そして、君のその笑顔のために
一日の中で一番慌しいのは朝のこの時間だと、ここ数日でソフィーはそう思わずにはいられなかった。すっきりと目覚めたその気持ちは、けれど長いこと持続してはくれないのだ。
「ほらほらウェー、もう朝ごはんなんだから、早くお着替えするわよ。いつまでもぬいぐるみで遊んでるんじゃないの!」
「やーん」
ソファの上で遊んでいた幼い息子の手からお気に入りのぬいぐるみを取り上げると、すぐさま機嫌の悪い声が上がった。けれど一々そんなことは気にしていられない。こうしている間にも、煮込んでいるスープは焦げ付いてしまうかもしれないのだ。
「ほら、お着替えするんだから。ウェー、ばんざいして」
「うぇーひとりでおきがえできるもん。ままやんないで!」
生意気に顔を歪めたまま、ウェーは小さな手でぱちりとソフィーの手を振り払った。ソフィーは少し驚いたが、「あらそう」とあっさり手を離すと、すぐさま焦げそうだった鍋へと向かっていった。
「ウェーが一人でお着替えできるのなら、ママはそりゃあ助かるわ。毎朝こうだったら、本当に楽になるんだけど」
「うぇー、あかちゃんじゃないからできるんだよ」
マイケルのところの双子を見て以来、ウェーは頻繁に「あかちゃんじゃないから」と言うようになった。赤ん坊を身近にして、そんな意識が出てきたのはいいことだとソフィーは思った。
「ねぇお母さん。お父さん起きてこないね」
頼まずとも朝食の用意を手伝ってくれているモーガンは、スプーンとフォークをテーブルに並べながら、何でもない声音でそう言った。モーガンにとっては当たり前のことなのかもしれない。そう思って、ソフィーは何だかどっと疲れてしまった。自分がいない間の二人の生活がよくわかってしまうようだった。
「お父さんは、あなたにちゃんとごはんを作ってくれてたの?」
「うん、作ってくれたよ」
頷くモーガンにほっとしたが、それは一瞬のことに過ぎなかった。
「いっつもベーコンエッグだったけどね」
「……そうなの」
「……どうかしたの?」
「どうって?」
何事も無いように問い返されれば、ソフィーは何と言えばいいのかわからなくなる。
「あの……何か、様子が変だから。悩み事とかあるんじゃないかと思って……」
何かあるのなら言って欲しいと、その言葉はハウルの視線にかき消された。腕が伸びて、優しい指がソフィーの頬を撫でた。指の先までが芸術品のような人。けれどどこもかしこも温かくて、触れているだけで幸せになる。
「―――いつになったら、僕と、一緒に寝てくれるの?」
「やーっ! いーや、はうるいやっ! うぇーままがいーの!」
「嫌われたもんだなぁ! お父さんはおまえに何かしたかい、ウェル。早く仲良くなって一緒にお風呂に入りたいのに、いつになったらおまえは僕に懐いてくれるんだろうね」
はうると一緒にお風呂なんて絶対にイヤだ。
うぇーは今までままとしか入ったことはないし、だからこれからだってずっと、ままとしか一緒には入らないと決めている。
うぇーがあんまり暴れるから、はうるはすぐさまうぇーを床に降ろした。降りた瞬間に、うぇーは悔しいからはうるの足をえいっと蹴り飛ばしてやった。「おやおや!」と、はうるの楽しそうな声がした。
「ウェーいけないんだよ。お父さん蹴っちゃダメだよ!」
「いいんだもん。はうるだからいいんだもん」
もーは怒ったように怖い顔をしたから、うぇーはそう言い返した。よくわからないけれど、はうるなら蹴飛ばしてもいいような気がした。だってはうるだから。
「僕だからいいか。そりゃまたすごい理論だね、ウェル」
蹴られたはうるはそうやって笑ってるから、やっぱりはうるならいいんじゃないか、とうぇーは思った。はうるはいっつも笑ってる。よく怒るままとは全然ちがう。
「あらハウル、帰ってたの? 今日はずいぶんと早いのね」
洗濯物を取り込んでいたままが、そう言ってハウルに笑いかけたから、うぇーはむすっとした顔になって、持っていたクレヨンを床に放り投げた。もーが、「ウェー!」と呼んできたが気にしない。
「うん、今日は早かったんだ。奥さんの顔が見たかったからね」
「はいはい。そりゃ良かったわね」
「きっとお母さんもモーガンに謝ってくるよ。お互い様なんだから、もう気にしなくて大丈夫だよ」
お父さんはそう言って笑った。沈んで行く夕日に、お父さんの長い金髪はキラキラと光りを反射して、風に揺れていた。細い金の糸がたくさん束になったようで、モーガンはお父さんの髪が好きだった。本当はモーガンと同じ黒い色だというけれど、魔法で染めたお父さんの髪は、まるで生まれた時からずっとそうであるかのように、お父さんによく似合っていた。
「お父さんは、お母さんのどこが好きなの?」
ふと気になったからモーガンはそう尋ねた。お母さんに会う怖さと気まずさを、何とか振り払おうと思ったのかもしれない。
「また突拍子もないことを聞いてくるね」
お父さんは目を丸くしていた。マイケルに「マーサお姉さんのどこが好き?」と聞いたら顔を真っ赤にしていたのに、お父さんは全然そんなことはなかった。
「ねぇ、どこ?」
「難しい質問だなぁ。どこというか、僕はソフィーの全部が好きなんだけどな。怒った顔も拗ねた顔も、ウェルをあやしている時の母親の顔もね。振り返った時に赤毛が揺れるのも、水仕事で荒れた指先も」
そう言ってお父さんは、モーガンを見ていた視線をすっと離した。赤く光る夕日のその先に、きっとお父さんは、お母さんを思い出しているのだろう。口元に浮かんだお父さんの笑みは、いつもお父さんがモーガンに向ける笑みとは違っていた。
「―――不器用な優しさが、とてもとても愛しいと思うよ」
「親って不思議な存在よね。昔、子供の頃、当たり前だけど親は親だったわ。何の疑いもなく頼ったし、愛して、愛されたわ。それを当然だと思っていて……でも自分が親になって初めて、親っていうのは完璧な人間なんかじゃないってわかったの。揺らぎもするし、不安にもなるわ。でもそれって、子供がいるからじゃないの。子供がいないからそうなるのね。子供がいるから強くならなきゃいけないんじゃなくて、子供がいるから強くなれるの。……ねぇ、不思議ね。そんなことを思うと、どうしようもなくあの子たちが可愛く思えて仕方ないの。例え世界が無くなっても、あたし、あの子達と一緒にいられればそれでいいわ。それだけでいいの」
「ねぇ、僕のこと好き?」
「……何をバカなことを聞いてくるのよ」
「僕はいつだって本気だよ」
愛する気持ちを教えてもらった。
あんたと出会って、想って、想われて。
愛しさに涙した夜もあった。出会わなければ良かったのかと、そう思ったこともあった。記憶も心臓も煩わしい時間があった。自分が呼吸をしていることすら信じられないような、そんな刹那の瞬間に確かな絶望の淵を見た。
けれど手に入れた愛しさに、その瞬間に世界は変わった。
君のその笑顔のために、僕はきっと生まれてきたんだ。