クレヨン王国
与えられた部屋は、まるでお姫さまのような豪華さで、何日経っても慣れることはできなかった。
「……まったく、何でこんなに大きなベッドなのかしら」
ベッドはソフィーが五人寝てもまだ転がれるぐらいの広さだったし、天井から釣り下がっているシャンデリアは、眺めていると目がチカチカして仕方がない。床を覆う絨毯はこれ以上無いほどふかふかしていて、裸足で歩くととても気持ちいい(けれどハウルがそれは行儀が悪いと叱るので、ソフィーはハウルがいない隙にこっそり歩いているのだが)。
ソフィーが読書好きだからか、寝室には大きな本棚も備え付けられていた。それはソフィーの好きな冒険小説で、森の近くの村の小さな本屋ではお目にかかれなかった、第三部までもがしっかりと揃えられていた。それにソフィーは目を輝かせて、暇さえあればその本に向かっていた。けれどそれも、数日も経てばだんだん飽きてくるというものだ。何せソフィーは、森にいた頃は毎日外に出て、木苺を摘んだり野ウサギを追いかけたり、小川で水浴びをしていたのだから。
ハウルからは、用事がない限り部屋の外へは出ないようにと言われていた。その理由がソフィーにはよくわからなかったのだが、ハウルがそう言うからには、それなりの理由があるのだろうと納得はしていた。何せここは王宮だ。とても広くて、ソフィーはすぐ迷子になってしまいそうだ。
けれど、とソフィーは思った。それでも、いくら何でも、朝からずっとこの部屋にとじこもっているのはつまらない。この部屋はとてつもなく広くて、今までソフィーが暮らしていた森の家よりもなお広い。だから閉じこもっているとはいっても、閉塞感はない。それでも何となく、退屈だと思ってしまうのだ。
「……でも、ちょっとぐらいなら、大丈夫よね」
この広い王宮の中で、偶然ハウルに会うとは思えない。ちょっとその辺を散歩するだけなら平気に違いない。もしこの部屋の場所を忘れたって、だれかに聞けばいいだけのことだ。ハウルの王室付き魔法使いという地位はすごく高いものみたいだから、きっとみんなわかってくれるに違いない。
うん、大丈夫、と自分に言い聞かせると、ソフィーは意気揚々と部屋を飛び出した。ハウルに連れられて、何度か王宮の中を歩いたことはあるが、一人で出歩くのはこれが初めてだった。とりあえずは、キレイに花の咲いた中庭を目指すことにする。となれば、まずは階段を下りて一階に行かなくてはならないと、ソフィーは階段を探して歩き出した。
長い廊下ですれ違う人は、ソフィーを見ても何の反応も示さない人や、軽く会釈をする人、わずかに驚いたように目を見張る人など、色々な反応を返してくれた。その度に何だかソフィーは、自分がここにいてはいけないような気がして、わずかな居心地の悪さを味わった。思えば、ここに仕事をしに来たのはハウルであって、ソフィーはただのオマケなのだ。
オマケなのだから、やっぱり部屋で静かにしているべきだろうかとも思ったが、それでも退屈の虫はどうにもできない。今まで物語の中の出来事であった王宮に、お城に、今自分は本当にいるのだ。それはこれ以上ないほどの興奮だった。ハウルはしばらの間ここにいると言っていたが、つまりそれは、いつかはまたあの森に戻るということだ。  
『しばらくの間』が、いつ終わってしまうのかわからない。それならここにいる間に、思う存分城での生活を満喫しなけれ ば意味がないと、ソフィーはそう思っていた。
その、長い立派な廊下を歩き出して、どれぐらいの時間が経ったのだろうか。見慣れぬ場所を歩いているから、時間が長く感じたのかもしれない。
廊下を曲がった所で、少し先に、見慣れた後姿を見つけた。魔法使いの制服である、深紅のマントが風に揺れている。ぱっと、ソフィーの顔が輝いた。
「サリマンさん!」
たたたっと駆け寄ると、ソフィーはその広い背中にえいっと抱きついた。慌てたようにサリマンが振り返る。久しぶりに会ったサリマンに、ソフィーは抱きついたまま満面の笑顔を向けた。
「こんにちは、サリマンさん。今お仕事?」
「……あぁ、そうだよ。元気そうだねソフィー」
どこか困ったようにサリマンは微笑んで、ぽんぽんっとソフィーの頭を軽く叩いた。ハウルよりも大きな手の平は、ソフィーを一気に安心させた。思えば王宮に来ることが決まった時も、ハウルが一緒だという安心感の他に、サリマンが働いている場所だから大丈夫だという気持ちもあった。物心つくよりも前からたまに家にやって来ていたサリマンを、ソフィーはハウルと同じぐらいには信頼していた。家に来る度に素敵なお土産をくれる、とてもとてもいい人なのだ。
「サリマンさん、お仕事忙しいの? あたしがお城にいても、全然サリマンさんと会えないんだもの」
「あぁ、そうだね……色々とやることが多くて、毎日ここに来ているわけじゃないからね」
「そうなの?」
ハウルは毎日毎日お城にいるから、てっきりサリマンもそう だとばかり思っていたソフィーは、驚いて目を丸くした。サリマンは口元に小さな笑みを浮かべながら、もう何度かソフィーの頭をゆっくりと撫でた。
「あぁ。町に出て調べ物をすることもあるし、国境付近に出向いて魔法の仕掛けを施すこともあってね。毎日ここにいるわけではないんだよ」
そういえば、サリマンが森の中のソフィー達の家へやって来ていたのも、仕事の一環だと言っていたような気がする。それが一体どんな仕事なのかはソフィーにはわからなかったが、王室付き魔法使いというのは、色々仕事が多くて大変そうだということはわかった。そしてなおさら、サリマンさんというのは本当にすごい魔法使いなんだなぁと思う。そして、そのサリマンさんがハウルのことをもっとすごい魔法使いだというからには、本当にそうなのだ。ハウルのことを考えて、ソフィーは何だか嬉しくなった。
「……人前で男に抱きつくのははしたないことだって、僕はあんたに教えなかったかいソフィー」
「ハウル!」
声が聞こえたと同時に、べりっとサリマンから引き離された。顔を上げると、渋面顔のハウルがそこにはいた。
「元気なのはいいことだけどね、少しは僕の言いつけも守ってくれないと困るんだよソフィー」
「だって、他にだれもいないわ」
廊下を見ても、通りかかる人は他にいなかった。だからハウルの言う、「人前で」というところには当てはまらないと思っ たのだ。
けれどソフィーの言葉に、ハウルはますます眉を寄せるだけだ った。これはまずいと思って、ソフィーは素直に謝ることにした。森に住んでいる頃は、大抵のことでは叱られなかったのだが、ここに来てからハウルの説教が増えたような気がする。お説教はもうこりごりだ。
「……ごめんなさい、ぱぱ」
上目遣いに見上げながら、恐る恐るソフィーは言った。ハウルのしかめっ面はまだ続いていたが、やがてふっと顔から力が抜けて、口元に苦笑が浮かんだ。
「いいよ、まぁこの場合はサリマンだったからね……うん、サリマンならまだマシだからね……」
含みのあるハウルの言葉の意味も、ソフィーにはよくわからない。ただ、サリマンが口元を引きつらせたのを見ると、あまりいい意味ではなかったようだ。ソフィーは首をかしげてハウルを見つめた。
「ところでねソフィー、あんたはいつまで僕のことをパパって呼ぶんだい?」
もう僕はあんたのパパじゃないだろうと笑いながら言われて、ソフィーは自分の間違えに気がついた。自分達の間にある愛情が、親子のものではなく男女のそれである気づいてから、まだ少しの時間しか経っていない。だからだろう、いまだ以前の癖が抜け切れなくて、甘えている時や油断している時なんかには、ついつい「ぱぱ」と呼んでしまうのだ。
「あ……ごめんなさいぱ……じゃなくて、ハウル」
「……まぁ、まだ慣れないんだから仕方ないけどね」
苦笑しながら、ハウルはソフィーの頭を撫でた。何だかサリマンにもハウルにも、ことあるごとに頭を撫でられているような気がする。優しくてほっとするから、頭を撫でられるのがソ フィーは好きなのだけれど。
「そういえばソフィー、あんたは何でここにいるの? 用事が無い限り部屋にいるようにって言わなかった?」
「あ…」
そういえばそうだった。だから、ハウルに見つからないうちに戻ろうと思っていたのに、初っ端から見つかってしまった。
助けを求めるようにサリマンを見たが、サリマンも困ったように笑うだけで、何も言ってくれない。サリマンもハウルの味方なのだろうか。そう思って何だか悔しく思いながら、ソフィーは必死に頭の中を回転させた。
「あのね、ハウル……えっと、窓から見える庭のもぐらが、穴から出られなくて困ってるって言うから、助けてあげようかと思って」
「……まぁいいけどね。どうせ退屈だったんだろう?」
まったく仕方ないんだから、とハウルは笑った。ハウルにはすっかりソフィーの行動パターンなどはばれているようだった。ソフィーが赤ん坊の頃から、ずっと面倒を見てきてくれているのがハウルなのだから、それこそ仕方ないことなのかもしれない。
「でもね、ソフィー。王宮には色んな人がいて、その中にはあんたに好意的じゃない人だっているんだよ。まだここの暮らしに慣れてもいないんだから、一人で出歩くのは止めてくれ。僕の言ってることわかるよね?」
「だって、退屈なんだもの。ずっと部屋に一人なんて嫌よ」
唇を尖らせて言えば、ハウルはやれやれと肩をすくめた。困らせているのかもしれないと思っても、退屈なことこの上もないのだ。部屋でのんびりするのは気持ちいいが、そればかりだ と飽きてしまう。
「わかったよ。今日は少し早く帰るから。そうだな、あとちょ っとまとめる書類があるから……それが終わったら部屋に戻るよ。だから大人しく部屋で待ってておくれ。いいかい?」
「……わかったわ」
本当なら後でと言わず、今一緒に部屋に帰りたいぐらいだったが、それはさすがに我侭だということはわかっている。昨日も一昨日も、ハウルの帰りは夕飯ぎりぎりの時間だった。それを思えば、今日はずいぶんと早い時間だ。何せそろそろ夕方のお茶の時間になるかというぐらいの時刻なのだから。
「じゃあハウル、早く帰ってきてね。サリマンさんもお仕事がんばって」
「はいはい。いい子にしてるんだよ」
ばいばい、と手を振ったソフィーの頭のてっぺんに、ハウルはキスを落とした。
いい子だなんて、まるで小さい子を相手にしているみたいだ。少し不満に思ったが、そんなものも、浮かんだハウルの笑顔に一瞬にして霧散してしまった。にっこりと微笑んで、ソフィーは踵を返した。もうすぐハウルが帰ってきてくれるのなら、部屋でいい子に待っていることぐらい容易いことだと思えた。