確かに家族なのだけど


リディアが目覚めた時、もう日はとっくに昇りきり―――と言うか、もうそろそろ昼食になるだろうかというような時間だった。
こんな時間に起きたのは久しぶり……と言うよりも、もしかしなくても初めてのことかもしれない。前の家ではこんなことはありえなかったし、伯爵邸来てからだって、基本規則正しい生活をしているのだ。三食の時間は決まっているし、家庭教師の来る時間だって毎日きちっと決められている。もちろんそれ以外の自由な時間もたっぷり取られてはいたが。
「……何か、頭がぼーっとしてるわ」
「へっ、いつもじゃねぇの?」
憎らしいことを言うのはニコ。とっくのとうに起き出して、寝室の椅子に腰掛けてゴシップ新聞なんか読んでいる。噂好きの妖精にとっては面白い物なのかもしれないが、リディアにはさっぱりその良さがわからない。
「失礼ね。昨日変な時間に寝ちゃってたから、夜なかなか寝付けなくて……」
「それだって自業自得だろ?」
相棒ならもう少し心配してくれてもいいだろうというのに、ニコは何てそっけないのだろう。昨日、リディアが気を失っている間は、それはもうニコは心配してその辺りをうろちょろしていたのだが、それを知らないリディアは何て猫だと思うだけだ。
柔らかい毛布をめくり、硬くギプスで止められた足を見て、リディアは深いため息をついた。これからしばらくの間、思うように足が動かせないだなんて、一体なんて不自由なことだろう―――それにしたって、こうして命があるだけ、感謝しなければと思うのだけれど。
「ねぇニコ、今日着る洋服を持ってきてよ」
「は? 何でおれが」
「動けないんだから、それぐらいしてちょうだい」
「なら、召使を呼べばいいだろ。この家にはごろごろしてるんだし」
「そりゃそうだけど……」
いつもは朝起きると同時にアーミンがやって来て、そのまま着替えを手伝ってくれる。けれど今日は起きた時間がいつもと違うからか、ここにアーミンの姿はない。それなら呼べばいいだけの話なのだが、いまだ召使を使う生活に慣れていないリディアは、なるべくなら自分一人で何でも済ませてしまいたいのだ。召使に囲まれるのは居心地が悪い。
「だって、アーミンて何だかいつも忙しそうだし。今だってきっと他の仕事をしてるでしょうし……」
「なら、僕が手伝ってあげるよ」
声は、いきなり聞こえてきた。驚いて、ベッドの中で身体を震わせたリディアの目に映ったのは、ドレスを抱えて部屋に入ってくるエドガーの姿だった。
「兄さま……」
「おはよう、リディア。やっと起きたね、僕のお姫さまは。体調はどうだい?」
ドレスを抱えたまま、額に降ってくるキスを、リディアは静かに受け入れる。男の人にキスされるだなんて以前であれば考えられないことではあったが、何だか最近はもう当たり前のことになってしまっている。だってエドガーがリディアに触れてこない日なんて無いのだから。
それを言うのなら、こうして男の人が勝手に寝室に入ってくることだってそうだ。けれどエドガーは一応家族なのだし、当然のような顔で入ってくるエドガーを見ると、不思議に思うことの方がおかしく思えてしまう。
「身体は平気よ。ちょっと痛い所もあるけど、大丈夫よ、打撲ぐらいなら前にも何度もなったことがあるし……」
「リディア」
だから平気だとリディアは言おうとしたのだが、思いの外強いエドガーの声音で呼ばれて驚いた。
「エドガー?」
「前にもなったことがあるから大丈夫だとか、そんなことを簡単に言わないでくれ」
「え、だって、本当のことだし……」
「その時の君をどうして助けてやれなかったんだろうって、後悔でいっぱいになるんだよ、僕は」
そんなことを言われたって。
「だって、あたし達が出会う前の話よ? エドガーにはどうしようも無いじゃない」
「それでも、君にそんな怪我をさせた奴を許せるわけじゃない。今からでも捜し出してなぶり殺してやりたいぐらいだよ」
な、なぶり殺しって……
リディアが小さく震えたのに気付いて、エドガーは慌てたように微笑むと「もちろん冗談だけどね」と付け加えた。どうだか、とリディアは胸中で呟きもらす。これぞ貴族の見本というぐらいには貴族らしいエドガーだが、どうしてかその身分には似付かわしくないほど物騒なところがあるのだ。
大体今の打撲の話にしたって、どうしてリディアがいじめられてそんな怪我をしたのだとわかったのだろう? たまにあったのだ、そういうことは。妖精が見えるリディアは、前の家―――孤児院では、恰好のいじめられ役だったから。もちろんそんな時には、リディアに好意的なゴブリン達が仕返しをしてくれて―――おかげで事態は余計に悪化したともいえるのだけれど。いじめっ子たちは、リディアが仕返しをしたと思い込み、そしてまたいじめらるる羽目になったのだから。
「僕にとって、君以上に大事で魅力的なものなんてどこにも無いんだよ。君に何かあったら心配するし、場合によっては発狂しちゃうかも」
「……兄さま、それは大げさ」
「大げさなんかじゃないよ。世界で一番君を愛してるって、何度言えばわかってくれるのかな、疑り深い僕の妹は?」
別にリディアは疑っているわくじゃない。ただ、人に大事にされるということに慣れていないから、すぐには信じられないだけで。
「君のキャラメル色の髪にこうして触れているだけで、誘われているような気になってしまうのにね」
「え、エドガー、あの……」
唇が触れ合ってしまうのではないかと思えるような至近距離で、エドガーはくるくるとリディアの赤茶の髪を弄んでいる。エドガーの甘い吐息が感じられそうだと思えば、妹なのに何を考えているのだろうと自分で自分が信じられない気持ちになった。いや、こんな風に感じさせるエドガーが悪いのだ。例えばその扇状的な灰紫の瞳は、絶対に妹相手に向けるものじゃない。口元に浮かんだ笑みも、爽やかと言うよりかは色っぽささえ感じられそうなもので。
耐えられない。
助けを求めるように椅子の上に視線をやったが、もうそこにニコの姿は無かった。いつの間にいなくなってしまったのだろう。ニコは自分を猫扱いするエドガーが嫌いなようだから、早々と逃げたのかもしれない。何て役にたたない相棒なんだろう。
「あ、あの、ね、兄さま。それはもういいから……あの、ちょっと離れて」
「僕にこうして触れられてるのは嫌?」
「い、いやって言うか……あの、だから、あたしもう着替えたいし」
「あぁ、そうだったね」
やっとエドガーが離れてくれて、リディアはほっとする。必要以上の触れ合いは、まだリディアには刺激が強すぎる。慣れる日がくるのかどうかもわからない。
「着替えを持ってきたんだよ。一人じゃ着替えるのも大変だと思ってね」
そう言ってエドガーは、膝の上にあったドレスを広げて見せた。たくさんレースのあしらわれた淡いピンク色のドレスは、リディア自身では決して選びそうにない可愛らしいドレスだ。
「……エドガーって、ピンクが好きなの?」
エドガーが整えてくれたリディアの部屋は、ベッドカバーもピンクならカーテンもピンク。けれどそれがちっとも下品に映らないのには、さすがのセンスを感じるところではあるのだけれど。
「ん? 好きって言うか、君にはこういう女の子らしい可愛い色がよく似合うなと思って。あぁ、清楚で上品な白ももちろん似合うし、深い緑も君の瞳とお揃いでとても栄えて」
「あの、兄さま、もういいから」
放っておけば永遠に続きそうなエドガーの誉め言葉にはもううんざりだった。そりゃ、誉められて悪い気はしないけど。でもエドガーの場合は過剰すぎるのだ。
ピンクのドレスはリディアの趣味ではなかったか、結局どんなドレスを着たって、こんな赤茶の髪では似合うはずもないのだ。リディアはおとなしくそれを着ることにした。
ドレスを受け取って、エドガーを見上げる。
「あの、だから、エドガー」
「うん? 何だい?」
「着替えたいんだけど」
だから出て行ってくれないかと暗に言ったつもりだったのだが、エドガーの返答は思いもしないものだった。
「あぁ、手伝ってあげるよ。立ち上がれないのに一人で着替えるのは大変だろう?」
「え? えっ?」
何かの聞き間違えかと思ったリディアは、エドガーの長い腕が伸び、慣れた手付きでぷちぷちと夜着のボタンを外して行くのを見て思わず悲鳴を上げそうになった。
「ちょ、や、止めてよ兄さまっ!」
「どうして?」
どうしてって。そんな真顔で聞かれても。
「や、だって、そんな……着替えぐらい自分でやるもの!」
「でもやりにくいだろう? 無茶して足の怪我が悪化したらそっちの方が大変だよリディア」
「そ、そりゃそうだけど……でもあの、それとこれとは何か違う気がするし……!」
言っているそばから、エドガーは手際良くボタンを外して行く。下着が覗くどころかあらわになって、リディアの顔は真っ赤になった。
「やだ、エドガー!」
「兄妹なんだから平気だよ」
そういう問題なのだろうか? エドガーは何でも無いような顔をしているけれど、リディアにとってこれはそんなに簡単なことではなくて。
足を動かせないから、逃げ出すこともできない。自由になる方の足を何とか動かしてじりじりと逃げようとしても、エドガーがベッドに上がり込んでしまうから無意味だった。
「に、兄さま……!」
「知らないの、リディア? 家族ならね、こうやって着替えさせるのだってごくごく自然なことなんだよ」
そ、そうなの?
「僕たちは家族なんだから。着替えぐらいで恥ずかしがることなんてないだろう?」
リディアには、普通の家族がどういうものなのかなんてわからない。幼い頃に亡くなった両親の面影だっておぼろげな程なのだ。
その上貴族の生活なんて、リディアにはもういい意味でも悪い意味でも夢のようなものなのだ。当然といった顔でエドガーに言われれば、そうなのかと思ってしまう。
「ね、だからリディア、おとなしくして」
「だけどそんな…っ!」
でもやっぱり恥ずかしい。
伸びてきたエドガーの腕を振り払って、何とか逃げ出そうと身体をひねった。片足でもがんばってベッドから降りてしまおうと思ったら、後ろから二本の腕が伸びて、リディアの身体をその中に閉じ込めてしまう。
「ダメだよリディア。当分安静にしてなさいって、医者から言われたのを忘れたの?」
「じゃあ離して…っ!」
もがいてもエドガーの腕は離れない。後ろから回された腕が、残っていたボタンをぷちぷちと外していく。もう嫌、とリディアは泣きたくなった。じわりと目の端が潤む。
「いい加減になさいませ、エドガーさま」
唐突に聞こえたその声は、確かにリディアを救ってくれた。
「女性を泣かせるのは好きじゃないと、いつだったか仰っていたのは私の気のせいでしょうか?」
「別に泣かせてたわけじゃないよ」
現れたアーミンは、そっとリディアの肩にショールをかけてくれた。あらわになった下着を隠せてリディアはほっとして息をもらした。目の淵に浮かんだ並をごしごしと腕でこすりながら、ちらりと後ろのエドガーに視線をやれば、やれやれとでも言いたげなエドガーの姿はそこにはあった。
「まったくおまえは……いつだっていいタイミングで来てくれるんだから。僕のことを見張ってでもいるのかい、アーミン?」
「リディアさんを泣かせて、後で後悔するのはあなたでしょう、エドガーさま。おふざけも大概になさいませ」
「あぁもう、わかってるよ。だから家庭教師みたいなことを言うのは止めてくれ」
心底から嫌そうにエドガーは言うと、すんっと鼻をすすっているリディアに視線を向けた。先ほどとは打って変わった、申し訳無さそうな顔だった。
「ごめんねリディア。純粋な君をからかいすぎたね」
からかいすぎた……? 冗談にも程がある。当分口をきいてやるもんかと、リディアはぷいっとそっぽを向いた。手を伸ばしてくるエドガーの気配を感じたから、アーミンにしがみついてやる。悪ふざけもいい加減にしてほしい。
「リディア、怒った?」
「……あっち行って」
顔を見たくなかったから、リディアはアーミンにしがみついたままそう言った。後ろでため息の音が聞こえた。少しわざとらしいため息。
「エドガーさま」
「わかったよ。ごめんねリディア。謝るから、午後のお茶は一緒に飲んでくれるよね?」
リディアは返事をしなかったが、これ以上いても無駄だと思ったのか、エドガーは大人しく部屋を出て行ってくれた。
「もう大丈夫ですよリディアさん。エドガーさまも、少しおふざけが過ぎたようですね。今頃反省してらっしゃいますよ」
目の前にいるのは、男装していてもちっとも女性らしい魅力を損なっていないアーミンだ。元はエドガーの従者で、今も多分そうだろうけれど、それ以上にリディアの面倒をよく見てくれている。この屋敷の中で、エドガーの次にはリディアが信頼している人。けれどその順番も今では揺らぎそうだ。
「……エドガーは、こんなふざけたことをする人なの?」
今までこんなことをされたことはなかった。あまりに近すぎる距離に戸惑ったり、頻繁にキスをされて困ったりすることはあったけれど、こんな風にリディアの嫌がることをする人ではないと思っていたのに。
リディアの問いに、アーミンは珍しく困ったようだった。困るぐらい、リディアの質問は難しいものなのか。
「エドガーさまは、リディアさんのことが可愛くて仕方ないんですよ」
「だからって、こんなことするなんて間違ってるわ」
憮然と呟くリディアに、アーミンはあやふやに微笑むままだった。



確かに、エドガーとは家族なのだけれど。

その距離感がたまにわからなくなってしまうから、本当に厄介なのだ、まったく。
(07.6.11)