鬼畜な貴方は私の先生
「……あら」
 ふと上を見上げたソフィーは、そこに一際目を引く赤い背表紙を発見した。書かれているタイトルからして物語の類だろうか。古びた分厚い本で、隣に並んだ本とは香りが違う。
 何だか興味をそそられて、ソフィーは手を伸ばした。一段高い所にあるその本は、何とかソフィーの手の届く位置にはあるのだが、ぴちっと収まったそこから、目当ての一冊だけを抜き取るのはこれがなかなかに至難の業だった。背伸びをしつつ、ソフィーは何とかその本を抜き取ろうとするが、上手くいかない。
 と、後ろから突如伸びてきた手によって、すっと本は抜き取られた。あまりのあっけなさと、いきなり現れたその腕にソフィーは驚き、慌てて振り返った。
「やぁ、可愛らしいお嬢さん。読みたかったのはこの本かい?」
「え、えぇ。ありがとうございます……」
 日ごろからの習慣で、口からはお礼の言葉を発しながらも、あいにくと感情がこもることはなかった。その人物に、悔しいことだが、ソフィーの意識は全て持っていかれてしまっていたのだ。
(こんな先生、この学校にいたのかしら―――)
 不審人物だったというわけではない。むしろその反対だった。すらりと伸びた肢体に、羨ましいぐらい艶やかな金髪。浮かんだ笑顔は完璧な麗しさで、鼻腔をくすぐる香水の香りすら、彼の身体を彩ることを誇りに思っているかのように感じられる。そんな、今まで見たことないほどの美青年が、ソフィーを見下ろして微笑んでいたのだ。
「難しそうな本だね。読書が好きなの?」
「え、あ、はい」
 はい、と手渡されたその本を受け取りながら、そんな面白みのない返事しかできない自分がソフィーは心底から嫌になった。せっかくこんな素敵な人が話しかけてくれているというのに―――あぁだからと言って、別にどうということもないけれど。単なる親切心で本を取ってくれただけなのだろうから。
「だね、そんな顔してる。すごく真面目そうだよねぇ」
 教師相手から『真面目』と言われる時、そこにこもっているのは好意以外の何物でもないのだが、今のそれはどこか違っているようだった。少し揶揄されているような……浮かんだ笑みや、声音から、どうしてかソフィーはそんな風に思ってしまった。そんなはずあるわけないというのに。だってどこの世界に、真面目な生徒を嫌がる教師がいるというのだろう? その逆なら普通だけれど。
「まぁ、真面目なのはいいことなんだろうけどね。僕としては、ちょっと遊んでるぐらいの女の子が好きなんだけど」
 脈絡もないその台詞に、ソフィーは何の反応もできなかった。言われた言葉をすぐさま理解することができなかったし、できたとしても、何が何だかわからないこの青年相手に、何も言うことができなかったかもしれない。
「あぁでも、あんたぐらい可愛い子だったら、真面目なのも悪くないかな」
 真面目な子を乱れさせるのって、けっこういいと思わない?
 衝撃的な台詞にソフィーが目を丸くした瞬間、その顔が近づいた。
「―――」
小さく音を立てて離れた、そこは一体どの部分だったのか。
―――理解できない、いや、したくない。断じてしたくない、何だったのだろう、今のは!
「かーわいいなぁ。固まっちゃってるの? 今時珍しいぐらい初心なんだね。いいな、気に入ったよ」
 くすっと耳元で笑みが聞こえた。ソフィーは瞬きをすることも忘れて、ただその男の顔を見つめることしかできなかった。
 ほのかに温もりの残った唇を、長い男の指がゆっくりと撫でた。たったそれだけのことで、どうしてか背筋が震えた。
「また遊ぼうね、子ネズミちゃん。僕はハウル。とりあえずはそれだけ覚えていておくれ」
 ひらひらと手を振りながら、スーツ姿のその男は、靴音も高らかに図書室から出て行った。
 人気のない図書室。手にしていた厚い本が、ソフィーの手からすべり、床に落ちて鈍い音をたてた。空っぽになった手で、ソフィーは唇を押さえた。身体が小刻みに震えだしていた。
(……あ、あ、あ、あたしのファーストキス……っ)
 取られた。
 いや、奪われた。
 出会って一分も立っていない、素性も何もかもわからない男に。本を取ってくれて、顔がいいからと、うっかり見惚れたりしたのが間違いだった。だってだって、まさか、いきなりキスされるだなんて思わなかったのだ。一体どこのだれが、そんなことをすると思うだろう?
 あまりのことにソフィーは泣きたくなった。人のやって来た気配がなければ、こっそり泣いていたかもしれない。
 友達同士で来たのだろう、楽しげにしゃべる声を聞きながら、ソフィーは本を床に落としたまま足早に歩き出した。もうこんな場所にこれ以上いたくなかった。あんな奴のことなど忘れてしまいたい。けれどそうすることができないのもわかっている。あの男の嫌になるほど整った顔は、もうしっかり脳に焼き付いてしまっているのだ。
「……今度会ったら、ただじゃおかないんだから……っ」
 並々ならぬ決意を胸に抱いて、ソフィーはぎゅっと拳を握りしめた。今日は今までの人生で一番、最悪な日かもしれなかった。