その後に続く七文字を


朝は起こされるまで温かなベッドの中にいることができる。
起こされてもすぐには着替えずに、運ばれてきたミルクと砂糖のたっぷり入った紅茶を、ベッドの中でゆっくりと飲む。
人の手を借りて着替えれば、そのまま朝食の席に案内され、焼きたてのパンにたっぷりのバターを塗って食べる。白いふわふわのパンは口に入れれば驚くほどの柔らかさで、リディアが感激してからは、毎朝朝食に出てくるようになった。
昼食も、午後のお茶も、夕食の席もまた然り。
こんな夢のような生活に浸りきってしまっていいのだろうかと、リディアは少し不安にそう思う。
それをニコに言えば、今の状況にもうすっかり慣れきったニコは当たり前のような顔をして、執事のいれたお気に入りの紅茶を飲みながら、「今まで苦労してた分、別にいいんじゃねぇの?」と、あっさり言ってくれるのだ。
今まで孤児院で苦労をしてきた分の、これは神様からのご褒美。
けれどそう思ってもいまいち素直に喜べないのは、あまりの環境の変化に、リディアは喜ぶよりも戸惑ってしまうことの方が多いからだ。
身の回りを何でもメイドがやってしまうのには抵抗を感じるし、煌びやかなドレスは汚すのが怖くて、着ているだけで疲れてしまう。様々な宝石をあしらったアクセサリーなどは、手に取るだけでも恐ろしくて、ずっと宝石箱の中にしまわれたままだ。その宝石箱自体、衣装棚の奥にしまわれっぱなしなのだ。
だけどそんな環境の変化にも、戸惑っているだけではいけない。ここで暮らすことを自分自身でも決めたのだから、戸惑っているだけではいけないのだ。
だから何とか今の生活にも慣れようと、リディアは自分なりに努力はしていたつもりだ。けれど次から次へと、エドガーはリディアに新たな問題を持ってきてくれるのだ。
「……家庭教師って、何の話よ?」
「もちろん、君の話」
机を挟んだ向かいの席に座っているのは、この伯爵家の主にして、リディアの義兄となったエドガー・アシェンバート伯爵―――何て実感が沸かないことだろう。
「あたしの話って……」
自分と、家庭教師。繋がりがまったくわからない。内心で首を傾げながら、どうしてこう毎回毎回、朝食の席で突拍子もないことを言い出すのだろうとリディアは少し腹立たしい気持ちになる。おかげで口に入れたばかりのオムレツの味なんてちっともわからなくなってしまった。
「少しはこの生活にも慣れたきただろう? だからね、少し勉強をするのもいいかなと思うんだ」
「勉強なんてしてどうなるのよ」
今までリディアは勉強などしたことはない。孤児院では小さな子供達の世話に追われそんな暇はなかったし、そもそも子供達に勉強を教えられるような余裕も教師も、あの孤児院には無かったからだ。
そのことを、リディアは今まで深く考えたことはない。勉強をしたことがなければ、それがどんなものかもわからない。わからなければしたいとも思わない。周りの子供達も皆同じような境遇だったため、それを当たり前だとしか思わなかったのだ。
けれど目の前に、完璧な教養のある人物が座って微笑みかけてくれば、ほんの少しではあるが卑屈な気持ちになってしまう。
「今更勉強なんてしたって何にもならないわ」
「勉強は自分のためにするものだよ、リディア。それにきちんとした教師に習えば今からだって遅くない。君にやる気があれば絶対にものになるはずだよ」
そんなことを言われても、はいそうですかと頷く気にはなれない。自分のためにと言われても、やる気なんてどこからも沸いてはこなかった。
何をするのかはよくわからないが、長い時間ずっと机に向かっていなければならないのだ。ずっと泣き喚いている子供達の面倒を見るのも辛かったが、机に向かい続けるのはそれ以上に辛そうだった。
どうしてもそんなことをしなければならないのだろうか。考えただけで気は重くなる。
結局味のわからないまま朝食は終わってしまった。ごちそうさまと呟いて、すぐにも部屋を出て行こうとするリディアをエドガーは呼び止め、違う部屋でソファに並んで座って紅茶を飲む。
「勉強をするのは気が進まない?」
さっきの会話はまだ終わっていなかったのだと知って、リディアはため息をもらしそうになった。
「だって、難しいことをやるんでしょう? あたし絶対わからないわ」
「最初から難しいことはやらないさ。それに君は女の子だからね、簡単な勉強と、あとはそうだな、刺繍かなんかを教えてもらうといい。レディの嗜みだからね」
「雑巾を縫うのなら得意よ、あたし」
「リディア、君が雑巾を縫うようなことはもう二度とない。必要ないからね」
リディアの片手をそっと握り締めながらエドガーは言う。まるで、今すぐにもリディアが雑巾を縫いだすのかと思ったぐらい、手には力がこもっていた。
キラキラと輝く金色の髪も、扇情的な灰紫の瞳も。もうそろそろ見慣れてもいいはずだというのに、いまだにリディアは目を見張る。距離が近すぎるのかと思って、こっそり離れようとすれば、さりげなくエドガーのもう片方の腕はリディアの腰に回ってくる。ぐいと引き寄せられて、二人の間の距離は無くなってしまった。身体はぴったりとくっついてしまう。
「あ、あの、エドガー」
「やっと治ってきたね」
「何の話? ていうかあの、ちょっと離れて」
「指先。荒れてただろう。水仕事の所為かな……ずっと気になってたんだ」
焦るリディアを無視して、エドガーは手に取ったリディアの指先を真面目な顔で見つめている。
そういえば、とリディアは思い出す。ここのところ、寝る前に毎晩、アーミンが塗り薬を持ってきてくれていた。これを塗ると手の荒れが治るからと言われ、女性らしい気遣いのある人なんだなと、リディアは素直にそう思っていたのだ。
けれどそれは、もしかしたらエドガーがアーミンに持っていくように言っていたのだろうか?
安心したように指先をそっと撫でるエドガーを見ていると、それは間違いではないように思えてくる。お礼を言うべきかとも思ったが、そんな些細なことにまで気づかれていたことが恥ずかしくて、リディアはどうすればいいのかわからなくなる。
ちゅっと、軽い音を立てて、エドガーが俯いたリディアの指先にキスをした。
「な、何するのよ!」
慌てて手を引き抜き、真っ赤な顔で怒鳴りつけるリディアにも、エドガーは微笑み続ける。
「僕が傍にいる限り、もう二度と、君の手をあんな風にはさせないよ」
「そんなのどうでもいいわよ! もう、変なことするの止めて!」
「指にちょっとキスしただけで変なこと扱いになるのか」
驚いたようにエドガーは呟く。当たり前でしょう、とリディアは顔を真っ赤にさせたままエドガーを睨み付ける。両手は膝の上で拳骨にした。貴族というのは皆こうなのだろうか? それともこれはエドガーだけ?
「真っ赤になった顔も可愛いね。熟れた林檎みたいだ。味見したくなるな」
「じゃあ、その辺で本物の林檎をもいでくれば?」
伸びてきた腕を、ぱしりとリディアは振り払う。エドガーは残念そうに肩をすくめたが、いい気味としか思わなかった。キスをされた指先が、今更のようにじんじんと熱くなる。
「どうしてそんなにつれないことを言うのかな。あぁ、君がまだ慣れていないのはよくわかってるつもりだよ。でもね、僕らは家族になったんだ。キスをするのは挨拶で、恥ずかしがるようなことじゃないんだよ」
けれどエドガーの顔から笑顔が消え、真面目な顔でそう言われれば、リディアはついつい考え込んでしまう。
キスが挨拶というのはわかる。親しい人とは頬や額にキスをするものだということは知っている。
けれどそれに指先が入るのはどうなのだろう? それはどちらかというと、家族というよりは恋人に近くなるような……。けれど家族も恋人もいないリディアは、そのどちらかを想像しようとしても、頭には何の光景も浮かんでこない。ただ首を傾げてしまうだけだ。
「慣れれば、君だって僕とのキスを楽しめると思うんだけどな」
挨拶なのに、どうして楽しむ必要が?
不思議に思うリディアの額に、すぐさまキスが振ってくる。驚いたのと恥ずかしいので、ぎゅっと目を瞑ったリディアの顔中に、エドガーの唇は振り続ける。額から頬に。反対側の頬にも音を立てて唇が当たり、そのままゆっくり下へと下がってくる。
リディアの、唇の。
その、すぐ隣に触れられたところで、限界だった。
「……ちょ、嫌っ! 止めてってば!」
思い切り突き飛ばして、リディアは唇を拭った。そこに触れられたわけではないとわかっていても、吐息を感じただけでダメだった。
ソファの端にしがみつき、真っ赤な顔で睨み付けてくるリディアを、エドガーはおかしそうに見つめていた。
「……まだちょっと、早かったかな?」
「ふ、ふざけたことしないで! あなたっていっつもそう!」
家族のキスも恋人のキスも、もうどうでもよくなっていた。
顔中をごしごしとこするリディアを見て、エドガーは心底から残念そうな顔になったが、リディアは気にせず顔中を拭い続けた。そしてこっそり目元も拭う。唇にキスをされたわけでもないのに、泣きそうになっている自分が信じられなかった。
「わかった、じゃあ真面目な話に戻ろう。君の家庭教師についてだけどね」
苦笑しながら言うエドガーは、からかいすぎたと思っているのだろう。申し訳なさそうな顔をしながら、冷めかけた紅茶に手を伸ばす。自分に向かって腕が伸びてこなかったことに、リディアは安堵のため息をもらした。
「君は頭の回転だって早いし、きっと勉強は向いてるよ。じゃなかったら僕もこうまで進めたりはしない。人には向き不向きがあるのはわかっているつもりだよ」
顔中にキスをされるよりかは、この話の方がまだマシだ。家庭教師でも何でも、もう勝手にすればいいとリディアは思う。
「自由に本が読めるようになったら楽しいとは思わないかい? 女の子がこっそり読むような恋愛小説は、きっと君も気に入るだろうな。今まで知らなかったことを学ぶっていうのは、案外楽しいものなんだよ。親しい人と手紙のやり取りをするのだっていいし、それに自分の名前ぐらい書けないと、これからは君だって困るだろう?」
「あたしだって、自分の名前ぐらい書けるわ」
むっとして、思わずリディアは言い返す。
「本当に?」
「本当よ!」
目を丸くするエドガーに、リディアはそう怒鳴り返す。
「レイヴン、紙とペンを」
「ちょっと、何で信じてくれないのよ」
「いや、念のためにね」
すぐさまレイヴンは戻ってきた。持ってきた物を、エドガーは無表情に差し出してくる。
何よ、人のことをバカにして。
ひったくるようにしてリディアはペンと紙を受け取る。ペンの持ち方すら違うなんてことに、もちろんリディアは気づかない。正しい持ち方なんて知らないし、ペンを持ったのだって初めてなのだ。
名前の書き方を教えてくれたのはニコだった。妙に人間臭い妖精猫は、妖精にしては珍しいことに人間の文字の読み書きができる。そしてリディアに名前の書き方を教えてくれた。拾ってきた木の枝で、地面に文字を書いていたのは、つい最近のことだった。
「ほら、書けたわ」
自信満々にリディアは紙をエドガーに渡す。これでエドガーも感心するかと思いきや、彼は小さな笑みを口元に浮かべた。
「リディア。これだと君の名前は『リデア』になってしまうよ」
「……嘘」
「正確にはこうだよ」
ペンを受け取ったエドガーは、リディアの書いた文字の隣に、さらさらと流れるような文字を書いて行く。
「これ、あたしの名前?」
文字と文字が繋がっていて、何が書いてあるのかよくわからない。美しい模様のようだ。読み書きのできないリディアでも、それでもエドガーの書く文字がキレイに整っているということはわかった。
「そう、君の名前だよ」
言いながら、エドガーはさらに文字を書き足していく。
「何て書いたの?」
あたしの名前はそんなに長くなかったはず、と目を丸くするリディアに、エドガーは優しげな笑みを浮かべて言った。
「アシェンバート、だよ。もう君の名前の一部になったんだからね」
「アシェンバト……」
あたしの、名前。
渡された紙を見つめても、やはりリディアにその文字を読むことはできない。
それでも、それが自分の名前だと思うと不思議な気持ちだった。豪華な布がふんだんに使われたドレスを初めて着た時よりも、もっと心の奥がざわざわとした。
「勉強をして、君がこの名前をきちんと書けるようになってくれると嬉しいな。君が僕と同じアシェンバートを名乗ってくれることが嬉しいんだ」
「……こんな風な字、書けないわよ」
「書けるようになるよ」
ゆっくりと、エドガーがリディアの頭を撫でる。
こんな風に、エドガーに触れられるのは好きだと思う。安心して、胸の奥が温かくなる。
いつもこうだったらいいのに。
キスをされるよりも、こんな触れ合いなら、リディアだって少しは素直になれそうなのに。
―――でも、この名前を、書けるようになるのなら。
「がんばってくれるかな、リディア?」
そしてリディアは、自分でも気づかないまでに、うんと頷いてしまうのだ。





「だからって、話がちょっと急すぎじゃないかしら」
ため息をつきながら、リディアは大きなベッドに腰掛けた。
「明日から家庭教師の先生が来るだなんて、信じられない」
つまりもう、エドガーは全ての手配をしていたのだ。後はリディアの了解を得るだけで、それだってエドガーにとっては実に簡単なことだったに違いない。
明日から、午前中は勉強をすることになる。勉強をするのなんて初めてで、考えただけで今から緊張してしまう。とりあえず文字の読み書きから始まるだろうとエドガーは言っていた。本当にあんな字が書けるようになるのだろうか? そして、すらすらと読み書きができるようになるのだろうか?
ベッドの中にもぐって、リディアは丸くなる。
ベッドは広いんだから、もっと楽な格好で寝ればいいのにと、つい先日エドガーに言われたばかりだ。けれどリディアはこの格好の方が落ち着くのだ。つい自然に、身体は丸まってしまう。
滑らかなシーツの感触を全身で楽しめば、少しは緊張も和らいだ。その代わりにほどよい眠気がやってくる。
けれど、ぱちっとリディアは目を開く。ベッドを抜け出し、机の引き出しを開ける。そしてまたベッドに戻ると、ゆっくりその中にもぐりこんでいった。
「……リディア、アシェンバート……」
指で、ゆっくりとその文字をなぞった。
口にしても、まだその二つの単語はばらばらに思える。くっついて、一つの名前になったとはとても思えない。
想像したこともない、こんなに豪華なベッドで寝ていることよりも、紙に書かれた文字を眺めている方が、ずっと不思議な気持ちだった。
何となく捨てられなくて、この紙をそのまま持ってきてしまったことをエドガーが知ったらどう思うだろうか。バカなことをしていると笑うだろうか? けれど、リディアにはそうは思えないのだ。
「……おやすみなさい」
寝る前に頬に降ってきたキスを思い出す。
一瞬触れるだけの、温かなキスだった。あれは確かに家族としての挨拶のキスだったと思う。挨拶ならば返すのが礼儀だと思って、リディアもエドガーの頬にキスをした。恥ずかしくて、そのまま逃げるようにして部屋に駆け込んでしまった。
同じ家で暮らしているのに、この屋敷は広すぎて、今エドガーが何をしているのかリディアにはさっぱりわからない。
でも、明日になれば、また一緒に朝食を食べるんだもの。
だから、寂しく思うなんて間違っている。そう考えて、リディアはぎゅっと目を瞑った。

おやすみなさい、エドガー。
(08.1.5)