淑女のたしなみ
日記をつけましょう、と家庭教師に言われたのは、その日の授業が終わりかけた時のことだった。
「日記?」
「日々の出来事や思ったことを、毎日記していくのですよ」
リディアに勉強を教えてくれるこの家庭教師は、釣り目で少しきつい顔をしている。リディアは心の中でこっそり、「キツネ先生」と呼んでいる。
「これに書いていきましょう」
そう言って家庭教師が取り出したのは、分厚い一冊の日記帳だった。これに全部文字を書くのかと思えば、それだけでリディアはげんなりしてしまう。文章を書くのは、まだリディアにとっては根気のいる作業なのだ。
重たい日記帳を受け取って、リディアはぺらぺらとページをめくる。
「いいですね。今日から早速書いて下さい。明日確認しますからね」
「先生が読むんですか?」
「まさか。日記というのは、人に読ませる物ではありませんよ」
「じゃあ何で書くんですか?」
「それが淑女のたしなみというものです。良家の子女は、日記をつけるものなのですよ」
たしなみ、とリディアは繰り返した。「そうですよ」と家庭教師は頷いたが、リディアにはその意味がいまいちよくわからない。
だれに読ませるわけでもないのに、それがどうして『たしなみ』になるのか。お金持ちのやることは理解できない。貴族の女の子達は、みんなこんなことをしているのだろうか。
「文章を書く練習にもなりますよ」
それは何となくわかる。練習と思えば、少しはやる気も出てくる。
「始めは短くても構いません。習慣付けることが大切なんです。どれだけ短くても、毎日積み重ねて書いていけば、その内長い文章も書くことができるようになりますからね」
リディアを元気付けるように、家庭教師は微笑む。そうすると、釣り目のキツネ顔が少し人懐こく見える。
「さあ、今日の授業は終わりです」
待ち望んだ台詞に、リディアはノートと教科書を持って立ち上がった。椅子ががたんと音を立て、家庭教師の眉が寄る。
「レディはそんな乱暴に立ち上がってはいけませんよ。音を立てず、もっとおしとやかな動作を心がけるように」
「……はい」
あたしはレディなんかじゃないのに。
不満は、心の中だけにとどめておいた。うっかり口に出してしまうと、そこから一時間ばかりお説教が始まってしまうことは実証済みだった。余計なことは言わないに限ると、その時リディアは学習したのだ。
きちんとお辞儀をしてから、リディアは勉強部屋を出た。
そのとたん、ふう、と大きなため息がこぼれる。
いい先生だとは思うけれど。ずいぶんとよく面倒を見てくれているとも思うけれど。
「……堅苦しいんだもの、キツネ先生」
夕食を食べ終わって、リディアは昼間に家庭教師から渡された日記帳と向き合っていた。
綴りの勉強は毎日しているし、例題に合わせて文章を書く練習もしていたけれど、自分の思ったように文章を考えるのはこれが初めてだった。
「宿題ですか?」
温かい紅茶を持って来てくれたのはアーミンだ。リディアの好みに合わせて、たっぷりのミルクと砂糖が入っている。
「宿題っていうか……日記をつけなさいって言われて。淑女のたしなみなんですって。そうなの?」
「そうですね。日記をつけているお嬢様方は多いと思いますよ」
アーミンが言うのなら、本当にそうなのだろう。
「みんな暇なのね」
リディアにはそうとしか思えない。
まだまだ綴りを覚えるのに必死なリディアには、文章を書くというのは苦痛以外の何物でもなく、こぞって毎日そんなことをやりたがる気持ちがさっぱり理解できないのだ。
「後で読み返すと、色々と楽しいのではありませんか?」
読み返す。
つっかえつっかえ本を読むリディアには、まだその楽しさはわかりそうにはない。
どうにも日記を書く楽しさが理解できないのだが、言われたからにはやらないといけない。ペンを握り、白紙の日記帳に向かったが、一向に手が動かない。
「何を書けばいいと思う?」
「今日あったことや、思ったことなどをそのまま書けばいいと思いますけど」
「今日あったこと……」
ペンを握ったまま、リディアは今日一日を思い返してみた。
今朝は少し寝坊をしてしまった。朝食を食べた後、エドガーはどこかに出掛け、リディアはいつもと同じように勉強室へ向かった。そうして日記帳を渡されて、少し休憩してから昼食になった。エドガーはまだ帰ってこなかったから、一人だけの昼食で少し退屈だった。その後は庭を散歩したり、子猫のミーシャと遊んだり、そうしている内にうっかり昼寝をしてしまったりして、気づいたら夕食の時間になっていた。夕食になってもエドガーは帰ってこなくて、やっぱり一人きりの寂しい食卓だった。アーミンは傍にいてくれたけど、給仕をするだけで一緒に食べてはくれないから、余計に寂しくなってしまうのだ。
ニコもどこかに出掛けたまま帰ってこないし。
きっとどこかの妖精達と宴会でもしているのだろうけど、こんな時ぐらい一緒に食べてくれてもいいのに。
思い出すと、寂しいやらムカムカするわで、とても落ち着いて日記を書くどころではなくなってしまう。
「……もう」
ついつい、ペンを机の上に放り投げてしまう。ころころと転がっていくペンを見ながら、リディアはため息をつく。
「日記なんて書けないわよ」
「おや、どうしてだい?」
からかうような声が聞こえてきた。
顔を上げると、ちょうどドアを開け、エドガーが部屋に入ってくるところだった。いつの間に帰ってきたのだろう。
「ただいま、リディア。いい子にしてたかい?」
ふわりとエドガーが微笑むだけで、周りの空気が煌きだす。
颯爽とリディアの元まで歩み寄るエドガーは、リディアに喜んで迎えられると信じ込んでいるのだろう。
けれど、夕食にも帰ってこなかったくせにと思えば、リディアはとても笑顔を向けられそうにはない。ぷいっと顔を逸らせば、エドガーは不思議そうに目を見開いた。そうして、口の端を上げてくすっと笑う。
「僕の可愛い妹は、どうやらご機嫌斜めみたいだね」
おもしろおかしく思っているような口調だ。それがまた腹が立つ。
「どうして機嫌を損ねてるのか、教えてくれないかな。僕が留守にしている間に何かあったかい?」
そう言うと、エドガーはリディアの髪に手を伸ばす。容赦なくぱちりと叩き返した。
「別に何にもないわよ。あたしのことなんて忘れて、兄さまは好きなだけ外で遊んでくればいいじゃない」
冷たく言い返してやった。
エドガーは黙り込む。
少し言い過ぎた? と思ったのは一瞬だった。
次の瞬間、エドガーはそれはもう嬉しそうに微笑むのだから。
「……そんなに僕がいなくて寂しかった?」
「なっ」
「ごめん、気づかなくて。明日は一日中傍にいてあげるよ」
「そ、そんなんじゃないってば!」
慌てて否定するが、エドガーの両腕に閉じ込められる方が早かった。
男性にしては細く見える腕は、とても力があるようにはみえない。なのに一度リディアを閉じ込めてしまえば、どれだけ暴れようがちっとも外れはしないのだ。
ぽんぽんと背中を叩かれる。小さな子供扱いされているようだ。
悔しい。そう思うのは、その手を心地良いと思ってしまっている自分に気づいているからだ。
「……一人で食事をするのがつまらないだけよ。ニコもいなかったから」
エドガーの胸に、顔をこすりつけてやった。
寂しかったと、エドガーに素直に言うのは恥ずかしい。でもエドガーには、そんな気持ちはすっかりお見通しなのだ。
本当に、悔しくて仕方が無い。
「兄さまなんて嫌い」
「僕はリディアのことが大好きだけどな。今日も君のことばかり話してたら、そんなに自慢するのなら一度会わせろって友人達に散々言われたよ」
もちろん会わせてやる気はないけどね、と笑うエドガーの顔を見上げて、リディアは慌てた。
「ちょっと、自慢とか何を話してるのよ? 自慢することなんて何も無いじゃない」
「いっぱいあるよ」
「無いってば」
「どうして? こんなに可愛い女の子は、このロンドン中を探したって他にはいないよ。キャラメル色の柔らかな髪も、神秘的な金緑の瞳も。それに何より、僕を兄さまって呼んでくれる時の顔が、ものすごく可愛いんだって知ってた? 思わずキスしたくなるんだよ」
そう言うと、エドガーはリディアの頬に音を立ててキスをした。
ただの兄妹の触れ合い。そうわかっているのに、それでも心臓が騒がしくなるのは、エドガーの視線があまりに熱っぽく、兄が妹に家族のキスを送るというには艶やかな雰囲気を感じてしまうからだった。
そんなことを思う自分は、どうにかしているのかもしれない。
とたんに落ち着かない気持ちになって、リディアはもがくと何とかエドガーの腕の中から抜け出した。エドガーは残念そうに、けれどそんなリディアの様子をおかしそうに眺めている。
「恥ずかしがらなくたっていいのに」
そう言われることが恥ずかしい。赤くなった頬を見られたくなくて、リディアは精一杯顔を背けた。
「日記を書かなくちゃいけないんだから、邪魔しないでよ」
「別に邪魔をしたつもりじゃ……。それより、日記って? つけることにしたの?」
「先生が書きなさいって言うんだもの」
淑女のたしなみというのは、何てめんどくさいのだろう。
でも、縫い物よりはまだマシかもしれない。あれは面倒なだけではなく、痛い思いまでしなければならないのだから。
「へぇ。まあ、日記をつけるのはいいことだけどね。何を書くつもりだい?」
「日記は人に読ませるものじゃないのよ」
「これは失礼」
くすくすと笑うと、エドガーは少し離れた所にあるソファへと腰を下ろした。自分の部屋に戻る気は無いらしい。
そういえば、アーミンがいなかった。いつ部屋を出て行ったのだろう? アーミンもレイヴンも、あまり物音を立てずに歩くものだから、気づいたら部屋にいたりいなかったりで、リディアはその度に驚いてしまうのだ。それとも、召使というのはそういうものなのだろうか。
それより、早いところ日記を書かなくては。
再びペンをとり、リディアは白紙の日記帳と向かい合った。
初めての日記なのだから、多少変でも仕方ない。それに、だれに見せるものでもないと先生だって言っていた。その言葉を思い出すと、何だか勇気付けられる。
最初の出だしが思いついた。『日記を書きます』と、まず書くことにしよう。
「兄さま。日記ってどう書くの?」
「D、I、A、R、Y。DとBを間違えないようにね」
「間違えないわよ」
ゆっくりと、大きな字で文章を書いていく。先生やエドガーの文字に比べると、どうにも不恰好でよれよれとしていて、今にも転んでしまいそうな字だ。ニコよりも下手かもしれない。
それでも、最初の頃よりはずいぶんと上達したと思う。もう自分の名前は間違えないで書けるようになったし、何とか文章だって書けるのだから。
考え込みながらも、何とか文字を書き連ねていく。
「魚って、Fで始まるわよね?」
「うん、そうだよ」
エドガーは何をしているのだろうとちらりと視線をやれば、ソファの上に置きっぱなしになっていた本を読んでいるようだった。後で読んでもらおうと思って、リディアがライブラリから持ってきた本だ。
エドガーだけ先に読んでずるい、と思ったが、まだ日記が書き終わらない。どれだけ書けばいいのかわからなかったが、さすがに三行では短い気がする。他に何があっただろう。
「アップルタルトってどう書くの? あとチョコレートケーキも」
「アップルタルトとチョコレートケーキは……ちょっと長いな。ペンと紙を貸してくれるかな」
ソファから立ち上がり、やって来たエドガーは、机の中から羊皮紙を取り出すと、そこにさらっと二つの単語を書いてくれた。そして、読まれまいと両腕で日記を隠すリディアを見て苦笑する。
「リディア。見たりしないから、そんな風に隠したりしなくても大丈夫だよ」
その言葉通り、エドガーはすぐさまソファに戻って行った。
日記を読まれるのが恥ずかしいというよりは、日記を書いているということ自体が何だか恥ずかしいのだ。まだろくに文字も書けない自分が日記をつけるだなんて。淑女のたしなみと言われるのも恥ずかしい。だって、自分はとても淑女なんかではないのに。
「でも、リディア。君の日記はずいぶんと美味しそうだよね。魚にアップルタルトにチョコレートケーキに……今日の食事はずいぶんと美味しかったみたいだね?」
振り返って微笑むエドガーに、かーっと頬が熱くなる。
魚のフライが美味しかったとか、アップルタルトが好きだとか、昼間にはチョコレートケーキを食べたとか、そんなことを書いている最中だった。
だって、他に書くことが見つからなかったのだ。何を書けばいいのかわからなくて。
「見ないとかいいながら、見たのとおんなじじゃない!」
「だって、それは君がスペルを聞いてくるから」
僕の所為じゃないだろうとエドガーは肩をすくめる。
エドガーではなくて、アーミンがいてくれたら良かったのに。アーミンだったら、いつものように優しく教えてくれるだけだったのに。
恥ずかしさもあいまって、何だかイライラする。
「兄さま。バカってどう書くの?」
「……リディア。何を書こうとしてるんだい?」
「当ててみたら?」
エドガーのバカ、と書いてやるつもりだった。
やれやれと立ち上がったエドガーには、もちろんわかっていたのだろう。
長い足で近づいてくるエドガーに、リディアは警戒する。日記帳を取られてしまうのだろうか? けれど、取られたのは日記帳ではなく、リディア自身だった。
「ちょっと、エドガー!」
「僕の悪口を書かれてはたまらないからね。さあ、お姫様はもう寝る時間だよ」
「まだ眠くないもの」
「なら、本を読んであげる時間があるわけだ」
さらった腕は強引だったのに、ベッドに寝かせる仕草は、壊れ物を扱うかのように、どこまでも優しかった。
その手が、リディアの顔にかかった髪を優しく払いのける。頬を撫でる指の温かさに、ついさっきまで感じていた苛立ちも溶かされてしまう。
日記がまだ途中なことなんて、どうでもよくなってしまった。
「最後まで読んでくれる?」
思いがけず、ねだるような声になってしまった。言ってからそれに気づいて、先ほどとは違う恥ずかしさに包まれた。
「……君のおねだりには敵わないな」
子供みたいだと思われるかと思った。
けれどエドガーは、ただ嬉しそうに微笑むだけだ。どうしてなのか、リディアにはまだよくわからない。
「着替えてくるから、それまで待っててくれるね?」
今日はリディアの部屋で一緒に寝るということだ。
珍しい、と思いながらも、嫌なわけはないからこくんと頷いた。
「早く戻ってきてね、兄さま」
「僕と少しでも離れるのは寂しい?」
「早くあの本を読んで欲しいんだもの」
「……僕より本が好きなのか」
落胆したようにエドガーは呟いたが、次の瞬間にはもう踵を返し、寝室のドアをくぐっていた。
エドガーはいつだって簡単に、好きとか愛しているなんて言葉を口にする。でもそれは、とてもリディアには真似できそうにない至難の技だ。
「―――言えるわけないじゃない」
本なんかとは比べ物にならないぐらい、本当はエドガーのことが好きだ。
「むりむりっ」
考えただけで恥ずかしくて、リディアはベッドの上をごろごろと転がりだした。
「日記?」
「日々の出来事や思ったことを、毎日記していくのですよ」
リディアに勉強を教えてくれるこの家庭教師は、釣り目で少しきつい顔をしている。リディアは心の中でこっそり、「キツネ先生」と呼んでいる。
「これに書いていきましょう」
そう言って家庭教師が取り出したのは、分厚い一冊の日記帳だった。これに全部文字を書くのかと思えば、それだけでリディアはげんなりしてしまう。文章を書くのは、まだリディアにとっては根気のいる作業なのだ。
重たい日記帳を受け取って、リディアはぺらぺらとページをめくる。
「いいですね。今日から早速書いて下さい。明日確認しますからね」
「先生が読むんですか?」
「まさか。日記というのは、人に読ませる物ではありませんよ」
「じゃあ何で書くんですか?」
「それが淑女のたしなみというものです。良家の子女は、日記をつけるものなのですよ」
たしなみ、とリディアは繰り返した。「そうですよ」と家庭教師は頷いたが、リディアにはその意味がいまいちよくわからない。
だれに読ませるわけでもないのに、それがどうして『たしなみ』になるのか。お金持ちのやることは理解できない。貴族の女の子達は、みんなこんなことをしているのだろうか。
「文章を書く練習にもなりますよ」
それは何となくわかる。練習と思えば、少しはやる気も出てくる。
「始めは短くても構いません。習慣付けることが大切なんです。どれだけ短くても、毎日積み重ねて書いていけば、その内長い文章も書くことができるようになりますからね」
リディアを元気付けるように、家庭教師は微笑む。そうすると、釣り目のキツネ顔が少し人懐こく見える。
「さあ、今日の授業は終わりです」
待ち望んだ台詞に、リディアはノートと教科書を持って立ち上がった。椅子ががたんと音を立て、家庭教師の眉が寄る。
「レディはそんな乱暴に立ち上がってはいけませんよ。音を立てず、もっとおしとやかな動作を心がけるように」
「……はい」
あたしはレディなんかじゃないのに。
不満は、心の中だけにとどめておいた。うっかり口に出してしまうと、そこから一時間ばかりお説教が始まってしまうことは実証済みだった。余計なことは言わないに限ると、その時リディアは学習したのだ。
きちんとお辞儀をしてから、リディアは勉強部屋を出た。
そのとたん、ふう、と大きなため息がこぼれる。
いい先生だとは思うけれど。ずいぶんとよく面倒を見てくれているとも思うけれど。
「……堅苦しいんだもの、キツネ先生」
夕食を食べ終わって、リディアは昼間に家庭教師から渡された日記帳と向き合っていた。
綴りの勉強は毎日しているし、例題に合わせて文章を書く練習もしていたけれど、自分の思ったように文章を考えるのはこれが初めてだった。
「宿題ですか?」
温かい紅茶を持って来てくれたのはアーミンだ。リディアの好みに合わせて、たっぷりのミルクと砂糖が入っている。
「宿題っていうか……日記をつけなさいって言われて。淑女のたしなみなんですって。そうなの?」
「そうですね。日記をつけているお嬢様方は多いと思いますよ」
アーミンが言うのなら、本当にそうなのだろう。
「みんな暇なのね」
リディアにはそうとしか思えない。
まだまだ綴りを覚えるのに必死なリディアには、文章を書くというのは苦痛以外の何物でもなく、こぞって毎日そんなことをやりたがる気持ちがさっぱり理解できないのだ。
「後で読み返すと、色々と楽しいのではありませんか?」
読み返す。
つっかえつっかえ本を読むリディアには、まだその楽しさはわかりそうにはない。
どうにも日記を書く楽しさが理解できないのだが、言われたからにはやらないといけない。ペンを握り、白紙の日記帳に向かったが、一向に手が動かない。
「何を書けばいいと思う?」
「今日あったことや、思ったことなどをそのまま書けばいいと思いますけど」
「今日あったこと……」
ペンを握ったまま、リディアは今日一日を思い返してみた。
今朝は少し寝坊をしてしまった。朝食を食べた後、エドガーはどこかに出掛け、リディアはいつもと同じように勉強室へ向かった。そうして日記帳を渡されて、少し休憩してから昼食になった。エドガーはまだ帰ってこなかったから、一人だけの昼食で少し退屈だった。その後は庭を散歩したり、子猫のミーシャと遊んだり、そうしている内にうっかり昼寝をしてしまったりして、気づいたら夕食の時間になっていた。夕食になってもエドガーは帰ってこなくて、やっぱり一人きりの寂しい食卓だった。アーミンは傍にいてくれたけど、給仕をするだけで一緒に食べてはくれないから、余計に寂しくなってしまうのだ。
ニコもどこかに出掛けたまま帰ってこないし。
きっとどこかの妖精達と宴会でもしているのだろうけど、こんな時ぐらい一緒に食べてくれてもいいのに。
思い出すと、寂しいやらムカムカするわで、とても落ち着いて日記を書くどころではなくなってしまう。
「……もう」
ついつい、ペンを机の上に放り投げてしまう。ころころと転がっていくペンを見ながら、リディアはため息をつく。
「日記なんて書けないわよ」
「おや、どうしてだい?」
からかうような声が聞こえてきた。
顔を上げると、ちょうどドアを開け、エドガーが部屋に入ってくるところだった。いつの間に帰ってきたのだろう。
「ただいま、リディア。いい子にしてたかい?」
ふわりとエドガーが微笑むだけで、周りの空気が煌きだす。
颯爽とリディアの元まで歩み寄るエドガーは、リディアに喜んで迎えられると信じ込んでいるのだろう。
けれど、夕食にも帰ってこなかったくせにと思えば、リディアはとても笑顔を向けられそうにはない。ぷいっと顔を逸らせば、エドガーは不思議そうに目を見開いた。そうして、口の端を上げてくすっと笑う。
「僕の可愛い妹は、どうやらご機嫌斜めみたいだね」
おもしろおかしく思っているような口調だ。それがまた腹が立つ。
「どうして機嫌を損ねてるのか、教えてくれないかな。僕が留守にしている間に何かあったかい?」
そう言うと、エドガーはリディアの髪に手を伸ばす。容赦なくぱちりと叩き返した。
「別に何にもないわよ。あたしのことなんて忘れて、兄さまは好きなだけ外で遊んでくればいいじゃない」
冷たく言い返してやった。
エドガーは黙り込む。
少し言い過ぎた? と思ったのは一瞬だった。
次の瞬間、エドガーはそれはもう嬉しそうに微笑むのだから。
「……そんなに僕がいなくて寂しかった?」
「なっ」
「ごめん、気づかなくて。明日は一日中傍にいてあげるよ」
「そ、そんなんじゃないってば!」
慌てて否定するが、エドガーの両腕に閉じ込められる方が早かった。
男性にしては細く見える腕は、とても力があるようにはみえない。なのに一度リディアを閉じ込めてしまえば、どれだけ暴れようがちっとも外れはしないのだ。
ぽんぽんと背中を叩かれる。小さな子供扱いされているようだ。
悔しい。そう思うのは、その手を心地良いと思ってしまっている自分に気づいているからだ。
「……一人で食事をするのがつまらないだけよ。ニコもいなかったから」
エドガーの胸に、顔をこすりつけてやった。
寂しかったと、エドガーに素直に言うのは恥ずかしい。でもエドガーには、そんな気持ちはすっかりお見通しなのだ。
本当に、悔しくて仕方が無い。
「兄さまなんて嫌い」
「僕はリディアのことが大好きだけどな。今日も君のことばかり話してたら、そんなに自慢するのなら一度会わせろって友人達に散々言われたよ」
もちろん会わせてやる気はないけどね、と笑うエドガーの顔を見上げて、リディアは慌てた。
「ちょっと、自慢とか何を話してるのよ? 自慢することなんて何も無いじゃない」
「いっぱいあるよ」
「無いってば」
「どうして? こんなに可愛い女の子は、このロンドン中を探したって他にはいないよ。キャラメル色の柔らかな髪も、神秘的な金緑の瞳も。それに何より、僕を兄さまって呼んでくれる時の顔が、ものすごく可愛いんだって知ってた? 思わずキスしたくなるんだよ」
そう言うと、エドガーはリディアの頬に音を立ててキスをした。
ただの兄妹の触れ合い。そうわかっているのに、それでも心臓が騒がしくなるのは、エドガーの視線があまりに熱っぽく、兄が妹に家族のキスを送るというには艶やかな雰囲気を感じてしまうからだった。
そんなことを思う自分は、どうにかしているのかもしれない。
とたんに落ち着かない気持ちになって、リディアはもがくと何とかエドガーの腕の中から抜け出した。エドガーは残念そうに、けれどそんなリディアの様子をおかしそうに眺めている。
「恥ずかしがらなくたっていいのに」
そう言われることが恥ずかしい。赤くなった頬を見られたくなくて、リディアは精一杯顔を背けた。
「日記を書かなくちゃいけないんだから、邪魔しないでよ」
「別に邪魔をしたつもりじゃ……。それより、日記って? つけることにしたの?」
「先生が書きなさいって言うんだもの」
淑女のたしなみというのは、何てめんどくさいのだろう。
でも、縫い物よりはまだマシかもしれない。あれは面倒なだけではなく、痛い思いまでしなければならないのだから。
「へぇ。まあ、日記をつけるのはいいことだけどね。何を書くつもりだい?」
「日記は人に読ませるものじゃないのよ」
「これは失礼」
くすくすと笑うと、エドガーは少し離れた所にあるソファへと腰を下ろした。自分の部屋に戻る気は無いらしい。
そういえば、アーミンがいなかった。いつ部屋を出て行ったのだろう? アーミンもレイヴンも、あまり物音を立てずに歩くものだから、気づいたら部屋にいたりいなかったりで、リディアはその度に驚いてしまうのだ。それとも、召使というのはそういうものなのだろうか。
それより、早いところ日記を書かなくては。
再びペンをとり、リディアは白紙の日記帳と向かい合った。
初めての日記なのだから、多少変でも仕方ない。それに、だれに見せるものでもないと先生だって言っていた。その言葉を思い出すと、何だか勇気付けられる。
最初の出だしが思いついた。『日記を書きます』と、まず書くことにしよう。
「兄さま。日記ってどう書くの?」
「D、I、A、R、Y。DとBを間違えないようにね」
「間違えないわよ」
ゆっくりと、大きな字で文章を書いていく。先生やエドガーの文字に比べると、どうにも不恰好でよれよれとしていて、今にも転んでしまいそうな字だ。ニコよりも下手かもしれない。
それでも、最初の頃よりはずいぶんと上達したと思う。もう自分の名前は間違えないで書けるようになったし、何とか文章だって書けるのだから。
考え込みながらも、何とか文字を書き連ねていく。
「魚って、Fで始まるわよね?」
「うん、そうだよ」
エドガーは何をしているのだろうとちらりと視線をやれば、ソファの上に置きっぱなしになっていた本を読んでいるようだった。後で読んでもらおうと思って、リディアがライブラリから持ってきた本だ。
エドガーだけ先に読んでずるい、と思ったが、まだ日記が書き終わらない。どれだけ書けばいいのかわからなかったが、さすがに三行では短い気がする。他に何があっただろう。
「アップルタルトってどう書くの? あとチョコレートケーキも」
「アップルタルトとチョコレートケーキは……ちょっと長いな。ペンと紙を貸してくれるかな」
ソファから立ち上がり、やって来たエドガーは、机の中から羊皮紙を取り出すと、そこにさらっと二つの単語を書いてくれた。そして、読まれまいと両腕で日記を隠すリディアを見て苦笑する。
「リディア。見たりしないから、そんな風に隠したりしなくても大丈夫だよ」
その言葉通り、エドガーはすぐさまソファに戻って行った。
日記を読まれるのが恥ずかしいというよりは、日記を書いているということ自体が何だか恥ずかしいのだ。まだろくに文字も書けない自分が日記をつけるだなんて。淑女のたしなみと言われるのも恥ずかしい。だって、自分はとても淑女なんかではないのに。
「でも、リディア。君の日記はずいぶんと美味しそうだよね。魚にアップルタルトにチョコレートケーキに……今日の食事はずいぶんと美味しかったみたいだね?」
振り返って微笑むエドガーに、かーっと頬が熱くなる。
魚のフライが美味しかったとか、アップルタルトが好きだとか、昼間にはチョコレートケーキを食べたとか、そんなことを書いている最中だった。
だって、他に書くことが見つからなかったのだ。何を書けばいいのかわからなくて。
「見ないとかいいながら、見たのとおんなじじゃない!」
「だって、それは君がスペルを聞いてくるから」
僕の所為じゃないだろうとエドガーは肩をすくめる。
エドガーではなくて、アーミンがいてくれたら良かったのに。アーミンだったら、いつものように優しく教えてくれるだけだったのに。
恥ずかしさもあいまって、何だかイライラする。
「兄さま。バカってどう書くの?」
「……リディア。何を書こうとしてるんだい?」
「当ててみたら?」
エドガーのバカ、と書いてやるつもりだった。
やれやれと立ち上がったエドガーには、もちろんわかっていたのだろう。
長い足で近づいてくるエドガーに、リディアは警戒する。日記帳を取られてしまうのだろうか? けれど、取られたのは日記帳ではなく、リディア自身だった。
「ちょっと、エドガー!」
「僕の悪口を書かれてはたまらないからね。さあ、お姫様はもう寝る時間だよ」
「まだ眠くないもの」
「なら、本を読んであげる時間があるわけだ」
さらった腕は強引だったのに、ベッドに寝かせる仕草は、壊れ物を扱うかのように、どこまでも優しかった。
その手が、リディアの顔にかかった髪を優しく払いのける。頬を撫でる指の温かさに、ついさっきまで感じていた苛立ちも溶かされてしまう。
日記がまだ途中なことなんて、どうでもよくなってしまった。
「最後まで読んでくれる?」
思いがけず、ねだるような声になってしまった。言ってからそれに気づいて、先ほどとは違う恥ずかしさに包まれた。
「……君のおねだりには敵わないな」
子供みたいだと思われるかと思った。
けれどエドガーは、ただ嬉しそうに微笑むだけだ。どうしてなのか、リディアにはまだよくわからない。
「着替えてくるから、それまで待っててくれるね?」
今日はリディアの部屋で一緒に寝るということだ。
珍しい、と思いながらも、嫌なわけはないからこくんと頷いた。
「早く戻ってきてね、兄さま」
「僕と少しでも離れるのは寂しい?」
「早くあの本を読んで欲しいんだもの」
「……僕より本が好きなのか」
落胆したようにエドガーは呟いたが、次の瞬間にはもう踵を返し、寝室のドアをくぐっていた。
エドガーはいつだって簡単に、好きとか愛しているなんて言葉を口にする。でもそれは、とてもリディアには真似できそうにない至難の技だ。
「―――言えるわけないじゃない」
本なんかとは比べ物にならないぐらい、本当はエドガーのことが好きだ。
「むりむりっ」
考えただけで恥ずかしくて、リディアはベッドの上をごろごろと転がりだした。
(08.11.28)