鏡の前に座り、髪を梳かす。全体に櫛を入れながら、リディアは鏡の中を見つめていた。映った自分の姿ではなく、静かに開いた扉を。
「いつ見ても、女性が寝る支度をしてるのはいいものだよね」
「何を言ってるのよ」
「あぁ、間違えた。女性じゃなくて、僕の妻が、だね。言い間違えたんだ。誤解しないでくれ」
真面目な顔でエドガーは言う。何を言っているのかしらとリディアは呆れた。本気でそんな誤解をするとでも思っているのだろうか。
エドガーに身支度をしているところを見られるのは、どうしてか気恥ずかしい。それが朝であっても夜であっても。朝はまだ逃げ出すこともできるが、夜はメイド達もいなくなってしまう。二人きりの夜の私室は、まだリディアにとっては慣れることのできない、心のざわめく場所なのだ。
「今日は遅かったのね」
壁に寄りかかりこちらを見つめる、鏡の中の灰紫の瞳は、一秒たりとも離れはしなくて、櫛を握る手に知らずと力がこもる。
「あぁ、彼らと飲むのは久しぶりだったからね。なかなか開放してくれなくて困ったよ。こっちは気楽な独り者じゃないっていうのに……朝まで男同士で飲む暇があるのなら、さっさと結婚すればいいのにね」
鏡越しに視線を合わせてエドガーは微笑む。その嬉しげな笑みに、とたんに恥ずかしくなって右手も止まってしまう。
「君は疑わないんだね」
「は? 何の話?」
「僕が夜に出かけるって言っても。レイヴンに付いて来なくていいって言ったら、露骨に怪しまれたよ。男同士気ままな話をするだけだっていうのに、僕がどこかの女性のところにでも行くと思ったみたいだ」
その時のやり取りを思い出したのか、エドガーは疲れたようにため息をついた。その様子はとても演技には見えなくて、リディアは小さく笑みをもらす。
「妻じゃなくて自分の従者に疑われるっていうのはどうなんだろうな」
「それぐらいあなたのことを心配してるんでしょう? あなたの以前の行いが悪かったんだから仕方ないじゃない」
「結婚前……いや、君と婚約する前のことじゃないか」
不満そうに呟くエドガーに、わからないのかしらとリディアは呆れながらに首を傾げる。婚約する以前にリディア以外の女性と付き合いがあるのは仕方ない。けれどその数が問題だというのに。ロンドンに来てからの短い時間で、一体どれだけの女性を口説いてきたのか。
「レイヴンはあたしよりも、あなたと付き合いのあった女性について詳しいはずだもの。だから疑うのも無理はないわ」
「君までレイヴンの肩を持つのか? この屋敷に僕の味方は一人もいないじゃないか」
大げさに肩をすくめてから、もたれかかっていた壁から離れて、ゆっくりとエドガーは近づいてくる。
ほんの少し、酒の香りがする。それから、煙草の匂いも。
男の人と一緒だったっていうのは、本当みたい。
そんなことを考えてしまって、リディアは内心で慌てた。別に、あたしまで疑っているわけじゃないけれど。疑うとまでは行かなくて、ただ少し、安心してしまっただけのこと。
リディアの背後に立ち、左手を肩に置いたエドガーは、そのまま右腕を伸ばすとリディアの手に握られていた櫛をそっと奪い取った。
「ちょっと」
「前を向いてて」
振り返ろうとしたリディアの頭を、エドガーはそっと押さえる。再び鏡の中を覗くと、エドガーがリディアの髪を梳き始めた。恥ずかしくて、俯きそうになってしまう。
「い、いいわよ、自分でやるから」
「やりたいんだからやらせてくれ。君の髪をこうやって梳くことができるのは、僕だけの特権だろ?」
「……こんなの、どうだっていいじゃない」
鏡の中の、甘やかな視線に絡め取られてしまえば、もうどんな文句もリディアの口からは出てこなくなってしまう。
嫌なわけではないのだ、もちろん。
ただ、恥ずかしくて、どうしたらいいのかわからない。
こんな時にどんな態度を取るべきかリディアはわからなくて、それでも嬉しそうなエドガーの顔を見てしまえば、胸の奥がじんとする。この気持ちを上手く言葉にすることができればいいのにと思いつつも、けれどしなくても、きっとエドガーには伝わっているのだろうなとも思う。
「リディアは、僕が友人と飲みに行くっていうのをすぐに信じてくれた?」
少し不安に思ってしまったことを見透かされたかのようだ。
穏やかな顔で髪を梳いてくれるエドガーの、その手の平の温もりを感じてしまえば、少しだけでも不安に感じてしまったことが申し訳なく思えてくる。
「……だって、そうなんでしょう?」
「でも、ちょっとは妬けた?」
何の話。
「男の人と飲みに行くって言ってるのに、何を妬けって言うのよ。それとも本当はそうじゃなかったの?」
「いや、本当に男友達と飲んでたんだよ。でもほら、僕ら新婚じゃないか。頭ではわかってても、それでももしかしたらとか思って妬けるものなんじゃないのかな。というか、妬いてくれたら嬉しいなっていう話なんだけど」
「何よそれは」
妬いてくれたら嬉しいだなんて。
あぁもう、どうしてそんなことを臆面もなく口にすることができるのだろう。例え本当にそうなったとしても、リディアが素直に口に出せるはずないと、エドガーだってわかっているだろうに。
「君の心を占めているのが、いつも僕だけだったらいいのになと思っただけだよ」
梳き終わったリディアの髪を手に取って、熱く口付けながらエドガーは言う。鏡越しの視線。それだけでも心臓が騒ぐ。触れられているのは髪だけのはずなのに、全身を強く抱きしめられているような、そんな気持ちになるだなんて。
「……いつもだなんて、そんなの無理だわ」
そんなことを思っているわけではない。
本当は。―――本当は。
「なら、今だけでもいいよ」
櫛を手放した腕が、後ろから彼女を抱きしめる。壊れ物を扱うかのようにそっと。
髪をかき分け、現れた耳たぶにキスをされる。甘く噛んだ唇は肌を滑り、頬の上で静かに音を立てた。
「……おいで」
リディアの手を引いてエドガーは歩き出す。まるでどこかのパーティーにエスコートされているみたいだわ。何て優雅に寝室に誘う人なのかしらと、思わずリディアはくすりと笑う。
そういえば、初めて寝室に入る晩もそうだった。
安心させるような微笑を浮かべて、今のようにリディアの手を取り、エドガーは寝室のドアを開いていた。大丈夫だからねと、何度その言葉を聞いたことだろう。それぐらい、あの時のリディアは目に見えて緊張していたのだろう。
その頃と今、あまり差は無いような気がする。
「まだ緊張するの?」
ベッドに腰掛けて、エドガーはくすっと笑う。
「……だって」
一人では寝室に入ることもできないだなんて。
二人で眠るベッドに自分から行くことは気恥ずかしくて。たまにはリディアも、自分から行きたいと思うことはある。顔が見たいと、ただ抱きしめてほしいと、そう思うことが。
それでもドアを叩くことはできなくて、そんな時は、ただエドガーが迎えに来てくれるのを待つしかないのだ。
何て子供みたいなのだろう。
それでもエドガーは微笑んでくれる。頬を包み込んで。顔を近づけながら。唇に感じる確かな温もり。いつからこの唇を、当たり前だと感じるようになってしまったのだろう。
「緊張してる君も、初々しくて可愛いけどね」
「―――バカ」
ナイトガウンは、静かな音を立てて滑り落ちていった。
(世界で一番優しい嘘を)
原作設定の話のはずなんですが、原作で結婚する以前に書き出した物なので、設定が色々と食い違っています。
開き直ってその辺りはそのままなので、気にならない方のみご購入下さい。