フローレンスマテリアル
外に出ると、必ずと言っていいほど身体を壊す。
今日は朝から体調が良くて、それにとてもいい天気だったから、母親にねだって外に遊びに出掛けた。夢中になって花を摘んでいたら、急に咳が止まらなくなって、そうしている内に走って迎えに来た母親に抱き抱えられて、また家へと連れ帰られてしまった。
一週間ぶりに、やっと外へ出ることができたのに。
「悪い妖精に好かれちゃうのかしらね」
ベッドに入ったリディアの額をなでながら、母親のアウローラは小さな笑みを浮かべてそう言った。
もう咳は止まっている。さっきまでは苦しかったのが嘘のようだ。悪い妖精に見つかると、いつだって咳が止まらなくなってしまう。
「母さま。悪い妖精なんてやっつけちゃって」
「えぇ。だから家の中じゃ咳は出ないでしょう? 母さまが家には絶対に入れないからよ」
それなら、外でもリディアに近づいてこないようにしてほしい。けれど家の中とちがって、外はずっとずっと広いから、いくら母さまでもそんなことはできないのだ。
「どうして悪い妖精は、こんな意地悪をするの?」
毛布の端っこをぎゅっと握り締めながら、リディアはアウローラを見上げてそう尋ねた。
「そうねぇ。どうしてなのかしら」
「母さま、わからないの?」
「母さまだって、わからないことはいっぱいあるわ」
「妖精のことなのに?」
続けて尋ねると、母親は困ったように首を傾げながら笑った。そうなのよ、と、その形のいい唇がそっと呟く。
スコットランドの片田舎のこの村で、妖精の姿を見ることができるのはリディアとその母親のアウローラだけだ。父親のフレデリックも見ることはできない。
妖精に関するたくさんのことを、リディアは母親から教えてもらっている。色々な姿をしている妖精達、その名前から性格、いい妖精か悪い妖精か。
アウローラはたくさんのことを教えてくれる。そんな母親にもわからないことがあるのだと知って、とても不思議な気持ちだった。
「母さまが、もうこんな意地悪しないでって、妖精にお願いしても駄目なの?」
アウローラは、妖精達との『交渉』の仕方を知っている。色々な駆け引きをして、村の中でもイタズラをして回る妖精達に言うことを聞かせている、妖精博士なのだ。
「こればっかりは、母さまのお願いもきかないのよ」
「どうして?」
納得がいかなくて、リディアはついついむくれた顔になってしまう。
アウローラはリディアの問いには答えず、「でもね」と内緒話をするかのように顔を近づけてささやいた。
「リディアが大きくなれば、今みたく咳がいっぱい出ることもなくなるのよ」
「そうなの?」
「えぇ。大きくなったら、悪い妖精たちの意地悪なんてへっちゃらになっちゃうの」
「そしたら、お外でいっぱい遊べる?」
「もちろん。一日中お外で遊んでも平気になるわ」
一日中外で遊ぶだなんて、今のリディアにとっては夢のような話だ。けれど母親にそう言われれば、本当にそんな日も来るのかもしれないと思えてくる。
「じゃあ、あたし、急いで大きくなる」
「それには、いっぱいご飯を食べなきゃダメよ。嫌いなニンジンを残してたら大きくなれないのよ」
「……だっておいしくないの」
他の野菜は食べられても、ニンジンだけはどうにもダメだった。今日の夕飯にもニンジンは出てくるのかなと思うと、今から夕食の時間が少し憂鬱になってしまう程だった。
「好き嫌いはダメよ。父さまに叱ってもらおうかしら」
「だって父さまは、今はロンドンにいるんでしょ?」
「それがね、仕事が早く終わったから今日帰ってくるって、さっき電報が届いたのよ」
「本当に?」
驚いて、思わず背中に引いたクッションから身体を起こしてしまったが、もう咳はだいぶ前に止まっていたからか、アウローラは再びベッドに寝かせようとはしなかった。
「えぇ、本当よ。夕飯までには帰ってくるみたい。そうしたらリディアが好き嫌いしてるって、父さまに叱ってもらうんだから」
アウローラは名案だとでも言わんばかりにそう言ったが、叱られると聞いても、リディアの顔には笑顔が浮かんだままだった。
「だめよ、母さま。だって父さまが怒っても、全然怖くないんだもん」
そもそも、カールトン家において叱るのはいつもアウローラの仕事だった。フレデリックは、少し離れた場所で困ったようにそんな二人を眺めているだけだ。
にこにこと笑うだけのリディアに、アウローラは「もう」と唇を尖らせながら肩をすくめた。そうした様子は若々しい少女のようで、自分の母親ながらに、母さまは何でこんなにキレイなんだろうとリディアは思う。
「父さまはダメね、優しいばっかりで。たまには怒ってくれたらいいのに。絶対に怒鳴ったりなんかしないんだから、母さまばっかり口やかましくなっちゃうんだわ」
拗ねたように呟きながら、アウローラは立ち上がった。
「父さまが帰ってくるまで、もうちょっと休んでなさい。どうせ父さまが帰ってきたらはしゃぎだすんだから。それまでは大人しくしてなさいね」
リディアの額にキスを落とすと、ずれていた毛布をかけなおしてから、アウローラは静かな足取りで部屋を出ていった。
リディアの父親は、たまに仕事で遥々ロンドンまで出掛けていくことがある。今回出掛けたのはもう一週間も前のことだから、会えるのは久しぶりだった。
今回のお土産は何だろうか。それも楽しみだったが、父親からロンドンの色々な話を聞かせてもらうのも楽しみだった。
あまり外にも出られないリディアにとって、スコットランドを出た大都会のロンドンは、もう遠い異国のようなものだった。女王様がいて、ビックベンが鳴っている所。リディアにとってのロンドンは、そんな所でしかない。
父親からの話を聞いて、想像するしか無い所。一緒に行ってみたいとねだれば、父親は決まって「いつかね」と言うばかりだ。いつか。それはいつのことなのだろう。
「父さま、早く帰ってこないかなぁ」
楽しみで、ベッドの中に入っていても、ちっとも眠れそうにはない。
ふと気づいて、リディアはベッドから飛び降りた。慌てて窓まで駆け寄って、レースのカーテンをめいっぱい開いた。そしてまた慌ててベッドに戻る。
毛布を身体にかけながら窓を見る。これで外の景色がよく見える。父親の乗った馬車が見えたら、すぐに玄関まで迎えに行こう。
それから父親が帰ってくるまでの間、リディアはなかなか窓から視線をそらすことができなかった。
「エドガー、何持ってきたの?」
今日のエドガーは、いつもは持っていない小さなバスケットカゴを手にしていた。
エドガーの隣に座り込んで、覗き込むリディアに、エドガーはふたを開けて中を見せてくれた。入っていたのは、美味しそうなマフィンだった。
「イライザに頼んで、作ってもらったんだ。一緒に食べたいなと思って」
「イライザって?」
「うちの料理女。美味しいんだよ」
エドガーはカゴの中からマフィンと、同じように入っていた瓶を取り出した。中には蜂蜜が入っている。蓋を開けると、指を突っ込んでしまった。そうして、指にたっぷりついた蜂蜜を、今度はマフィンに塗りつけた。
リディアは目を丸くして、その様子を眺めていた。リディアはよく、パンにジャムを塗りすぎて母親に怒られるけれど、エドガーはそれよりもたくさんの蜂蜜をマフィンに塗りたくった。
「そんなことして、お母さんに怒られない?」
「だって、ここには母上も乳母もいないし」
「指汚れちゃったよ」
「証拠隠滅は簡単だよ」
証拠……何と言ったのかはわからなかったが、マフィンに蜂蜜を塗り終えると、エドガーはキレイにその指を舐めてしまった。そうして、蜂蜜が跡形も無く消えると、「ね?」とリディアに向かって微笑んだ。
リディアにマフィンと蜂蜜を差し出すと、エドガーはイタズラっ子のような笑顔を浮かべて言った。
「リディアもやりなよ」
「母さまに言わない?」
「僕は君のお母さんを知らないから、リディアが自分で言わなきゃばれないよ」
それはそうだ。
安心すると、リディアも同じようにして指で蜂蜜をすくった。エドガーと同じぐらいたっぷりの蜂蜜をマフィンに塗った後は、キレイに指を舐める。そうしてから、二人そろってマフィンにかぶりついた。焼きたてのマフィンはまだ熱くて、それに蜂蜜をこれでもかというほど塗ってしまったものだから、途中であちこちから蜂蜜が垂れてきてしまって大変だった。
その点、エドガーは食べるのが上手かった。器用に蜂蜜が手につかないように食べてしまうのだ。リディアはエドガーの真似をしようと思ったが上手く行かなくて、最後には両手がベトベトになってしまった。
「ちょっと待って」
動かないでとエドガーは言うと、またバスケットを開けた。水筒を取り出し、そこから水を出してリディアの手を洗ってくれた。そして最後には、ハンカチで濡れた手まで拭いてくれた。
世話を焼かれながら、母さまみたい、とリディアは思う。
もちろん母さまは、指で蜂蜜をすくったりはしないだろうが、何となくそう思ったのだ。
「いっつもこうやって食べてるの?」
リディアが尋ねると、エドガーはぺろっと舌を出した。
「たまにね」
羨ましい、とリディアは思う。あんなにたくさんの蜂蜜を一度に食べたのは初めてだった。リディアの家にも蜂蜜はあるけれど、たまにしか出てこない。
「明日も何か作ってきてもらうよ」
ということは、明日も一緒に遊べるということだ。
そっちの方が嬉しくて、リディアは「うんっ」と頷いたのだが、エドガーはぷっと吹き出したから、よっぽどお菓子が楽しみだと思われてしまったのかもしれない。
何かを見つけたようにソファへと向かう。そしてエドガーが手に取ったのは、ニコが残していったタブロイド誌だ。
「これ、君が読んでるの?」
エドガーが眉を寄せながら聞いてくる理由はわかる。良家の子女は、そんな物は普通読まないからだ。貴族であればなおさら、目にする機会なんて無いだろうと思われた。
「ち、ちがうわよ。それはニコがどこからか拾ってきたやつで……」
ニコが読んでいるといっても信じるのは難しいだろうからそう言ったのだが、その説明でも十分怪しかったかもしれない。
エドガーは難しい顔のまま、ぱらぱらとページをめくった。あるところでその手が止まる。自分の名前を見つけたのだろうが、リディアはあまりのいたたまれ無さに今すぐこの部屋から逃げ出したくなってしまった。
「君はこれを読んだの?」
「……」
読んだわけではないが、ニコが一々教えてくれるため、内容は知っている。今日のそれにも、エドガーの女性関係について面白おかしく書かれた記事が載っているのだろう。
「リディア」
ソファに上にタブロイド誌を投げ捨てると、エドガーは仕事机を回ってリディアの隣までやって来た。
「わかっているとは思うけど、ここに書かれているのは全くのデタラメだからね」
「本当にデタラメなら、あなたがそんなに顔色を変える必要なんて無いんじゃないの?」
ただ頷けばいいはずなのに、どうしてか面白くない気持ちで、ついそんなことを言ってしまった。
「だって君は純粋だから。書かれていることを鵜呑みにすることもあるかもしれないと思って」
半分は当たっている。嘘に違いないと思いながらも、それでもエドガーの女性関係について、ここ数日ずっと考えていた。どこまでが本当なのだろうと。
けれどエドガーにそう言われれば、純粋という言葉も世間知らずという意味に聞こえて、リディアはわけもなく喧嘩腰になってしまった。
「本当だろうがデタラメだろうが、別にあたしは関係ないことだから何だっていいわよ。あなたがどこのだれとお付き合いしようが、そんなのあなたの勝手だもの。あたしに言い訳なんてしなくて結構です」
「言い訳なんてしていない。事実を説明してるだけじゃないか。あのね、こういうのは何事も大袈裟に書くものなんだ。例えば僕がちょっとオペラを観に行く時に、どこかの女性をエスコートしたとする。そうしたら次の日には、もう僕がその女性と付き合っているかのように書かれるんだ。そのぐらいデタラメなものなんだよ」
「付き合ってるからエスコートしたんじゃないの?」
「そんなんじゃない。色々と付き合いがあって……どうして僕の言うことを信じてくれないんだ?」
責めるように言う。じっと見下ろされながら、リディアはその灰紫の双眸の強さにたじろいだ。
そんなの、自分でもよくわからない。今までだったら、きっとエドガーの言うことをそのまま信じていた。なのに今は、ひどくそれが難しい。
「別に、あたしは……。だから、そんなの別にあたしには関係のないことだもの」
「関係ないことじゃないだろ。僕は君がどこかの男と仲良くしてたら……」
「気になるっていうの?」
「気になるどころじゃない。撃ち殺してるかも」
さらりと言われた言葉に、リディアはぎょっと目を見開いた。エドガーの顔は笑っていない。
「冗談だよ。でもそのぐらい気にするよ」
「冗談でも、言っていいことと悪いことっていうのがあるでしょ! もう、いい加減にしてちょうだい。仕事をしたいんだから、邪魔するなら出てって!」
「リディアは怒りっぽくなったよね」