「ホヨウチ……って、なに?」
「あぁ。保養地、だよ。身体を休めることを保養って言うんだ。あとはまあ、美しいものを見たりすることもそう言ったりはするけど、この場合は前者の意味だよ。僕の領地だと、残念ながら温泉が出るような所はないんだけどね。それでも、自然に囲まれた、美しい所だよ。のんびりするにはちょうどいいと思ってね」
わかった? と、視線だけで問いかけてくるエドガーに、リディアは小さく頷いた。何だか子供扱いされているようで少し恥ずかしい。
読み書きや簡単な計算なら父親から習ったが、知らないことは山のようにあるのだと、この屋敷に来てからリディアは初めて知った。
ここが伯爵家だから、余計にそう思うのかもしれない。
貴族とこうして一緒にお茶を飲むようになるだなんて、以前の生活からはとても考えられなかった。想像したことだってなかったのだ。
「ここ最近、少し慌しかったからね。社交の季節になれば、それこそ忙しい日々が続くし……その前にゆっくり身体を休めるのもいいかと思ったんだ」
社交の季節というのが何を指すのかはわからなかったが、これ以上質問を挟むのもあれかと思い、リディアはわかった顔でその言葉を聞いていた。
確かにここ最近のエドガーは、何やら忙しそうな様子だった。同じ屋敷で暮らしているというのに、食事を一緒に食べることはおろか、顔を合わせることだってまず無かった。こうして温室でお茶を飲むのも、久しぶりのことなのだ。
どうしてエドガーがそこまで忙しくしていたのか、リディアは知らない。もとより貴族の生活なんて、リディアには何一つわからないものなのだから、きっと色々な仕事があるのだろうと、尋ねるようなことはしなかった。エドガーもまた、理由を話すことはなかった。
「そうね。ずっと大変そうだったものね」
「少しは身体を休めないとね。今週中にでも行こうかと思うんだけど、君もそれで構わない? 大抵のものは向こうに用意されているけど、何かもって行きたいものがあったら遠慮なく言ってくれ」
「え?」
クッキーをつまんだ手が、その場で止まった。
傍目には間抜けにも見える顔で、まじまじと向かいの席に座ったエドガーを見上げていた。
「あたしも一緒に行くの?」
「もちろん。君を連れて行かないのなら、どうしてこんな話をし出したと思ってるんだ?」
エドガーもまた、驚いたようだった。お互いに目を見開きながら、何だか変な感じだわとリディアは思う。慌てて、リディアはクッキーを口の中に放り込んだ。甘さがじんわりと身体に染み込んだ。
「それは、一応言っておくためっていうか……あの、あなた一人で行った方がいいんじゃないの?」
エドガーがここ最近、忙しく働いていたのは知っている。けれどその間リディアはと言えば、とくに何をするわけでもなく、のんびりと本を読み、時には昼寝をし、気が向けばメイドの少女に刺繍を教えてもらいと、自由気ままに過ごしていたのだ。
「……僕と一緒に行くのは嫌ってこと?」
「ち、ちがうわよ」
十分のんびりと過ごしていたリディアが、わざわざ身体を休めるために保養地に行く意味は無い―――と言うよりも、それではエドガーがくつろぐことができないのではないかと、リディアなりに気を使ったつもりだった。
なのにエドガーは、悲しげに、そして同時に不満げに眉を寄せるものだから、リディアは慌てた。
「あたしが一緒だったら、あなたはのんびりできないだろうって思って……あなた一人で行くのかと思ってたから。あの、そんなつもりじゃなくて」
「僕が、君を置いていけるわけないだろう?」
不満を隠そうともしないままに、エドガーは静かに言った。
灰紫の瞳は、相変わらず何を考えているのかわからない。けれど奥底を射抜くような光りを宿して、リディアの瞳を見つめていた。
リディアは頭の中で、エドガーの言葉を反芻した。
―――エドガーは、あたしを置いて、行けない。
「……そうよね。そんなこと、あなたはできないわよね」
甘い響きなんて、その言葉のどこにも含まれてはいなかった。もちろん、そんな期待をしていたわけではない。ただ、つかの間忘れていた現実を突如突きつけられたような気がした。クッキーの甘さも、とたんに消えてしまった。
「違う、リディア。そんな意味で言ったんじゃない。僕はただ……」
「いいの。取り繕わなくていいのよ。だって事実だもの。あなたが心配するのも当然だわ。……そのために、あたしはここにいるんだもの」
「リディア」
エドガーの瞳は、まるでリディアの心の奥底を暴こうとしているかのようだった。深い、アメジストにも似た双眸。
まるで宝石のような、こんな瞳だったら良かったのにと、リディアはこの場も忘れて頭の片隅でそう考えた。
リディアの緑の双眸には、わずかに金の光彩が混じっている。それは人としてはとても珍しい色で―――そのまま、人ではないということを、現してもいるようだった。
「あたしは、吸血鬼との混血児だもの。いつ人を襲うかわからないわ。あなたがそんなあたしのことを放っておけないのは、当たり前のことだもの」
「君は、人を襲ったりはしないよ、リディア」