夢見る林檎


大きな箱の中身を見て、リディアは思い切り眉を寄せた。
「お、すごいドレスだな。一体、どこのお姫さまが着るんだよ」
「これをあたしに着ろですってよ」
「リディア、着るのか?」
「まさか」
ベッドの上にこれ見よがしに置かれているから、何かと思って蓋を開けてみたらこれだ。箱から出す気にもなれなくて、リディアはすぐさま箱を閉じた。少し覗いただけだが、それでもずいぶんいい布で作られた高級品だということはわかる。リディアには一生縁が無いであろう物だった。
「だよな、リディアが着るわけねぇよな。あの伯爵もこんな無駄なことしてないで、おれに帽子でもくれればいいのにな」
「じゃあ頼んでみたら? 買ってくれるかもしれないわよ」
本当に、服でも帽子でも、プレゼントならニコにしてくれればいいのにと思う。相手なんて気にせず、ニコなら素直に喜ぶだろう。自分と違って。
両親がいた幼い頃は別として、それからの生活の中で、だれかからプレゼントをもらうことなんてなかった。だから本当なら喜べることのはずなのに、相手がエドガーだというだけで、そんな気分には到底なれなくなってしまう。
口ではああ言うけれど、だって彼は、本当にあたしを好きなわけじゃないから。
ただの気まぐれ。貴族の道楽。伯爵である彼にとって、こんなドレスを買うことぐらい、それこそ本当に朝飯前のことだろう。きっとリディアのことだって、犬や猫のように思っている。少し興味があるから拾ってきて、どうやれば懐くか試しているのだ。そうとしか思えない。だって他に、一体どんな理由があるというのだろう? 彼の甘い言葉を信じることなんて絶対に無理だ。人の甘い言葉を簡単に信じられないぐらいには、今までそれなりに辛い生活をしてきたのだから。
ちらりと見ただけのドレスは、薄茶色で、それだけなら少し地味な物だったが、胸元にあしらわれた繊細な模様のレースが可愛らしさを演出していた。思い出して、一瞬、箱を開けてドレスを取り出したい欲求にリディアはかられた。エドガーのことは嫌いだが、それでもドレスのことは気になる。一応、年頃の女の子なのだ。
「何だよ。やっぱり気になるのかよ」
「……見るだけよ。着たりはしないわ」
呆れたようなニコの視線が気になったが、気づかないふりをして、リディアはドレスを取り出してみた。大人っぽいドレスではなく、やはり可愛らしいドレスだ。着てみたい、と素直に思ったが、ニコにああ言ってしまった手前そうもできない。
「着ればいいじゃねぇかよ」
そんなリディアを見かねてニコは言うが、強情っぱりのリディアは簡単には頷けない。
「そんなの、喜んでるって思われるじゃない」
「実際喜んでんだろ? いいじゃねぇか、前んとこじゃいっつもお古ばっかり着てたんだからよ」
「それはそうだけど……って、喜んでなんかないってば!」
いくらリディアがそう意地を張ったところで、ニコは呆れたようにやれやれと、猫そのものの姿で器用に肩をすくめるだけだ。リディアが生まれた時からの付き合いなのだから仕方ないのだが、何だか全部見透かされているようで腹が立つ。肝心なところでは、いっつも一人で逃げ出してしまう薄情猫のくせに。
「お気に召したようですね」
ニコに腹を立てていたから、足音にも気づかなかった。振り返ると、召使ようの扉から、小さな笑顔を浮かべたアーミンが入ってくるところだった。
「べ、別に、気に入ってなんかないわ。ただ、いつもすごいドレスばっかり贈ってくるなと思って……」
「よろしければ、今日のディナーの席で着てみて下さい。エドガーさまが喜ばれますから」
「だから、喜んでなんかないし、あたしはあんな奴と一緒に食事なんかしないんだから!」
最近は、エドガーがいないからと聞いてディナーの席に向かってみれば、遅れてエドガーがやってきて、結局一緒に食事をすることになってしまうのが常だった。嵌められているとわかっても、一度食事の席についてしまえば、途中でそこを立つことはなかなかにできない。何と言っても、ここでも食事はそれはもう舌がとろけるほどの美味しさなのだ。ニコだって、エドガーに対しては決して好意的とは言えないばかりか、むしろその反対だというのに、それでも自由気ままな妖精猫がここに居ついている理由は、食事と酒の美味さなのだから。
その悔しさを思い出しながら、リディアは手にしていたドレスをぎゅっぎゅと箱に押し込めた。アーミンは嫌いではないが、何もこんなタイミングで来なくてもと思ってしまう。
「で、何か用事でもあるの? またあの人が出かけようだのお茶にしようだと言ってきたの? どっちにしろごめんだけど」
気恥ずかしさで、ついついつっけんどんな口調になってしまった。けれどアーミンは何も気にした様子はなく、小さな笑みを口元に浮かべたまま言った。
「エドガーさまは今はレイヴンと出かけています。リディアさんには、その間にダンスのレッスンをしてもらいたい」
「―――ダンス?」
それは一体何の話なの。
目を丸くするリディアに、アーミンはにっこり微笑む。そして、有無を言わさぬ態度でリディアを部屋から連れ出してしまったのだった。



生まれて初めて受けるダンスのレッスンは、それはもう散々なものだった。
そもそも、どうしてこんなことをしなければならないのかわからないまま、複雑なステップを一気に教えられて、当然身体が思うように動くはずもない。やる気だって無いのだから、ただでさえ回転が早いとは言えない頭は、なかなか教えられたステップを飲み込んではくれない。リディアのために寄越されたというダンスの先生の足を思い切り踏んづけ、蹴飛ばし、挙句の果てには転倒させてしまった。
今日はここまで、とレッスンが終わりになったのは、リディアのためというよりも、先生自身がもう限界だったからなのではないだろうか。
心なしか足を引きずるようにして部屋を後にした先生と引き換えに、入ってきたのは憎たらしいほどの笑顔を浮かべた、今日も完璧な井出たちのこの家の主だった。
「ちょっと! いきなり人にダンスのレッスンなんかさせて、どういうつもりよっ!?」
「やぁリディア、君はずいぶんと元気そうだね。今そこですれ違ったダンスの先生は、ずいぶんと足を痛めたようだったけど」
早速噛み付いたリディアに、エドガーは笑顔のままさらりと耳に痛いことを言ってくれる。
「一体どれだけ蹴飛ばしてあげたんだい? そんなにあの先生が気に入らなかった? まぁ僕のような美形でないことは確かだけど」
「そうね、あなたが相手だったら、それこそ思い切り蹴飛ばしてあげたわよ」
「なんだ、僕と踊りたかったの? そう言ってくれれば最初から僕が教えたのに」
「そんなこと言ってないでしょ!」
人の台詞を勝手に脳内で変換しないでほしい。それとも、よっぽど自分にとって都合のいい耳を持っているのか。
顔を真っ赤にして怒鳴るリディアの髪を、自然な手つきでエドガーは一房すくいあげる。慌ててその手を払いのけたが、エドガーは気にした様子もなく微笑んでいる。
この人は本当、何をしても怒ることがないとリディアは今更ながらに不思議に思う。困ったように微笑むことはたまにあるけれど、リディアがどれだけひどいことを言っても食事を拒否しても、怒られたことなんて一度もない。もっとも、オモチャ代わりの小娘相手に本気になるだなんてことはきっとないのだろうとわかってはいるが、それでも少し不思議だった。貴族というのは、もっと我侭ばかり言って威張り散らして歩いているものだと思っていたから。
だからと言って、好きになれるなんてことは間違ってもないけれど。
今もエドガーは、怒るなんてことこそしないものの、一見完璧に見える掴みどころのない笑顔を浮かべて、ふざけたことを言う。
「照れなくても、僕なら君を上手く踊らせてあげるよ。女性のダンスの良し悪しなんて、結局は男のリードで決まるものなんだから。僕ならきっと、君を妖精よりも軽やかに踊らせてあげることができるだろうな」
からかわれているとわかってるはずなのに、その瞳があまりにも扇情的だったから、リディアは頬が熱くなるのを止められなかった。
「だ、だから、だれもあなたとなんか踊りませんから! ……っていうか、何でいきなりダンスなんか覚えなきゃいけないのよ? 何を企んでるのよ」
キっと睨みつければ、エドガーは「心外だなぁ」とどこか寂しそうに肩をすくめた。
「何も企んでなんかいないよ、リディア。僕は君の兄になったんだから、少しぐらいは信頼してくれないものかな」
「あなたのことなんか信用できるはずないでしょ」
貴族だから、というのが一番の理由だが、付き合えば付き合うだけ、こいつの口は驚くほどよく回って、なおさら信じられない気持ちに拍車がかかる。
「ただちょっと、パーティーを開くから、君もダンスの一つや二つ覚えていた方がいいだろうなと思っただけだよ」
案の定、エドガーの言い出したことはとんでもないものだった。
何も企んでいないと、ついさっき言ったばかりの口で。何を言うのだこいつは。
「パーティーって……あなた、何考えて……っ」
とっさのことに怒鳴りつける言葉も浮かばない。
「あぁ、そうは言っても知り合いを少し招くぐらいの小規模なものだよ。知り合いに義妹ができたって言ったら、それはもう興味をもたれちゃってね。紹介しろ紹介しろってうるさいんだ。僕としては、可愛い妹を他の男になんか紹介したくはないんだけど、下手に噂になって尾ひれがつくのも嫌だからね。それなら大人しく紹介しておこうかと思って」
貴族に、紹介。
眩暈を感じて、目の前の憎たらしい男の顔も、一瞬、見えなくなった。
「どうかな、リディア。あぁ、パーティーとなったら新しいドレスも作らないと。どんなのがいい? リディアの好きなのを作らせてあげるから。今日贈ったドレスはどうだったかな。君の髪とあのドレスはよく似合うと思うんだけど……」
エドガーは、まだ何かを一人でしゃべっている。
その声を遠くに聞きながら、もう限界だとリディアは思った。



 *



この家を出て行こう。
少し前から薄々とは考えていたことを、この日いきなりリディアは決意した。
そうとなればやることはもう簡単で、持っていた大きな鞄に服を何枚か詰め込んで、リディアは部屋の窓を大きく開けた。夕食はもう食べた。腹ごしらえもして、やる気と気力は十分だった。
「ニコ、行くわよ。もうこんなところにいるのはごめんだわ。あたしはあの人のオモチャなんかじゃないんだから!」
人を見せびらかすためのパーティーだなんて冗談じゃない。貴族の、あんな奴の道楽になんか、これ以上付き合ってなんかいられない。
準備万端で振り返ったリディアに、けれどニコはまだソファの上でブランデーを舐めている。ちらっとリディアを見上げた瞳は、完璧にあきれ返っている。
「ちょっとニコ。逃げるんだから早く用意しなさいよ」
「逃げるって、こっからどこに行くんだよ」
「そんなの出てから考えるわ。これ以上あの人のオモチャになんかされたくないの。あたしはお人形じゃないのよ」
人としてのプライドを、ここにいるとことごとく踏みにじられているような気がして仕方ない。
きっと、そんなつもりはないのだろう。贈り物をしながら、そんなことを考えているとは思えない。けれどだからこそ厄介なのだとリディアは思う。豪華なものを与えさえすれば、簡単にリディアが懐くと思っている。恵まれなかった孤児だから、きっと簡単に喜ぶだろうと。そんな思いそのものが、リディアにとっては何よりも重苦しいものだった。そんな風に思ってほしくはない。だけど彼は貴族だから。恵まれた人だから。
多分これはもう、超えられない差があるのだろうから。
きっと彼だけを責めるのは間違っているのだ。一緒に暮らすことこそが間違っている。
「おれは嫌だね。ここの紅茶は美味いからな」
「……あっそ。じゃあニコは好きなだけここにいたら? あたしはもう帰ってこないわよ!」
こんな時まで薄情な妖精猫にリディアは心底から苛立った。仮にも相棒なんだから、素直に着いてきて欲しかったのに。でも妖精なんていつだって自分勝手なものだ。よっぽどニコはこの家が気に入ったのだろう。確かに、食事や寝床だけを考えればここは最高だ。
「帰ってこないったってなぁ……絶対あの伯爵に連れ戻されるぜ」
「何で決め付けるのよ。それに、そこまであの人がするとは思えないわ」
リディアがいなくなったら、きっと違うオモチャをすぐに探すだろう。そう考えると、寂しいというよりは何だか空しかった。どうしてか泣きたくなってしまって、リディアはそんな気持ちを追い払うように頭を振った。
「じゃ、あたしは行くわ」
ニコは溜息をつくだけで、引き止めてもくれない。何よ、と心の中で呟いて、まず先にとリディアは窓から鞄を地面に投げ捨てた。
リディアの部屋は二階だ。洋服しか入っていない鞄は、小さな音を立てて地面に落ちる。それすらも今のリディアの耳には大きく聞こえて、屋敷の者にきづかれやしないかとどきどきした。
「……大丈夫そうね」
少ししても、だれかが出てくる様子はない。ほっと胸をなでおろしてから、リディアは窓近くまで伸びている太い木の枝に手を伸ばした。
「おい。危ないぞ」
「平気よ。慣れてるもの」
前いた孤児院では、洗濯物が風に吹き飛ばされて木の枝にひっかかってしまうようなことがよくあった。その度にリディアは何度も木に登っていたのだ。木登りには慣れている。
枝に掴まりながら、えいっと飛び移り、太い木の幹に飛び移る。それでも、こんな風に窓から飛び移るのは初めてのことだったから、少し心臓がどきどきした。こんな所で落ちては溜まらない。
ちらり、とリディアは下を見た。窓から見下ろした時には、それほどの高さには感じられなかった。けれどどうしてだろう、今、木の幹にしがみつきながら見た地面は、驚くほど遠く感じられた。夜というのも、またいけないのかもしれない。今まで木登りをしたのは全部昼間のことで、暗い中高い所にいるのが、これほどまでに怖いことだとは思わなかった。日の光りがないだけで、うんと地面が遠くなったような気がする。
「……っ」
ちょうどタイミング良く風なんかが吹いてきて、リディアはますます幹にしがみついた。このままじゃいけないと思って、どうしても足を動かせない。
「おい、大丈夫か?」
心配そうにニコが窓から顔を覗かせてくるが、ニコでは何の役にも立たない。いつだって自分は安全なところにいて、高見の見物ばかりしてるんだからと心の中で毒づくぐらいのことしかできなかった。下手に怒鳴り声なんかあげれば、そのまま足を滑らせて落ちてしまいそうだ。
「まーったく、だからんなことしなきゃいいのによ……」
ろくに止めもしなかったくせに、こんな時ばかり保護者面をする薄情な相棒に、リディアはむっと眉を寄せた。今までリディアに優しくしてくれるのは妖精ぐらいしかいなかったけれど、本当になんて自分勝手な生き物なんだろうと思う。けれど、そんな自分勝手な生き物ぐらいとしか、リディアはまともに付き合ってはこれなかったのだけれど。その上、この家に来たらオモチャ代わりになんかされて―――あぁもう、我ながらなんて惨めな生活なのだろうと思ったら、悔しさに身体が動いた。足がずるっと滑る。
「きゃ…っ」
「リディア!?」
慌てたニコの声が聞こえてくるが、やはりそれだけ。まったく、ニコなんているだけで何の助けにもならないんだから!
落ち着いて、落ち着くのよ……必死にリディアは自分に言い聞かせる。焦ってはダメだ。焦ったら余計に滑ってしまう。この高さから落ちて、無事で済むとは思えない。こんなことぐらいで躓いていては、これから先一人でやっていけるわけがない。
必死に木の幹にしがみついたまま、宙ぶらりんになってしまった片足を動かす。何とか枝に足を乗せることができてほっとした。けれど、一度足を滑らせてしまったらさらに怖くなって、そこから動くことができなくなってしまった。心なしか、風は少し強くなったような気がする。
「……助けを呼んでくるか?」
少し遠慮したような声でニコは言う。
「助けって……あの人を? 止めてよ、そうしたら逃げ出せないじゃない!」
「だけど、落ちて怪我なんかしたら元も子もないだろ」
ニコの言うことはもっともかもしれない。だけどそんな、それこそ惨めすぎる。あの人のやることが嫌で、オモチャ扱いされるのが嫌で、それでここを出ていこうとしたのに。
それなのにあの人に助けられるだなんて、絶対嫌だ。
だからリディアは、ニコを行かせることだけは何とかしても止めなきゃいけないと思ったのに、その必要すらもなかった。
小さな明かりが近づいてきていた。それがランプの光りだと―――レイヴンが手にしたそれだとわかるまで、さほどの時間は必要ではなかった。当然のように、その隣にはエドガーもいる。もうやだ、とリディアは泣きたくなった。
「リディア……そこで何をしてるのかって聞きたい所なんだけど、生憎とそんな余裕はなさそうだね?」
余裕のある口調はそのままに、若干の呆れも混じっている声音だった。今更エドガーに呆れられたって、そんなことどうでもいいはずなのに、どうしてか胸に小さな痛みが走った。
「エドガーさま、わたしが」
「いや、いいよ。妹の危機ぐらい助けられなきゃ、この先も兄なんてやっていけないだろうからね」
簡単にエドガーはそう答えると、慣れた手つきでするすると木に登ってきた。立派なコートを着て、きちっとネクタイなんか締めた貴族が木登りをしている、その滑稽極まりない様子に、リディアは怖がることも忘れてぼうっとエドガーを見つめた。けっこうな高さがあるのに、エドガーは臆することなく上り続け、そうして程なくしてリディアと同じ位置までやってきてしまった。
「さぁ、リディア。おいで。大丈夫、怖くないから一緒に降りよう」
「な、なに……あ、あなたバカじゃないのっ? 木登りする貴族なんて聞いたことないわよ!」
「僕としては、木登りする淑女なんてものも聞いたことがないんだけどね」
「あたしは淑女なんかじゃないもの。そんなこと知ってるでしょう?」
「女性はみんなレディだよ。どれだけ美しくなれるかは、その人の心持ちと、相手の男の力量にかかってる」
いつもそんなことを言って、他所で女の人を口説いているのだろうか。何となくそんなことが気になってしまって、リディアはそんな自分自身の思考に慌てた。そんなことを考えている場合ではないのに!
ほら、とエドガーは腕を伸ばしてくるから、さらに慌てた。こんな風に、だれかに優しく手を差し伸べてもらったことなんてない。あっちに行けと、追い払われたことなら何度もあるけれど、その逆なんて今までなかった。
……それが、どうして、この人なんだろう? あたしはオモチャのはずなのに、どうしてここまでしてくれるの?
「あなた……あなた、やっぱり変よ。あたしのことなんて好きじゃないはずなのに、どうして……っ」
「リディア、そのことについては後でゆっくり話し合おう。僕の気持ちをどうしたら受け入れてくれるのかはわからないけど……とにかく、ここは話し合いに相応しい場所とは思えない。風も強くなってきたから」
どこか焦ったエドガーの声。伸ばされる腕。でも、どうしてもそれをとることができない。
今まで自分から、エドガーに触れたことなんてない。今彼の腕の中に入ってしまったら、二度と抜け出せないような気がする。自分でも、そんな気持ちがよくわからない。……どうして、こんな、気持ちになるのか。
「リディア」
苛立ったように、エドガーは名前を呼ぶ。
「お願いだから……リディア、僕の言うことを聞いてくれ」
懇願する彼の様子は少しおかしかった。貴族で、伯爵で。お金も地位も美貌も何もかもを兼ね備えている人。ここでリディアが一人欠けたって、彼はちっとも痛くもかゆくもないだろうに。
まるで、そうでないと、そうではないのだと、リディアに錯覚を覚えさせてしまうぐらいには、今のエドガーは真剣だった。
風に、髪がなぶられる。錆色の冴えない髪が。ふとそれを目で追った。エドガーの眩い金糸とはひどい違いだと思った。強い風に、身体が持っていかれた。
「リディア…っ!」
それは、ニコの声だったのか、エドガーの声だったのか。
落ちる、と思った瞬間には、リディアはぎゅっと目を瞑っていた。
襲ってくるだろう衝撃に、必死に耐えようとした。枝の間をすり抜け、身体は落ちる。髪がひっかかり、けれど重力に従い容赦なく地面に向かってゆく。服が破かれた音がした。枝が、肌を傷つける。けれどそれすらも、やがて来る衝撃に比べれば、些細なもののはずだった。
「―――っ」
地面に、身体がぶつかったとわかった。けれど、頭でそう判断できるぐらいには、リディアは冷静だった。てっきり痛みで何もかもがわからなくなるぐらいだと思っていたから意外だった。
何だ、大したことないじゃない―――と、目を開けるまでは思っていた。
「え……」
どうしてか、木の上にいたはずのエドガーまでがそこにいた。腕がしっかりと自分の身体に回されていたことに、リディアは心底から驚いた。さらに彼は、リディアの下敷きになっていた。
つまり、これは―――これは、つまり、彼が…………
「エドガーさま!」
いつでも冷静なレイヴンが、声を荒げるのをリディアは初めて聞いた。慌てて駆け寄ってくるレイヴンの表情は、それでもいつもとは変わらなかった。けれど焦っているのが声音でわかる。リディアは慌ててエドガーの上から退いた。
「エドガーさま、腕が」
腕? と、リディアはのろのろと視線を動かした。頭を押さえながら身を起こしたエドガーも、緩慢な動作で自分の腕を見る。
リディアと同じように、上等なコートは所々破けていた。たくさんの葉がついている。そして、腕には―――腕、には。そう細くはない枝が、深々と刺さっていた。リディアの顔から血の気が引いた。
「あぁ……しくじったな。上手くリディアをかばって落ちたと思ったんだけど」
「エドガーさま、早く手当てを」
「いいよ、それよりも……リディア、大丈夫だった? あぁ、怪我してるじゃないか」
自分の怪我よりも、リディアの擦り傷に痛そうに顔を歪めると、枝が刺さっていない方の腕を伸ばして、リディアの頬に触れた。
「レイヴン、僕よりもリディアの方の手当てを先に」
「しかし、エドガーさま」
「女の子に傷が残ったら大変だ」
それがまるで当然のことのように言うエドガーに、リディアはばっと立ち上がった。エドガーを見下ろして叫んだ。
「あ、あなた、本当にバカじゃないのっ!? あたしの怪我なんて全然大したことないじゃないっ! それより自分のことの方が……あ、あなた、あたしのことかばって……かばって、腕に、腕に……そんな、怪我、して……っ」
自分でもわからないほど感情が高ぶって、目から涙が溢れてきた。
だってこんなにバカだと思わなかった。大嫌いと面と向かって言ってしまったことが何度もあるような相手だけど、こんな怪我をしてほしかったわけじゃないのに。
腕に枝を刺しながら、どうして人のことを気遣えるのか。リディアが多少の怪我をしたって、だれもきっと困らない。レイヴンは今、エドガーの怪我をものすごく心配しているのに。
「自分のことを考えなさいよ…っ!」
エドガーは、もしかしたら人から怒鳴られるということに慣れていないのかもしれない。
一瞬、少し子供っぽい、きょとんとした無防備な表情になった。
そして、それから、見てるこっちが不思議になるような笑顔になった。とても怪我をしている人とは思えないほど、嬉しそうな笑顔に。
「うん……ありがとう、リディア。やっぱり君は、僕が思った通りの女の子だね」
「何よ……!」
まるで怪我なんかしていないように、しっかりとした足取りでエドガーは立ち上がり、リディアの涙をすくった。



 *



ここまで来たものの、扉をノックする勇気はなくて、リディアは廊下に立ち尽くしていた。
いい加減足も疲れてきたし、やっぱり帰ろうと踵を返した時、扉が開いてレイヴンが出てきた。
「何か?」
相変わらず無表情だったが、怒っているように見えるのは、リディアに罪の意識があるからなのか。
「えっと、あの……怪我、大丈夫かと思って……」
俯きながら小さな声で言うリディアを気遣う様子もなく、レイヴンは「大丈夫です」と淡々と答える。
「そ、そうなの……? あ、あんなに深く刺さってたのに……?」
「しばらく安静にしていれば傷は塞がるとのことです」
「本当に……?」
レイヴンは、どうしてリディアがそこまでしつこく聞くのかと不思議がるように、小さく小首を傾げつつも頷いた。ほっとして、リディアは今度こそ部屋に戻るつもりだった。
「エドガーさまにお会いになられないのですか」
「え……だって、寝てるでしょ? それに別にそんな……あの、どうしてそんなこと聞くの?」
「いえ、エドガーさまがあなたのことを気にしてられたので」
屋敷に入ってからは、ちょっとした騒ぎになってしまった。屋敷の主が怪我をして帰ってきたのだからそれもそうだろう。リディアはすぐに自分の部屋に連れていかれ、簡単な手当てを受けた。ニコには当然のように呆れられ、むかついたから尻尾に妙な癖をつけてやったら、部屋から逃げ出してまだ帰ってこない。
「……会って行ってもいいの?」
自分の所為でエドガーは怪我をしたのだ。きちんと謝るべきとも思ったが、おめおめ顔を出すのも気がひける。だからもう何十分も、リディアは部屋の前で立ち尽くしていたのだ。
「エドガーさまに聞いて参ります」
「あ」
リディアはレイヴンの意思を聞いたのだが、レイヴンは出てきたばかりの部屋の中へと戻って行ってしまった。レイヴンの姿が見えなくなると、とたんに恥ずかしくなってきた。大体にして、もう夜も遅い。そんな時間に部屋を訪ねるなんて、失礼にも程がある。エドガーだって、きっとゆっくり休みたいだろうし。
やっぱり明日改めて……と考えていたリディアは、出てきたレイヴンから「どうぞ」と招き入れられて戸惑った。
「え……寝てるんじゃないの? 大丈夫なの?」
「まだ起きてらっしゃいます」
事務的に、「どうぞ」とレイヴンは言葉を続ける。もう逃げられるはずはなかった。覚悟を決めて、リディアは一歩部屋の中に入る。
意外にも、落ち着いた色合いの部屋だった。リディアに与えられた部屋とは間取りも違う。広い部屋を横切って、レイヴンは一つの扉を開けた。
そろそろと、リディアは足を踏み入れた。レイヴンは着いてきてはくれなかった。そこは寝室だった。
「リディア。来てくれるなんて思わなかった」
「え、あの……」
寝てはいなかったが、エドガーはベッドの中にいた。男性の寝室にいきなり入ってしまった戸惑いに、リディアはそこから動けなくなってしまった。
「別に平気だと言ったんだけど、動くと傷口が広がるからって、医者とアーミンが寝てろってうるさくてね。だからごめん、こっちまで来てくれるかな。大丈夫、妹相手に妙なことはしないよ」
「え、えぇ……」
妙なこと、というのがどんなことを指すのかよくわからなかったが、怪我をしているのだから妙な真似はできないだろう。動くときっと痛いだろうから。
ゆっくりベッドまで近づいていくと、エドガーは枕を背にして微笑んでいた。ぽんぽん、とベッドを叩くから、なるべく揺らさないように気をつけながらリディアはベッドに腰掛けた。男性のベッドに腰を下ろしたのなんてこれが生まれて初めてだ。心臓がものすごくうるさい。
「良かった……それぐらいなら、傷は残りそうにないね」
「え? あ、当たり前じゃない。あたしのはかすり傷なんだから……」
「でも、女の子だから。顔に傷なんて残ったら大変だよ」
それどころではない大怪我をしたばかりなのに、どうしてこの人は人の心配ばかりしていられるのだろう。不思議に思いながら、リディアはエドガーの顔を見つめた。この人は、一体何を考えているのだろう。
「リディア? 妙なことはしないと言ったばかりだけど、そんな風に熱く見つめられるとその決心も揺らぎそうになるんだけど」
「は? あたしは別にそんな……そうじゃなくて、あなたのことがよくわからないなと思って……っ」
「何がわからない? 君が知りたいのなら全部教えてあげるよ」
そう言って、エドガーは手を伸ばす。リディアの髪に指をくるくると絡ませる。いつもなら止めてと振り払っているのに、今はどうしてかそれができない。
「あたしは……あたしは、だって、あなたが……」
「怖かった?」
エドガーの台詞は唐突だった。
少なくとも、そのはずだった。
―――けれどそれは、核心をついた台詞だった。
「な、に……」
「僕の言葉が信じられなくて怖かった? 君はいつも、どこか逃げる瞳をしていたから。僕のことも、周りのことも、何も信じられなかった?」
逃げる瞳。そんな瞳を。彼の前でしていた自覚なんてリディアには無い。
「傷ついてる猫のようだなって思ったんだ」
「……は?」
「初めて見た時。一見すると何でも無い普通の子みたいなんだけど……人を嫌ってる猫のような。懐かせるのは楽しいだろうなと思った」
「…………」
「それに、きっとものすごく大事な子になるんだろうなって。ものすごく愛しい、そんな子になるだろうって」
おいで、と、エドガーが両手を広げた。
何をしているのだろう、この人は。そんなことをされても、リディアは何もできない。動けない。
もどかしいと言うように、エドガーの方が腕を伸ばした。身体が浚われる。さっき守ってくれたのと同じ腕が、同じようにリディアを閉じ込める。痛くはないけれど、逃げ出せないぐらいには強い力で。
「君はきっと、僕にはわからないような辛い生活をしてきたんだろうね。君のような暮らしをしてきた子が、貴族を信じられないと思うのも無理はないと思うよ」
「わかってるのなら……それならっ」
「でも僕は本気だ。すぐには信じられなくてもいいよ。ゆっくりでいいから、僕を信じる努力をしてくれたら嬉しいな、リディア」
耳元で聞こえる声は、耳がとろけそうになるぐらいには甘く頭に響く。
大嫌いな奴に抱きしめられているはずなのに、身体はちっとも動かない。暴れることができない。大人しく、されるがままになってしまう。
「でも……そんなこと言っても、あなたが飽きたら……」
「言葉で言っても信じられない? でもね、とっさに君をかばって木から飛び降りれるぐらいには本気だよ。それでもダメかい?」
「……っ」
それを言われると、もうリディアには言い返す言葉も残ってはいない。
だって本当に、そんなことをするとは思わなかった。今でも不思議だ。かばってもらえる価値なんてなに一つもないのに、エドガーは躊躇わずにリディアを守ってくれた。
貴族は嫌いだけど、エドガーはもしかしたら、そんな人たちとはちょっと違うのかもしれないと、信じたくなるぐらいには、衝撃的な出来事だった。
「もう怖くないよ、大丈夫。僕が君を守るから」
ぽんぽん、と背中を叩かれる。それは幼い頃に亡くした両親を思わせた。涙腺が緩む。だれかにこんな風に優しくされる、それがこんなに嬉しい、安心できることだと少しの間忘れていた。
―――大丈夫? 大丈夫? 信じても……好きになっても、本当に、大丈夫なの?
ぽんぽんという、背中の響きは暖かくて。


気がつくとリディアは眠ってしまっていた。

大嫌いなはずの、エドガーの腕の中で、泣きながら眠ってしまっていた。
(07.2.19)