ALICE WORLD


 あたしの兄は、とても多忙な日々を送っている。
 大学を飛び級で卒業してすぐに事業を立ち上げたってだけでも相当なのに、それが瞬く間に大企業になってしまったというのだから本当に驚きだ。在学中から色々ツテがあったとか言ってるけど、それだけじゃここまではならないことはわかっている。全てはエドガーの実力だ。
 そんな風にして、エドガーは朝から晩まで働きづめなものだから、同じ家で暮らしている家族だというのに、まともに会えるのは三日に一度ぐらいのものだったりする。玄関先ですれ違ったりするのは、数に入れなくてもいいだろう。
「お嬢様。先ほど、エドガー様がお帰りになられましたよ」
 だから、部屋に入ってきたメイドがそう言った時には驚いた。てっきり、夕飯だと呼びに来たのかと思ったのに。
「え……本当に帰ってきたの? 兄さまが?」
 だって、まだ夜の七時前だ。あたしにとってはお腹を空かせた夕飯の時間だけど、エドガーにとってはばりばりの仕事時間であるはず。
「はい。先ほどお帰りになられました。お嬢様と一緒に夕飯を召し上がりたいとのことです」
 そう言って、にっこりとメイドは微笑む。その言葉をそれ以上疑えるはずもなく、あたしも微笑んで頷き返す。
 お嬢様、と呼ばれるのはどうにも慣れない。この屋敷で暮らすことを決めた以上、慣れなければとは思うのだけど、人間の意識はそう簡単には変わらない。どうにもこそばゆくて、逃げ出したくなってしまう。どこに? 今まで暮らしていた、父さまとの家だろうか。
「すぐに行くわ。お腹もすいてるし」
「エドガー様がお待ちかねですよ」
 それもどうなのだろう。
 家族の夕食なのに、お待ちかねって。
 それが普通なのか、それともそうでないのか……このお屋敷で暮らす内に、あたし自身、だんだん何が普通で何がおかしいのか、よくわからなくなってきている。メイドなんて存在が当たり前にいることからして、あたしには信じられないんだから。
 数年前までは、同じ家で同じ暮らしをしていたのに。
 今のあたしにとって、兄以上に遠い人はいない。


「やあ、リディア。三日ぶりだね。元気にしてたかい?」
「えぇ。兄さまも元気そうね」
「可愛い妹の顔を見れたからね」
 椅子から立ち上がったエドガーは、そう言ってあたしの額にキスを落とす。あまりに自然な動作でそうされてしまうと気づけないけど、兄妹でこの触れ合いっていうのはやっぱり何だかおかしいと思う。
 でも、そう文句を言おうとした時には、エドガーはあたしの背中に手をあてて、そっと椅子に案内してしまう。流れるようなその仕草は、とても実の兄とは思えない程で、何だか眩暈すら覚えてしまう。
「今夜は君の好きなミートパイだよ」
 そう聞けば、思わず頬が緩む。この家のコックの腕は最高だ。越してきて良かったと食事の度に思わせるぐらいには。
「兄さま、今日は帰ってくるの早いのね」
「久しぶりに、君とゆっくり過ごしたいと思ったからね。仕事は早めに切り上げて帰ってきたんだ」
「いいの? そんなことして。他の人が大変なんじゃ……」
「いいんだよ。僕が社長なんだから」
 にっこりと笑ってエドガーは答える。
 そこまではっきり言われると、呆れるのを通り越して感心してしまう。何がすごいって、好き勝手しているようで、エドガーの会社は日に日に大きくなっているってことだ。父さまだって驚くほどに。
 ミモザサラダをフォークでつついて、焼きたてのパンにかぶりつく。エドガーはワインを飲んでいるけど、あたしはオレンジジュースだ。
「学校の方はどうだい?」
「いつも通りよ」
 まるで親子みたいな会話。
 ここで笑顔で「楽しい」と答えられればいいんだけど、人付き合いの苦手なあたしにとって、学校っていうのはそこまで楽しい場所ではない。楽しい時ももちろんあるけど、そうでない時もそれなりに多い。
 エドガーもそれはわかっているだろうから、見え透いた嘘は言えない。すぐにばれてしまうからだ。相手が父さまなら話はまた別だけど。
「えぇと、そうね。前より近くなったから、通うのが楽になったわ。朝ものんびりしてられるし」
 そう付け足したあたしに、エドガーは満足そうに微笑んだ。
「やっぱり、こっちに引っ越してきて良かっただろう?」
「……えぇ、そうね」
「ここは君の家でもあるんだから、好きに我侭を言ってくれて構わないんだよ。部屋の模様替えがしたかったらそう言ってくれればいい。何も遠慮なんてしなくていいんだからね」
「ありがとう、兄さま」
 笑って頷いておくけど、絶対に無理、と同時にあたしは胸中で呟かずにはいられない。
 閑静な住宅地の中に、いきなりどんとでっかく建てられたこの豪邸は、エドガーの家であってもあたしの家ではない。今までごくごく普通の生活をしてきたってのに、兄が大金持ちになったからって、とたんにあたしの意識まで変わるものではないのだ。
 できることなら遠慮したかった、この豪邸への引越しを決意したのは、一緒に暮らそうと誘ってくるエドガーがいい加減しつこかったのと、そうした方がいいと父さままでもが頷いたからだ。  あたし達の父さまは、大学で鉱物学の研究をしている。根っからの研究バカで、大学に泊り込みなんて当たり前。そんなのは昔からだから、あたしは別に何も気にしていなかったのだけど、年頃の女の子が家に一人きりなのは危ないとエドガーは主張して、会う度に引っ越しを勧めてきた。
 エドガーが週の半分近くいないのは父さまと同じだけど、この屋敷には何人もの使用人だっているし、セキュリティだってしっかりしている。学校にもずっと近くなるとあれば、まあいいかと頷いてしまったのだけど、一月近くたった今も、やっぱりここでの暮らしはあたしには向いていないと思えて仕方ない。
 メイドに身の回りの世話をされることにも、ちょっと出かけようとすれば運転手が車の準備をして待っていることにも、何より『お嬢様』なんて風に呼ばれる立場にも、どうしたって慣れられっこない。
 それも当然だ。生まれてから十何年、お金持ちとは程遠い一般庶民の生活をしてきたのだから。父さまも何度かこの家には遊びに来たけど、その度に落ち着かないからと早々に帰ってしまった。
 あたしも父さまもそんな風なのに、どうしてエドガーだけ普通にしていられるんだろう?


(アリスワールド)