あの鐘の音は彼方に―闇の抱擁―


執事が持ってくる手紙の束には、もう慣れたつもりでも時たま嫌気がさしてくる。
「舞踏会は嫌いじゃないけど、こう続くとさすがにうんざりするね。まだ狩りの誘いの方がマシだな」
 執事は静かに微笑んでからお茶をいれる。いつもの紅茶の味を十分に味わってから、エドガーは取り出したペーパーナイフで封を切る。
 中身なんて読まなくてもわかっている。
 夜会の誘いが何通か。そうして礼状もいくつか。
 どこかの貴婦人の手を取って踊っている時はまだいい。考えなくても褒め言葉は自然と口から出てくるし、ダンスの下手な女性の相手だって慣れたものだ。何ら困ることはない。
 けれど今のようなふとした瞬間に疲れを覚える。終わらない付き合い。変わらないダンスのステップ。何よりも煌びやかで、それでいて退屈な時間だ。日常とはそういうものなのかもしれない。
 封の切られた手紙の山が増えていく。全ての返事を自分一人でやろうと思えば、とても手が足りない。だから執事に任せてもいいだろうと思う物は分けておく。
「トムキンス、これの返事を頼む」
「かしこまりました、旦那様」
「それから……」
 手紙を手に取り、ペーパーナイフで封を切る。
 中身を取り出そうとした瞬間、その切り口が素早くエドガーの指を撫ぜた。手袋がなければ、指先を切っていただろう。
「―――狩りの誘いだ」
 久しぶりだな、と呟くエドガーに、トムキンスは静かに口を開いた。
「……行かれるのですか?」
「夜会に行くだけが領主の仕事ではないよ。女性の機嫌を取る前に、領民の生活を守らなくてはならないからね」
 わかっている。
 そう尋ねるトムキンスの頭に、だれの顔が浮かんでいるのか。
 自分だって同じだからだ。迷いはない。けれど考えずにはいられない。
「リディアは?」
「温室にいらっしゃいますが」
「わかった」
 立ち上がったエドガーに、トムキンスは不安げな眼差しを向けてくる。その意味を理解すれば、エドガーは苦笑せざるを得なかった。
「僕の狩る相手は彼女じゃない。心配は無用だよ」
「わかっております」
 神妙な顔をしてトムキンスは頷く。
 今にもメロウの宝剣を掴み、リディアに襲い掛かるとでも思ったのだろうか。バカらしい。
 手紙をそのままにして、エドガーは執務室を後にした。
 温室には彼女がいる。
 ―――もうどれだけ殺してきたかわからない、吸血鬼が。


 どうやら温室は、リディアのお気に入りの場所らしい。部屋にいないと思うと、大抵の場合彼女はここにいる。心地良く日差しのあたる場所で、お茶を飲んだり本を読んだり、自由気ままな時間を過ごしている。
 それでいい、とエドガーは思う。下僕という名を与えたのは、彼女を縛りたいからではない。あくまでもそれは、血への欲求を抑制するための名に過ぎない。
 人間と吸血鬼の混血児であるリディアは、興味深い存在だった。混血という存在は聞いてはいたが、実際に目にしたのは初めてだった。吸血鬼と人間の、それぞれの特性を備えたリディアは、何もかもが驚きに満ちている。その全てを知るにはまだまだ時間が必要だと思えた。
 日の差し込む温室で、そのソファの上で、リディアは気持ち良さそうに転寝をしていた。
 その姿を見れば笑みがこぼれる。あどけない、子供のような寝顔だった。それは安らぎに満ちた。花の香りに囲まれたリディアは、この世の何よりも清らかに見えた。真実を知っているエドガーにさえも。
「……信じられないな」
 リディアを見る度にそう思う。
 日の差し込む温室に、吸血鬼がいる。
 穏やかな寝顔を浮かべて、エドガーがその隣に腰掛けたことにも気づかない。安心しきった顔。この屋敷はようやく、彼女にとっての家になれたのだろうかとふと思う。来たばかりの頃はどこか警戒したように見えた。それも当然だ。リディアが目覚めた時、エドガーは、彼女を殺すための剣をその手にしていたのだから。
 けれどあの宝剣。今まで、数え切れないほどの吸血鬼の心臓を、あの宝剣で刺してきた。そうして灰にさせた。
 メロウの宝剣は、果たしてリディアにも効くのだろうか?
 日にあたっても、リディアの肌は焼けただれはしない。眩しく感じるとは言っていたが、それでもリディアは日の光りを浴びるのが好きなようだった。晴れた日にはよく庭に出る。咲いた花を嬉しそうに眺める。庭師に切ってもらった薔薇を部屋に持ち帰り、いい香りがすると喜んでいた。
 ごく普通の女の子にしか見えない。
 エドガーですらそう思う。意識をしなければ、リディアはほぼ人間と同じ香りがする。
 ただの可愛らしい女の子だ。
 そうとしか思えない。
 ソファの上では寝辛いだろうと、その頭を持ち上げて膝に乗せる。それでもリディアは目覚めない。聞こえるのは小さな寝息だけだ。
 静かに扉が開き、足音も立てずにレイヴンが入ってくる。何も言わずにお茶の用意を始める。
「ねえレイヴン、信じられるかい? この子が吸血鬼だなんて。ほら、僕の膝に頭を乗せて眠ってるんだよ。可愛い寝顔だ。思わずキスしたくなる」
 その唇をそっと撫でた。小さな唇だ。ほのかに笑みの形を刻んでいるのは、何かいい夢を見ているのだろうか。楽しい夢を。
 牙は見えない。リディアの歯はあまり鋭くはない。目立つ八重歯だと言えばそれで通じてしまうような。吸血鬼と呼ぶには、あまりにささやかな牙だ。けれどその小さな牙は、もう何度もエドガーの首筋に突き立てられている。
 確かに血を吸われているのに。
「吸血鬼だなんて思えなくなる」
 だってリディアはあまりに温かい。
 その温もりを一度でも感じれば、彼女が闇の生き物だとはとても思えなくなる。これは人間の、そうして女の子の持つ温かさだ。
「……では、リディアさんは何なのですか?」
 エドガーの目の前に紅茶を置きながら、そっとレイヴンが尋ねた。その問いへの答えをエドガーは持っていない。それこそ、エドガーが知りたいと思っているものだった。
 リディアは一体何なのか。
 吸血鬼と人間の混血は、果たしてどちらに属するものなのか。
 その答えは、もしかしたら、リディアが死ぬ瞬間にこそわかるものなのかもしれない。ならばその一生を終えるまで、答えは出ないままなのか。
 それでも別に構わない。
 穏やかな寝息を立てて眠る、それがリディアだ。それだけで今は十分だと思える。
「狩りの誘いが来たよ、レイヴン。また被害者が出た」
「すぐ出発なさいますか」
「明日の朝だ。リディアにも話をしないといけないしね」
 リディアはどう思うのだろう。
 泣くのか、それともエドガーを非難するのか。止めてくれと懇願するのか。そのどれもが可能性としては考えられたが、一つとして喜ばしいものはなかった。
 リディアに何を言われようが、やるべきことは変わらない。
 人に害をなす吸血鬼を殺す。それが、領主としてのエドガーの成すべきことだ。
 昔からずっとそうしてきた。これからだって変わらない。その思いは依然として胸の中にあり続ける。ただ少しの不安を覚える。リディアが。この温かな少女が。一体何を思うのかと。悲しませてしまうことになるのかと。
「……泣き顔は、できることなら見たくないな」
 例えリディアがどれだけの涙を流そうが、けれどあの宝剣を手放すことはできないだろう自分を知っているからこそ、エドガーはそう思う。
 近い内に、エドガーは一人の吸血鬼を殺すだろう。
 リディアが小さく身動ぎをした。起きるかとも思ったが、姿勢を変えてまた深い眠りへと落ちていく。起きた時、今の自分の体勢を見て、リディアは一体どんな顔をするのだろうか。それを考えるのは楽しかった。
「……もう少し、おやすみ」
 今は。
 穏やかな眠りの中に、一秒でも長くいてくれと。
 エドガーは祈らずにはいられなかった。
 目覚めの時を、その後に告げなくてはならない言葉を、少しでも遠ざけておきたかった。
 リディアのためなのか、自分のためなのか。
 それすらもわからないまま、手に取った髪に静かな口付けを送りながら、エドガーは祈った。

 どうか今だけは、幸せな夢の中にありますようにと。