ブラッディ・マリーはいかが?


...2話
黒いフードをかぶって夜中に出歩くのが、最近の女子高生の流行だとはどうしても思えない。
あの日から、僕は注意深くソフィー・ハッターを観察するようになった。といっても、僕は教科持ちでもないただのしがない保健医だから、あんまり校内でソフィーを見る機会はなかったんだけど。それでも、偶然廊下ですれ違ったり、週に二回の体育の授業では、校庭にいるソフィーを見ることができた。ソフィーは他の子と同じように体育着に着替えてはいたけど、授業に参加してはいなかった。校庭の隅っこに腰を下ろして、みんなが準備運動をしたりハードルを飛んだりする様子を眺めている。貧血がひどくて体育の授業には参加できないのだろう。あんな子がハードルなんてやろうものなら、走り出したとたんに倒れるに決まってるんだから。
ソフィーは相変わらずふらふらしていて―――いや、それよりも、日を追うごとにますますひどくなっているようだった。僕が見ている内にソフィーが倒れた回数は二回。どちらも大したことはなくて、すぐに意識を取り戻したからいいものの、ソフィーの友達らしきクラスメイトはずいぶんと慌てていたようだった。そりゃそうだろうな、目の前で何回も倒れられたら、貧血じゃなくて何かもっと大きな病気なんじゃないかって疑いたくもなるってものだ。
「……にしても、本当にあの貧血っぷりは何でなんだろうな」
一度、用事を作ってソフィーのクラスに行ってみた。それも、昼休みを狙って。ちらっと見ただけだけど、赤毛のお嬢さんはしっかりお弁当を食べていた。元々の体質はあるだろうけど、ちゃんと食事はしているようなのに、それでどうしてあんな重度の貧血になるのかわからない。昔からなのか、それとも最近になってからなのか。病院に通って薬を処方してもらえばいいのに、見てる限りソフィーの病状は悪化するだけで、これでよく毎日学校に通ってこれるなと思うぐらいだ。
「まったく、あのお嬢さんは」
僕がこれだけ一人の女の子のことを考えてることがあっただろうか? 付き合ってた彼女のことでさえ、こんなに悩んだことはなかったっていうのに。
目の前で倒れられたって、それがただの生徒なら何も気にはしなかった。その前の黒フード、それからこの前のあの態度。それが混ざり合って、どうにも気になって仕方がない。ただの(貧血はひどいようだけど)女の子だっていうのに、まるでそれ以上の何かがあるような気がして仕方ない。
僕になびかなかった女の子なんてソフィーが初めてだから、それで気になるだけなのかもしれないけど。
「……ちぇっ」
自分の恋人でも何でもないあんな子供に、どうしてこんなに悩ませられなくちゃならないんだ? 僕がこうしてあの子のことを考えていても、あの子はちっとも僕のことなんて考えてないに違いないのに。何て不公平だろう。別に僕のことを考えてほしいわけじゃないけど。
ぱらぱらと、めくっているのは先日行われた健康診断の結果だ。身長体重から視力検査、歯科検診から―――貧血検査まで。
「―――え?」
探し出したのは、もちろん三年の中の、たった一人の生徒で。
そこに書かれている診断結果に、僕は目を丸くした。まさか、そんな。けれど何度見直しても、書かれている診断結果に違いはない。間違えってこともないだろう……じゃあ、つまり、どういうことなんだ?
僕は慌てて時計を見る。とっくのとうに六時間目は終わってしまっている。
白衣だけ脱ぐと、僕は慌てて保健室を飛び出して行った。





ソフィーを見つけたのは、本当に偶然だった。
「やぁ、ハッターさん。偶然だね」
だからそう声をかけただけなのに、ソフィーはまるで殺人鬼が追いかけてきたかのような顔で僕を見た。
「言っておくけど、偶然だから。確かに今日の放課後、あんたを探したりもしてたけどね……あんな広い校内で見つかるわけないだろ? だからね、これは本当に偶然なの。僕だって仕事が終わったら帰るんだよ」
持ってた鞄を持ち上げて見せ付けるように揺らしてみる。ソフィーは眉を寄せていたけど、逃げようとはしなかった。まぁ、バス停でバスを待ってるんだから、逃げ出すわけにはいかなかったんだろうけど。どこで下りるのかは知らないけど―――あぁ、でも、あの夜。僕の近所を歩いてたってことは、ソフィーはもしかして近所に住んでるとか?
隣に並んでそんなことを考えていると、珍しく時間ぴったりにバスが来た。わずかに悩んだような素振りを見せてから、ソフィーはゆっくりとバスに乗っていった。ステップ辺りでまた倒れるんじゃないかと思ったけど、そんな心配は杞憂に終わった。ソフィーは無事にバスに上がりこむと、ほとんど乗客のいない車内を歩いて行って、一番後ろの席に座り込んだ。僕は迷うことなくその隣に座った。ソフィーは僕を無視するように窓の向こうを眺めているけど、僕のことを意識していることははっきりわかる。
「体調はどう? あれからもけっこう倒れてるみたいだけど」
さりげなさを装った僕の問いかけにも、ソフィーは窓の外を向いたまま。ここまで露骨に無視されるのは久しぶりだった。そういう駆け引きを楽しんだことはあるけど、本気で無視されるのはちょっと頂けない。元々僕は、そう忍耐力がある方じゃないんだ。
「あのねぇ、ハッターさん。先生の質問にはちゃんと答えなさいね」
そう言って僕は、ソフィーの腕に手を伸ばした。あくまで聞こえないフリをするなら、無理矢理こっちを向かせてやろうと思っただけなのに。
「……っ!」
静電気か、もっと激しい何かが起きたかのように、ソフィーは僕の手を振り払った。
「触らないで…っ!」
車内に、他の客がいなくて良かった。じゃなきゃ、僕は間違いなく痴漢の現行犯で捕まるとこだった。
「あ、の……ねぇ、ハッターさん……」
こんなに手厳しい拒絶にあったことが今まであっただろうか? 間違いなく無いし、今後だって無いに違いない。照れ隠しだなんて思えないほど、心底からの拒絶。目を見開いて、まるで臭い物から遠ざかろうとするかのような。精一杯、身体を窓にくっつけてくれたりして。
「―――」
認めるのも何だけど、これはけっこうショックだった。
興味本位、っていうのは否定できないけど、それでもあんなしょっちゅうばたばた倒れてるこの女の子を、心配に思う気持ちも確かにあったのに。
「……そんなに、僕のことが嫌なわけ?」
自分でも驚くほどに弱々しい声だった。こんな子供に拒絶されたって、そんなのどうでもいいことなはずなのに。あぁでも僕は、女の子に拒絶されるのには慣れてないから。うん、多分その所為なんだろうけど。
「ごめんね、あんたのこと心配するのは余計なお世話だったよね」
自分でも驚くほどのショックだった。これ以上痛手を負わされたくはなくて、僕は早々にこの席から立ち去ろうとした。走行中だろうが気にしない。ようは逃げたかっただけなんだ。
「あ、先生……」
でも、それを引き止めたのはソフィーだった。顔中に、申し訳無さそうな表情を浮かべている。やりすぎた、と思っているような顔。僕の腕を掴んで引き止めるようなことはしないけど、多分そうしたかったんじゃないのかな。何となくそう思った。僕が思いたかっただけかもしれないけど。
「いてもいいの?」
「……どうぞ」
期待をこめて尋ねた僕に、不承不承といった感じでソフィーは頷く。無理矢理だったかもしれないけど、でも、確かにそう答えたのはソフィーなんだ。僕はほっとしながら立ち上がりかけた席に再び腰を下ろした。ソフィーの頭は僕の肩よりも低い位置にある。こんなに小柄だから体力も無いんじゃないのかな。
「最近、体調はどう?」
さっきと同じ質問を繰り返している。色々聞きたいことはあったけど、何から聞き始めればいいのかわからない。
「……まあまあです」
でも、今度はソフィーは答えてくれた。それだけで、何だかすごい充実感だった。だって僕らの間で、会話らしい会話が成立したのなんて、これが初めてだろう?
「それはつまり、まあまあ悪いってこと? 言葉通りに受け取るには、とてもあんたの体調は良好だとは思えないからね」
僕の言葉に、ちらりと見下ろしたソフィーの表情は硬くなる。聞いちゃいけないことだったのか―――でも、そんなの今更だ。僕の近所をあんな格好でうろついていたのが悪い。
隣に座っている女の子を、僕は改めてじろじろと見回してみた。癖の強い赤毛をきっちりと三つ編みにしているさまは、とても今時の女子高生とは思えない。膝ちょうどぐらいのスカート丈も、少々長すぎるぐらいだ。でも、とりあえず見た目的には普通の女子高生。それも、教師方が喜ぶような、生徒手帳の見本のような、そんな女子高生だ。
でも、僕はどうもこのお嬢さんに違和感を感じて仕方ない。多分それが、僕がソフィーを気にしてしまう最大の原因なんだろう。
「―――先週に、身体測定があったよね」
ソフィーの身体は、今度は震えなかった。でも、僕なんていないかのように、じっと窓の外を流れる景色を見つめている。
身体測定のときのことは、多分ソフィーも覚えているだろう。会話なんてもちろんしなかったし、事務的にぱっぱと終わらせていくだけだったけど、体育着姿で測定したソフィーの体重が、ずいぶん少なかったことは覚えている。あと少し痩せたら栄養失調じゃないかと思ってしまうぐらいには。ソフィーは今と同じように、そのときも僕と目を合わせようとはしなかった。他の子は、ちらちら僕のことを見ていたにも関わらず。
「貧血検査があったのは、あんたも覚えてると思うんだけど」
ソフィーは、動かない。必死に身体中の動きを止めているみたいに。膝の上でぎゅっと拳が握られているのを見つけた。そんなに力をこめて握ったら痛いだろうに。
「その結果なんだけど―――あんた、何にも異常が無かったよね」
てっきり、重度の貧血と診断されるかと思っていたのに、ソフィーの診断結果には異常なし。ヘモグロビンは正常値だった。
「あんたは貧血じゃない。それ、自分でもわかってるんだよね?」
僕がソフィーに感じた違和感はそれだった。
普通であれば、自分が急に倒れたとあれば多少なりとも慌てるものだ。なのにこのソフィーときたら、しょっちゅう倒れているというのに、ちっとも慌てる素振りも見せない。まるで、そんなの当たり前とも言わんばかりに。
かといって、身体測定には以上なし。中学からの健康診断票を見ても、特に持病は見られなかった。持病は無い、貧血でもない、なのに当の本人は焦らない、当然のことのように受け止めている。
「ねぇ―――あんた、一体どうしたってのさ?」
病気じゃないことはわかっている。けれど、じゃあ、それなら一体何なのさ?
気がつくと、僕はソフィーの腕を握っていた。自分でも気づいていなかった。ソフィーも、今度は振り払ったりはしなかった。でも、その身体は固まってる。まるで男性恐怖症の子みたいに。
「ねぇ、ソフィー」
「……あなたには、関係ないわ」
十代の女の子が出したと思うには、ずいぶん冷たい、ぞっとしたような声だった。
僕は驚いて、思わず掴んでいた手を離していた。その時初めてソフィーは僕を見る。睨みつけているような、泣き出しそうな、そんな複雑な目。
「これ以上あたしに構わないで。あなたに迷惑はかけていないでしょう? お願いだからそっとしておいて。じゃないとあなた……あなた、大変な目にあっちゃう」
「僕が……何だって?」
聞き間違いでなければ、大変な目にあうとか何とか、ソフィーは言ったはず。
「あのねぇ、ハッターさん。もう少しわかりやすく言ってくれるとありがたいんだけど……」
何て返事をすればいいのかわからなかった。冗談だと切り捨てたいところだったけど、そう返すにはソフィーの表情は切り詰めていて、張り詰めた糸のようで、笑い飛ばすことができなかった。笑ったりすれば、ソフィーの糸はとたんに切れてしまいそうで。
僕は返事に困っていたし、ソフィーはそれ以上何も言ってはくれなかった。
居心地の悪い沈黙がお互いの間に漂い始めた頃、タイミング良くバスは僕の近所に到着した。思った通り、ソフィーも立ち上がる。
ステップを下りるところで、自然と手を差し伸べてしまったけど、ソフィーは僕の手には掴まらなかった。だけど、やっぱりバスから降りたところで崩れ落ちた。わかっていたから僕は別に慌てなかった。軽い身体を支えて、まったく、とため息をつく。
「あんたのこの体質は、ちょっと厄介なんじゃないの? 登下校だけで何回倒れてるのさ……」
「……大丈夫ですから」
身体はふらふらしているのに、その声はずいぶんとしっかりしている。気力だけはあるお嬢さんだと僕は呆れた。その気力に、体力はついていけてないようだけど。
「大丈夫じゃないだろ? 家はどこ? どうせ近所だし、送って行ってあげるから。途中で倒れられても迷惑だしね」
「もう大丈夫です。先生はまっすぐ家に帰って下さい」
「……あのね」
僕の腕から逃げ出して、ソフィーはよろよろと歩き出す。その様子からして、すでにもう大丈夫じゃない。あと数歩歩いたらまた倒れるかなと、後ろについて僕は歩き出した。
「ついて来ないでったら……!」
ソフィーが振り返って叫ぶ。大声を出して、また倒れそうになる。
あぁまったく、これだから!
慌てて僕は間をつめようとした。地面に崩れ落ちる前に、ソフィーの身体を支えるつもりだった。
「ソフィー!」
名前を呼んだのは、僕ではなかった。
少し先に、一人の男がいる。いや、男と言うにはまだ若い―――学生だろうなとわかる年齢の、青年。若者らしく短い黒髪を立てて、何か運動でもやっているような引き締まった身体をした、僕と変わらない背丈の青年は、あっという間に走ってくると慣れた手つきでソフィーを支えた。ソフィーの唇から出た名前に、僕は素直に驚いてしまった。
「……ジャン」
先日、ソフィーが寝ぼけて呟いた名前。ジャン。こいつがジャンだって? こいつがソフィーの彼氏?
「まったく……俺がいない間、ろくに食事もしてなかったのか? ひどい有様じゃないか」
「ジャン・バティ……」
「ほら、しっかりしろって」
言いながら、ジャンはソフィーを抱え上げる。僕が抱えてもソフィーは軽い身体をしていたけれど、ジャンにとってはそれ以上に軽いようだった。まるで子供を抱きかかえているみたいに。
僕は隣に座っただけで嫌がられるのに、こいつには抱き上げられてもソフィーは文句の一つも言わないのか。
別にどうだっていいことだけど、僕は何も別に怪しい人物じゃない。ソフィーの通ってる学校の、れっきとした保健医だ。ならもうちょっと信用してくれてもいいはずなのに、ソフィーのこと態度の違いは何なのだろう。
「ねぇ、ちょっと……」
間抜けにも程がある。腕を伸ばして、呼びかけた僕にジャンはちらりと視線をやってきた。うるさい羽虫を見るような目で。
「どこのだれだか知らないけどな、こいつには関わるな。おまえが出る幕じゃない」
年下のガキから、こんなにも失礼な言葉を投げられたのは初めてだった。
僕はこの子の通う学校の保健医だなんて、そんな間抜けなことを言い出さなくて良かった。だってそんなこと、きっとこいつは気にしないだろうから。それどころか、「それが何か?」なんてあっさりと言われそうだ。僕はただ、間抜けにもそこに突っ立っているしかできなかった。
例えばドラマの中で、ヒロインを浚われたヒーローは、その後どうするんだろう? そもそも、そんなストーリーにはならないのかもしれないけど。
でも、今僕のやることはわかっている。
ソフィーは僕のヒロインなんかじゃないし、第一まだ子供で、高校生だ。そして僕は大人で、その学校の保健医と来てる。
僕はソフィーを追ったりはしないし、無事に家まで連れ帰ってくれる彼氏がいるのなら、ここは大人しく家に帰るべきなんだ。そう思って、踵を返しても、それでも心はどこか落ち着かなかった。
ソフィー。それに、ジャン・バティ。
ソフィーはともかく、ジャン・バティなんて今時流行らなさそうな名前だ。しょっちゅう倒れるジンジャーとオールド・ネーム。ある意味お似合いのカップルかもね。
家に帰って、煙草を吹かしながらそんなことを考えていた僕は、もちろん知らなかった。
僕がそんなくだらないことを考えいた時間に、ソフィーは、ジャン・バティの首筋に噛み付いていただなんて。
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