夢見る林檎
色とりどりのドレスに目も眩むような宝石。
食べきれないほどの料理と、今まで見たことも想像したこともないような可愛らしいデザート。
ベッドは身体が沈んでしまうほどには柔らかくて。
そんな、まるでお姫さまのような暮らしをしてみたいと、確かに思ったことはあったけれど。
実際にそんな生活をしてみて、あぁこんなものは自分には合わないのだと実感した。
それになによりも。
だって、だって、そんなことよりも。
―――あの人は、あたしのことをこれっぽっちも好きなんかじゃないんだから。
*
起こされるまでのんびり眠ってていいのだとわかってはいても、長年の経験で、自然と決まった時間になると目がぱちりと開いてしまう。
小さく伸びをしてから、ベッドから出て部屋の大きなカーテンを開ける。差し込んでくる朝日の眩しさにリディアは目を細めた。今日もいい天気だと思えば少しは気持ちも慰められるような気もしたが、今日もあの顔を見て、そして無理やり押し付けられた生活をしなければならないのかと思うと、どっと嫌気が差した。
振り返ると、革張りのソファの上で眠っていたニコが、眩しそうに片目を開けたところだった。長年の相棒が妖精だということはもちろん熟知しているが、こんな様子を見るだに、どうしてこうも本物の猫のようなのだろうとリディアは不思議に思う。けれどにくきゅうのついたその手は、熱い紅茶の入ったカップですら器用につかめる不思議な手なのだ。
「……おいリディア。眩しいだろ、カーテンを閉めてくれよ」
「何言ってるの、もう朝よ。前の家じゃいつもこの時間に起きてたじゃないの」
「そりゃ、やることがいっぱいあったからな。でもここじゃ、洗濯だって料理の支度だって何だって召使がやってくれるんだろ? こんな早起きしたってやることなんかないだろ」
「それは……」
リディアが生まれた時からの付き合いだからか、ニコの言葉には容赦がない。反論の言葉もなく、リディアは小さく俯いた。
この家にやって来てから、リディアは時間をもてあますようになった。自分のするべきことが、仕事が何も無いのだ。
前の家でだって、やっているのは雑用ばかりだったけれど、それでもリディアがやるべき大切な仕事だった。小さな子供が多く、とにかく人手が足りなかったのだ。赤ん坊の世話をしながら、毎日の雑用を終えて、ベッドに入る頃にはくたくたになっていた。そんな大変な日々だったけれど、その頃を懐かしく思うのはどうしてなのだろう。
「でもほんと、暇ね。早起きすると、一日が長く感じられて仕方ないわ」
じゃあ寝てればいいだろ、というような、冷たい返事が返ってくるかと思ったのだが、そうではなかった。
ニコはソファに寝そべったまま、尻尾だけをぱたぱたと揺らしながら言った。
「昨日、裁縫の課題を出されたって言ってただろ。それは終わったのかよ?」
「……あんな細かい刺繍があたしにできると思ってるの?」
ニコは答えなかったが、その表情だけで何と言いたいのかはわかってしまった。憎たらしいんだから、と眉を寄せながらも、リディアは手早く着替えると、試しに出されていたその課題に手をつけてみた。
前の家でも裁縫はよくやっていたが、破れた服に布をあてるとか、使い古したタオルを雑巾にするとか、その程度だった。こんな細かい刺繍なんて一生縁が無いと思っていたし、もともと針仕事は苦手なリディアだったから、自分でも何の模様を縫い付けているのかわからなくなってしまった。仕舞いには、糸がこんがらがってどうにもこうにも針が動かせなくなってしまった。
もういや、こんなの。
ぽいっと、リディアはそれをベッドの上に投げ出した。
「……何でこんなことになったのかしら」
「いったい何の文句があるっていうんだよ? 飯は美味いし酒も美味いし、いいことだらけだろ?」
妖精のニコにとってはそうかもしれないが、人間にとっての幸せは、料理とお酒が美味しいことではない。もっと大事なものがあるのだ。
「あたしの意思を無視して連れて来られたのよ」
「でも、あそこにいるよりゃ全然マシだろ? ガキの世話ばっかやらされて、年の近い奴にはいじめられてさ。ま、リディアをいじめた奴は、後でゴブリンから仕返しくらってて笑えたけどな」
「あたしはちっとも笑えなかったわよ……」
妖精が見えるということで、小さい頃からいじめられることはよくあった。物心ついてからは、そんなことは公言しないようにしてきたが、それでも柵にひっかかっている妖精を見れば助けてやったり、歩いているゴブリンを避けようとして変なステップを踏んでしまったりするリディアは、他の子供達の目にはずいぶん奇異に映ったことだろう。何の娯楽もない生活の中では、些細ないじめをして楽しむぐらいしかうさを晴らすことができなかったのだ。けれどそうすると、リディアに好意をもっている妖精が仕返しをし、それがまた彼らにはリディアが何かしたと思えるのだろう、それでまたいじめられ―――日常は、そんなことの繰り返しだった。
「でもべつに、いじめられたって言ったって、そんな大したことじゃなかったし、あたしは別に気にしてなかったのよ。中には優しくしてくれる人だっていたし」
「ごく少人数だったけどな」
少しだってべつにいいわよ、とリディアは唇を尖らせた。
とにかくこの件では、ニコとは全く意見が一致しないことは明白だった。そもそも妖精なんて、自分勝手で自由気ままなものなのだ。そう思えば少しは怒りも収まる気がした。
ベッドの上に、針の刺さったままの刺繍をそのままにしておいては危ないということなんてわかっている。けれど、それをとって引き出しにしまう、ただそれだけのことがどうしようもなく億劫に感じられて仕方がない。
毎日が気だるくて。
ここで何をしているのだろうかと、疑問になって。
ふう、と溜息をついた時、ノックの音が聞こえて、部屋に入ってきたのはアーミンだった。男装の麗人なんて初めて目にしたリディアは、何度アーミンを目の前にしても、見る度に少し目を見開いてしまう。飾り気のない男装をしていても、とても隠し切れないほどの美貌。世の中にはこんな人がいるのねと、本当に驚いてしまう。
「ご用意ができましたので、モーニングルームへいらして下さい」
それは朝食を告げる台詞だった。貴族というのは、一々食事をとるのにもこの広い屋敷内を移動しなくてはならないのだから本当に面倒だ。
「……それって、あの人もいるのよね」
ベッドに腰掛けたまま、視線だけをアーミンに向けてリディアは尋ねる。その声は自分でも驚くほど暗かった。
「エドガーさまでしたら、もちろんいらっしゃいますが」
「じゃああたし、ここで食べるわ」
朝っぱらから、あいつの顔を見るなんて冗談じゃない。いや、朝と言わずいつだって、あいつの顔を見るのは嫌なのだ。その上、一緒に食事をとらなければならないだなんて。
アーミンは、少し困ったような顔をした。小首を傾げながら言葉を続ける。
「そうしますと、エドガーさまもこちらにいらっしゃると思いますが」
つまり、何が何でも一緒に食事をしなければならないということなのか。
いつだって自由なんてものからは程遠い生活をしてきたが、人を無理やり連れて来たあげく、一人でのんびり食事もとらせてはくれないそのやり方にリディアはムカっときた。
「それなら朝食はいらないわ! あいつにもそう言って!」
「いらない、と言いますと……」
「頭が痛いの! 無理に食べなくてもいいでしょうっ?」
言いながら、リディアはベッドの中にもぐりこんだ。その拍子に、縫いかけの刺繍が床に落ちたが、気にしてなんていられなかった。
アーミンはそれ以上は何も言わず、「わかりました」と小さく答えると、静かな足取りで部屋から出て行った。ひょこっと毛布から顔を出すと、変わらずソファの上にいたニコと視線が合った。
「逆効果だと思うけどなぁ、おれは」
「何よ」
どうせニコはあたしの気持ちなんかわかってはくれないんだからと思うと、ニコの台詞の一つ一つも気に障って仕方がない。
でも、アーミンに八つ当たりをするのはいけなかったかもしれない。だって悪いのはアーミンではないのに。今度アーミンが来たら謝ろうと思っても、また似たような用件だったら、きっとこうなってしまうのだろうなとは自分でも思った。
と、再びまたノックの音が聞こえた。アーミンだろうか、と顔を出したリディアは、扉を開けて入ってきた人物を見て、慌ててまたベッドの中にもぐりこんだ。
「リディア? 頭が痛いって……大丈夫かい?」
こいつの顔を見たら、本当に頭が痛くなってきそうだった。頭まで毛布をかぶって、絶対に口なんかきいてやるもんかと心に誓う。
「昨日は元気で、僕に可愛い笑顔を見せてくれたのに……大丈夫、辛くないかい? ほら、リディア、顔を見せて」
「…………」
「あぁ、辛い顔を僕に見せたくないんだね。でも大丈夫、僕はどんな君だって同じように愛してるんだから、ね? 苦しんでる君にすらいっそ欲情できるかも」
「な、ちょっ、なに言ってるのよあなたはっ!?」
思わず飛び起きて叫んだリディアは、ベッドに腰掛けてにこやかに自分を見つめているエドガーの顔を見てしまった。口なんてきかないと、つい数秒前に誓ったのにもうこの様だ。もう一度ベッドにもぐりこもうとしたが、その前に腕を掴まれてしまう。痛くはないが、しっかりとリディアの腕を押さえている。
「元気そうだね。僕の顔を見たら元気になった?」
「ますます頭が痛くなったわよ……!」
とてもそうとは思えない大きな声で怒鳴るリディアに、エドガーは気にした様子もなく微笑むだけだ。当然のようにリディアの髪に手を伸ばし、指に絡めてくるくると巻く。その手をぱしんと強い力で叩いて、リディアは礼儀知らずなこの男を睨みつけた。
「一つお聞きしたいんですけど、アシェンバート伯爵」
「エドガーでいいってば。お兄さまと呼んでくれるのならそれでもいいけど……」
「アシェンバート伯爵。あたしには、一人でゆっくり朝食を食べる自由もないのかしら?」
エドガーの戯言を無視し、あえて「アシェンバート伯爵」という辺りに力をこめる。ファーストネームで呼ぶのも嫌だが、お兄さまだなんて聞いただけでも吐き気がしそうだ。
無駄に整った顔を見ているのも嫌だったが、ここで顔を逸らしたら負けだと思ったリディアは、必死になってエドガーの顔を睨みつける。
「ねぇリディア。家族は食事の時間を共にすべきだと思わないかい?」
「えぇ家族ならそうね。でもあたしとあなたはそうじゃないわ」
「何を言ってるの。君は僕の最愛の妹になったんじゃないか」
「そんなのあたしは認めてないわっ!」
認めてない―――認めていないのに、どうしてこんなことになってしまったのか―――
ぶるぶると震えながら、リディアはただひたすらにエドガーを睨みつけた。眼差しだけで人を殺せるのなら、今すぐにこいつを殺してこの家から出て行ってやりたい。こんな、自分勝手で我侭な貴族だなんて大嫌いだ!
そもそもリディアは、幼い頃に両親を亡くし、田舎の孤児院で育てられた娘だった。同じような境遇の子供はたくさんいたが、中には子供のいない夫婦に引き取られる子もいた。けれど妖精が見えることで煙たがられていたリディアを引き取ろうとする人などは当然おらず、リディアはこの年まで孤児院の世話になっていた。
リディアと同じぐらいの年の少年や少女も中にはいたが、彼らは大抵自分にできる仕事を見つけ働きに出ていた。どこかに弟子入りするなりして、孤児院から出て行く人もいた。けれどリディアには、妖精が見えるという特技以外とくにこれといってできることはなかったから、孤児院で雑用をするぐらいしかできなかったのだ。
そんなリディアを引き取ってくれる人が現れたことに、孤児院のシスター達は本当に喜んでいた。それが伯爵ともあればなおさらだった。多額の寄付を残してきたことも知っている。そう、つまりこいつは、お金で―――お金で、自分を買ったようなものなのだ。
そんな奴を、どうして好きになることなんかできるんだろう。
大体、引き取るそのやり方も強引だった。リディアの意思なんて聞いてもくれなかった。皆にお別れを言う時間もなく、無理やり馬車に乗せられた。君は僕の義妹になるんだよリディア。どれだけ麗しい笑顔で微笑まれようと、そんな唐突な台詞を受け入れられるわけがない。
「貴族の気まぐれにどうしてあたしを巻き込むのよ…っ!」
「気まぐれなんかじゃない、リディア」
リディアの叫びに、意外とも思えるほどの真摯な眼差しでエドガーは言う。けれどそんな表情こそ、リディアには嘘くさく思えて仕方がなかった。ぱっと見エドガーは、これ以上もないくらい完璧な紳士に見えるが、紳士ならどうして人の意思を無視して勝手にこんな所へ連れて来たりするのだろう。
都会の、それもこんな貴族の屋敷での生活なんて、リディアには慣れないことばかりだ。どうして自分が選ばれたのかもわからない。ただ、妖精が見えるらしいねと聞かれて頷いた時、興味深そうにエドガーが浮かべた微笑みを忘れられない。あの目は、面白い物を見るような瞳だった。きっとエドガーにあるのはただの興味心だけなのだ。貴族にとって、少女一人を養うぐらいのお金は安いものだろうから。
「気まぐれじゃない。いきなり来たと思ったら、いきなり人を妹にするとか……人の生活をいきなり変えて、食事は一緒にするものだとか強制して! 妹が欲しかったのなら、もっと他の子にしてくれれば良かったのよ! あたしは貴族の生活になんかちっとも憧れてなんかいないんだから…っ」
「リディア、聞いてくれ。僕はだれでもいいから家族が欲しかったわけではない。一目見て君のことが好きになった。だからどうしても君を家族に迎えたくて……焦っていたから、やり方が少し強引だったのは認めるよ。だけど僕は真剣に」
「あなたの言葉なんて聞きたくないわ!」
厳しい声を上げるリディアに、エドガーは静かな傷ついたような眼差しを見つけた。それに後悔の念を覚えるよりも、どうして貴族のこの人が、孤児のあたしの言葉に傷ついたような顔をするのだろうかということだった。
リディアが想像していた貴族よりも貴族らしいようで、けれどこんな顔をするだなんて。
だからといって、信用することなんてできない。リディア同様孤児院に預けられた子供の中には、身分の高いレディに捨てられた子供もいた。不義の子だったのだ。
「リディア……」
「出て行って! 貴族なんか信用できない!」
エドガーの腕が伸びてくる気配を感じたが、寸前で止まった。名残惜しそうに宙を掴むと、それでも口元には笑みを浮かべてエドガーはベッドから腰を上げた。
「わかった、今日はここまでにしよう。君は今気分が優れないようだから」
夕食は一緒に食べれると嬉しいなと言葉を残して、エドガーは部屋から出て行った。彼がいなくなるだけで、部屋の空気がどこか変わった。やっぱり貴族だから、何もかもがあたしとは違うんだわと思いながら、リディアはごそごそとベッドの中にもぐっていった。
どうしてか涙がこぼれた。孤児院での生活が、決して懐かしかったわけではない。それなのに流れ落ちる、この涙の理由は何なのだろう。
きっとエドガーの言葉が信じられないからだとリディアは思った。好きだと言われても、ちっとも熱意を感じない。ただの貴族の気まぐれ、遊びのようだとしか思えないから、だからオモチャのように自分を好き勝手にしようとするその振る舞いが許せない。遊ばないでと言いたくなる。
それでも人を罵倒した後に残った気持ちは、重く心に圧し掛かった。その重さを少しでも軽くするために涙が流れているというのなら、好きなだけ流れてちょうだいと心の中で呟いた。
「……朝食、食いっぱぐれたな」
エドガーの前ではただの猫のフリをしているニコは、気まずそうな声で話しかけてきた。ベッドにぴょこんと乗ると、リディアの顔を覗き込んでくる。
「トムキンスさんに言ってもらってきたら。あの人はいい人だわ」
多分、エドガー以外のこの屋敷の人は好きだ。だって彼らは、リディアのことをオモチャだとは思っていないから。
「おれもだけど、リディアはどうすんだよ」
「あたしはいいわ。何も食べたくないの」
「後でチョコレートボンボンをもらってきてやるよ」
それは、ニコなりにリディアを慰めようとしてくれているのだろうか。
妖精じゃないんだから、お菓子をもらったってそうそう気分が良くなるわけじゃないけどと思いながらも、そんなニコの優しさは素直に嬉しかった。
チョコレートボンボンを食べている頃には、少しは気持ちも回復しているかもしれない。
夕食を一緒に食べられるかはわからないけど、もう少し怒鳴る回数を減らせるぐらいにはなっていればいいなと、嫌がるニコのにくきゅうを触りながら思った。
食べきれないほどの料理と、今まで見たことも想像したこともないような可愛らしいデザート。
ベッドは身体が沈んでしまうほどには柔らかくて。
そんな、まるでお姫さまのような暮らしをしてみたいと、確かに思ったことはあったけれど。
実際にそんな生活をしてみて、あぁこんなものは自分には合わないのだと実感した。
それになによりも。
だって、だって、そんなことよりも。
―――あの人は、あたしのことをこれっぽっちも好きなんかじゃないんだから。
*
起こされるまでのんびり眠ってていいのだとわかってはいても、長年の経験で、自然と決まった時間になると目がぱちりと開いてしまう。
小さく伸びをしてから、ベッドから出て部屋の大きなカーテンを開ける。差し込んでくる朝日の眩しさにリディアは目を細めた。今日もいい天気だと思えば少しは気持ちも慰められるような気もしたが、今日もあの顔を見て、そして無理やり押し付けられた生活をしなければならないのかと思うと、どっと嫌気が差した。
振り返ると、革張りのソファの上で眠っていたニコが、眩しそうに片目を開けたところだった。長年の相棒が妖精だということはもちろん熟知しているが、こんな様子を見るだに、どうしてこうも本物の猫のようなのだろうとリディアは不思議に思う。けれどにくきゅうのついたその手は、熱い紅茶の入ったカップですら器用につかめる不思議な手なのだ。
「……おいリディア。眩しいだろ、カーテンを閉めてくれよ」
「何言ってるの、もう朝よ。前の家じゃいつもこの時間に起きてたじゃないの」
「そりゃ、やることがいっぱいあったからな。でもここじゃ、洗濯だって料理の支度だって何だって召使がやってくれるんだろ? こんな早起きしたってやることなんかないだろ」
「それは……」
リディアが生まれた時からの付き合いだからか、ニコの言葉には容赦がない。反論の言葉もなく、リディアは小さく俯いた。
この家にやって来てから、リディアは時間をもてあますようになった。自分のするべきことが、仕事が何も無いのだ。
前の家でだって、やっているのは雑用ばかりだったけれど、それでもリディアがやるべき大切な仕事だった。小さな子供が多く、とにかく人手が足りなかったのだ。赤ん坊の世話をしながら、毎日の雑用を終えて、ベッドに入る頃にはくたくたになっていた。そんな大変な日々だったけれど、その頃を懐かしく思うのはどうしてなのだろう。
「でもほんと、暇ね。早起きすると、一日が長く感じられて仕方ないわ」
じゃあ寝てればいいだろ、というような、冷たい返事が返ってくるかと思ったのだが、そうではなかった。
ニコはソファに寝そべったまま、尻尾だけをぱたぱたと揺らしながら言った。
「昨日、裁縫の課題を出されたって言ってただろ。それは終わったのかよ?」
「……あんな細かい刺繍があたしにできると思ってるの?」
ニコは答えなかったが、その表情だけで何と言いたいのかはわかってしまった。憎たらしいんだから、と眉を寄せながらも、リディアは手早く着替えると、試しに出されていたその課題に手をつけてみた。
前の家でも裁縫はよくやっていたが、破れた服に布をあてるとか、使い古したタオルを雑巾にするとか、その程度だった。こんな細かい刺繍なんて一生縁が無いと思っていたし、もともと針仕事は苦手なリディアだったから、自分でも何の模様を縫い付けているのかわからなくなってしまった。仕舞いには、糸がこんがらがってどうにもこうにも針が動かせなくなってしまった。
もういや、こんなの。
ぽいっと、リディアはそれをベッドの上に投げ出した。
「……何でこんなことになったのかしら」
「いったい何の文句があるっていうんだよ? 飯は美味いし酒も美味いし、いいことだらけだろ?」
妖精のニコにとってはそうかもしれないが、人間にとっての幸せは、料理とお酒が美味しいことではない。もっと大事なものがあるのだ。
「あたしの意思を無視して連れて来られたのよ」
「でも、あそこにいるよりゃ全然マシだろ? ガキの世話ばっかやらされて、年の近い奴にはいじめられてさ。ま、リディアをいじめた奴は、後でゴブリンから仕返しくらってて笑えたけどな」
「あたしはちっとも笑えなかったわよ……」
妖精が見えるということで、小さい頃からいじめられることはよくあった。物心ついてからは、そんなことは公言しないようにしてきたが、それでも柵にひっかかっている妖精を見れば助けてやったり、歩いているゴブリンを避けようとして変なステップを踏んでしまったりするリディアは、他の子供達の目にはずいぶん奇異に映ったことだろう。何の娯楽もない生活の中では、些細ないじめをして楽しむぐらいしかうさを晴らすことができなかったのだ。けれどそうすると、リディアに好意をもっている妖精が仕返しをし、それがまた彼らにはリディアが何かしたと思えるのだろう、それでまたいじめられ―――日常は、そんなことの繰り返しだった。
「でもべつに、いじめられたって言ったって、そんな大したことじゃなかったし、あたしは別に気にしてなかったのよ。中には優しくしてくれる人だっていたし」
「ごく少人数だったけどな」
少しだってべつにいいわよ、とリディアは唇を尖らせた。
とにかくこの件では、ニコとは全く意見が一致しないことは明白だった。そもそも妖精なんて、自分勝手で自由気ままなものなのだ。そう思えば少しは怒りも収まる気がした。
ベッドの上に、針の刺さったままの刺繍をそのままにしておいては危ないということなんてわかっている。けれど、それをとって引き出しにしまう、ただそれだけのことがどうしようもなく億劫に感じられて仕方がない。
毎日が気だるくて。
ここで何をしているのだろうかと、疑問になって。
ふう、と溜息をついた時、ノックの音が聞こえて、部屋に入ってきたのはアーミンだった。男装の麗人なんて初めて目にしたリディアは、何度アーミンを目の前にしても、見る度に少し目を見開いてしまう。飾り気のない男装をしていても、とても隠し切れないほどの美貌。世の中にはこんな人がいるのねと、本当に驚いてしまう。
「ご用意ができましたので、モーニングルームへいらして下さい」
それは朝食を告げる台詞だった。貴族というのは、一々食事をとるのにもこの広い屋敷内を移動しなくてはならないのだから本当に面倒だ。
「……それって、あの人もいるのよね」
ベッドに腰掛けたまま、視線だけをアーミンに向けてリディアは尋ねる。その声は自分でも驚くほど暗かった。
「エドガーさまでしたら、もちろんいらっしゃいますが」
「じゃああたし、ここで食べるわ」
朝っぱらから、あいつの顔を見るなんて冗談じゃない。いや、朝と言わずいつだって、あいつの顔を見るのは嫌なのだ。その上、一緒に食事をとらなければならないだなんて。
アーミンは、少し困ったような顔をした。小首を傾げながら言葉を続ける。
「そうしますと、エドガーさまもこちらにいらっしゃると思いますが」
つまり、何が何でも一緒に食事をしなければならないということなのか。
いつだって自由なんてものからは程遠い生活をしてきたが、人を無理やり連れて来たあげく、一人でのんびり食事もとらせてはくれないそのやり方にリディアはムカっときた。
「それなら朝食はいらないわ! あいつにもそう言って!」
「いらない、と言いますと……」
「頭が痛いの! 無理に食べなくてもいいでしょうっ?」
言いながら、リディアはベッドの中にもぐりこんだ。その拍子に、縫いかけの刺繍が床に落ちたが、気にしてなんていられなかった。
アーミンはそれ以上は何も言わず、「わかりました」と小さく答えると、静かな足取りで部屋から出て行った。ひょこっと毛布から顔を出すと、変わらずソファの上にいたニコと視線が合った。
「逆効果だと思うけどなぁ、おれは」
「何よ」
どうせニコはあたしの気持ちなんかわかってはくれないんだからと思うと、ニコの台詞の一つ一つも気に障って仕方がない。
でも、アーミンに八つ当たりをするのはいけなかったかもしれない。だって悪いのはアーミンではないのに。今度アーミンが来たら謝ろうと思っても、また似たような用件だったら、きっとこうなってしまうのだろうなとは自分でも思った。
と、再びまたノックの音が聞こえた。アーミンだろうか、と顔を出したリディアは、扉を開けて入ってきた人物を見て、慌ててまたベッドの中にもぐりこんだ。
「リディア? 頭が痛いって……大丈夫かい?」
こいつの顔を見たら、本当に頭が痛くなってきそうだった。頭まで毛布をかぶって、絶対に口なんかきいてやるもんかと心に誓う。
「昨日は元気で、僕に可愛い笑顔を見せてくれたのに……大丈夫、辛くないかい? ほら、リディア、顔を見せて」
「…………」
「あぁ、辛い顔を僕に見せたくないんだね。でも大丈夫、僕はどんな君だって同じように愛してるんだから、ね? 苦しんでる君にすらいっそ欲情できるかも」
「な、ちょっ、なに言ってるのよあなたはっ!?」
思わず飛び起きて叫んだリディアは、ベッドに腰掛けてにこやかに自分を見つめているエドガーの顔を見てしまった。口なんてきかないと、つい数秒前に誓ったのにもうこの様だ。もう一度ベッドにもぐりこもうとしたが、その前に腕を掴まれてしまう。痛くはないが、しっかりとリディアの腕を押さえている。
「元気そうだね。僕の顔を見たら元気になった?」
「ますます頭が痛くなったわよ……!」
とてもそうとは思えない大きな声で怒鳴るリディアに、エドガーは気にした様子もなく微笑むだけだ。当然のようにリディアの髪に手を伸ばし、指に絡めてくるくると巻く。その手をぱしんと強い力で叩いて、リディアは礼儀知らずなこの男を睨みつけた。
「一つお聞きしたいんですけど、アシェンバート伯爵」
「エドガーでいいってば。お兄さまと呼んでくれるのならそれでもいいけど……」
「アシェンバート伯爵。あたしには、一人でゆっくり朝食を食べる自由もないのかしら?」
エドガーの戯言を無視し、あえて「アシェンバート伯爵」という辺りに力をこめる。ファーストネームで呼ぶのも嫌だが、お兄さまだなんて聞いただけでも吐き気がしそうだ。
無駄に整った顔を見ているのも嫌だったが、ここで顔を逸らしたら負けだと思ったリディアは、必死になってエドガーの顔を睨みつける。
「ねぇリディア。家族は食事の時間を共にすべきだと思わないかい?」
「えぇ家族ならそうね。でもあたしとあなたはそうじゃないわ」
「何を言ってるの。君は僕の最愛の妹になったんじゃないか」
「そんなのあたしは認めてないわっ!」
認めてない―――認めていないのに、どうしてこんなことになってしまったのか―――
ぶるぶると震えながら、リディアはただひたすらにエドガーを睨みつけた。眼差しだけで人を殺せるのなら、今すぐにこいつを殺してこの家から出て行ってやりたい。こんな、自分勝手で我侭な貴族だなんて大嫌いだ!
そもそもリディアは、幼い頃に両親を亡くし、田舎の孤児院で育てられた娘だった。同じような境遇の子供はたくさんいたが、中には子供のいない夫婦に引き取られる子もいた。けれど妖精が見えることで煙たがられていたリディアを引き取ろうとする人などは当然おらず、リディアはこの年まで孤児院の世話になっていた。
リディアと同じぐらいの年の少年や少女も中にはいたが、彼らは大抵自分にできる仕事を見つけ働きに出ていた。どこかに弟子入りするなりして、孤児院から出て行く人もいた。けれどリディアには、妖精が見えるという特技以外とくにこれといってできることはなかったから、孤児院で雑用をするぐらいしかできなかったのだ。
そんなリディアを引き取ってくれる人が現れたことに、孤児院のシスター達は本当に喜んでいた。それが伯爵ともあればなおさらだった。多額の寄付を残してきたことも知っている。そう、つまりこいつは、お金で―――お金で、自分を買ったようなものなのだ。
そんな奴を、どうして好きになることなんかできるんだろう。
大体、引き取るそのやり方も強引だった。リディアの意思なんて聞いてもくれなかった。皆にお別れを言う時間もなく、無理やり馬車に乗せられた。君は僕の義妹になるんだよリディア。どれだけ麗しい笑顔で微笑まれようと、そんな唐突な台詞を受け入れられるわけがない。
「貴族の気まぐれにどうしてあたしを巻き込むのよ…っ!」
「気まぐれなんかじゃない、リディア」
リディアの叫びに、意外とも思えるほどの真摯な眼差しでエドガーは言う。けれどそんな表情こそ、リディアには嘘くさく思えて仕方がなかった。ぱっと見エドガーは、これ以上もないくらい完璧な紳士に見えるが、紳士ならどうして人の意思を無視して勝手にこんな所へ連れて来たりするのだろう。
都会の、それもこんな貴族の屋敷での生活なんて、リディアには慣れないことばかりだ。どうして自分が選ばれたのかもわからない。ただ、妖精が見えるらしいねと聞かれて頷いた時、興味深そうにエドガーが浮かべた微笑みを忘れられない。あの目は、面白い物を見るような瞳だった。きっとエドガーにあるのはただの興味心だけなのだ。貴族にとって、少女一人を養うぐらいのお金は安いものだろうから。
「気まぐれじゃない。いきなり来たと思ったら、いきなり人を妹にするとか……人の生活をいきなり変えて、食事は一緒にするものだとか強制して! 妹が欲しかったのなら、もっと他の子にしてくれれば良かったのよ! あたしは貴族の生活になんかちっとも憧れてなんかいないんだから…っ」
「リディア、聞いてくれ。僕はだれでもいいから家族が欲しかったわけではない。一目見て君のことが好きになった。だからどうしても君を家族に迎えたくて……焦っていたから、やり方が少し強引だったのは認めるよ。だけど僕は真剣に」
「あなたの言葉なんて聞きたくないわ!」
厳しい声を上げるリディアに、エドガーは静かな傷ついたような眼差しを見つけた。それに後悔の念を覚えるよりも、どうして貴族のこの人が、孤児のあたしの言葉に傷ついたような顔をするのだろうかということだった。
リディアが想像していた貴族よりも貴族らしいようで、けれどこんな顔をするだなんて。
だからといって、信用することなんてできない。リディア同様孤児院に預けられた子供の中には、身分の高いレディに捨てられた子供もいた。不義の子だったのだ。
「リディア……」
「出て行って! 貴族なんか信用できない!」
エドガーの腕が伸びてくる気配を感じたが、寸前で止まった。名残惜しそうに宙を掴むと、それでも口元には笑みを浮かべてエドガーはベッドから腰を上げた。
「わかった、今日はここまでにしよう。君は今気分が優れないようだから」
夕食は一緒に食べれると嬉しいなと言葉を残して、エドガーは部屋から出て行った。彼がいなくなるだけで、部屋の空気がどこか変わった。やっぱり貴族だから、何もかもがあたしとは違うんだわと思いながら、リディアはごそごそとベッドの中にもぐっていった。
どうしてか涙がこぼれた。孤児院での生活が、決して懐かしかったわけではない。それなのに流れ落ちる、この涙の理由は何なのだろう。
きっとエドガーの言葉が信じられないからだとリディアは思った。好きだと言われても、ちっとも熱意を感じない。ただの貴族の気まぐれ、遊びのようだとしか思えないから、だからオモチャのように自分を好き勝手にしようとするその振る舞いが許せない。遊ばないでと言いたくなる。
それでも人を罵倒した後に残った気持ちは、重く心に圧し掛かった。その重さを少しでも軽くするために涙が流れているというのなら、好きなだけ流れてちょうだいと心の中で呟いた。
「……朝食、食いっぱぐれたな」
エドガーの前ではただの猫のフリをしているニコは、気まずそうな声で話しかけてきた。ベッドにぴょこんと乗ると、リディアの顔を覗き込んでくる。
「トムキンスさんに言ってもらってきたら。あの人はいい人だわ」
多分、エドガー以外のこの屋敷の人は好きだ。だって彼らは、リディアのことをオモチャだとは思っていないから。
「おれもだけど、リディアはどうすんだよ」
「あたしはいいわ。何も食べたくないの」
「後でチョコレートボンボンをもらってきてやるよ」
それは、ニコなりにリディアを慰めようとしてくれているのだろうか。
妖精じゃないんだから、お菓子をもらったってそうそう気分が良くなるわけじゃないけどと思いながらも、そんなニコの優しさは素直に嬉しかった。
チョコレートボンボンを食べている頃には、少しは気持ちも回復しているかもしれない。
夕食を一緒に食べられるかはわからないけど、もう少し怒鳴る回数を減らせるぐらいにはなっていればいいなと、嫌がるニコのにくきゅうを触りながら思った。
(07.2.11)