「……エドガー」
「黙って」
有無を言わせない強い口調でリディアを黙らせると、エドガーはその唇をすかさず塞いだ。
二人きりの部屋でキスをすると、とたんにリディアは逃げ腰になる。恥ずかしいのと、どうすればいいのかわからない戸惑いが、無意識に彼女をそうさせてしまうのだろう。
今もリディアは、かすかにエドガーから逃げようとするかのように首を背けようとするから、エドガーはその後頭部に手をあててぐっと力を込める。
一部の隙も無く唇を重ね合う。
そっと舌を差し入れても、それ以上リディアは逃げようとはしない。けれど応えようともしてくれない。ただ仕方を知らないだけだとはわかっていたが、少し物足りなくて思えて、性急な仕草で小さな舌を絡め取れば、リディアは怯えたように肩を震わせた。
まるで、狼の罠にはまった哀れな子ウサギそのものだ。
婚約者であった時も、こんな風に怯えた様子は何度も見てきた。結婚してもそれは変わらないのか。そう簡単に人の意識を変えることは難しいとはわかっているが、いつまで経っても気持ちを受け入れられていないように思えて、ただ歯痒かった。
それが顔に出てしまったのだろう。
唇を離し、苦しげな呼吸を繰り返しながらおずおずと上目遣いに見上げたリディアは、そこに若干不機嫌そうな顔になっているエドガーを見つけて、すぐさま申し訳無さそうな顔になった。
「ご、ごめんなさいエドガー。あの、嫌だとか、そんなわけじゃなくて、あたし……」
リディアの考えは読めないことも多いが、その反面、エドガーには手に取るようにわかることも多い。
多分今、この焦った様子を見るに、エドガーを怒らせてしまったとでも思っているのだろう。
泣きそうになっているリディアの顔を見ていると苛立ってしまう。どうしてそんな顔をするのかと。どうして自分は、彼女にいつもいつもそんな顔をさせてしまうのかと。
ただの八つ当たり。
そうわかってはいたが、その八つ当たりを欲情に転化させて、エドガーは触れそうな程近くでリディアの顔を覗き込んだ。
「嫌じゃないのなら、いいよね?」
答えなんて待たない。
待つ余裕なんて無いし、もうこれ以上待ちたくもない。
「エド…っ」
(カモミール/愛の真価を問われるのならば)
「……一体君は、僕がどう言えば満足するんだ?」
笑みの消えた、感情の浮かばないその顔は、本気でエドガーが苛立っているのだとリディアに知らしめるものだった。
「何もなかったんだって言ってるじゃないか。彼女とは何も無い。過去に付き合ってたなんてことも無い」
「だから、そんなことはもうわかってるって……」
「わかってるのなら、どうしてきちんと僕を見てくれないんだ? さっきからずっと君はそうじゃないか。わかってる、もういい、そんなことを言いながら、僕の顔なんてろくに見てない。怒ってるのならきちんとそう言ってくれ。言葉だけでわかったふりをされるのはまっぴらだ」
「わかったふりってどういうことよ!」
「今の君の状態を指すんだよ」
顔を上げると、冷めた顔をしているエドガーがそこにいた。疲れきった、とでも言うべきか。
こんな言い合いは今すぐにでも終わりにしたいのに、どうしてエドガーはそうさせてくれないのだろう。もうエドガーの話は聞き飽きた。何も無かったのならそれでいい。話はそれで終わりのはずだ。わかったとしかリディアには言えない。それのどこが悪いというのか。
「わかったふりなんてしてないわよ。本当にわかったからそう言ってるだけじゃない」
「君の顔を見ていれば、君が納得していないことなんてよくわかるんだよ、リディア」
「あなたの勝手な見間違いだわ」
「リディア」
伸ばされた腕を、考える前に振り払った。
今は触ってほしくない。
振り払われた腕を見つめ、エドガーは眉を寄せた。肩を落として大袈裟にため息をつく。
「君は一体、僕がどう言えば納得してくれるんだ? ありもしない誤解をかけられた僕の身にもなってくれ。ロンドン中探したって、これ以上に情けない旦那はいないだろうね。その上、いくら説明をしたって奥方はちっとも聞いてはくれないときてる」
「あたしはもう何度もわかったって言ってるじゃない。何も無かったんでしょ? あれは勝手に、あの人が知ったようなことを言ってただけなんだって。わかってるわ。だからもういいじゃない、この話はこれで終わりよ」
「君が僕の言葉を信じてくれていないのに、どうしたら終わりにできるんだ? ……まぁ、どっちにしろ信じてくれないままじゃ、言い合いを続けてもただ時間の無駄になるだけだね」
諦めたように、エドガーは深く息を吐いた。
その、傷ついたような様子に、リディアの胸は痛くなる。彼に腹を立てているのに。怒りながら苦しくなる。
あぁそうだ。エドガーの言う通りだ。
リディアは全然、納得などしていない。
けれど、エドガーの言うことは信じている。彼がそう言うのなら、確かに何もなかったのだろうとわかっている。
わかっているけれど、ただ苛立ちが押さえきれないだけなのだ。
そしてそれは、多分、今彼を目の前にしていたら、一向に小さくならないものだともわかっている。
そんな気持ちを、上手く言葉にまとめる術をリディアは知らない。
どう言えばいいのかわからなくて、ただぎゅっと手を握った。だいぶ前に、ニコは部屋を出てしまっている。付き合いきれないと思ったのか、巻き込まれるのが嫌だったのかはわからない。二人きりの部屋は、呼吸もし辛い。
沈黙を、先に破ったのはエドガーだった。
「……少し、お互いに頭を冷やした方がいいかもしれないね」
「エドガー……」
待って、と言いかけたリディアの言葉を無視するかのように、緩やかに頭を振りながら、エドガーは部屋から出て行ってしまった。
ばたん、と、閉まったドアの音が、今は耳に痛かった。
「……っ」
怒って、エドガーの言葉を聞かなかったのは自分の方だというのに、早くどこかへ行ってくれればいいのにと思っていたのに、エドガーがいなくなってしまった今、とたんに居たたまれなくなった。
「……だって」
ニコが帰ってきてくれたらいいのに。
だれにでもいいから、傍にいてほしいと思った。だれよりも居てほしいのはエドガーだったが、けれどその彼は、リディアに愛想を尽かしていなくなってしまったのだ。
こんなに話がわからない相手と結婚してしまったことを、今頃後悔しているかもしれないと思えば、とたんに怖くなった。追いかけて謝りたいような気持ちになったが、けれど足は動かなかった。
だって、それでもエドガーが、微笑んでくれなかったら。
どうしようもない気持ちになって、リディアは部屋を飛び出した。そのままエドガーの部屋に向かえるような気力は無かったから、邸宅から逃げ出した。幸い、レイヴンにもトムキンスにも見つかることはなかった。
どこかのパーティーや夜会に出かける際には、もちろん伯爵夫人らしい身なりを心掛けていたが、家にいる間は今まで通りコルセットもつけない身軽な格好をしていたから、今もそうだった。
付いてくる侍女も無く、髪だって背中に流したままで。
「……だれも、伯爵夫人だなんて思わないわね」
(ただいま、おかえり)