社長と秘書
書類を机の上に置き、部屋を出ようとドアノブに手をかけたところで声をかけられた。
「一つ確認したいんだけど」
「……はい?」
何か不備があっただろうか。言われた通りの書類を持ってきたはずだが、見落としでもあったのだろうか。
振り返った先で、リディアの上司は完璧な微笑みを浮かべている。革張りの椅子に深く腰掛け、慣れた手つきで書類をぺらぺらとめくりながら、深い灰紫の双眸でじっとリディアを見つめている。
この視線には、いつまで経っても慣れることができない。ただ見つめられるだけで心臓が騒がしくなる。そうして彼は、そんなリディアの鼓動の音にも気づいているかのように、ますます笑みを深めるのだ。
「今日が何の日か知ってる?」
「今日、ですか」
今渡した書類とは、あまり関係が無さそうだ。
大体、あと一時間でリディアの勤務時間は終わる。それは上司も同じで、今日組まれていた予定は全てこなしたはずだった。
「とりあえず、定例会議の日でしたけど……」
「……ふざけてるの?」
「ご、ごめんなさい」
眉の寄ったその顔に、リディアは慌てて頭を下げる。入社したのは去年の四月。そうして、秘書に抜擢されてからはまだ数ヶ月。自分なりにがんばってきたつもりだが、それでもわからないことが多すぎる。一体一日に何度頭を下げれば済むのだろう。
「いや、怒ったわけじゃないけどね」
気遣うような優しい声音に、リディアはほっとして頭を上げる。
幸いなことに、この上司―――社長は、決してリディアを怒鳴りつけたり、厳しい物言いをすることはなかった。わからないことがあれば丁寧に教えてくれるし、きちんと仕事をこなせば労ってくれる。ものすごく理想的な上司だろうと思える人だった。
「じゃあ、聞き方を変えよう。世間的に言って、今日は何の日だ?」
「世間的に……」
ということは、仕事の話ではない?
そう考えてみれば、浮かぶのは一つしかなかった。けれどどうして、今そんな話を社長が持ち出そうとしているのかがわからない。
「ヴァレンタイン、ですか」
「そう。ヴァレンタインだ」
当たっていたことに、リディアはほっと息をもらす。続けて答えを間違えれば、さすがに呆れられてしまうだろう。
そのヴァレンタインがどうしたのかと、リディアは話の続きを待ったが、どうしてか社長も口を閉ざしたままだった。まるで、リディアが口を開くのを待つようにして。
何だろう、とリディアは考え込む。ヴァレンタインに、秘書である自分がするべき仕事というのは……。
「あ、今日頂いたチョコレートでしたら、全てまとめてリストにしてあります。ホワイトデーのプレゼントでしたら、こちらで用意して送っておきますので」
「それは助かるよ、ありがとう。でもね、今僕が言いたいのはそういうことじゃないんだ」
どこか疲れた様子で社長は髪をかきあげた。どれだけ会議が続いても疲れた様子は見せない社長だから、リディアは素直に驚いた。
「あの……」
「どうやら君には、はっきり言わないと伝わらないみたいだね」
もったいぶった言い方に、リディアは緊張した。何かミスでもしでかしてしまったのだろうか。
時計の秒針が動く音をたっぷり聞いてから、社長はゆっくりと口を開いた。鼓動の音がよりいっそう大きくなる。
「朝からずっと待っていたんだけど、そろそろ君の終業時間になってしまうからね……それなのに、僕はまだ、君からは何も受け取っていないんだけど?」
「えっ」
何を、と、反射的に言ってしまうところだった。
今日はヴァレンタインで、ヴァレンタインといえばチョコレートで、もちろん社長はそのことについて言っているのだろう。そう気づいて、心臓が妙な音を立て始めた。
だって、チョコなんて、持ってきていない。
「ご、ごめんなさいっ」
再び、リディアは頭を下げた。これでもかというぐらいに。
「ごめんなさいって……」
「ごめんなさい、あの、持ってきてないんです。だって、社長は山ほどチョコを頂くから、リストを作っておいた方がいいって先輩に言われて……その、そんなに頂くのなら、あたしがあげても迷惑なだけだなと思って……でもごめんなさい、秘書ならあげるのが当然だって、あたし知らなくて……!」
あぁ、こんなの言い訳だ。
社長の顔を見るのが怖い。
「本当にごめんなさい。あの、あたし今から買ってきます…っ」
頭を下げたまま、くるりと背中を向けた。すぐにでも部屋を飛び出すつもりだった。
「いいよ、ミス・カールトン」
かたん、と小さな物音が聞こえた。びくりとリディアは肩を震わす。
「義理チョコを今から買いに行かれても嬉しくない」
それはそうだろう。しかも、この時間に開いている店なんて、もうコンビニぐらいしかない。
後ろから、そっと肩に手を置かれた。そうして、くるりと身体の向きを変えられる。すぐ目の前に立つ社長は、どうしてか笑顔だった。新米秘書のこんな失態など、予想していたと言うかのように。
「あの、社長、本当にごめんなさい……」
「うん、そうだね。君からチョコを貰えないだなんて本当にショックだ」
改めてそう言われるときつい。肩にかけられたままの手の平が、どうしてか重たく感じられる。
「思うにね、ミス・カールトン。君は秘書としての心構えがいまいち足りないんじゃないのかな」
元々秘書になるつもりで入社したわけではないのだから、足りないも何も無い。
とは思いつつも、新入社員が社長相手にそんなことを言えるわけもなかった。
何を言われようと、返事はいつも決まっている。
「……はい」
「その辺りの話を、今晩じっくり君としたいな。一緒にホテルのディナーでもどう?」
今日はこれから、友達と夕飯を食べる約束をしていたのに。
今度会えるのはいつになるだろうか。
「……はい、社長」
「今日の仕事はもういいよ。出かけよう」
まだ仕事は残っているのに、どこか嬉しげに社長は言う。そんなにお腹がすいたのだろうかと思いながら、リディアは机の上を片付けだした。
来年のヴァレンタインは、絶対に忘れないようにしなければ。
―――忘れたくても忘れることのできないヴァレンタインになるのは、あと数時間後。
「一つ確認したいんだけど」
「……はい?」
何か不備があっただろうか。言われた通りの書類を持ってきたはずだが、見落としでもあったのだろうか。
振り返った先で、リディアの上司は完璧な微笑みを浮かべている。革張りの椅子に深く腰掛け、慣れた手つきで書類をぺらぺらとめくりながら、深い灰紫の双眸でじっとリディアを見つめている。
この視線には、いつまで経っても慣れることができない。ただ見つめられるだけで心臓が騒がしくなる。そうして彼は、そんなリディアの鼓動の音にも気づいているかのように、ますます笑みを深めるのだ。
「今日が何の日か知ってる?」
「今日、ですか」
今渡した書類とは、あまり関係が無さそうだ。
大体、あと一時間でリディアの勤務時間は終わる。それは上司も同じで、今日組まれていた予定は全てこなしたはずだった。
「とりあえず、定例会議の日でしたけど……」
「……ふざけてるの?」
「ご、ごめんなさい」
眉の寄ったその顔に、リディアは慌てて頭を下げる。入社したのは去年の四月。そうして、秘書に抜擢されてからはまだ数ヶ月。自分なりにがんばってきたつもりだが、それでもわからないことが多すぎる。一体一日に何度頭を下げれば済むのだろう。
「いや、怒ったわけじゃないけどね」
気遣うような優しい声音に、リディアはほっとして頭を上げる。
幸いなことに、この上司―――社長は、決してリディアを怒鳴りつけたり、厳しい物言いをすることはなかった。わからないことがあれば丁寧に教えてくれるし、きちんと仕事をこなせば労ってくれる。ものすごく理想的な上司だろうと思える人だった。
「じゃあ、聞き方を変えよう。世間的に言って、今日は何の日だ?」
「世間的に……」
ということは、仕事の話ではない?
そう考えてみれば、浮かぶのは一つしかなかった。けれどどうして、今そんな話を社長が持ち出そうとしているのかがわからない。
「ヴァレンタイン、ですか」
「そう。ヴァレンタインだ」
当たっていたことに、リディアはほっと息をもらす。続けて答えを間違えれば、さすがに呆れられてしまうだろう。
そのヴァレンタインがどうしたのかと、リディアは話の続きを待ったが、どうしてか社長も口を閉ざしたままだった。まるで、リディアが口を開くのを待つようにして。
何だろう、とリディアは考え込む。ヴァレンタインに、秘書である自分がするべき仕事というのは……。
「あ、今日頂いたチョコレートでしたら、全てまとめてリストにしてあります。ホワイトデーのプレゼントでしたら、こちらで用意して送っておきますので」
「それは助かるよ、ありがとう。でもね、今僕が言いたいのはそういうことじゃないんだ」
どこか疲れた様子で社長は髪をかきあげた。どれだけ会議が続いても疲れた様子は見せない社長だから、リディアは素直に驚いた。
「あの……」
「どうやら君には、はっきり言わないと伝わらないみたいだね」
もったいぶった言い方に、リディアは緊張した。何かミスでもしでかしてしまったのだろうか。
時計の秒針が動く音をたっぷり聞いてから、社長はゆっくりと口を開いた。鼓動の音がよりいっそう大きくなる。
「朝からずっと待っていたんだけど、そろそろ君の終業時間になってしまうからね……それなのに、僕はまだ、君からは何も受け取っていないんだけど?」
「えっ」
何を、と、反射的に言ってしまうところだった。
今日はヴァレンタインで、ヴァレンタインといえばチョコレートで、もちろん社長はそのことについて言っているのだろう。そう気づいて、心臓が妙な音を立て始めた。
だって、チョコなんて、持ってきていない。
「ご、ごめんなさいっ」
再び、リディアは頭を下げた。これでもかというぐらいに。
「ごめんなさいって……」
「ごめんなさい、あの、持ってきてないんです。だって、社長は山ほどチョコを頂くから、リストを作っておいた方がいいって先輩に言われて……その、そんなに頂くのなら、あたしがあげても迷惑なだけだなと思って……でもごめんなさい、秘書ならあげるのが当然だって、あたし知らなくて……!」
あぁ、こんなの言い訳だ。
社長の顔を見るのが怖い。
「本当にごめんなさい。あの、あたし今から買ってきます…っ」
頭を下げたまま、くるりと背中を向けた。すぐにでも部屋を飛び出すつもりだった。
「いいよ、ミス・カールトン」
かたん、と小さな物音が聞こえた。びくりとリディアは肩を震わす。
「義理チョコを今から買いに行かれても嬉しくない」
それはそうだろう。しかも、この時間に開いている店なんて、もうコンビニぐらいしかない。
後ろから、そっと肩に手を置かれた。そうして、くるりと身体の向きを変えられる。すぐ目の前に立つ社長は、どうしてか笑顔だった。新米秘書のこんな失態など、予想していたと言うかのように。
「あの、社長、本当にごめんなさい……」
「うん、そうだね。君からチョコを貰えないだなんて本当にショックだ」
改めてそう言われるときつい。肩にかけられたままの手の平が、どうしてか重たく感じられる。
「思うにね、ミス・カールトン。君は秘書としての心構えがいまいち足りないんじゃないのかな」
元々秘書になるつもりで入社したわけではないのだから、足りないも何も無い。
とは思いつつも、新入社員が社長相手にそんなことを言えるわけもなかった。
何を言われようと、返事はいつも決まっている。
「……はい」
「その辺りの話を、今晩じっくり君としたいな。一緒にホテルのディナーでもどう?」
今日はこれから、友達と夕飯を食べる約束をしていたのに。
今度会えるのはいつになるだろうか。
「……はい、社長」
「今日の仕事はもういいよ。出かけよう」
まだ仕事は残っているのに、どこか嬉しげに社長は言う。そんなにお腹がすいたのだろうかと思いながら、リディアは机の上を片付けだした。
来年のヴァレンタインは、絶対に忘れないようにしなければ。
―――忘れたくても忘れることのできないヴァレンタインになるのは、あと数時間後。
新米社員のリディアを見かけて気に入って、何となく秘書に引き抜き。
一緒にいる内に好きになって、それとなくアプローチをかけるんだけど全く気づかないリディア。
でもさすがにヴァレンタインにはチョコぐらいくれるんだろうなと思ってたらそれも無し。
そんな感じのエドガーでした(名前出てないけどちゃんとエドガーですよ! 笑)
もちろんこの後ホテルで色々やらかしてます。我慢も限界な社長でした。
(09.2.14)
一緒にいる内に好きになって、それとなくアプローチをかけるんだけど全く気づかないリディア。
でもさすがにヴァレンタインにはチョコぐらいくれるんだろうなと思ってたらそれも無し。
そんな感じのエドガーでした(名前出てないけどちゃんとエドガーですよ! 笑)
もちろんこの後ホテルで色々やらかしてます。我慢も限界な社長でした。
(09.2.14)