大げさすぎる愛してる
【 マイケル ― 家 】

 漂ってくるスープと焼いたパンの香りが、あぁ、と身に染みるような気がするのです。
「ほら、もう起きてちょうだい。朝ごはんの支度はできたのよ。それとも、冷めたスープの方が好きなのかしら?」
 とんでもない、と目を開けた瞬間、そこに見知らぬ女性の姿を発見し、マイケルは慌てて飛び起きました。
「あ、あの…っ」
「やっと起きてくれたわね。全く、ハウルといいあなたといいねぼすけなんだから。嫌になっちゃうわ」
 そう言いながらもくすくすと微笑んでいる、それは赤毛の女性で―――あぁ、とマイケルは心の中で頷きました。いくら寝ぼけていたとはいえ、どうして一瞬でも忘れてしまったのでしょうか。
「おはようございます、ソフィーさん……」
「おはよう。着替えたら早く下りてきてちょうだいね。せっかく作ったスープが冷めちゃうわ」
 散らかっている自分の部屋に美味しそうな香りが漂っているのは、それはソフィー自身に染み付いた香りなのでしょう。そうわかった瞬間どうしてか無性に恥ずかしい気持ちになり、マイケルはこくこくと慌てて頷きました。
 早くしてちょうだいねと言い残して、ソフィーは軽やかに部屋から出ていきました。それでも部屋の中にはまだ朝食の香りが残っていて、ぐう、とマイケルのお腹を鳴らしました。
「……何だかなぁ」
 朝起こされることも、朝食が用意されていることにも、そして何よりソフィー自身の存在に、まだまだ慣れることができないのです。毎朝同じように驚きながら目を開き、スープとパンの香りに、恥ずかしいようなむずがゆいような気持ちを覚えるのです。

 ―――あのお婆さんが僕よりちょっと年上な女の子だったなんて、やっぱりまだ変な感じなんだよ。

 耳を澄ますと、ハウルを起こすソフィーの声が聞こえます。少し怒鳴っているのは、きっと動く城の主はベッドの奥にもぐりこみ、なかなか起き出しやしないからなのでしょう。早く起きないと美味しいスープが無くなっちゃうのにねと思いながら、マイケルはベッドから抜け出しました。
 ことことと、鍋の鳴る音すら聞こえそうな、そんな温かな朝でした。今まで彼が知らなかった、夢見ていた光景の一部分のような、忘れてしまっていた朝の光景でした。

 *

 お婆さんだとばかり思っていたソフィーが本当の姿に戻ってから、早一週間が過ぎた頃でしょうか。
 ハウルもカルシファーも気づいていたソフィーの呪いに、唯一気づくことのできなかったマイケルは、いきなりのそのソフィーの姿の変わりようにきっと一番驚いたはずです。
 一人だけ仲間はずれにされたようで、少しつまらなく思い、教えてくれれば良かったのにと呟きもらしたマイケルに、カルシファーはけけっと愉快そうに笑いました。
「ソフィーにかけられた呪いはえらく頑固だったからな。人には言えないようになってたのさ」
 そう言いながらもカルシファーは、マイケルだけが蚊帳の外だったことを面白がっているようでした。カルシファーらしいやと思いながらも、マイケルはまた一段とぴかぴかに磨き上げられた部屋の中を見回しました。
「ソフィーさんは、一体どこまで掃除をする気なんだろうね」
「力が有り余ってるんじゃねぇの?」
 そうかもね、とマイケルはカルシファーの言葉に頷きました。とてもお婆さんとは思えないほど元気なソフィーでしたが、それはそのはず、中身は若いお嬢さんだったのですから。そして今その若いお嬢さんは、部屋の隅に埃の一つでも落ちていたら我慢ならないとばかりに、毎日相棒の箒を持って城中をうろうろしているのです。マイケルはそんなソフィーを見かけると、邪魔にならない場所にささっと移動することが癖になってしまいました。
「思う存分動けることが、こんなに幸せなことだって今まで知らなかったわ! もう身体が痛むこともないし、思い切りこの家をぴかぴかにしてやるんだから」
「もう十分すぎるほどぴかぴかですよ!」
 マイケルの悲鳴に近い叫びは、もちろんソフィーの耳に入ることはありませんでした。お婆さんの時ならいざ知らず、今は耳が遠いなんてことはありえないのにと思いつつも、これ以上は無駄だとわかっていつもろくに文句の台詞さえ言えないのです。そんなソフィーにはハウルさえもお手上げといった様子で、まるでソフィーこそがこの動く城の本当の主のようでした。
 けれどそうしてソフィーによってぴかぴかに磨き上げられた家は、ちっとも以前の面影を残していないにも関わらず、不思議と居心地がいいのです。だからきっと、どれだけソフィーが大掃除をしようとも、ハウルは何も言わないのだろうとマイケルは思った程です。
「不思議な人だね、ソフィーさんは」
「まあなぁ……」
 話しかけられたカルシファーは、灰のなくなったさっぱりとした暖炉の中でまどろんでいます。きっとマイケルの言葉も耳に届いてはいないのでしょう。ゆらゆらと、カルシファーの髪が揺れています。こんな風にカルシファーを眺めたことが、そういえばずっと前にもあったような気がします。まだここに来て間もない頃に。カルシファーを火の悪魔だとは思わずに、ただ不思議な炎だなとマイケルは眺めていたのです。
「カルシファー、寝ちゃったの? 寝る前にお風呂にお湯を送ってちょうだい。ハウルが帰ってくる前にお風呂に入っちゃいたいのよ」
 夕飯の下ごしらえを終えたソフィーは、エプロンを外しながら暖炉の中のカルシファーにそう話しかけました。器に盛られ、後は焼くだけのグラタンが机の上に置かれているのが見えました。
「ソフィーさん、カルシファー寝ちゃいましたよ」
「もう、今寝られちゃ困るのよ。お湯を送ってもらいたいし、夕飯の支度も終わってないんだから。昼寝にしたってもう遅い時間だわ」
 ソフィーは憤慨したようにそう呟くと、暖炉の脇に立てかけてあった火かき棒を手に取りました。それを見てマイケルは慌てました。
「あの、ソフィーさん。ハウルさんじゃないんですから、それで突っついたらカルシファーが怒りますよ」
「だって起きないんだもの。仕方ないじゃない」
 あっけらかんとソフィーは言い、火かき棒を暖炉の中に突っ込みました。けれどその凶暴な武器が炎の悪魔に襲い掛かる前に、危険を察知したのか、カルシファーは気だるそうに身動きをしました。
「……何だよ、おいら眠いんだよ。それもこれも、あんたやハウルが朝から晩までおいらをこき使うおかげでさ!」
「あたしはこき使ってなんかないわよ、失礼ね。だれかさんみたく二時間以上も浴室に閉じこもったりしないでしょう? あなたの寝床の掃除もしてあげたんだから、ほら、夜の仕事もがんばってちょうだい。ハウルが帰ってきたら夕飯にしたいから、その前にお風呂にお湯を送ってちょうだい。火の悪魔なんだからこれぐらい容易いもんでしょう?」
 カルシファーに口を挟ませない勢いでソフィーはそうまくし立てました。カルシファーはげんなりしたように、けれど最後に褒められまんざらでもなさそうでした。「まったく、あんたもハウルと同じぐらいにはおいらをこき使うね!」文句を言いつつも、寝る素振りはもうありません。ソフィーは満足そうに微笑みました。
「働いてくれたら後でマカロニの残りをあんたにもあげるわよ、カルシファー」
 火かき棒を手放すと、ソフィーはくるっと振り返りました。
「マイケル、先にお風呂に入ってきちゃっていいわよ」
「え、そんな。いいですよ、僕は後で」
 自分でも不思議になるぐらい慌てて、マイケルはぶんぶんと首を横に振りました。
「ソフィーさん、どうぞお先に。今日もたくさん働いてましたから、ゆっくりしてきて下さい。ハウルさん、まだ帰ってこないと思いますから」
「そう? じゃあ先に入ってきちゃおうかしら」
 お湯は熱めでお願いねとカルシファーに声をかけて、ソフィーは着替えを取りに階段を上がっていきました。
 ふう、と、小さなため息をついたマイケルに、カルシファーは不思議そうに問いかけてきました。
「何だ? やけにソフィーには遠慮してるんだな」
「だって、仕方ないよ」
 けけっと笑うカルシファーに、マイケルは少し疲れた声音で答えます。いえ、疲れたわけではないのです。遠慮しているのかどうかもよくわかりません。ただ、ソフィーより先に風呂に入ることには、妙な抵抗感があったのです。それを言えば、ソフィーの後に入ることにもで、それはソフィーがお婆さんの頃には無かった感情でした。
「……ハウルさんは、何も思わないのかな」
「あいつは何も考えてないだろ」
 カルシファーはいいよな、と、マイケルは少しばかり羨ましくなってしまいました。カルシファーはソフィーに遠慮するようなこともなければ、若いお嬢さんになったソフィーを、不必要に意識することもないのでしょうから。

 *

「おや、マイケルどうしたんだい?」
 そう声をかけてきたのは、いつも呪いの材料を買いに行く、がやがや町のある店の主人でした。
「どうしたって、何がですか?」
 ハウルに渡されたメモを片手に、マイケルは振り返りました。乱雑に物の積まれた薄汚れたカウンターの向こうから、目深に帽子をかぶった店主がにやにやと笑っています。
「ずいぶんぱりっとした服装になったじゃないか。さては世話してくれるいい子でも見っけたか? マイケルに先を越されるようじゃ、俺もそろそろ本気で嫁さん探さんといかんなぁ」
「え、あの、これは」
「ちょっと前まで、ボタンは取れてるわよれよれの服ばっかり着てるわだったくせになぁ。何だ、どこでいい子引っ掛けたんだ?」
「そんなんじゃないですよ」
 確かにマイケルにマーサという可愛い恋人ができたのはつい最近のことですが、服にアイロンをかけてくれるのも、取れたボタンをつけてくれるのも、マーサではありません。
「何だ何だ。隠さなくったっていいだろう? どんな子なんだ? 今度連れてこいよ」
「本当にそんなんじゃないんですってば。ソフィーさんはハウルさんの恋人で……僕にとっては」

 僕に。
 ―――とっては?

 それを考えて、マイケルの数秒思考の迷路に迷い込んだ気持ちになりました。自分にとってソフィーがどんな存在であるかなんて、今までマイケルは考えたこともなかったのです。
 考える必要もないくらい、自然とソフィーは家にいたからなのかもしれません。どうしてと思う暇もなく、ソフィーは自然と動く城の暮らしに馴染んでいました。今ではその全てを取り仕切っていると言ってもいいぐらいに。
 戸惑うことはあっても嫌だと思うことはありませんでした。それは大好きなマーサの姉だからというよりも、ただマイケルがソフィー自身を好きになっているからに他なりませんでした。
 出される毎日の食事を、これほど美味しいと思って食べることすらも、今までマイケルは忘れてしまっていたのです。
 食事の温かさや早く起きなさいと起こされることや知らない内に服を繕ってくれることや。
 そんな、全てが。


「―――お母さん、みたいな、感じですよ」


 昔に確かその温もりを感じたことがあったと、今になっては懐かしく思い出すそんな存在にどこかソフィーは似ているのです。
 何よりもその温もりが、似ている、ようで。
 すとん、と、マイケルの中で何かが落ちたようでした。あぁそうか、と。そうだったのか、と。不必要な遠慮なんてしていた自分がバカバカしく思えてきました。だってソフィーは、何一つそんな素振りは見せなかったじゃありませんか。
 そんなものは、何もいらなかったのです。
 だって多分、自分達は、家族への道を歩んでいるのですから。
 そう思ったら、一秒でも早く家に帰りたくて仕方ありませんでした。慌ててメモに書いてある材料をカウンターに持って行くと、重たい袋を抱えてマイケルは家路を急ぎました。夕焼けが郷愁を誘い、どうしてか心を急き立てるのです。
 早く早く、と。心臓の裏側から声が聞こえるようでした。
 子供達の笑い声の間を駆け抜けて、呼吸を整えてから、マイケルは家の扉を開けました。
 その瞬間、漂ってきたのはシチューの香りです。ただそれだけのことに、驚くほど身体の奥がじわっと温かくなりました。
「あら、マイケル。お帰りなさい。遅かったのね、そんなに買う物があったの?」
「……ソフィーさん」
 マイケルの荷物を受け取ると、ソフィーはその中身を覗いてから机の上へと置きました。マイケルがハウルに頼まれ何を買って来たのか気になるようで、ソフィーはしきりに袋の中を覗いています。そんな様子に、マイケルはくすりと笑みをもらしました。
「やたらとたくさん買って来たのね。こんなに買う物があるのなら、ハウルも自分で行けばいいのに。疲れたでしょう?」
「いえ、大丈夫ですよ。それより、ソフィーさん」

 マイケルの伝えた言葉に、ソフィーは驚いたように、それから嬉しそうに微笑むと胸を張って言いました。


「だって、この家にはとんでもなく手のかかる子供が一人いるでしょう?」


 それは確かに、と、マイケルは頷きました。
 もうすぐ、その手のかかる子供が帰ってくる時間です。
 一緒に夕飯の支度をしようと、マイケルはソフィーと並んで台所に立ちました。





 ぱちぱちと、暖炉の中の薪が爆ぜる音が、優しく部屋の中に響き渡っていました。





【 マーサ ― リトル・レディ 】

 どうしてこの世にはしつこい男がいるんだろうと、マーサはそう思わずにはいられませんでした。
「ねぇお願いだよマーサ、一度だけでいいからデートしてくれよ!」
 もう先ほどからこの台詞を、一体何度聞いたことでしょう。せっかく今日は早上がりの日で、空いた時間はのんびり買い物でもして過ごそうと思っていたのに、この男の所為でそれも台無しになってしまいました。
「だから、無理だって言ってるでしょ? あのね、ジャン。あたしはあなたと付き合う気なんて無いの」
「だから、付き合わなくてもいいよ。一度デートしてくれるだけでいいんだ。それで諦めるから!」
「一度デートして諦めるのなら、しない内にさっさと諦めてちょうだい。あたしはね、好きでもない人とデートするような女じゃないの。他を当たってちょうだい」
「君じゃなきゃ嫌なんだ、マーサ!」
 腕を掴んで放そうとしないジャンに、マーサの我慢の限界ももうすぐそこまで迫っていました。あぁ、いつだって異性に言い寄られるレティーを羨ましいと、そう思っていた頃が夢のようです。何て鬱陶しいことでしょう!
 本当なら、今すぐジャンの頬の一つでも叩いてしまいたいのです。けれどそれができないのは、ジャンがチェザーリの常連客だからです。看板娘に言い寄って振られるのは結構ですが、殴られたなんて噂が流れるのはあまりいいことではありません。
「手を離して、ジャン。いい加減にしてちょうだい。あたし買い物に行きたいの」
「なら付き合うよ。荷物持ちでも何でもするからさ。な、いいだろ? 美味しいカフェを知ってるんだ、ご馳走するからさ」
 デートの誘いをこれほど断っているというのに、懲りずにお茶に誘ってくるだなんて、一体どんな神経をしているのだろうとマーサは呆れてしまいました。
 呪いが消えた後も、こうして本来のマーサの姿に惹かれ声をかけてくれる男性がいることに嬉しく思ったことは確かです。けれどこうしてしつこい男性に出会う度に、どうしてこの世にはこんなにもしつこい男がいるのだろうと思わずにはいられないのです。そう、こうしてしつこく声をかけてくる男は、何もこのジャンが初めてではないのです。
「美味しいカフェがあるのなら、いいわ、それは今度恋人と一緒に行くから」
「……そんな!」
 ジャンの顔がさっと翳りました。その隙に逃げ出してしまおうとしたのに、睨みつけてくるジャンから逃れることはできませんでした。
「ジャン、放して……! 痛いわ!」
「恋人だって? どこの男なんだ、マーサ!」
 さっきの台詞は言うべきではなかったかもと、今更ながらに後悔したところでそれはもう遅いことでした。
「パン屋のシビルか? それともナン? 何であんな奴と、マーサ!」
 ジャンの声は、だんだん高く悲鳴に近いものになってきていました。そんな声を聞くのはもう嫌で、噂になっても何でもいいから、殴ってこの場を去ってしまおうとマーサが右手を振り上げかけた時のことでした。
「―――そんな金切り声じゃ、女の子は口説けないよ?」
 小さく、笑みをもらしたような声でした。
 決して大きな声ではなかったというのに、その声はたったその一言だけでジャンを黙らせてしまいました。
 かつ、かつ、と、ブーツの立てる音が路地裏に響きます。こんな音のする靴を履く男の人を、マーサは一人しか知りませんでした。
「……ハウルさん」
「やぁ、マーサちゃん。こんな所で会うなんて奇遇だね」
 薄暗い路地裏でも、その整った顔立ちを見間違えるはずはありませんでした。ジャンの手が緩み、マーサはさっと自分の腕を引っ込めました。伸ばされたハウルの手を自然と取ってしまっていたのは、そうすることがごく当たり前のような、そんな顔をハウルがしていたからなのでしょう。マーサが自分の手を取ると信じて疑わないような顔を。
「悪いけど、彼女は僕が連れていくよ。次はもう少し気の利いた口説き文句を用意してくることだね。じゃないと、僕には勝てないよ?」
 こんなに自信に満ちた男の人の笑顔を、マーサは初めて見た気持ちでした。手を引かれるままに歩き出し、ふと気になって振り返った時には、もうそこにジャンの姿はありませんでした。少し気の毒だったかもと思ってしまうのは、あまりにもハウルの存在が圧倒的すぎたからです。
「ハウルさん、どうしてこんな所を歩いてたの?」
「偶然だって言っただろ? 僕だって町を散歩することぐらいあるよ」
「偶然、ハウルさんはうちの店の裏口の前を通りかかるの? 散歩だったらもっと賑やかな通りを歩くものだと思うわ」
 釈然としない気持ちで、マーサは隣を歩くハウルを見上げました。おやおや、とでも言いたげにハウルは肩をすくめると、悪戯を囁くような顔で笑いました。
「いいことを教えてあげようか、マーサちゃん。魔法使いにはね、偶然を必然に変えてしまう力があるんだよ。それがただの偶然だとしても、そこに人の想いが絡めばそれはたちまち必然になる―――人生なんて偶然な必然の重なり合いさ。世の中は全部偶然で、全部必然なんだ。そう思うと納得できることが色々あるんじゃないかい?」
 そう言うとハウルは、視線をマーサから逸らしてしまいました。ただ前だけを見つめて、不器用な鼻歌を歌いながらご機嫌に歩き続けています。何を言われたのかさっぱりわからないマーサは、そんな魔法使いの横顔を見つめていました。キレイな横顔です。けれど何を考えているのか、何を思っているのかよくわからない横顔でした。
 魔法使いハウルという存在は、少し前までマーサにとっては恐るべき存在でした。美人の心臓を食らう悪の魔法使いだと、ずっとがやがや町に住む人々はそう思い込んでいたのですから。
 その魔法使いが、実は悪の魔法使いなんかではなく、それどころか姉のソフィーの恋人になっているだなんて、それこそどんな物語にも出てこない素敵なシチュエーションだわとマーサは思いました。いつでも家に閉じこもって仕事ばかりしている姉に、やっと幸せが巡ってきたのかと嬉しく思いましたし、同時にそんな運命的な出会いをしたソフィーを羨ましく思ったことも事実です。
 姉は、この魔法使いのどこを好きになったのでしょう。前々から疑問に思っていたことが、今当の本人を横にしてむくむくと沸き起こってきました。ハッター家の三姉妹は、みんな好奇心旺盛なのです。
「見惚れちゃうほどいい男?」
 横目でマーサを見ると、ハウルはくすっと笑いました。見つめていたことがばれて、マーサは少しバツの悪い気持ちになりました。確かにキレイだなとは思いましたが、だからと言って別に見惚れていたわけではないのです。
「さっきは助けてくれてありがとう、ハウルさん。偶然だったのかどうかはわからないけど、しつこくて困ってたところだったから、助かったわ」
「それはそれは。可愛い女の子を助けることができて僕も本望だよ」
 その台詞は、少しばかり嘘臭くマーサには聞こえました。いえ、演技ぶっているとでも言いましょうか。
 末っ子としてませている上に、今ではチェザーリの看板娘として働いているマーサは、それなりに観察眼も持ち合わせているつもりでした。特に男性に対してのそれは、チェザーリに奉公に出てからぐんと鍛えられたつもりです。
 それでも今隣を歩いているハウルの本心がどこにあるのか、マーサにはさっぱりわかりませんでした。ハウルの言葉は全てが演技のようでもあり、どこまで信じていいのかわからないのです。
 こんなに不思議な人は初めてだわ、とマーサは思いました。こんなにキレイで、こんなに信じられない人に出会ったのは初めてでした。
「ハウルさんて、よくわからないわ」
 いつまでも手を繋いでいるのは恥ずかしくて、マーサは繋がれている手に少し力を込めました。それだけで簡単にハウルは手を離してくれました。ぱちぱちと瞬きをしている瞳は、目の前でおやつを取り上げられた幼い子供の眼差しに少し似ていました。
「僕からすれば、君たちハッター姉妹の方がよっぽどわからないよ。いや、驚かされるとでも言うべきかな。特にソフィーなんて僕の予想もしないことばかりやってくれるし……本当困ったお嬢さんだよね」
 そう言って、少し遠くを見たハウルは、その瞬間にソフィーのことを思い出しているのでしょう。その眼差しはあまりに幸せそうで、だからこのよくわからない魔法使いを、嫌うことなんてできないのです。何を考えているのかさっぱりわからなくとも、姉のことを想っていることだけは真実だと、そうわかってしまうのですから。
「姉さんのどこを好きになったの?」
「おやおや。そりゃまたずいぶんと直球だね。最近の女の子はみんなそうなのかい?」
 おどけたように眉を上げるハウルを、マーサはじっと見上げました。耳からぶら下がる宝石と同じ緑の瞳を覗き込めば、本音の一欠片でも見つかるかもしれないと思ったのです。
 マーサのそんな気持ちがわかったのか、ハウルはふっと肩の力を抜くかのように笑いました。
「君ぐらい素直に、ソフィーも聞いてくれればいいんだけどね」
「姉さんは聞かないの?」
 マーサは少し驚きました。自分の恋人が自分のどこを好きになったのか、普通気になるものではないのでしょうか。 マーサは何度かマイケルに尋ねたことがあります。その度に赤い顔をしながらも、マイケルが一生懸命に答えてくれる様子に嬉しくなって仕方ないのです。
 あぁ、けれど、姉の場合は。あの、意地っ張りで素直じゃないソフィーの場合は、そうもいかないのかもしれません。
「一度だって聞いてくれたことなんて無いね。気にならないわけじゃないんだろうけど、何せ君のお姉さんはとんでもなく素直とはかけ離れてるお嬢さんだからね」
 全く困ったもんだよと、やれやれとハウルは眉尻を下げました。素直になれないソフィーにやきもきしているハウルの様子が目に浮かぶようで、マーサはついついくすっと笑みをもらしてしまいました。
「笑い事じゃないんだよマーサちゃん。どうやったらソフィーが少しは素直に僕に甘えてくれるんだろうって、真剣に考えてるんだからさ」
「えぇ、そういう意味で笑ったんじゃないのよ。ただ……」
 お似合いだと思って。
 口から零れそうになった言葉に、他でもないマーサ自身が驚いていました。お似合いだなんて、そんな。姉のことはともかく、まだハウルのことなんて何も知らないというのに、よくそんな言葉が浮かんだものです。
 けれど、本当にそうだとマーサには思えたのです。多分きっと、理由なんてないのでしょう。ただそう感じただけで、そしてそれだけでいいのです。
「姉さんはハウルさんのこと、きっとよくわかってるんでしょうね」
「さあ、どうかな」
 そんなこと気にしたこともないとばかりにそう呟いたハウルは、ふと気づいたようにマーサの丸い瞳を見つめました。
「君はレティーとは違うんだね。胡散臭い魔法使いだって、僕のことを毛嫌いしたりはしないんだね」
 それを意外に思っているような声音でした。あら、とマーサは笑い出したくなりました。どうしてハウルが偶然を装ってわざわざチェザーリまでやって来たのか、その理由がわかったような気がしたからです。

―――あの人はね、どうしようもない人なのよ。

動く城を訪ねた時、姉の言っていた言葉を思い出します。

―――臆病者で、まったく嫌になっちゃうわよね。荒地の魔女の呪いが怖いからって、ウェールズで酔っ払いになって帰ってきたのよ? 全く信じられない!

 そんな、臆病者の魔法使いは。
 愛しい恋人の家族に嫌われることが、きっと何よりも恐ろしいのでしょう。心臓を食らう魔法使いと噂されていた自分を、果たして受け入れてくれるのかどうかと。
 隣を歩き続けるハウルは、先ほどと変わらず飄々として見えます。けれどその内心はどう思っているのだろうと考えると、マーサは笑い出しそうになるのを堪えるので精一杯でした。
 あぁ、全く、何て可愛い魔法使いなのでしょう!
「一つ教えてあげましょうか」
「……うん?」
 立ち止まって、マーサはしっかりとハウルを見上げました。まだ成長途中で小柄なマーサと長身なハウルとでは、その間にはずいぶんと距離がありました。
「あたしはずっとがやがや町に住んでいたから、もちろん魔法使いハウルの噂は聞いていたわ。それが嘘だってことはもうソフィー姉さんから聞いてるけど、そんなことはね、どうだっていいのよ」
 にっこりと、マーサは笑顔を浮かべました。
 チェザーリの看板娘の笑顔です。けれどマーサは、特別自分の容姿が素晴らしいなどとは思いません。ただいつも、ケーキを買いに来てくれる人たちが、少しでも幸せな気持ちになってくれるようにと願うだけです。
「だってハウルさんは、マイケルの先生なんだもの。あたしにとっては、それだけで十分なのよ」
 百の説明をされるよりも、何よりも。
 マイケルが好きな、マイケルが信頼している、魔法の師匠というだけで、それだけでマーサにとっては十分なのです。それだけで、全ては事足りるのです。
 一体ハウルは、何を不安に思っていたのでしょう。マーサはくすくすと笑いながら、駆け足に走り出し、振り返ってハウルに笑いかけました。
 口をぽかんと開けて、ずいぶんとマヌケな顔でした。そんな顔をしていたら姉さんに振られちゃうわよと言おうとして、マーサはその言葉を飲み込みました。代わりに、とびきりの笑顔で言ってやりました。










あたしのことは、
マーサちゃんリトル・レディじゃなくて、 マーサレディでいいわよ、


―――――義兄さん。

(2010.06.04)
いつ発行した本だったが正確にはわからないのですが、07年夏のコピー本だったようです。
何となく、大阪で発行したような気もするようなしないような…。
たまたまたコピ本を発掘して読み返したのですが、「何を書きたかったのか」がきちんとわかる話は読み返してもすっきりします。
逆にそれがわからないと、「自分は何を書きたかったんだろう」とすごくもやもやするのですが(笑
文章の稚拙さはさておいて、こういう雰囲気のものは久しく書いていない気がするので、やっぱりこの家族はいいなあとサイトにUP。