ROOMMATE SIGN


【 1.危険なルームメイト 】




「とりあえず、こんな感じで大丈夫かしら……」
 ルームシェア募集、と大きな文字で書かれた一枚の紙を手にして、少女は掲示板の前に立っていた。時間もないし、ぐずぐずしていられないと急いでポスターを作ったものの、いざ掲示板に張り出す勇気がなくて、なかなか腕が伸びない。
「……ポスターの方は、これで大丈夫だと思うんだけど」
 何を書けばいいのかわからなかったが、とりあえず最低限必要だろうと思えることは書いた。細かい部屋の内容から、家賃について。あとは応相談ということにしたのだが―――問題は、この募集に引っかかってくれる人がいるかどうかということだった。
 色々な事情もあって、人付き合いは好きではない。通っている高校では友達もいるが、それすら何とかやっていけるといった具合だ。今までは父親と二人、のんびり一軒家で暮らしていたのだが、その父親も長期の海外出張になってしまっては、もう今まで通りの暮らしなんてできるはずもなかった。
 それとなく父親は、少女に―――リディアに、一緒に来るかというようなことを仄めかした。けれど見知らぬ土地で一から生活をする気にはなれないし、今通っている学校だってある。言葉の問題だってある。父親と離れて暮らすのは少し不安だったが、元々大学での研究が大詰めになると、なかなか家に帰ってこない人なのだ。半分今までだって一人暮らしをしていたようなものなのだから、どうにでもなると思った。リディアだってもう十七、そう子供でもない。
 けれど過保護な父親は、大事な娘に一人暮らしをさせるようなことを許しはしなかった。何度か挨拶程度に会ったことのある親戚に話をつけ、新たに借りたマンションの一室で二人暮らしをしてくれるよう話をつけてしまったのだ。普段は凡庸として寝癖にも気づかない父親の珍しく素早い行動に、リディアは勝手なことをしてと怒るよりも驚いてしまった程だった。
「まぁ、それぐらい心配してくれてたってことなんでしょうけど……」
 生憎と、自体はもっと父親が心配するであろう方向に転がってしまった。
 三月に父親が海外へと旅立って、もう三週間程になる。その間にリディアは広いマンションへと引越し、父親がいない間の保護者代わりの親戚が来る予定だったのだが、一体どんな急用が入ってしまったのか、その約束は無かったことにしてほしいと手紙が一通来て以来、何の音沙汰も無い。
 一体何がどうなってしまったのか、リディアには何もわからないままだ。父親からも何の連絡が無いところを見ると、父親はこのことは何も知らないらしい。父親に電話をして相談しようかとも思ったが、そうすればあの父親のことだ、すぐさま取るものも取らずに帰国してしまいそうで、悩んだ末にリディアはそれもできなかった。確かに一人娘のことは心配だろうが、研究好きの父親にとって、今回の海外出張はまたとない機会だということもリディアにはわかっていたのだ。助手のラングレー氏から、そんなことを聞いたのだ。
 元々は一人暮らしをしてでもここに残るつもりだったリディアだ、保護者代わりの親戚が来なくなったことは特に問題ではない。けれどそれはあくまでも生活面のことであり、資金面ではそうはいかないのだ。
「父さまも、何もあんな広い部屋を借りなくても良かったのに」
 基本的に父親はリディアには甘い。なるべく娘に快適な暮らしをさせてやろうと思ってくれたのだろうが、そのおかげで今リディアは窮地に立たされていると言ってもいい。
 父親がリディアのために借りてくれたのは、三LDKの広いマンション。二人暮らしでも余裕が持てるようにと思っての広さなのだろうが、そのため家賃も高い。そして、その家賃は親戚と折半だったはずが、その親戚は現れない。
 四月は色々と物入りだろうと、父親が多めに仕送りをしてくれたため、四月分の家賃はどうにかなった。けれど問題はこれからだ。こんなに広いマンションの家賃を、これから先リディアが払い続けていくことなんてできない。
 だからこそのルームシェア。
 父親がこのことを知ればきっと驚くだろうが、自分のことを心配する以上に、思い切り研究に打ち込みたいと思っていることもリディアは知っている。父親には、好きなだけ仕事をしてもらいたい。
「ニコははなから無理だって決め付けてるけど。見てなさいよ、ちゃんとルームメイトを見つけて、しっかりした生活を送ってやるんだから」
 ぐずぐずしている暇はない。
 一日も早くルームメイトを見つけて、家賃を半分払ってもらわなくては、来月からの生活がもうできなくなってしまう。父親に内緒というのが気が引けるが、例え後になってばれたとしても、リディアが一人でルームメイトを見つけ、しっかりとした生活を送っているとわかれば、無理やり帰国あるいはリディアを外国へ連れていくことはないだろう……と、思う。
「見てなさいよ!」
 ろくに相談にも乗ってくれない、薄情な相棒猫の姿を思い浮かべながら、リディアはやっとのことで腕を伸ばした。マンションの入口にある掲示板。ここの他にも、できる限り多くの場所に貼ろうとポスターはたくさん作ってきた。ニコはその間、一人のんびりと紅茶を飲んでいるだけだったけれど。
「お嬢さん」
 掲示板にチラシを張ろうとした手がぴたりと止まった。
「もう暗い。君のような若くて可愛いお嬢さんがこんな所をうろうろしていたら危ないよ」
 振り返った先に、立っていたのはスーツ姿の一人の青年だった。
「あ、あの……」
 暗闇の中でもそうとわかるほどの美貌に、リディアはただただ驚いた。テレビの中で見るモデルや俳優よりも、よっぽど整った甘い顔立ち。月夜の下できらきらと輝くような金髪に、リディアは目を奪われた。こんなに魅力的な人を、今まで見たことなんて無い。
「家はどこ? 送ってあげるよ」
「え、あの、大丈夫です。あの、家、ここですから」
 慌ててリディアは目の前のマンションを指差す。初対面なのにいきなりこんなことを言われても、怪しいとは思わなかった。ただ驚いてしまって、挙動不審になってしまう。チラシをぎゅっと握り締めると、くしゃっという音がした。しまったと思って手元を覗くのと、青年の手がそのチラシを奪っていくのは同時だった。
 青年の目がチラシの文字を追う。形のいい眉が寄せられたのを見て、リディアはわけもわからず肩を震わした。
「ルームシェア?」
 なぜか不機嫌そうな青年の声に、リディアは曖昧に頷く。
「君が? 君みたいな若い女の子が簡単にルームシェアだなんて、どうかしてる。不埒な男が来たらどうするつもりなんだ?」
「な、どうって……」
 一体何を言ってるの、この人は?
 いきなり声をかけてきたかと思えば、そんな風に説教だなんて。確かにリディア自身、そんな不安が全く無いと言ったら嘘になるけれど、他に考えられる方法はなかったのだ。
 大体、どうしてそんなことを、見ず知らずの男に言われなくてはいけないのだろう。ちょっと見かけないほどの美形だから驚いてしまったけれど、今はもうむかむかと湧き上がってくる感情の方が大きくなっていた。
「だからって、そんなの、あなたには関係ないことでしょ」
 青年の手からチラシを奪い取って、リディアはそう言い放った。ずいぶんしわが寄ってしまっているが、伸ばせばまだ使える。けれどこの男の前でチラシを張る気にはなれなかった。さっさとどこかへ行ってしまえばいいのに。
「君はずいぶんと世間知らずなようだね」
「初対面のあなたにそんなこと言われる筋合いはないわ!」
「僕が言わなかったらだれが言うの? 今の所一人暮らしの無知なお嬢さん。この社会はね、君みたいな女の子が簡単に生きていけるほど甘い世の中じゃないんだよ。君みたいにルームシェアを募集して、金を盗まれたり良からぬことをされたなんて話を僕はいくつか知ってるよ。君はそういうことも考えていたの?」
「……っ」
 そこまでは、考えていなかった。家賃のことしか頭に無かった。
 ニコがルームシェアという案にいい顔をしなかったのは、そういうことも含めて考えてのことだったのだろうか? リディアはただ単に、人付き合いの苦手な自分にそんなことはできないと、ニコが勝手に決め付けているだけだと思っていた。
 青年の強い視線に、負けそうになる。けれどそれはあまりに悔しすぎたから、リディアはムキになって声を上げた。
「決める際にはちゃんと相手を選ぶもの。そんな人とはルームシェアをしないから大丈夫よ!」
「君に人を見る目があるとはあまり思えないけどね」
「な…っ」
 整った顔に浮かぶ笑顔は確かに魅力的だったが、その口から出る言葉は最悪だった。もうこんな奴と、一秒だって会話をしていたくない。チラシを張るのはまた明日にしようと思い、リディアはくるりと男に背を向けた。せっかく人がやる気を出したのに、何て悪い出だしなのだろう。
「リディア」
 名前を呼ばれて驚いた。思わず振り返ってしまうリディアの顔に、男のそれが覆い被さってきた。あぁそうだ、チラシには名前と連絡先も書いてあったから、多分それで知られちゃったんだわと考えるリディアの唇を、温かい物が覆う。
 初めてのその感触に、リディアは何もすることができなかった。
 握っていたチラシが、ぱさり、と音を立てて落ちる。その音が耳に聞こえ、開けたままの視線が灰紫の視線とぶつかった瞬間、頭の中に閃光が走った。
「や…っ!」
 無我夢中で手を振った。ばちんと、かなりの大きな音が鳴り響いたような気がする。けれどそんなこともどうでも良かった。
 落ちたチラシを拾うことも忘れて、リディアは脱兎のごとく逃げ出した。怖いというよりも、ただ驚いて戸惑った。何が何だかわからなかった。わかりたくなかった。
 追ってくる足音は聞こえない。マンションの中に入ってしまっても、けれどリディアは気が気ではなかった。エレベーターを待つのも嫌で、階段を一気に駆け上る。
 部屋に飛び込み、ソファの上でくつろぐニコの姿を見つけた時には、何だか泣きたくなった。ほっとして力が抜けて、へにゃへにゃと玄関に座り込む。ニコが驚いたように二本足で駆けつけてきた。
「おい、どうした、リディア? ポスターを貼りに行ったんじゃなかったのか?」
「そうなん、だけど……」
 ポスターを貼るどころか。
 ファーストキスを、見ず知らずの男に奪われてしまった。
「……あたし、もうダメかもしれないわ、ニコ」
「は? 何言ってんだよ! さっきまであんなに一人でやる気になってたくせに。どうしたんだよ。何かあったのか?」
 すん、とリディアは鼻をすすった。何だかんだ言っても、ニコはちゃんとリディアのことを心配してくれている。リディアが生まれた時からの付き合いなのだ。
 心配そうに周りをうろちょろしながら、ニコは肉きゅうのついた柔らかい手でリディアの頭をぽんぽんと叩く。もうそんな年ではないというのに、ニコにとってはいまだにリディアは手のかかる子供みたいなものなのかもしれない。
「リディア、大丈夫か?」
「……えぇ。ただ、ルームメイトを探すのは、前途多難なのかもしれないわ」
 けれど諦めるつもりはない。
 あんな男に何を言われたって―――何をされたって。そんなことは関係ないのだ。
「あたし、がんばるわね、ニコ」
「……あぁ」
 ニコは腑に落ちないと言ったような顔をしていたが、何とか笑顔を浮かべたリディアに、それ以上のことを聞いてくることはしなかった。
 とりあえず今日は、もう寝てしまおう。
 そして明日からはまたがんばろうと、リディアは自分で自分を励ましてベッドの中にもぐりこんだ。


   *


「なぁリディア。このままだと、おれ達やばいんじゃないか?」
 食べ終わった後の食器を洗いながら、リディアはニコの台詞を聞き流そうとした。
「だから、最初っから親父さんに相談すりゃいいのにさ……まったく意地っ張りなんだからなぁ。できることとできないことの区別ぐらいつけろっての」
「何よ、まだ無理だって決まったわけじゃないでしょ!」
 腹の立つニコの物言いに、無視もできなくなってしまった。がちゃんと洗った後の食器を積み重ねながら、リディアはエプロンで手を拭くとくるりとニコを振り返った。人が家事をやっている時でも、ニコは一人のんびりとソファに寝そべっているだけなのだ。
「だってなぁ。ルームメイトを募集するって言い出して、もうポスターだってあちこちに貼ったんだろ? もうそろそろ四月も終わるってのに、だーれも相談にすりゃ来ないじゃないかよ」
「そ、それは……」
 事実だったから、何も言い返せない。言葉につまって、リディアはエプロンをいじくった。何もそんなはっきり言わなくてもいいのに、ニコったら。
「時期も悪かったんじゃねぇの? 大体引越しとかって三月の内に終わらしちゃうもんだろ。リディアが募集し始めたのって、もう四月に入ってからだしな。もう引越しする予定の奴は、とっくに引越しちまってるっての」
「じゃあ何よ、ニコはあたしにどうしろって言うのよ?」
「だから、大人しく親父さんに相談しろって」
「それをしたくないからこうやってがんばってるんじゃない!」
 ニコはちっともリディアの気持ちをわかってくれない。いや、もしかしたらわかっている上で、それでも止めた方がいいと言っているのかもしれないが―――どちらにしろ、リディアにはそんな気はさらさら無いのだ。父親を呼び戻すのも、一緒に外国に行くのも気が引ける。
「そのがんばりが報われればいいけどな……」
 はあやれやれとニコはため息をつく。その仕草が本当に腹立たしくて、ニコの自慢のしっぽを編み込みにでもしてやりたい気持ちだった。本当にしてやろうかと、リディアが手を伸ばしかけた時だった。
 ピンポーンと、聞こえてきたのはチャイムの音だ。夕飯の片付けも終わったこんな時間に、一体だれだろうかとリディアとニコは顔を見合わせる。
「ほら、ニコ。もしかして、ポスターを見てくれた人かもしれないわ」
 と言うよりも、それしか心当たりがなかったリディアは言う。友達は何人かいたが、こんな時間にいきなり訪ねてくる理由も無い。
「だからってこんな時間に来るかぁ、普通? おい、何か嫌な予感がするから、出ない方がいいよリディア」
「じゃ、ニコはそこで隠れてて。二本足で歩く猫なんか普通いないんだから、そんなの見たらせっかく来てくれた人も帰っちゃうわ」
「リディア!」
 リビングから出て玄関に向かってくるリディアを、ニコは追いかけてはこなかった。一度言い出したら何を言っても聞かないリディアの性格を、ニコはよくわかっているのだろう。
 小走りに玄関へと向かうと、リディアはチェーンと鍵を外してドアを開けた。
「こんばん……」
「やぁ、リディア。今日はいい月夜だね。ついつい君に会いたくなって来てしまったよ」
「…………」
 珍しく、ニコの予感が的中したということだろうか。
 何かを考えるよりも先に、リディアはとにかくドアを閉めた。いや、閉めようとした。けれどさっと差し込まれた足の所為でそれはできなかった。あ、と思っている間に再びドアは開けられてしまう。
「ひどいなリディア。どうしていきなりドアを閉めるかな?」
「ど、どうしてって……あ、あなた、この間あたしに何したかわかってて……!」
 ダメだ。興奮して口が上手く回らない。言ってやりたいことはたくさんあるのに―――いや、反対に無いのかもしれない。もうこの顔は二度と見たくないと、そう思っていたぐらいだったのだから。
「この前? 何かしたっけ? 努めて紳士的に君には接したつもりだけど」
「あれのどこが紳士的なのよ……!」
「あぁ、だってリディア、思わず君にキスしてしまったことを言っているのなら、あれは違うよ。君は驚いたかもしれないけど、恋の情熱っていうのはどうがんばっても押さえきれるものじゃないんだ。それにね、君があまりに可愛すぎるからいけないんだよ。普段は僕だってもうちょっと自制心が利いてるよ」
 真面目な顔で、何を言っているのかさっぱりわからない。
 もう嫌、とリディアは頭を抱えたくなった。来てほしいと思っている人はちっとも現れず、二度と会いたくないと思っている奴はこうしていきなり現れるのだから。
「……もういいから帰ってちょうだい。二度と来ないで。あたしはもうあなたの顔なんか二度と見たくないんだから!」
「それはひどいな。君が喜ぶだろう話を持ってきてあげたのに」
「あなたが? バカ言わないでっ!」
 この無駄に整った顔を見ているだけで、いらいらムカムカして仕方がないのだ。やっぱりニコにも来てもらえば良かったかもしれない。そしてこいつの顔を猫らしく引っかいてくれればいいのに。
 何とか追い出そうと、無理やりドアを閉めようとするリディアに対して柔らかく微笑んだまま、男はいきなりリディアの核心をついてきた。
「ルームメイト。まだ決まってないんだろう?」
「は……」
 何でいきなり。
「それどころか、一つの連絡すら来ていない。そうだよね?」
 確信のこもった笑みは、今までで一番リディアに不快感を与えるものだった。ある意味、いきなりキスをされた時以上に。
 身体が小さく震えた。わざわざそれを言いに、人をバカにしにこいつはここまで来たのだろうか? だとしたら本当、一体何て奴なのだろう!
「……だったら、何よ。だからあたしは本当に世間知らずなんだって、上手く行くはずなかったんだって、あなたはあたしをバカにでもしに来たのっ!? 」
「なっ、違うよリディア、どうしてそんなことを考えるんだ?」
 初めて見る男の慌てたような表情に、少しリディアは驚いた。先ほどまでの余裕ぶった笑顔を捨てて、「勘違いしないでくれ」と前置きをしてから男は言葉を続ける。
「僕は君をバカにしに来たわけでもからかいに来たわけでもないよ。そうじゃなくてね、リディア。君のルームメイトがまだ決まっていないのなら、僕はどうかなと思って」
「…………は?」
 必死に睨みつけていたリディアの表情は、男の言葉を飲み込むと同時に怪訝なものへと変わって言った。だって、一体何が何なのやら。
「もう五月は目前だ。次の家賃の滞納期限だってすぐだろう? 僕なら今すぐにでも払ってあげるよ。君はもうルームシェアのことで頭を悩ませずに済むはずだ。きっとここ数日は、ろくに眠れないほど今後のことを色々考えてたんじゃないのかい?」
 男の言葉は、当たらずとも遠からずだった。不眠とまでは行かないが、熟睡できなかったことは確かだ。ニコは頼りにならないしで、一人で頭を抱え込んでいたのも事実。
 けれど、だからと言ってこんな男と? 出会いの印象は最悪で、今日の印象だって似たようなものだ。こいつとこれから先一緒に暮らしていくだなんて想像もできない。
「……あたし、ルームメイトはちゃんと選ぶって、この間言わなかったかしら」
「でも、選べる余裕は無いんだろう?」
 その余裕ぶった笑みに、リディアはカチンと来た。
「だからって、あなたなんかお断りよっ!」
「へぇ。そうして家賃が払えずに、ここを追い出されるのかい?」
 そんなことにならないとは、自信を持っては言えなかった。いや、そうなるぐらいなら、その前に父親に助けを求める。けれどそうはしたくないから、リディアはここまでがんばってきたわけで―――
「人生には妥協ってものが必要だと思わない?」
 ここで妥協なんかしたくない。
 しかしそれをしなくては、ここに住み続けていられないこともわかっている。
 ニコの言葉ではないが、もう四月も後半になろうとしているこの時期に、引越しを考えている人なんてそうはいないだろうし、これから先、別のルームシェア希望の人が現れる可能性なんて、一体どれほどの物なのだろうか。
 部屋には、鍵をつければ、まだ何とかなるかもしれない。
 昼間は学校があるし、帰ってきてからは極力自分の部屋にいるようにすれば、こいつともそう顔を合わさずに済むのでは―――
「じゃあ、そういうことで決まりだね」
 リディアの表情から、『妥協』したことを読み取ったのだろう。嬉しそうに男は微笑むと、さっとリディアの手を取り唇を押し当てた。
「僕はエドガー。エドガー・アシェンバート。これからよろしく、リディア」
「あ……こちら、こそ……」
 慌てて手を引っこ抜く。触れられた所が熱かった。こんなことを平気でする人に、今までリディアは会ったことなんてない。やっぱりとんでもない奴なのかもしれない、こいつは。
「じゃあ、ちょっと上がらせてもらうよ。今日はいったん帰って、明日にでも荷物を持ってくるけどね。間取りだけでも確認しておかないと」
「……えぇ、どうぞ」
 何だか、もうどうにでもなれといったような心境だった。こいつがどんな奴にせよ、ちゃんと家賃を払ってくれるのなら問題ない。一緒に暮らすというよりは、単に部屋を貸し与えるだけの関係なのだから。
「ところでリディア。君、猫を飼ってるの?」
「……え? えぇ。猫、ダメだった?」
「いや、別に平気だけどね」
 そう言うエドガーの視線の先には、ソファに座って新聞を読んでいるニコの姿が。やばい、とリディアは慌てたが、ニコは気にした様子もなく新聞を読み続ける。たまに、ちら、とエドガーに視線をやるが、とくにエドガーに興味は無いようで、ニコはすぐまた新聞に視線を戻す。
「あ、あの、ね。これはちょっとあの気にしないで……」
「新聞を読む猫は初めて見たよ。ずいぶん変わった猫だね」
 エドガーはあっさりそう言うと、「キレイな部屋だね。気に入ったよ」と辺りを見回してそう言った。
「……それだけなの?」
 新聞を読む猫を見てもたったそれだけの反応しかしない、やはりこいつはとんでもない奴のようだった。