、彼らはそろって首を縦に振ったのだった。
そしてその頃当のアシェンバート伯爵は、可愛い子猫に夢中になっている妹に、「ねぇリディア、ここには僕もいるんだよ?」と、大人気ない焼餅をやいていたとかいないとか。
(07.6.7)