ブラッディ・マリーはいかが?


...1話
もうだいぶ前に、ハロウィンは終わったはずだった。
だというのに、どうしたんだろう、この格好は。そもそもいくらハロウィンと言っても、この日本じゃ大して流行ってもいないイベントだ。そりゃ確かに、ちょっと買い物にでも出ればオレンジのカボチャは至るところで売られていたし、色んな飾り物なんて物もたくさんあった。遊園地に行けばハロウィン一色になってるし、そう思えばそれなりに浸透しているイベントなのかもしれないけど。
でも、街中で仮装している奴なんかはまず見ないし、大体今はもう十一月だ。ハロウィンなんてイベントは、とっくのとうに終わってしまったはず。
なのに一体これは何なんだ?
僕の前、十メートルほど先を歩いている、黒フードをかぶった奴は?
「……ねぇちょっと、そこの人」
生憎と僕は、こんな夜中に住宅地を歩く黒フードの人物を見かけても、恐ろしいとは思わなかった。確かに怪しいなとは思ったけど、その黒フードは僕よりもずいぶん背が小さい上に小柄で、どう見ても女子供の様子だったから、なおさら怖がるのはおかしいというもの。まぁ、いくら背丈が小さくても、それが例えばとんでもない化け物だったとしたら僕の身も危ないのかもしれないけど、僕の声にびくっと肩を震わせた様子は、どう見ても化け物には見えなかった。
ってことは、やっぱりただの変な人なのかな。それはそれで興味深いけど。
「こんな時間に何してるのかな。いや、歩いてる分には別に構わないんだけどね……僕もコンビニに行ってきた帰りだし。でもさぁ、その格好はちょっと……あぁ、君のこだわりだったら悪いんだけど」
話しかけながら、僕は黒フードに近づいていく。二、三歩後ずさりながら、黒フードは僕を見ている。顔をすっぽり覆い隠すようにかぶったフードのせいで、その顔はちっとも見えない。隠されると見たくなるのが男の性ってやつで、僕はそのフードに手を伸ばそうとした。
「……待てっ!」
とたんに逃げようとした黒フードを押さえ込む。逃げようともがくけど、その力は弱い。子供……いや、女の子だ。
女の子、と思った瞬間に、押さえ込む手の力が緩んでしまったのは失敗だった。黒フードの女の子はその隙を逃がさずに、僕の腕から抜け出して行ってしまった。街灯に照らされた夜の道を、黒いフードは走り去っていく。どうしてこんなところを歩いていたのかも、どうして黒フードなんかかぶっていたのかもわからないまま。
「―――季節外れのハロウィンのつもりだったのかな」
まぁ、そう気にすることでもないか。今の世の中、変わった人なんていくらでもいるもんだし。
僕も、早く家に帰らないと。
コンビニで買ったアイスが溶けちゃうからね。





自慢じゃないけど、僕の保健室には休み時間ごとに女の子が訪れる。
「ねぇねぇセンセ、これ、あたしの彼氏なんだけど、けっこうカッコイイと思わない?」
「あぁホントだ……へぇ、いい男捕まえたねぇ? でもさ、僕のが断然いい男だと思うけどなぁ」
「そりゃあね。でもセンセ、あたしとは付き合ってくれないでしょ?」
「あのね、僕一応ここの先生なの。保健医だけどね。生徒と付き合ったりしたら即効で首になっちゃうってば。そうしたら何、養ってくれるわけ?」
軽く笑いながら言えば、集まってた女の子が口々に「もちろん!」と騒ぎ出す。あんた彼氏いるんだから別にいいでしょとか先生と付き合うことになったら別れるもんとかなにそれならあたしにちょうだいよーとか、くだらないことで騒いじゃって、全く女子高生って可愛いなぁ。
高校の保健医って、僕にとっては本当に天職だ。適度に仕事はあって適度に暇で。毎日可愛い女の子に囲まれて、まぁ給料はそれなりだけどそんなの他にどうとでもできるし。
「ねぇセンセー、今彼女っているの?」
これももうお決まりの質問。僕はペンをくるくる回しながら、金髪の巻き毛の可愛いその子を見上げて微笑む。
「一週間前までならいたんだけどねぇ……考え方の違いってやつで別れちゃったんだよ。まったく残念ったらないね。ベッドの中での相性は抜群だったんだけどさ」
とたんに上がる歓声。やだーとか言いながらも、みんなちっともそうは思ってないんだから。本当に最近の子ってのはませてるんだからさ。
「先生ってばぁ! それが仮にも先生が生徒に言う言葉なの?」
「うんほら、でも先生って言っても僕保健医だからね。別に君達の内申書書くわけじゃないし」
「先生それぶっちゃけすぎ!」
「だってそんな給料高くないし」
「生徒に言っていいのー、そういうことっ!」
こんな会話をしているせいで、いつも僕の保健室は賑やかだ。さすがに具合の悪い生徒が寝ている時にはこうじゃないけど、そうそう具合の悪い生徒なんて来るものじゃない。寝込むほど具合が悪い生徒なんて、大抵は早退しちゃうものだし。
だけどこの日はちょっと違った。
「先生!」
ノックもしないで駆け込んでくる女の子が一人。この子は見覚えがない。休み時間ごとに保健室に来る常連じゃないらしい。
「そこの廊下で倒れちゃった子がいて……!」
「倒れた?」
室内が一瞬にして静かになる。ペンを放り投げて、女の子達を置いて僕は教室を飛び出た。僕の先を、やって来た女の子が小走りに走る。ちょっとした騒ぎになってる廊下の真ん中に、赤毛の女の子が確かに倒れていた。友達らしき子が二人その隣にしゃがみこんでる。
「はいはい、診るからちょっとどいてね」
「先生、ソフィー大丈夫?」
泣きそうな顔になってる女の子に、大丈夫だよと僕は微笑む。抱き起こして、腕の中の女の子の額に手を当てる。熱もないし、呼吸も脈拍もしっかりしている。ただ、顔色が悪いのが気になった。
「この子は……」
「ソフィーです。ソフィー・ハッター」
「その、ハッターさんはどうしたの? 頭をぶつけたりしたの?」
僕の問いかけに、女の子達はふるふると首を横に振った。そして、口々にしゃべりだす。
「何もしてないんです。次の授業に行こうと歩いてたら、急に倒れちゃって……」
「あの、何か日ごろからちょっと体が悪いみたいで……あ、貧血とか言ってました。それでこの前も倒れちゃって」
「貧血? この前も?」
貧血で保健室にやって来る子はたまにいるけど、こんな見事な赤毛の子は見覚えがない。首を傾げる僕に、女の子の一人が言う。
「この前は、すぐに起きたんです。倒れたっていうか、ちょっと意識が遠のいちゃった感じで……その時に、貧血気味だからって言ってて。でも、今日はばたって急に倒れちゃって」
「ふーん、そっか。鉄欠乏制貧血かな、顔が青白いし。少し休ませておくよ。君達は次の授業に向かいなさい」
抱きかかえたまま立ち上がる。ずいぶんと軽くて驚いた。ちゃんと食事をしてるのかな……顔色もずいぶんと悪いし。
起きたら保健の先生らしく、そこらのことも話した方がいいかなと思いながら、僕は保健室に戻った。チャイムが鳴ったおかげで、部屋の中にはだれもいない。二つある内の一つのベッドに寝かせて、靴を脱がせる。寝やすいように制服のリボンだけとって、枕の横に置いておいた。
寝顔は、どうみても安眠してるようには見えない。何かに苦しんでるような、苦しめられているような。
「何か悩みでもあるのかねぇ……まぁ、今時の高校生ともなれば、ストレスも色々あるんだろうけど……」
さっき保健室にいた女の子達とはずいぶんな違いだなと思った。まぁあの子達にしても、さっきのはただの一面だとはわかってるつもりだけど。
布団を整えて、額をさらりと撫でる。体温が低下してるのか、ずいぶんと冷たい。少し休めば良くなるだろうけど……本当、どうしてこんなひどい貧血になったんだか。今の若者の食生活が乱れてるってのは本当なんだろうな。僕も人のことは言えないけど、でもよっぽどベーコンエッグとカップ麺しか食べない僕の方が健康的だと思う。
生徒がベッドで寝ていたら、煙草を吸いに保健室を抜け出すわけにもいかない。
仕方ないから、この時間に溜まった仕事を終わらせてしまうことにした。もうすぐ健康診断があるから、それに合わせて必然的に僕の仕事も増える。めんどくさいよなぁと呟きながら、僕はパソコンのキーボードをぱちぱちを打ち込んでいった。



「ジャン、バティ……」
呻くような声が聞こえて、僕はパソコンから顔を上げた。
白いシーツの上に舞った赤毛が揺らめいているのが見えた。僕は立ち上がってベッドに近づく。乱れた赤毛ってのはけっこうそそるものがあるけど、その髪の持ち主がまだ高校生ってのはちょっといただけない。子供は僕の趣味じゃないし、一応先生って立場上相手にしてはいけないんだから。
「ハッターさん? 気がついた?」
目は開いているのに、どこを見ているのかいまいちよくわからない。寝ぼけているのか、まだ意識がはっきりしていないのか―――これはちょっと、ゆっくり休ませる必要があるかもしれない。もちろんその前に、しっかり食事をさせてからだけど。
「ハッターさーん? 大丈夫かな……親御さんに連絡して迎えに来てもらった方がいいかな」
話しかけるというよりは、独り言めいた呟きをもらす僕に、唐突に二本の腕が伸ばされた。ソフィーの、腕が。
「……え」
首の後ろに回された腕は、ぎゅっと僕の体を引き寄せる。何だ。何なんだ。いや、よく経験したことのあるシチュエーションだけど。先週別れた彼女にも、何度もこんな感じで引き寄せられたことはあるけど―――だって、相手は、この学校に生徒で。重度の貧血少女で。それが何で、僕はこんな風に引き寄せられてるんだ? しかも、抵抗もせずに?
「ちょ、ハッターさん……」
「……ジャン」
何だ、他の男と間違えてるのか……彼氏なのかな。脱力して、僕は苦笑をもらした。こんな子供に自分の彼氏と間違われるだなんて。どう見たって僕の方がいい男なのは間違いないのに。
まわされた腕を外そうとしたのに、思いのほか強い力で驚いた。とても寝ぼけているとは思えないような力。外すのに困っていると、ますます近くに引き寄せられる。まるでキスしてほしいと言わんばかりの体制。もしかして、寝ぼけているのはフリで、それをねだってるとか? 生徒にそんなことを企ませてしまうぐらいには、確かに僕はいい男で、キスの一つや二つ簡単にしちゃうぐらいには軽い男でもあるかもしれないけど、だからって違う男の名前を呼ぶのはいただけない。僕にキスしてほしいのなら、ねぼけたフリして僕のことを呼べばいいのに。
でも、ソフィーの唇は、僕のそれには重ならなかった。
その代わりに、僕の首筋に、そっと押し当てられた。あまりの積極的さにびっくりする。このまま流されても良かったけど、いつだれが入ってくるかわからない保健室ってのはさすがに場所が悪い。PTAもうるさいし、面倒ごとに巻き込まれるのは厄介だ。
「ハッターさん」
強く名前を呼んで、無理矢理腕をはがす。軽く身体を揺すれば、ソフィーの目にはちゃんとした生気が戻ってきた。
「え……」
呆然としたような、驚いたような顔。全く、驚いたのはこっちの方だっていうのに。やれやれとため息をつきながらも、具合の悪いところはないかも顔色を伺った。さっきと同じく青いままだ。こりゃ、完璧に病院行きは決定だ。
「ハッターさん、大丈夫? 君ね、廊下で倒れてたんだよ。多分貧血だとは思うけどね……普段家で何食べてるのさ? こんなに青白くなってる子なんて見たことないよ」
「え……あ、あなた……だれ?」
僕の話を聞いているのかいないのか。
「だれって、あのね……」
さっき以上の脱力に襲われて、僕はがくっと肩を落とした。
ここは学校の保健室で、僕は白衣を着ていて、もうこれ以上説明のしようもないと思うぐらいなのに。一体このお嬢さんはどれだけ寝ぼけているんだろう? それとも元からちょっとぼけてるとか?
「僕はハウル。ハウエル・ジャンキンス。今まで保健室に来たことはないのかな? 今年からこの学校の保健医になったんだよ。そして君は今日、廊下で倒れてた。だから僕がここまで運んで少しの間休ませてたんだ。そこまではいい? 理解できた?」
僕の言葉が通じないみたいに、ソフィーはまじまじと僕の顔を眺めている。見惚れちゃうぐらいの美形だってことは重々承知してるけど、何だろう、ソフィーの視線はそうじゃない。まるで何か恐ろしいものでも見たかのような顔だ。言っておくけど、女の子にこんなリアクションをされたのは初めてだ。そして、とんでもない屈辱でもある。
「あのねぇ、ハッターさん。せめてわかったかそうでないかぐらい返事をしてほしいんだけどね?」
苛立ちの混じった僕の声音に、ソフィーはびくっと肩を震わせた。しまった、一応は僕は先生だったと思い出したところで、ソフィーは慌てて靴に足を突っ込み始めた。
「ちょっと。ねぇ、君大丈夫なの? まだ顔色も悪いし……今日はもう帰った方がいいよ。病院に行ってちゃんと検査をしてもらった方がいい。前にも貧血で倒れたみたいだし、増血剤を処方してもらって飲んだ方がいいよ。じゃないとまた倒れるよ、ハッターさん」
「わかってます。ありがとうございます」
そう言うソフィーの声はずいぶんと硬い。僕から逃げ出そうとするように、大急ぎで靴を履くと立ち上がる。何だ、一体どうしたんだ? 何で僕は、初対面のこんな女の子に怖がられなくちゃいけないんだ?
「ハッターさん、ちょっと」
あまりの態度に、呼び止めようと腕を伸ばしたところで、歩き出したソフィーの身体が傾いだ。ほら、だから言わんこっちゃない! 後ろから押さえ込むようにして慌てて抱きとめる。柔らかい感触に、小柄な体つき。どこかで感じたような感覚。
「ほら、だから言っただろう? まだ休んでた方がいいよ、親御さんに電話するから、それまで……」
「……大丈夫ですからっ!」
今貧血で倒れ掛かった女の子とは思えないほどの力。突き飛ばすように僕の腕から逃れると、ソフィーはそのまま保健室を飛び出して行ってしまった。
あの時と、同じように。
違うのは今、ソフィーは黒フードではなく、制服を着ているということだけど。
「―――今時の女子高生って、変わってるなぁ」



何はともあれ、ソフィー・ハッターは、 僕の心に疑惑の種を植え付けてくれたのだった。
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