英国的蜜色な日々


携帯が鳴った時、エドガーは自室でパソコンに向かっているところだった。
いまだにしつこく電話をかけてくる、別れたばかりの女性からなら無視しようと携帯を取ったエドガーだが、そこに表示された少女の名前を見れば、自然と顔は綻んだ。
「もしもし? リディア?」
『……あ、エドガー? ごめんなさい、今忙しかった?』
「いや、大丈夫だよ」
大学のレポートを書いていたところだが、別に集中してやっていたわけではない。あまりレポートを書く気分にもならないまま、惰性でキーボードを叩いていたようなものだった。
「何かあった? あぁ、今日は迎えに行けなくてごめん。授業が遅くまであって」
『別にいいのよ、それは。っていうか、別に毎日のように迎えになんて来なくてもいいんだってば。学校から家までそう遠いわけでもないんだから』
「僕が君に会いたくて迎えにいってるんだよ。学校帰りに君を遊びに誘おうなんて男がいたら蹴散らせてやれるしね」
『だからそんな人はいないし、エドガーは過保護すぎなのよ! ……あのね、忙しいんじゃないのなら、ちょっと家に来ない? 宿題見てほしいの』
「あぁ、いいよ。夕食はそっちで一緒に食べていいのかな」
『もちろん』
じゃあ待ってるわと言って、通話はすぐに終わった。
そのまま携帯をジーンズの後ろポケットにつっこんで、薄い上着を一枚羽織って家を出る。車に乗れば、カールトン家まではあっという間だった。
車を数分走らすだけで、すぐに会うことができるのだ。リディアに。
門灯がついている。カーテンを引いた窓から漏れる光りに目を細めた。
会いたい時に会える幸せを、今更のようにかみ締めながら。
そして今日も、エドガーはカールトン家のドアを叩くのだ。


エドガーがリディアと初めて出会ったのは、今からもう十年近く前のことだった。
とは言っても、振り返ればそのぐらいだったなと思い出すだけで、実際にその頃のことをエドガーはよく覚えてはいない。エドガーより、さらに三つ年下のリディアはそれ以上に覚えてはいないだろう。もしかしたら、一番よく二人の出会いを覚えているのは、リディアの父親であるカールトン教授なのかもしれない。
喘息気味だった幼い頃のエドガーが、スコットランドにある別宅へと訪れたのがきっかけだった。お互い他に遊び相手などはいない身で、仲良くなるのは子供としては当然のことだった。
まさか出会った頃には、十年が経った今でもこうしてその付き合いが続いているなどとは意外だったけれど……いや、それとも当然といえるのだろうか。
やがて成長すると同時に身体も丈夫になり、喘息の発作などはもうここ数年出ていないが、それでもエドガーはあしげくスコットランドへと通った。学校の長期休みは、毎回当然のようにスコットランドで過ごしていたし、エドガーがロンドンへ帰ってきてからも、メールや電話は頻繁に交わしていた。そんな付き合いが、これからも続くものだと思っていた。
リディアが、ロンドンに出てくることにならなければ、確かに続いていたのだろう。
祖母が亡くなったリディアは、父親が暮らしているロンドンへ引っ越してくることになったのだ。リディアの祖母のことは、エドガーもよく覚えている。亡くなったという知らせは確かに悲しかったが、老衰ということだったし、それ以上にリディアがロンドンへ出てくることへの喜びの方が大きかった。不謹慎だとは思ったが、その喜びを押さえることはできなかった。もちろん顔に出したりなどはしなかったが。
カールトンが大学教師としてロンドンへ出てきたのは数年前のことだ。顔を合わせることはあったが、家を訪ねるようなことは数えるほどで、だからロンドンのカールトン家に頻繁に訪れるようになったのは、リディアが越してきてからのここ数ヶ月のことだった。
けれどその数ヶ月間、毎日のように訪ねていれば、早くももう自分の家のようになってくる。それをカールトンが、あまり歓迎していないことはわかっていたが、リディアがいるのだから仕方ない。
「教授は、今日も帰りは遅いの?」
「えぇ。大学の人と、夕飯を食べてくるんですって」
鉱物学の権威でもあるカールトンは、それなりに多忙な日々を送っている。再び一緒に暮らすことになった一人娘と過ごす時間を大事に思ってはいるのだろうが、色々な付き合いなどがあり、夕食の席に現れることはあまり無かった。エドガーは毎晩のようにリディアと一緒に夕食を食べているというのに。
「じゃあ教授は、今日も君の手料理を食べ損なうのか。可哀想にね」
と、ちっともそうは思っていないのにエドガーは言う。
「別に気にしないんじゃないのかしら、父さまは。料理上手な娘を持ってたら別だったかもしれないけど」
「……この前の焦げたパイを忘れたの?」
「あれはあれで。なかなか味わい深かったよ」
冗談ではなく、エドガーは本気でそう言ったのだが、リディアはむっとしたように眉を寄せた。
「今日は焦がさないんだから」
呟きをもらしながらオーブンに向かって行く。その後姿に、エドガーはぷっと吹き出しそうになってしまった。
多少焦げたシェパーズパイが出てきたって、エドガーは別に気にしないというのに。
そもそもエドガーは、別に食に対してこだわりがある方ではない。美味しい物を食べるのは確かに嬉しいが、不味い物でも平気で食べる。栄養が取れれば別にそれでいいと思うのだ。だからいくらリディアが料理に失敗しようが気にはならない。エドガーにとって大事なのは、リディアが作った料理なのであり、その出来はあまり重要視されないのだ。
けれどリディアにとってはそうではないらしい。
見た目も美味しそうな料理ができれば満足そうな笑顔を浮かべて喜んでいるし、反対に失敗すれば、エドガーは何の文句も言わないというのに激しく落ち込む。
可愛いんだからなぁと、キッチンで、恐らくは真剣な顔をしてオーブンの中を見つめているリディアの後姿を見ながらエドガーは笑みをもらす。
些細なことで一喜一憂する、そんな彼女を心底から可愛いと思う。同時に愛おしいとも。
リディアはこの想いには気づいていない。昔から変わらずずっと、エドガーを家族のように思っている。 それでいい。とりあえずは。
「ほら、今日は上手く焼けたのよ!」
そんな風に、無邪気な微笑みを振りまく彼女が好きなのだ。
一緒に食卓を囲む。そんな時間が当たり前で、これからも続く時間なのだろうと思う。そう期待しているのかもしれない。
初恋もまだというリディアは、同じ年代の少女達と比べてもどこか幼い。幼馴染でもあるエドガーに、無意識でも甘えているからこそ、そう見えるのかもしれない。けれど今の彼女にエドガーがその想いを伝えたとしても、到底理解されるとは思えないのだ。
見つめるエドガーの視線にも、愛してるよと囁く声音にも、リディアはいつだって平然としている。
少しばかり、恥ずかしそうにすることはある。けれどそれ以上に嬉しそうな顔をすると、「あたしもよ」と囁き返してくれる。そこに恋愛感情などが一切含まれていないことは、火を見るよりも明らかだった。彼女が父親にする挨拶のキスと、エドガーへのキス。それは全くもって同じものなのだから。
「こっちの学校にはもう慣れた?」
今のところは、優しい幼馴染。面倒見のいい兄代わりでいようと思う。
もう少し、彼女が成長したら。そうしたら、この想いを伝えよう。それまでの我慢だと、エドガーは必死に自分に言い聞かせる。
「えぇ。ロタとは仲良くなったの。今度一緒に買い物に行くのよ」
「へぇ。荷物持ちでもいいから、僕も一緒に行きたいぐらいだよ」
「本当? エドガー、一緒に来てくれる?」
思いがけない反応にエドガーは少し驚く。友達同士で買い物に行くのなら、てっきり邪魔をしないでと言われるものだとばかり思っていたのに。
「もちろん。君さえ構わないのなら。良ければ車も出すけど……どうしたんだい? 珍しいね、君がそんなことを言ってくれるだなんて」
「だって……」
「うん?」
言いにくそうに視線をさまよわせたあと、リディアは皿にフォークを置くと、エドガーと視線を合わせないままに呟いた。
「同じ歴史の授業を取ってるアーネストとフィリップがね、一緒に来るって言ってて……あの、あたしあんまりしゃべったことないの。話しかけられても、何しゃべっていいのかわからないし、だから、エドガーがいてくれれば、あんまりしゃべらなくても済むかなと思って……」
そんなことを頼むのは気が引けるとでも思っているのだろうか。
申し訳無さそうな顔でおずおずと、リディアはエドガーを見上げる。
アーネストとフィリップ。その名前をエドガーは脳内のブラックノートに書き込んだ。
「……なるほど。それはぜひとも一緒に行かなきゃならないな」
「あの、迷惑ならいいのよ。エドガーはきっと楽しくないだろうし……」
「うん。ロタとその二人の虫けらはどうでもいいけどね。君に似合う服をプレゼントしたいな」
素直にそう言うと、リディアは照れたように顔を赤くして「ロタに失礼よ」と呟く。
笑顔を返しながら、その下でエドガーは顔も知らない虫けら二匹に向かって毒づいた。リディアに近づくなんていい度胸だ。
まったく、リディアは無自覚だから困る。その二人がどうして買い物に付いて来ようとしているのかもわかっていないのだろう。傍目から見て、リディアは十分魅力的な女の子だというのに、それを本人だけがちっともわかっていないのだ。だれも自分に好意なんて持つわけはないし、好かれるはずもないと思っている。それがリディアの不思議なところだった。
男と会話をすることはおろか、一緒にいるだけでも落ち着かないらしいリディアにとって、安心して買い物などができる男は、父親の他にはエドガーぐらいのものなのだろう。
それは確かに嬉しいことではあったが、同時に複雑な気持ちをエドガーに覚えさせた。安心できる男だと思われているのはいい。けれど何だか物悲しいような気もする。 焦ってはいけない。
そうわかっている。リディアにとって安心できる相手だと思われているのなら、とりあえずはその座に甘んじるつもりなのだから。
「……エドガーがいてくれて良かったわ」 けれど、あまりにほっとしたように微笑まれると、どうしても胸の一部が痛むのだ。エドガーは、ただ苦笑するしかなくて。


夕食を食べ終わると、いつもエドガーはソファにごろりと横になる。
もう、だらしないわねと言いながら、リディアが微笑んでいることは、目を開かずともわかっている。その声音は少し笑っているからだ。
リディアが食器を洗う音を聞きながら、エドガーは満腹感の後の心地良いまどろみに身を委ねる。
自宅では、到底聞くことのない家庭の音だった。家族らしさ、というものを、エドガーはカールトン家でしか味わったことがない。ここを第二の自分の家だと思うのは厚かましいことだろうか。教授はどう思うかわからない。けれどリディアは、きっとそんなエドガーを温かく受け入れてくれることだろう。
小さな鼻歌が聞こえる。
幸せだな、と素直に思えるこの時間が、エドガーは好きだった。
人前で眠るのは好きではない。転寝をするなんてことはありえないのに、カールトン家のこのソファの上では、自然と睡魔に飲み込まれる。
気づいた時には、エドガーは寝息をたてていた。そんなつもりなどなかったのに。ほんの少し横になっただけのつもりが、いつの間にか食器を洗う音も、リディアの鼻歌も、時計の針の音も、何もかも聞こえなくなっていた。
「あら。エドガーってば、寝ちゃったの?」
けれど、すぐ近くで聞こえてきたリディアの声に、少しだけ意識は覚醒する。
それも夢の中のことだと思った。いや、自分が眠っているという自覚も無かったから、ただぼんやりとエドガーはその声を聞いていた。
それでも、愛しい少女の声だと思えば、無意識に腕は伸びていた。
柔らかな身体を包み、胸元へと引き寄せる。「えっ?」何ていい香りだろう。心安らぐカモミール。
目を閉じていてもリディアだとわかる。抱きしめたこの柔らかさと感触で。リディア、と囁いた。返事が聞こえたような気もした。何ていい夢だろう。毎晩こんな夢ば見られればいいのに。
出会ってから、彼女がスコットランドで暮らしていた十年間。離れているのは当たり前だったから、恋しく思うようなことはそうは無かった。寂しく思えば電話をしたし、いつになったら会えると、会いに行けるとわかっていたから、それを励みに日々を乗り切っていた。それでも夢で見るほどに、恋しく思うことも切なくなることもなかったというのに。
毎日でも会える今になった方が、一日離れていただけでも、こんなにも恋しく思う。
夢に見るほどに。
夢の中でなら、キスの一つや二つ許されるのだろうか。
「……もう、エドガー。寝ぼけてるの?」
囁き声すら、こんなにも愛おしい。
リディア。
君が好きなんだ。君だけが。
「あたしもよ」
可愛らしいその唇はどこだろう。
思い切り塞いでしまいたい。ずっとずっとそう願っていた。自分の思いを自覚してから。
抱きしめる腕の力が増した。無意識だった。けれどリディアはきついわ、と文句を言う。夢にしてはリアルな声だった。その上、身体を押される。逃げようとするかのように。
夢の中ぐらい、大人しくしてくれてもいいはずなのに。
きついと言って逃げようとするだなんて、いつものリディアと変わらない。
……いつもの、リディアと?
「もう、エドガー! きついったら! 苦しいわ!」
「―――リディア?」
うっすらと、エドガーは目を開いた。
すぐ近くに―――本当に、すぐ近くに。少し顔を寄せるだけで、すぐにでもキスできる位置に、リディアの顔があった。大好きな金緑の瞳が。
思い切り、抱きしめていた。
「え、リディア……」
慌てて腕を離した。そんな自覚も無しに離していた。
上半身を起こす。開放されたリディアは、ほっと息をもらしながら身体を離した。ソファに寝そべったエドガーの上半身に、リディアの身体はずいぶんと密着していた。多分、その身体の柔らかさを思う存分味わえるぐらいには。
「リディア……僕は何を……いや、わかってる。ごめん。僕が抱き寄せたんだろう?」
「えぇ。いきなりだったからびっくりしたわ。寝てるのに、すごい力なんだもの」
本当にびっくりしたのかと、疑ってしまうぐらいにはのんびりとしたリディアの口調だった。
「ごめん……寝ぼけてたみたいだ」
むしろ、驚いているのはエドガーの方だった。
らしくもない。無自覚にリディアに手を出していただなんて。どれだけ自分は飢えているのか。
けれど呆然とするエドガーとは裏腹に、リディアは首を傾げながらエドガーの顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? まだ寝ぼけてる?」
「いや……」
少なくはない衝撃で、眠気などは消え去った。
そうして改めてリディアを見つめれば、どうしてそんな無邪気な顔をしていられるのかと不思議に思った。小さな苛立ちと共に。
「君は驚かなかったのか?」
男に、急に、抱きしめられて。
いくら幼馴染だろうが、家族のような付き合いをしていようが、それでもエドガーは他人なのだ。大人の男なのだ。
「え? 驚いたわよ。だって寝てると思ったのに、急に動くんだもの」
「そうじゃなくてね」
「それにしても、エドガーも寝ぼけることがあるのね。寝てる時もあんまりキレイな顔してるから、何だかびっくりしちゃったわ」
思いがけないエドガーの一面を見れたからか、リディアは楽しそうに笑い声をもらす。
食後のお茶にしましょうと言って、リディアは再びキッチンへと向かって行く。その後姿を見つめながら、エドガーは重いため息をついた。
何て相手にされていないのか。男として見られていないにも程がある。
「ねぇエドガー。紅茶は何がいい? 飲みたいお茶、何かあるかしら」
一番口にしたいのは甘いキャラメルなんだけどね。
素直すぎるその呟きは喉の奥に押し込んで、「君と同じ物を」と言いながら、エドガーはソファに座りなおした。
新刊ハニーデイズに書き下ろした英国現代幼馴染物。
楽しかったのでついついサイトにも書いちゃいました。
無防備な女の子とか、男として見られてない男の子とか大好きです。
私的な萌え万歳な感じで楽しかったです。また書きたいなー


(08.3.10)