月夜のパーティー


今度パーティーを開くから、と言われた時、リディアは素直に嫌な顔をしてしまったらしい。
らしい、というのは、自分ではそんなつもりはなかったからだ。けれど、目の前でそう告げたエドガーが思わず苦笑をしてしまうぐらいには、リディアは顔をしかめてしまったようだった。
「普通、パーティーって聞けば、女の子はもっと喜ぶものだとばかり思ってたんだけどな」
「そりゃ、想像するだけなら楽しいわ」
礼儀作法の授業を受ける前で、コルセットをつけなくてもいいというのなら、リディアだってパーティーに出てみたいと思わないでもない。
お茶の飲み方一つにも作法があり、そうして生まれて初めてつけたコルセットの締め付け具合と言ったら、思い出しても呼吸が苦しくなってしまうほどなのだ。リディアのあまりの嫌がりぶりを見て、日ごろはコルセットもクリノリンもつけずに済んでいるが、パーティーとなればそうはいかないことはわかっている。あんな苦しい思いをして、そうしてマナーに気をつけて、なおかつパーティーを楽しむことなんて、どうやったってリディアにはできそうにない。
「パーティーと言ってもね、ほんの内輪のものだよ。まだ社交の季節じゃない。慣れるにはいい機会だよ。少し参加してみないかい?」
「……この格好のままでいい?」
ようやく慣れ始めたここでの普段着である、ドレスの裾をつまんでリディアはエドガーを見上げる。
これで頷いてくれるのならちょっと参加してもいいと思ったが、エドガーは困ったような顔になった。やっぱり、これではダメなのだ。
「リディア、それではまるで僕が、君の面倒をちゃんと見ていないかのように思われてしまうよ。パーティー用のドレスの一着も作ってあげていないのかって」
そんなものなのだろうか。
孤児である自分を引き取って、こんな素敵な普段着を用意してくれるだけで十分だとリディアは思っている。その上パーティー用のドレスだなんて、もったいなさすぎて別に欲しくもない。
ここに来てわかったことだが、根っからの貴族でもない自分は、あまり高価な物をもらっても、触るのが恐ろしくて結局ろくに扱えやしないのだ。例えば、宝石の埋め込まれたキレイな細工箱は、傷をつけるのが怖くて机の奥にしまいこまれたままだったりする。エドガーが聞いたら笑いそうだ。
「やっぱり、あたしはいいわ、兄さま」
パーティーと聞いても、苦しいコルセットを思い浮かべて顔をしかめてしまう内はまだダメだ。コルセットにもクリノリンにも、複雑な礼儀作法にも、全部慣れることができたら、パーティーを楽しむことができるだろうか。
そんな日がいつになるのか、今はさっぱりわからない。
「そうかい? せっかく可愛い妹を自慢できるいい機会だと思ったのに」
「あのね、兄さま……」
あいにくと、自慢できるところなんて何もないのだけれど。親バカならぬ兄バカなのだろうかと、最近ではリディアは疑うようになっていた。
この家に来たばかりの頃は、自慢すると聞いても、ただ新しいおもちゃを見せびらかすだけだろうと思っていた。そうだとしか思えなかった。
けれど近頃では、そんなことは思わない。もしかして純粋に、ただエドガーに好かれているだけなのだろうかと、そう思い―――期待すら、してしまうほどで。
多分、エドガーが、ものすごく優しいからだ。砂糖をまぶしたように、シロップをかけたようにリディアには甘い。仕事中でもリディアが顔を出せば笑顔で出迎えてくれるし、出かければお土産だと言って美味しいお菓子を買ってきてくれる。行ってきますとキスをして、ただいまと言って抱きしめて。
けれど何より、エドガーの態度が、雰囲気そのものが、ものすごく柔らかく甘い。リディアを、甘やかせてくれる。大事にされていると、頭ではなく心でわかる。
「エドガーは楽しんでちょうだい」
そんなエドガーからの誘いだから、できれば少しは参加したいけれど。
マナーも何もなっていない妹が参加して、笑いものになるのは嫌だ。いや、伯爵という地位にあるエドガーを、面と向かって笑いものにする人なんていないのかもしれない。それでも怖い。
臆病になってしまうのは、人付き合いの経験があまりないからなのかもしれないが、それ以上に、貴族の集まるパーティーという場は、リディアにとってはまだまだ恐ろしい場所だった。
「リディアがいないと楽しめそうにないよ。君といる時が、僕にとっては一番なんだから」
そう言って、エドガーはリディアの額にキスをする。
図書室で、今晩読んでもらう本を探している最中だった。すっかり寝る前に本を読んでもらうのが習慣になってしまった。
お茶を持ってきたトムキンスに、額にキスをされているところを見られてしまう。少し恥ずかしかったから、リディアはえいっとエドガーの髪を引っ張ってやった。痛がるエドガーに、くすくすとリディアは笑った。






次々と入ってくる馬車の数に、リディアは目を丸くした。エドガーはささやかなパーティーだと言っていたけれど、一体これのどこがささやかだと言うのだろう?
「まったく、信じられないわね」
窓から離れ、振り返ったリディアは、そこでネクタイを整えている相棒を見て目を丸くした。
「何してるのよ、ニコ」
「パーティーに出るのなら、これぐらいしなきゃだろ?」
当然のようにそう言うニコは、仕立てのいいフロックコートを着ている。満足そうに鏡を覗いて、自分の姿を確認している。
「パーティーに出る気なの? っていうか、そのコートどうしたの」
「あんたの兄が作ってくれたよ」
「エドガーが?」
妖精の見えないエドガーは、ニコだってただの猫だと思っている。カップを持って熱い紅茶を飲んだりする、風変わりな猫だとは思っているだろうが。
「あの伯爵に言ったって聞きゃしないからな、執事に頼んだんだよ」
「トムキンスさんに? 確かにあの人、メロウの血を引いてるんだったかしら。だからニコの声も聞こえるのね」
そうしてトムキンスがエドガーに伝えたのだろうが、猫にフロックコートだなんてよく作ってくれたものだ。つくづく変わった人だとリディアは思う。
「でも、猫がパーティーに出るなんておかしいわよ。踏ん付けられたって知らないわよ」
「おれがそんな鈍いわけないだろ。旨い酒とご馳走を食べてくるんだ」
ニコはそう言って舌なめずりをした。パーティーに出なくったって、ここではいくらでも美味しいお酒も食事も出てくるというのに。ただどんちゃん騒ぎが好きなだけなのよね、とリディアは呆れる。
「リディアも出りゃいいのによ。パーティーなんて滅多にあるもんじゃないぞ?」
「ここじゃ、きっと珍しいことじゃないわよ。ダンスも踊れないのにパーティーなんかに出たって笑い者になるだけよ」
「あの伯爵が怖いから、だれも笑い者になんかしないだろ」
そうかしら、と思うリディアに、ニコは笑いながら言った。
「多分、リディアのいないところで笑われるんだな」
「……どっちみち笑われるんじゃない」
そんなのはごめんだ。人にバカにされるのは慣れているけれど、何も自分からその機会を作りたくはない。
ふう、とため息をつくリディアには構わず、ニコは楽しそうに部屋から出ていった。仕立てたフロックコートを着たニコがパーティーに参加していると知ったら、エドガーはどう思うだろうか。平然と笑うのかもしれない。
パーティーの手伝いで忙しいのだろうか、今日はアーミンの姿を見ていない。リディアの身の回りの世話をやってくれているのは彼女なので、あまり姿が見えないと少し不安になる。慣れたようで、やはりこの屋敷はまだまだリディアにとっては夢のような世界だ。
「……夜って、こんなに暇だったかしら」
いつもは夕食を食べ終わった後、何をしていたのだっただろう?
大体はエドガーと二人で、のんびりと過ごすことが多かったのだ、と思い出す。何か面白い話をしてくれて、二人で笑ったり。レイブンやアーミンがそこに加わることもあった。勉強を見てもらうことだってあった。教え方が上手いことに驚いたり。
そうして、眠る前には、最近では毎晩エドガーに物語を読んでもらう。耳に心地の良いテノールを聞いている内に、だんだんリディアは夢の世界へと誘われてしまう。
もういつでも眠れるようにと、着ている物は手触りの良い柔らかな寝巻きだ。寝巻きにしてしまうのがもったいないほどだと、リディアは常々思っている。おかげで、寝巻きだという意識も弱い。ついつい、気をつかいながらベッドに横になってしまう。
そろそろとベッドの中にもぐりこんだ。ホットミルクが飲みたい気分だったが、パーティーで忙しいメイドに新たな用事を押しつける気にもなれなかった。
ゆっくりと目を閉じる。屋敷の中はいつもよりもざわついていた。パーティーは盛り上がっているのだろうか。エドガーは今、何をしているのだろう。
「……兄さま」
ぎゅっと、リディアは目をつぶった。
眠りはまだ、遠いところにあった。



ここにリディアがいたらどれだけ楽しいだろうかと、そう考えていた時のことだった。
もう少しねばって誘ってみれば良かったと、気心の知れた貴族仲間としゃべりながらそう思う。リディアにとってはまだ慣れない世界だろうが、それでも楽しませる自信はあったのだ。最近ではずいぶん打ち解けてくれているし、その調子でこのパーティーを楽しんでもらうこともできたはずだ。
そう思っているのに、いざリディアを前にすると、強気な調子で行くことができないのだ。我ながら、情けないとは思うが仕方ない。可愛い妹には弱くできているのだ。
それに、とエドガーは思う。屋敷から逃げ出そうとしていた、あの日のリディアが忘れられないから、余計にそうなのかもしれない。無理強いをすれば、彼女はきっとまたすぐに家を出て行こうとするだろうから。
「おいエドガー。そろそろ、自慢のレディを俺たちに紹介してくれてもいいんじゃないか?」
パーティーも時間が経つにつれて、酒が回り無礼講になってくる。
適度にアルコールが入り、いい気分になってきた友人達から、この台詞を聞かされるのはもう何度目のことだろうか。
「いつまで経っても屋敷の中に閉じ込めたままだなんてね! まったく、おまえはいつからそんな心の狭い男になったんだ?」
「自慢の宝石は人に見せびらかすものじゃないか?」
笑いながら口々に言う友人達に、エドガーもワインに口をつけてから笑った。
「僕としては、自慢の宝石は人に見せびらかすよりも、大事に手中に収めておきたい方なんでね。傷をつけられたり、下手に奪われたりしたらたまらない」
「じゃあ君にとって、噂のレディは例えるならどんな宝石になるんだ?」
興味津々といった様子で一人が尋ねてくる。若い貴族連中は、いつだって女の話題には目がないのだ。それが、いつも社交界を騒がしているアシェンバード伯爵の、義妹のことともなれば特に。
「そうだな、魅力的な瞳はペリドットのようだし、激しい気性はルビーみたいでもある……でも僕にとっては、今はダイヤの原石かな」
恥ずかしがることなくそう言えば、取り囲んでいた友人達は一斉に言葉を無くしたようだった。
ダイヤの原石。これ以上ない例えじゃないかとエドガーは思う。それを輝かせるか原石のまま終わらすから全て自分次第。その楽しすぎる考えに、思わず笑みがこぼれた。
「まったく、そんなこと言ってるのが某侯爵令嬢にばれたら、とんでもないことになるんじゃないか? おまえにベタぼれじゃないか」
「彼女とはもういい友人になってるよ。妹の教育上、悪影響を及ぼすようなことはできないからね」
友人達と一緒になって軽く笑う。確かに楽しいと思いながら、ここにリディアがいたらもっと心から笑うことができるだろうにと思った。
「エドガーさま」
その瞬間、後ろから声がかけられる。振り返らなくてもわかる、レイヴンだ。
「何だいレイヴン」
パーティーの場で声をかけてくるだなんて、そうあることではない。大抵のことなら、一々指示を仰がなくてもできるだけの知恵も能力もある。
「それが、リディアさんが」
「リディアが?」
表情が一気に険しくなるのが自分でもわかった。
「何だか、泣いておられるようで。知らせなくていいと言われたのですが……」
そう言われて、レイヴンは悩んだのだろう。報告してくれて良かったとエドガーは思った。
「わかった、すぐに行こう。リディアは今どこに?」
部屋を聞いて、友人達に短く断りを入れてからエドガーはその場を後にした。







「リディア」
声をかけられて、リディアは小さく肩を震わせながら顔を上げた。
「どうしたんだい、リディア。泣いてたって?」
「エドガー……」
名前を呼べば、エドガーは優しい微笑みを浮かべてくれる。それに安心できるはずなのに、見た瞬間にまた涙が出てきてしまった。
「あぁほら、どうして泣くの僕の妖精。何か嫌なことでもあった? 怖い夢でも見たのかい?」
エドガーの腕が、優しくリディアの背中に回された。ぎゅっと抱き締められて、リディアはエドガーの胸に顔を埋める。
「ゆ、夢、見たっていうか……」
「うん?」
しゃくり上げてしまって、うまく声が出ない。エドガーはぽんぽんとリディアの背中を叩く。
怖い夢ではなかった。昔の、孤児院で暮らしていた時のこと。冷たい水で、毎日毎日洗濯をしていた。あかぎれから血が出た瞬間、目が覚めた。
寂しい夢ではあったけど、怖い夢ではなかったはずだ。
それでも目が覚めた瞬間、物凄く怖くなった。身体の震えが止まらなくて、気が付いたら部屋を飛び出していた。
現実と夢の境目が、少しわからなくなっていた。
これが確かに現実なのだと、確かめたいと思った時に、思い浮かんだのはエドガーだけだった。
こうやって抱き締められたら、いくら何でもこれが現実なのだと信じないわけにはいかない。
「ご、ごめんなさい、今パーティーの最中なのに……ちょっとそれ忘れてて。だからレイブンに、呼ばなくていいって言ったんだけど。あの、兄さま、戻っていいから」
「どうして。こんな風に泣いてる君を、僕が放っておけると思ってるの?」
「だって、お客さまが待ってるんじゃ」
「もう酒がけっこう入ってる。僕がいないことにも気付いてないよ」
そんなことはないと思った。こんなにも目立つ人がいなくなって、だれも気付かないだなんて。
「でも、兄さま」
「リディア、君はどうしてそんなに遠慮してばかりなんだ?」
どこか責めるような声音で言われて、リディアは驚く。目尻に溜まったままだった涙を、エドガーの指は優しく拭っていった。
「君はもっと、欲張りになることを覚えるべきだよ。僕が君のことを心配するのは当然のことだし、何よりも優先したいのだって君だ。不安になることがあるのなら、もっと甘えてくれればいい」
そう言われたって、それはリディアにとっては難しいことなのだ。
だれかに甘えるということを、今までリディアは知らなかった。こんなにまでリディアを甘やかしてくれるのは、きっとエドガーが最初で最後だろうと思う。
どこまでなら許されるのかがわからない。
今だって、パーティーの最中にその主役を独り占めしてしまうだなんて、これ以上ないほどの我が儘だとしか思えない。
「……どこまでなら甘えていいのか、わからないわ」
素直にそう言えば、エドガーは目を丸くした。そして笑う。
「まったく、どうしようもないね、僕の妖精は」
言葉に反して、その声音はとろけそうなぐらいには甘かった。
「このまま離したくないな」
「だって、パーティー戻らないと」
「いいよ、そんなの」
「いいって」
本気のように聞こえたから、リディアは慌てた。パーティーのことなんてよくわからないけれど、それはまずいんじゃないのだろうか。
「リディアを抱き締めている時が一番幸せだな」
幸せって、そんな大げさな。
でも、リディアもこうしている時間を、確かに嬉しいと思っている。幸せに近いと思えるぐらいには、嬉しい時間だ。
できれば、離れたくはないのだと。
そう思っていることは、恥ずかしいから黙っておくけれど。
「ね、パーティーに戻らなきゃ駄目よ。せっかく来てくれたお客さまに申し訳ないわ」
「……君は真面目だね」
やれやれ、とでも言いたそうな声音でエドガーは呟いた。リディアからすれば、平気でサボろうとするエドガーの方こそ不真面目なのだと思う。
「わかったよ。パーティーには戻る。でも、君を僕の部屋に送り届けてからでいいだろう?」
「エドガーの部屋なの?」
「戻るのは遅くなるけど、一緒に寝よう」
微笑んで言うと、エドガーは立ち上がった。リディアの腰を支え、抱き上げながら。
「ちょっ、兄さま!」
「何だい?」
笑ったまま、エドガーは歩きだす。落ちてしまうんじゃないかと怖くて、リディアはエドガーの首に両手を回した。
「今日はおとなしくパーティーに戻るから、今度はぜひ君にも参加してもらいたいな」
何でそうなるの、と抱きついたままリディアは思う。
「ほらリディア、今夜は月が綺麗だよ」
廊下に立ち止まって、エドガーは窓の外を見上げる。
リディアも一緒に見上げた。真っ暗の夜空に、そこだけ切り取ったかのように弓形の月が浮かんでいた。
「今夜は月夜のパーティーだね。妖精たちも楽しんでいるのかな」
「……えぇそうね、きっと」


今度もこんなに月の綺麗な夜なら、パーティーに出るのも悪くはないとリディアは思った。
(07.3.15)