白い花の気が向くままに


「何か、すっかり懐いちまったな」
と、ニコが言ったのは、午前中のリディアの勉強時間が終わった後、二人で(というか、一人と一匹と言おうか)のんびりとお茶を飲んでいる時のことだった。
「懐いちゃった……って、何がよ?」
ニコの声音から、彼の言いたいことが何だかあまりよくないことであるのはわかった。
案の定、器用にカップを持ち上げながら、薄情な相棒猫が言った言葉に、リディアは小さく眉を寄せずにはいられなかった。
「だから、あんたがだよ。あんなに嫌ってたくせによ、今じゃすっかり伯爵に撫で回されてるんじゃないか」
「撫で回されてなんかないわよ」
そりゃ、確かに頭をなでられたり、髪をとってキスされたり、昨夜なんて「家族なんだからおやすみのキスぐらい当たり前だろう?」なんて言われて、頬にまでキスをされてしまった。さすがにそれにはびっくりしたから、「何するのよ!」と平手をお見舞いしてやろうとしたのだが、惜しくも避けられてしまった。楽しそうに笑った顔が忘れられない。
「出てくって騒いでたくせに、現金なもんだな」
「だって、それは……何よ、ニコだってエドガーのことは気に入らないけど、食事が美味しいからここにいるんでしょう?」
あたしと同じ、とは言えなかったが、ニコだって十分現金なものだとリディアは思う。もっとも、昔から妖精と付き合っている彼女にとって、彼らがそんな自由気ままな存在であることは百も承知だ。
「ここの執事は紅茶の入れ方が上手いからな」
「あたしは、もしかしたらエドガーのことも好きになれるかもしれないと思って……人間にだって色んな人がいるんだもの。貴族だからってひとくくりにして嫌いだって決め付けるのはどうかと思ったのよ。あたしのことを助けてくれたし、こうやって色々良くしてくれるもの。そんなに悪い人じゃないわ」
「あぁ。あの伯爵、顔だけはいいもんな」
「別に顔がいいからってわけじゃないわよ! 顔なんて関係ないんだからっ」
リディアがそんな女の子じゃないことぐらい、ニコだってよく知っているだろうに。それでもそんなことを言うのは、よほどエドガーのことが気に入らないからか。そういえば初対面の時、「これが君の飼ってる猫かい?」と、エドガーはひょいっとニコの首の皮とつかんで持ち上げてしまったのだ。そうやって猫扱いされたことを根に持っているのかもしれない。猫妖精のくせに、ニコは一人前に紳士を気取っているから。
「リディアさん、食事の用意ができました」
召使用の扉から、アーミンが入ってきた。アーミンはエドガーの従者だが、今ではすっかりリディア付きとなっている。人に世話されることに慣れていないリディアは、アーミンがこうしてやって来ると、何だか少し申し訳ないような気になってしまう。慌てて立ち上がって笑顔を向ける。
「あ、ありがとう。今日はエドガーもいるの?」
「はい。今日は天気がいいので、テラスで昼食をとるそうです。エドガーさまももうお待ちですわ」
テラスで食事だなんて、本当、貴族というのは何て優雅な生活をしているのだろうと呆れてしまう。正式にこの家に引き取られることを認めた今でも、リディアはどうしたって貴族の生活に慣れることはできない。きっと一生無理だろうと思う。
食事は確かに美味しいけれど、今まで見たこともない料理ばかりで毎回驚きの連続だし、高そうな食器を壊しやしないかといつも少しどきどきしている。ただ廊下を歩いているだけでも、飾られている絵画やら壷やらは素人目にも見事なもので、もしうっかりぶつかってしまうようなことがあったらと、横を通る度に考える。
こんな所で、よくもまあ平気で暮らせるものだとリディアは思う。
でも、生まれた時からこんな環境で生活している人たちからとってみれば、これは当たり前の、ごくごく普通の世界なのだ。それこそリディアにとっては信じられないことであったが。
アーミンの前でも平気でカップを持ってお茶を飲んでいるニコを置いて、アーミンに案内され屋敷の中を歩く。興味はあったが、慣れない貴族の屋敷を一人でほいほい歩くのも気が引けて、リディアの知らない部屋はまだまだたくさんある。むしろ、知っている部屋の方が少ないぐらいだ。
「こちらです」
案内された場所には、言われた通り先にエドガーが待っていた。日の光に金髪が透けてきらきらと輝いている。ネクタイピンやカフスについた宝石よりも、エドガーの髪の方がずっとキレイだとリディアは思った。確かに美しいとは思うが、宝石の価値はリディアにはよくわからない。自分とはあまりにも縁遠いものだったから。
「あぁ、リディア」
そうしてそんな人が、自分を見るだけでこんな優しい笑顔を浮かべるのが、今更ながらにリディアには不思議だ。
今までだれからも、こんな笑顔を向けられたことはない。こんな、傍にいるだけで幸せだとでも言うかのような、とろけてしまいそうな笑顔をリディアは今まで知らない。
だからだろう、エドガーに見つめられるだけで心臓がうるさくなる。慣れないことばかりの連続で、そのうち心臓がどうにかなってしまいそうだ。
「勉強はどうだった? 家庭教師にいじめられなかったかい?」
「大丈夫よ。ちょっと厳しいけど、それはあたしが何にも知らないからだもの」
「でもリディアは、飲み込みの早いいい生徒だって言ってたよ。もちろん僕の可愛い妹なんだから、お手柔らかにとは頼んでおいたけどね」
嘘かホントかはわからない。でも、そう言われて悪い気はしない。もっとも、ちょっと胸の奥がむずがゆくはあったけれど。
「たまにはテラスで食事をするのもいいだろう? ロンドンじゃ、こんないい天気は滅多にないからね」
「えぇ、そうね」
「日の光りに当たると、そのキャラメル、ますます美味しそうになるんだね」
リディアの鉄錆色の髪を、そんな風に呼ぶのはエドガーだけだ。美味しそう、と言われるのが褒め言葉なのかどうかわからないまま、エドガーが引いてくれた椅子に腰を下ろす。こんな風に扱ってもらえるのも、ここに来てからが初めてだ。
「本当、食べてしまいたくなるな。ねぇリディア、どうしてくれるんだい?」
えっと。
どうしてくれるんだい、って言われても。
「……今から美味しい食事が来るんだから、それを食べればいいんじゃないの?」
戸惑いながらもリディアがそう答えると、一瞬エドガーは驚いたように目を大きくした。そして形の良い唇から、ぷっと小さな笑いが飛び出す。
「え、あの、エドガー?」
「まったく……君といると、本当飽きることがないよ。女性のことなら大体はわかっているつもりだったんだけど、それが僕の自惚れだったことに気づかないわけにはいかないな」
一体何がどうしたの、とリディアが聞くよりも先に、テーブルの上に料理の盛られた皿が運ばれてきてしまった。時たまエドガーは、こうしてリディアの言葉に笑い出す時がある。笑われることを言ったつもりのないリディアは、いつだって首を傾げるだけだ。
これも、あまり人付き合いをしてこなかった所為だろうか。変わり者といじめられることが多かったから、親しい友人なんていなかった。優しくしてくれる人もたまにはいたけれど、友達と呼べるほど仲良くなれることはなかった。どうしたって、リディアが一歩引いてしまっていたから。
慣れない手つきでナイフとフォークを操りながら、教えられた通り、なるべく上品に口の中に食べ物を運ぶ。少しずつではあるが、様になってきていると思いたい。
「ところでね、リディア」
他愛もない話をしながら食事を続けていると、突然エドガーが改まった声を出した。
「君に話しておかなきゃいけないことがあるんだ……いきなりで悪いんだけど」
「え……な、何?」
エドガーは変わらず柔らかな笑みを浮かべているけど、その口元はどこか寂しげだ。
心臓が、先ほどとは違う意味でどくどくとする。口の中に入れた肉の味を感じなくなる。何か悪い話だろうか。何か。
「実はね、僕の領地でちょっと問題が上がっていて、数日の間この家を留守にしなきゃいけなくなるんだ」
「あ……何だ、そんなことなの」
もしかして、やっぱりこの家を出ていってほしいとか、そんなことを言われるのかとちらっと考えてしまったから、安堵感にリディアは思わず素直な呟きをもらしてしまった。
と、穏やかな笑みを浮かべていたはずのエドガーの表情が引きつる。
「あのね、リディア。そんなことって君は言うけど、僕にとって君と離れるこの数日間がどれほど辛いものなのかわからないのかい?」
「え、だって、別に数日なんだから……」
リディアは全然構わない。多少寂しいと思わないこともないが、そんな小さな子供ではないのだ。留守番ぐらいしっかりできる。
「本当なら、できれば君も一緒に連れていきたいぐらいなんだ。だけど、ここでの生活にも慣れ始めたばかりなのに、行ってすぐに帰ってくるような日程じゃ君には辛いだろうって、アーミンに止められてね」
エドガーは、少々恨みがましいような目で、給仕をしていたアーミンをちらりと見た。
「リディアさんのことを本当に大事になさるおつもりがあるのでしたら、我侭はお控え下さい、エドガーさま。エドガーさまにとっては慣れた旅でも、リディアさんにとってはそうではありません」
「あぁ、わかってるよ。もうその台詞は何度も聞いた」
何度も、ということは、つまりこの件に関してエドガーは何度もアーミンに食い下がったということだろうか。
アーミンはただの従者で、エドガーはその主人なのだから、本来ならばエドガーはエドガーの好きにできるはずなのに。何だか従者というよりも、もっと近しい家族のようなのかもしれないとリディアは思った。レイヴンはエドガーの言うことに意見するようなことは無かったが、アーミンはそうではない。リディアのことを考えて、エドガーにそう意見してくれる。
「確かにその土地は、物見遊山にも向かない土地だしね。辺鄙なところが多いんだ。観光に向くところなら、数日滞在したっていいんだけど……」
「別にいいわよ。あたしはここで待ってるから、一人で行ってきたら?」
大丈夫だと安心させるために言ったつもりだったのだが、エドガーの悲しそうに下げられた眉を見て、ちょっと言葉が足りなかったかもとリディアは焦った。
「えっと……あの、だから、ちゃんと大人しく待ってるから。別にあなたと行きたくないとかそんなわけじゃないけど、行って帰ってくるだけなのならあたしがいても邪魔でしょうし、それにアーミンの言う通りやっぱり疲れるだろうし……だから、エドガーは気をつけて、仕事をがんばって……」
だんだん、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。自分の気持ちを、上手く言葉にするのが難しい。
そんなリディアの気持ちを察してくれたのか、エドガーはふっと微笑んだ。扇情的な瞳がリディアの瞳を射る。
「わかったよ。君が見送ってくれるのなら、きっとすぐに帰ってこれるだろうな。見送る時に、行ってらっしゃいのキスをしてくれる?」
「え」
何であたしが。
「頬でいいよ」
返事に困っていると、デザートのアイスが運ばれてきてしまって、その会話はそこでお仕舞いになった。
本当に頬にキスをしなきゃならないのだろうかと、リディアは悩む。でも、ベッドに入る頃には、そうは言っても当日の出発の時になったら色々慌しくて、きっとこんな一方的な口約束なんて忘れてしまっているだろうと、リディアは軽く考えていた。
だから、執事のトムキンスさんや他の召使と一緒に、屋敷の入口まで見送りに行った時、
「さぁリディア、数日間会えないお兄様に、何かすることがあるだろう?」
と、それはもう満面の笑みで言われた時には、思い切り固まってしまったぐらいだった。
結局は、時間に押され、早くしてくれという召使達の視線に堪えきれず、ほんの一瞬、リディアの唇はエドガーの頬をかすった。エドガーがいつもリディアにしてくる、優しい温かなキスとは違って、本当に一瞬掠めるだけの刹那のキスだった。
恥ずかしくて、次の瞬間には踵を返して廊下をかけもどった。
「リディア! 僕がいない間いい子にしてるんだよ!」
背中にエドガーの声がかかる。子ども扱いして、と、毒づきながら廊下を駆けた。



そんなエドガーが屋敷を出て、もう一週間以上が経っていた。
「……ねぇニコ。数日って、五日や六日ぐらいのことじゃなかったの?」
「さぁな。そんなん人それぞれだろ」
散歩から帰ってきたニコは、今度は昼寝でもするつもりなのだろうか。ソファの上にだらしなく寝そべって目を閉じてしまった。
ニコにとって、エドガーがいつ帰ってくるかなんて、それこそどうでもいいことなのだろう。エドガーがいなくったって、ニコには毎日熱いお茶を入れてくれる執事のトムキンスさんがいればそれだけでいいのだ。
リディアだって、つい最近までは何とも思わずに生活できていた。家庭教師に勉強を教えてもらい、のんびりと本を読んで、たまにはニコと庭で昼寝でもして(もっともこれは、見つけた召使がトムキンスに報告し、連れ戻されてしまったが)。
けれど、あれからもう一週間以上が経っている。
エドガーは、まだ、帰ってこない。
……少しばかり、遅くはないだろうか。
「もしかして、何かあったのかしら」
「何かって何だよ」
「問題があるからって領地に出かけて行ったのよ。その問題が上手く解決できないとか、何かに巻き込まれたとか……」
「あの伯爵なら平気だろ。それに、何かあったらこっちに連絡がくるはずだろ?」
それはニコの言う通りだったから、リディア「えぇ」と力なく頷いた。アーミンもエドガーについて行ってしまったから、身近に気軽に口を聞ける相手がいないのが辛かった。メイド達にとって、いくら元が孤児でも今はエドガーの義妹というリディアの身分は、それこそ屋敷の主であるエドガーに準じるものらしい。最低限の口しか利いてはくれないし、そもそもメイド達が今エドガーがどうなっているのかなんてことを知っているはずもない。
「トムキンスさんに聞いてみようかしら」
執事である彼なら、きっと何か知っているだろう。ここで悶々として、ニコと不毛な会話を続けているよりかはずっとマシなはずだ。何かあったのなら知りたいし、何もないのならそれでいい。
「あたし、ちょっと行ってくるわね」
「ったく、あの伯爵がいない時ぐらい静かにできねぇのかよ……」
ニコが小さく文句を言う声が聞こえたが、気づかなかったフリをして、リディアは部屋を出た。
トムキンスを探して歩くが、そういえば彼が普段どこにいるのかリディアは知らない。今まで何度も会ったことがあるが、それはエドガーと一緒にいると、大抵何か用事があってトムキンスがやって来るというパターンだったのだ。だから自分からトムキンスを探したことなんて今まで一度もない。その必要も無かった。
「執事さんの部屋ってどこなのかしら……」
だれかに聞こう、と思っても、こんな時に限って廊下を歩いているメイドもいない。そもそもメイドなんて、そうそう人目につくところを歩いているものではないし、今は屋敷の主であるエドガーがいないから、その分仕事も少ないのだ。
この広い屋敷の中を、道もわからずに彷徨うのは、それこそニコとの会話以上に不毛なもののように思えた。一度部屋に戻ってメイド頭のハリエットさんを呼んで、とりあえず彼女に聞いたみようか。リディアがそう思った時だった。
廊下の向こうから、だれか人が歩いてくる。召使かとも思ったが、それにしてはいいコートを着ている。それに何より、杖を持っている召使なんていない。
薄い茶髪の、賢そうな目をしている、なかなかに整った顔をしている青年だった。年はエドガーと同じぐらいか。リディアに気づいて人懐っこい笑顔を浮かべる。いい人そう、とリディアも笑顔を返した。
「初めまして、お嬢さん」
「初めまして、こんにちは。……あの、あなたはエドガーのお友達?」
見た目的にそうとしか思えなかった。案の定、青年は笑顔で頷く。
「あぁ。あいつとは昔からのね。おっと、名乗り遅れたが、俺はウォルト・ルーサー。弁護士をやっている。以後よろしく」
手を出してきたので、握手かと思って素直に右手を差し出したリディアは、まるで淑女にするように手の甲にキスをされて驚いた。相手がエドガーの場合、それは毎日のことだったから、多少は慣れてきたといえなくもなかったが―――あぁそうか、こんな屋敷にいて、こんな立派なドレスなんかを着ているから、こんな扱いをされるんだわと思うと、何だかものすごく落ち着かない気分になった。騙しているわけではないけど、何だか心苦しい。
「ところでお嬢さん。名前も聞いてもいいかい?」
「あ、はい。リディアです」
「もしかして、エドガーが一目惚れして引き取ったっていう、あの……?」
ウォルトの瞳が楽しげに輝く。思いもかけず正体を言い当てられて、リディアの身体はびくんと震えた。
「え、あの……どうして、わかったんですか……?」
こんなキレイなドレスを着せてもらっても、やっぱり着こなし方が悪いのだろうか。エドガーは可愛いと言ってくれるけど、やっぱり似合っていないのか。
「いや、なに。俺は何度かこの屋敷にお邪魔させてもらってるが―――あいつが留守だとわかってても、書庫を使わせてもらうのに、こうやって邪魔できるぐらいには頻繁に来てるんだけどね、今まで君を見たことはない。それにあいつから、話だけは聞いていたからね。それはもう可愛いんだって散々惚気てくれたよ。確かに、言うだけあってあいつ好みの可愛い子なんですぐにぴんときたさ」
そういえば、エドガーが、友人に自分の話をしたということは聞いていた。そうしてパーティーを開くだのなんだの言い出したのだが、それが理由でリディアが家を出ようとしたため、結局は開かれないことになった。見世物になるのは嫌だと素直にエドガーに言ったら、彼はあっさり「じゃあ止めるよ」と言ってくれたのだ。もっともその後に、「当分、僕だけの可愛い妖精でいてくれるのも悪くないからね」などと、恥ずかしいことも言ってくれたわけなのだが。
エドガーのそんな台詞も恥ずかしいが、お世辞だとわかっていても、初対面の男性から可愛いと言われるのもまた恥ずかしい。何と返事をすればいいのかわからなくて、赤い顔で俯くしかできない。
「でもなぁ。あの女癖の悪いやつが、年頃の女の子を引き取ったっていうんで、一体何を企んでるのかと思いきや……君みたいな普通に可愛い子で驚いたな」
ウォルトは何の気なしに言った言葉だったのだろう。けれど、ある単語がリディアの耳に引っかかった。
「女癖……? エドガー、女癖が悪いの……?」
瞬きをして尋ねるリディアに、ウォルトも目を丸くした。
「知らないのか、お嬢さん?」
知っているのが当然だろうとでも言うかのようなその声音に、リディアは首を緩く振るしかない。
「だ、だって……だれも、そんなこと何も言わないもの。エドガーだって、そんな……」
「そりゃ、自分から女癖が悪いだなんて公言する奴はいないだろうさ。この家の使用人だって、主人の悪口なんか言うわけがない。だけどお嬢さん、ちょっと考えてみればわかるだろ? あれだけ顔がよくて、なおかつ伯爵なんて地位持ってる奴が女にもてないわけないだろう? それにあいつの口のよく回ることときたら! 君も何か甘い言葉でも囁かれてるんじゃないのかい?」
「そ、んな……」
エドガーの顔がいいことなんてよくわかっている。伯爵という地位の凄さは漠然としかわからない。
けれど彼の口から、どれほど甘い言葉が飛び出してくるのかなんて―――どうしてそれを、自分だけのものだと思い込んでいたのだろう……ウォルトの言葉よりも、そちらの方にリディアは衝撃を受けた。
自分一人が特別だなんて、そんな傲慢な考えをしていたつもりなんてなかったのに。
「何だ、お嬢さん……本当に知らなかったのかい?」
だったら言わない方が良かったかなと、小さな声でウォルトは呟いた。
知らなかったのではない。気づかなかったのだ。エドガーとは屋敷の中で会うだけだったから、それが全てだと思っていた。エドガーが屋敷の外でどんなことをしているのかなんて、女性にもてるのかそうでないのかなんて、考えたこともなかったのだ。
「だけどな、だから俺達はちょっと心配してたんだよ。妹なんて言ってるけど、本当はどうなのかわからない、ってな……お嬢さん、何も知らないのなら気をつけた方がいい。あいつはそういう男だよ。友人としてこんなことを言うべきじゃないのかもしれないが、友人だからこそわかるんだ。あいつは女は選ばない。お嬢さんもその一人になりたくなかったら気をつけるんだな」
心配の色をありありと双眸に浮かべてウォルトは言った。
ただ彼は心配をしてくれているだけ。リディアよりも彼の方が、エドガーのことをよく知っているから。だから心配をしてくれている。初対面のリディアのことを心配してくれている。それは少し前までなら、無条件で嬉しいことだっただろうに。
ありがとうと、お礼を言うことなんてできなかった。
その代わりに、右腕を思い切り振り上げた。
先ほどキスをもらった右の手の平を、ウォルトの頬を打ちつけた。
「エドガーのことを、そんな風に悪く言わないで……っ!」
頬が熱い。涙が流れる。
「……あたしの兄さまよ……っ」
エドガーが、そんなつもりであたしを引き取ったわけがない。
初めはリディアだって疑った。ただの気まぐれ、オモチャにされるだけだろうと。
今だって、全部が全部、彼のことを信じているわけではない。でももう、家を飛び出すこともできない。あの日、助けてくれたエドガーの腕の温もりを覚えている。気がつくと一緒に眠ってしまっていて、朝起きた時それはもう驚いた。けれどあまりに彼の腕の中が暖かかったから、気持ちよかったから、抜け出すことができなかった。
優しい人だと思う。
そんなことをする、ひどい人だとは思えない。
「あなたなんか……っ!」
涙が流れて、罵倒の言葉が浮かばない。
あぁ、ここに来てから、人を罵ってばかりだわと思う。せっかく礼儀作法の勉強もしているのに、全然ちっとも役に立ってなんかいないのだ。
「リディア」
砂糖よりも、キャラメルよりも甘いその響き。
「そいつを殴りたいのなら僕がいくらでもやってあげるから、お願いだから君が手を上げるのはやめてくれ」
再び振り上げた手を、後ろからそっと優しく押さえられた。
「可愛い手が真っ赤になってしまうよ。君が痛い思いをすることなんてないんだから」
「え、エドガー……」
涙で歪んだ中にも、エドガーの微笑みだけはそれとわかることができた。
旅先から帰ってきたばかりなのだろう、少し皺のついたコートを着ている。埃っぽくもあるのかもしれない。いつも身奇麗な格好をしているエドガーに見慣れてしまったから、リディアがそんな風に思うだけなのか。
「ただいま、リディア。いい子にしていてと言ったつもりなんだけど、まさか帰ってきたとたん君の泣き顔を見るとは思わなかったな。あぁほら、泣かないで……泣いてる君も可愛いけどね?」
手袋をはめた指が、そっとリディアの目元を拭う。布越しに伝わってくる温かさに、これは夢ではなく現実だと知らされる。
ふわりと優しい微笑みをリディアに向けていたエドガーは、ふとその視線を上げた。とたんに変わる眼光の厳しさに、ただ優しいだけの人ではないのだと実感した。
「さて、ウォルト。君とはこれからも長いこと友情を育んでいきたかったんだけど、どうやらそれは難しいようだね」
「いや、エドガー……俺は何も、泣かせるつもりは」
「もちろんそうだろう。もし確信犯なのなら、君は今ここでそう弁解する暇もなく、僕の従者に首を切られている」
それは、冗談にしては、重みのある台詞だった。
エドガーの灰紫の瞳の奥は、どこまでも深く続いているようにリディアには見えた。
「……エドガー」
「もっとも、僕もそこまで冷酷なわけじゃない。君が今すぐ立ち去り、二度とリディアに近づかないと誓うのならここは見逃そう」
ここは確かにエドガーの屋敷だが、そんなものを張るかに超えて、今この場を作っているのはエドガーだった。
エドガーの腕が背中に回っていて、胸に抱きかかえられている。だからリディアには、今ウォルトがどんな表情を浮かべているのかは見ることができない。けれど息をするのも忘れて、その場に立ち尽くしているのは気配でわかった。空気がぴんと、肌に痛いのだ。
「どうしたんだい、ウォルト。ここで僕の従者に痛めつけられたいかい? それともここは貴族らしく、この手袋でも投げようか」
くつっと、エドガーが喉を鳴らして笑う。
ウォルトは駆け足でその場を去っていく。聞こえてくる足音が乱れているのは、当然のことなのかもしれない。
そろそろと、顔を上げる。手の甲で涙をこすって、エドガーの顔を見た。
「ごめんね……君を守ると言ったばかりなのに泣かせてしまった」
まるで、エドガーこそが殴られたような顔をするものだから、リディアは慌てた。少し落ち着くと、泣いてしまったことも恥ずかしい。
「あの、大丈夫よ。あなたがひどいことを言ったわけじゃないし……」
何を言えばいいのかわからない。とりあえず、背中に回された腕を外してほしいと思うのだが、今ここでそれを言うのは少し場違いなような気がしたから黙っておく。
「ねぇリディア」
「な、なに?」
「僕には君だけだよ」
「…………」
それは、一体どういう意味なのだろう。
気になったが、問いかけるのは無粋な気がした。それに何より、知りたいような知りたくないような―――自分の気持ちもよくわからなかったから。
エドガーは、どこからリディアとウォルトの会話を聞いていたのだろう。ウォルトの台詞を聞いていなければいいと思う。事実なのかそうでないのかはリディアにはわからないが、でも、聞いて嬉しい台詞では絶対に無いはずだから。
戸惑いながら見つめるリディアに、エドガーはもういつもと同じ笑顔を浮かべていた。安心できる、厳しさなんて何も感じない、陽だまりではなく絢爛の春を思わせるような笑顔だ。
「さぁリディア。久しぶりに会ったんだから、もちろんお茶に付き合ってくれるね?」
「別にいいけど、その前に休んだ方がいいんじゃ……」
「君と一緒にいる時間が何よりも僕にとっては安らぐ時間なんだよ」
そう言ってエドガーは、悪戯っぽく笑った。



久しぶりだから、と。
エドガーはそう言って、一緒に寝ようとリディアを誘った。
本来ならば、男性と同じベッドで寝るだなんてどうしたってできないリディアであったが、すでに以前一度エドガーとは一緒に眠ってしまっている。自分一人で寝るよりもずっと心地よくて、どうしてだろうとずっとリディアは不思議に思っていた。
だから、義理ではあるけど一応家族なんだし、一度寝てしまったら二度目も同じかと、リディアは手招きされるままにエドガーのベッドに入って行った。
枕を一つ分けてもらおうとしたら、「腕枕してあげるよ」なんて恥ずかしいことを言われ、断ったのに強引に引っ張り込まれてしまった。優しい人だとは思うけど、こんなところがやっぱり自分の思う通りにする貴族らしいとリディアは思う。
「天気が悪くて、どれぐらい足止めされてたの?」
口元まで毛布を引っ張り上げながら、リディアは尋ねる。
「三日間。最後の一日はもう雨もほぼ上がってたんだけど、途中けっこう険しい山道があってね。こんな天気の日は土砂崩れが起こることがあるからって、その日も結局出発できなかったんだ。揉め事自体はね、僕が顔を見せればすぐに片付いたんだ。なのに天候に恵まれなくて……そんな天気だから使いも出せなくて。一日も早くリディアの顔が見たかったよ。リディアも僕に会いたかった?」
リディアは、別にそこまでは思っていない。
でも、こうしてエドガーと話していると、驚くほどほっとしている自分がいる。
気づけなかったけれど、やっぱり会いたいと思っていたのかもしれない。ほんの少しも寂しいと思わなかったといえば嘘になる。一人きりの食事は寂しかったしつまらなかった。そこになって、日ごろどれだけエドガーは、色々な話題で自分を楽しませてくれていたのかということに気づいた。
旅先でのちょっとした話をエドガーはしてくれた。観光地ではないけれど、丘の上から村を見下ろすと、その向こうに海が見える。日の光を反射してキラキラと輝き、その村はまるで自然の加護を受けているかのように見えたのだと。そんな光景を、いつかリディアも見たいと思った。見せてあげるよとエドガーは言った。今度は一緒に行こうね。うん、と頷く。
まるで子供にするかのように、毛布の上からぽんぽんと背中を叩かれる。
記憶にもう無い、母親にされているようだと考える。
あぁ、だからきっと、エドガーと一緒に寝るのが心地よいのだ。母親と、父親と一緒にいるかのような、そんな安心感があるから。守られていると思うから。
「ねぇ、リディア」
暗い部屋の中に、エドガーの声が遠慮がちに響く。
「また呼んでくれる?」
「……何て?」
「昼間。僕のこと、兄さまって呼んでくれてただろう?」
聞こえていたのか。
一気に恥ずかしくなって、毛布の中にもぐる。わずかにはみ出た髪を、エドガーはくるくると指に絡み付ける。
「嬉しかったんだ。ものすごく」
珍しく、今のエドガーの言葉は少ない。いつもだったらもっと、恥ずかしい甘い言葉をいっぱい言ってくるのに。
そんな言葉も浮かばないほど、もしかして嬉しいと思ってくれているのだろうか。
だとしたらリディアも嬉しいと思った。恥ずかしいけれど、心がほっかり温かい。
「……気が向いたら、ね」
今は、そう言うのが精一杯だ。
「じゃあ君の気が向くように、明日はいっぱい可愛がるとしようかな」
普段だって、もう十分可愛がってもらっていると思う。
それなのに、さらになんてことになったら、一体どうなってしまうのか―――
考え込んでしまったリディアは、けれど気がつくと、すっかり夢の世界に足を踏み入れてしまっていた。
唇に、初めて感じる温もりを味わっているともわからずに。
(07.2.21)