君と故郷に帰ろう


 リディアは走っていた。
 早く早くと、心が急いていた。一刻も早く、遠くに逃げなければならなかった。少しでも遠くに。なるべく、家から遠いところに。だいぶ息は苦しかったし、足だって痛かった。どこまでも走り続けるリディアを、すれ違った人々は不思議そうな眼差しで眺めていたが、そんなことは気にならなかった。
 今大事なのは、逃げることだ。
 だってそうしなければ、リディアは食べられてしまう。
 泣きそうになるのを堪えながら、リディアはぶるぶると頭を振った。食べられるのが嫌なら逃げるべきだ。遠くまで逃げれば、まだ子供で食べるところの少ないリディアのことなんて、見逃してくれるかもしれない。
 村を抜けて、いつも遊びに来る川辺にたどり着いたリディアは、そこでやっと足を止めた。座り込んで、息を整えた。喉が渇いていたから、両手で水をすくってごくごくと飲んだ。川の水は冷えていてとても美味しかった。
 川面に映るのは、頭に三角の耳を生やした、痩せっぽちの少女だ。
 村の同い年の女の子達と比べても、リディアは痩せている方だ。その上背も少しばかり小さい。日ごろは気になって仕方なかったが、今日ばかりはそれを嬉しく思った。
「……どう見たって、美味しそうじゃないわ」
 獰猛な狼が、こんな小さな猫を食べるはずがない。きっともっと、美味しそうな獲物を狙うはずだ。
 そう考えて、リディアははっと気づく。
「どうしよう。父さま」
 今頃もう、狼は家に着いた頃だろうか?
 家には父さまがいる。当たり前だけどリディアより大きくて、その分お肉だってたくさんついていて、きっとリディアより食べ応えだってあるはずの父さま。
「食べられちゃってたらどうしよう……!」
 泣きそうになりながら、リディアは立ち上がった。
 けれど怖くて、足が動かない。家に戻れば、狼と顔を合わせることになってしまう。父さまを食べているところだったら? ついでにとばかりに、リディアも食べられてしまったら?
 がくがくと、身体が震えた。
 やって来るのは怖い狼ではないと、父は何度も言っていた。でもそんなのは嘘だ。怖くない狼なんているはずがない。今まで一度だって、リディアはそんな話を聞いたことはなかった。妖精たちに聞いても、皆狼は恐ろしいという。
 お人好しな父さまは、きっと狼に騙されてしまったのだ。
「何で、何で、父さま……何で狼の言うことを信じて、あたしの言うこと聞いてくれなかったの……」
 言葉にしたら何だか一気に寂しさがこみ上げてしまって、リディアはしゃがみ込んで膝を抱えた。
 父さまは、あたしの話を聞いてくれない。
 そうしてニコは、一人でどこかに行ってしまった。リディアと同じように狼を怖がっていたから、逃げてしまったのかもしれない。こんな時、ニコは全く頼りにならない。だからリディアは、一人で逃げるしかなかったのだ。
 狼から逃げるには、もっと遠い所に行かなければならない。
 けれどこの川より向こうの森には、子供だけでは行ってはいけないことになっている。
 そうでなかったとしても、父さまのことを考えれば、これ以上先には進めなかった。
 リディア一人だけが助かったって、父さまが一緒じゃなければ意味はない。
「父さま、父さま……」
 父さまも一緒に逃げてくれれば良かったのに。
 いや、最初から、狼と一緒に住むだなんて、そんなことを言い出さなければ。
「……父さまぁ」
 リディアが泣けば、いつだって優しく頭を撫でてくれたその温もりを、今ほど望んだことはなかったかもしれない。


タイトルは、故郷と書いて家と読んでもらえると嬉しいです。