セシリアの道化師


9.必要だと言われても
目の前を椅子が舞っている。
ドガっとかガシャンとか、ものすごい音が辺りに響く。
自慢でも何でもないけど、あたしは喧嘩には慣れている。ガラの悪い酔っ払いが三人も集まれば、理由なんて無くても喧嘩が始まるのは当たり前。ちょおっと口を挟んだだけでその喧嘩に巻き込まれて、ガラス瓶で顔を切って家に帰ったことだってある。 一人娘がだらだら血を流して帰ってきたってんで、父さんがもう情けない悲鳴を上げてたっけなあ。死ぬわけじゃなし、って怪我をした本人は落ち着いたものだったのに。
とかそんな昔のことを思い出すあたしの前で、今度は皿がすっ飛んだ。ケーキがべちょっと音を立てて床に落ちる。あぁもったいない! なんて思ってる場合じゃないんだけど。
「お兄様のバカっ! お兄様の大嘘つきっ!」
「ぷ、プリシラ、お願いだから落ち着いて僕の話を……」
「嘘吐きのお兄様の話なんて、もう聞きたくありません! どうせまた、嘘をつかれるだけですもの!」
ガラの悪い酔っ払いの喧嘩なら見慣れたあたしでも、お人形みたいな顔した貴族のお姫様が、手当たり次第に物を投げつける様子なんて見たのは初めてだ。
いや、そもそも貴族のお姫様に会ったのだって、これがあたしの人生で初めてなわけなんだけど……いやだって、貴族ってのはもっと優雅なものなんじゃないの? ローランドといいその妹―――もといプリシラといい、一体どうなってるんだ、これは。
目を丸くするしかないあたしの目の前を、ティーカップが飛んでいく。あ、それあたしが飲んでたやつじゃないのかな……。
「プリシラ! 落ち着きなさい!」
珍しく語気も荒くローランドは叫ぶけど、その服にべっちょりケーキをぶつけられてたんじゃ、迫力も何も無い。大体、プリシラは聞いてなんかいない。
「お兄様のバカ! バカバカバカ! お兄様なんて、お兄様なんて……もう死んじゃえばいいのよ! 死んで下さい!」
いやちょっといくらなんでもそれは。
あたしだって父さんに対してそれに近いことは思ったことあるけど、さすがに口に出したことはないってのに。
驚いてローランドを、次いでクインに視線をやったけど、クインはまるで我関せずって顔をして、テラスの隅っこに寄っていた。えぇい、それでも従者か! とは思うんだけど、ローランドの前に出てこうものなら本当それこそ死んでしまいそうだ。あたしも気がつくと、じりじりと後ろに下がってしまっていたりするし。
「プリシラ……」
「お兄様の嘘吐き! 婚約者だなんて、婚約者だなんて……! 私と結婚の約束をしたのに、どうして今更そんなことを仰るのですか!? 指輪だって下さったのに、あんまりです……!」
指輪っておい。
「うわ、あんたそれ最悪」
思わず本音が口からこぼれた。その瞬間にまた違う皿がガシャンっと壁にあたって割れて、あたしの声なんてかき消されたと思ったのに、ローランドはしっかりあたしと視線を合わせた。
「違うんです! 指輪なんて僕はあげたつもりは……」
「それすらも忘れたのですか!?」
一際大きくプリシラは叫び、ぶるぶると震え出した。ただでさえ大きな目が見開かれてより一層大きくなる。キレイな若葉色をしていた目は今はもう血走っていて、何というか……すごく、怖い。なまじ可愛い顔をしているものだから、余計に尋常ならざる様子が際立って、ものすんごく怖い。
ローランドは慌ててプリシラに顔を向けた。違う意味で、こいつも震えてるように見えるのは気のせいか。
「プリシラ、忘れてなんかない。ちゃんと覚えてるよ」
「何を今更! たった今、指輪なんてあげたつもりはないと仰ったばかりじゃありませんか!」
「あぁだから、ちゃんと話を聞いてくれプリシラ。そうじゃなくて、だからつまり、あれは子供の時の話だっただろう? 君がまだ十歳にもならない頃の話じゃないか。だから僕は、結婚なんてつもりじゃなくて……」
子供の頃の話だったらしい。
でもそれで済ませられるのって、男側だけなんじゃなかろうか。
案の定、プリシラは表情を変えない。変わらず血走った眼でローランドを睨み付ける。
「だから何だと仰るのですか? 私はずっと、お兄様との約束を信じてきてました。私がお兄様に相応しいレディになったら、きっと素晴らしいプロポーズをして下さるのだと……最近になって、お兄様との結婚の話がお母様やおば様の口から出るようになって、私、とうとうその時が来たのだと……。お兄様は私と会うと、いつだって素敵なお花をプレゼントして下さって……」
ぽろっと。
その、大きな若葉色の瞳から涙がこぼれた。
堰を切ったように、次から次へと涙が溢れ出す。思わず拭ってあげたくなったのは、あたしだけじゃないはずだ。子供の頃の約束をずっと信じてきたプリシラを、バカだなんてあたしは思えない。
「プリシラ……」
心底から困った顔をして、ローランドが数歩プリシラに近づく。多分あたしと同じように、その涙を拭ってあげようと思ったのだろう。だって本当に、キレイな涙だったんだもの。
「……ごめん。君がそこまで想ってくれてたなんて知らなかったんだ。僕は……」
「お兄様の……」
一瞬の沈黙。
その次の言葉を、ローランドはもちろんのこと、あたしも、そして多分クインも息を潜めて待っていた。
「大嘘吐き―――っ!」
「ちょっ、プリ……!」
片手で椅子を振り上げて、プリシラは涙を流したままそれをローランドの頭に叩きつけようとした。
寸でのところでローランドは避ける。そのまま椅子は床にぶち当たる。ばきっと折れた脚が、勢いのままにあたしの方に飛んできた……ってあええええっ!
悔しいことに、あたしにはローランドほどの反射神経はなかった。つまり、見事におでこでその脚をキャッチしたわけなんだけど。……あー、何かくらくらする。眉間を狙い撃ちにもほどがある。
「ネッティ!」
「お兄様のバカーっ!」
声を上げたのはローランドだけど、額を抑えてうずくまるあたしに駆け寄ってきたのはクインだった。ちょっとはいいところもあるのかもしれない。
「おい、大丈夫か? 貧乏人は丈夫さだけがとりえだろ」
それが痛みにうずくまる女の子にかける言葉か。後半部分はいらないっつーの。
文句を言うために顔を上げれば、まるで舌打ちでもしそうな顔のローランドが目に入った。こいつでもこういう顔するのかと素直に驚く。
「クイン、ネッティを連れていけ」
「え、ちょっと」
あんた一人残されて、ここでどうする気?
そう言いたかったんだけど、脳天に響くような痛みで目の前がチカチカとする。その隙にクインに腕を引っ張られ、引きずるようにしてテラスから連れ出されてしまった。
「ちょっと!」
最後に見たのは、違う椅子を振り上げるプリシラと、それを何とか避けるローランドの姿だった。
プリシラが話を聞く様子は無いし、投げられる物が無くなるまで、ローランドはああしてる気なのかな……。
「クイン。あんた、大好きな主人をあんな所において来て良かったわけ?」
「ローランド様はプリシラ様の癇癪には慣れてる。おまえや僕がいたら、余計な怪我人を増やすだけだよ」
癇癪には慣れてるって、つまりしょっちゅうあんな風になってるってことだろうか。貴族のお姫様が?
あたしにはさっぱり想像がつかない。貴族っていうのは、でっかいお屋敷に住んで、美味しい物を食べて、宝石やドレスで身を飾ってるものなんじゃないのだろうか。おかしいな、ローランドといいプリシラといい、どうもあたしのイメージする貴族とはかけ離れてるんだけど……。
「……まったく、こうなることがわかってたから、ローランド様には早くプリシラ様と婚約して頂きたいのに」
悔しげな顔でクインがそうもらす。プリシラのあんな反応は、クインには予想通りだったということだろうか。ってことは、恐らくローランドにも。
「おまえが来た所為で、余計な仕事が増えてばかりだよ」
そう言いながら、クインは辿り着いた部屋にあたしを押し込んだ。
「あたしが来た所為ってね、あたしはただローランドに仕事を頼まれただけで―――!」
あたしの言葉を最後まで聞くことなく、クインはふんっと鼻で笑うと、一方的にドアを閉めてしまった。何て奴だ。
「従者の教育がなってないっての」
まあ、部屋まで連れてきてくれたのには感謝するけど。
多分ここは、これからしばらくの間あたしが寝起きする部屋なんだろう。改めて見て驚いた。あの宿屋の部屋よりも数倍、ううん、数十倍はすごい。
天井に描かれた繊細な絵だとか、一体何十人が寝泊りすることを考えてるんだろうって広さとか―――この絨毯、汚したら罰金が取られたりするんだろうか。そんなわけないと想いつつも、どうにも不安が拭えない。
でも結局、疲れに負けて、あたしはその絨毯を踏んづけてしまった。そうしてソファにどさっと座り込む。疲れた。とんでもなく疲れた。
「あー、おでこ冷やしたい……」
血は出てないけど、まだじんじんとしている。もしかしたらクインが気を利かして、冷やしたタオルでも持ってきてくれないかなとか思ったけど、そんな様子は微塵も無い。ま、ローランドに言われたのならともかく、そんなことあたしのためにしてくれるような奴だとは思ってなかったけどね……。くそー、どこに何があるのかさっぱりわからないから、自分じゃ何もできないったら。水はどこに行ったらもらえるんだ?
「……ったくもう」
無性にイライラとする。いや、どっちかっていうともやもや?
クインの捨て台詞が妙に胸にひっかかる。
あたしには、悲劇のヒロインぶった自己憐憫の趣味は無い。あたしの所為で、何て風には思いたくない。だって普通に考えて、この状況を招いたのはローランドだし。あたしがローランドの依頼を断ったとしたって、きっとあいつはまた別の女の子に声をかけていたはずだ。その子があたしより美人だろうが不細工だろうが、その後の展開は決まっている。
あたしの所為ではない、はずだ。それは事実のはず。
でもやっぱり―――プリシラがあんな風に泣き出したのは、あそこにあたしがいたから、なんだよなぁ。
あたしは悪くない。でも、後味は悪い。罪悪感は胸に残る。それはきっとどうしようもないものなんだろう。
額に痛みなんかより、そっちの痛みの方がずっと大きい。
どうしたもんか、と、あたしはぼんやりとソファの上で膝を抱えた。


「先ほどはすみませんでした。大丈夫でしたか?」
いつもの笑顔を浮かべて、ローランドが現れた。
「申し訳ありませんでした。あなたに怪我をさせるつもりはなかったのです」
「……いや、別に怪我はしてないけど」
「失礼します」
と言って、ローランドはあたしの前髪を掻き分ける。大して痛みはしないけど、鏡を見ていないから、あたしには血が出ていないことしかわからない。ローランドは眉を寄せると、持っていたタオルでそっとあたしの額を押さえた。水でぬらしたタオルはひんやりとして心地がいい。
その心地良さに、思わずあたしは目を閉じた。できれば、椅子の脚がぶつかった直後にこうしてほしいところだったけど。まあ、文句は言うまい。
「本当に、申し訳ありません。何とお詫びをしていいのか……」
「あ、なら給金上げてよ」
「わかりました。どのぐらい上げればよろしいでしょう? ご希望の額を仰って下さい」
いや、冗談で言ったんだけど……。頼むから真顔で返さないでほしい。それじゃぼったくりだっての。
「や、嘘だって、嘘。別にいいわよ、大した怪我じゃないし……っていうか、怪我ですらないでしょ、この程度。ちょっと腫れてるぐらいなんだし」
「女性に怪我を負わせるなんてもってのほかです。お詫びなら何でもしますから、どうぞ遠慮なさらずに仰って下さい。一日辺り、銀貨三枚の給金でいかがでしょう?」
「だからいいってば! あんたね、一々大袈裟なのよ。馬車の乗り降りに手出すとかそういうのも。鬱陶しいから止めて本当」
ローランドは驚いたように、ぱちっと瞬きをする。その手からタオルを奪い取って、あたしは自分で額に当てる。人に何かされるのは、どうにも居心地が悪い。
一日辺り銀貨三枚とか、それはもう目もくらむような報酬だけど、どうしてか飛びつく気にはなれなかった。一枚でも貰いすぎだと思ってるのに。銀貨三枚にも値する働きができる自信も無い。
「……鬱陶しい、ですか」
小声でローランドは呟く。ちょっときつく言い過ぎただろうか。ついさっきプリシラからひどいことを言われたばかりなのに。
と思うと、ローランドは両手で空いていたあたしの片手をぎゅっと握った。きらきらとした琥珀の瞳で。
「ネッティは、とても自尊心の強い女性なのですね」
「……いや」
「人に頼らず、何でも自分で成そうとする。その姿勢は、とても尊いものだと思います。僕も見習わなくてはなりませんね」
「…………うん、そうしてちょうだい」
ああああ、もう! こいつにまともな神経を期待したあたしがバカだった!
一体どんな両親から、こんなすっとぼけた息子が産まれるっていうんだろう。親の顔が見てみたい。同じようなボケボケな両親だったらどうしよう。
「何だか日を追うごとに、あなたのことをますます好きになっているような気がします。僕らの運命の出会いに感謝しなくては」
娼館で運命の出会いだなんて冗談じゃない。あたしの運命がそんなところで決められてたまるか。一人で夢見てろボケ。
「っていうかあんた、何で髪結んでないの?」
手を引っこ抜きながらあたしは尋ねる。ローランドは瞬間残念そうな顔をしたけど、すぐにいつもの笑顔に戻って、肩下まで垂れた自分の髪を指でつまんだ。
「先ほど湯浴みを終えたばかりなのです。乾いてから縛ろうかと思いまして」
「何で濡れたままにしておくのよ。風邪ひいても知らないわよ」
「あなたの怪我が心配だったもので」
だから怪我じゃないってのに。 いや、でも何ていうか……そういう台詞を真顔で言われるのってやっぱりちょっと照れるよね……いくら相手がウスノロトンカチでも、やっぱり男は男だし。無駄に顔はいいしさ。
「本当ならすぐにでも駆けつけたかったのですが、さすがに頭からチョコレートソースをかぶった状態では、ネッティが嫌がるかと思いまして……」
「うん。そりゃ嫌だわ」
「茶髪になったのは生まれて初めてです」
冗談を言ったつもりはないのだろう。至極真面目な顔でローランドは言う。思わず吹き出したあたしを見て、ローランドは不思議そうな顔をする。
改めて眺めてみて初めて気づいたけど、髪を下ろしたローランドを見るのはこれが初めてだった。いつもは首の後ろで一つにまとめているその髪が、今は肩下まで垂れている。些細な差なんだけど、驚くほどに印象が違って見える。濡れている所為もあるのかもしれないけど……何だろうな、ひどく色っぽく見える。とか、男の人に対する言葉じゃないのかもしれないけど。でも、事実そうなんだから仕方ない。
この半分の色気があたしにもあったらなあ。実の父親にさえ「貰い手がいない」とまで言われたのがこのあたしだ。本当、一日ぐらいならタダ働きをしてもいいから、その色気が欲しいところだ。どうやったら出るんだろう、色気って。
「先ほどは、本当にすみませんでした。まさかプリシラが来ているとは思わなかったのです。とはいえ、僕の不手際であることは確かですから……」
「驚いたけど、それについては別にいいわよ。いずれ会うことにはなるんだし」
「そう言って頂けると助かります」
ほっと心からの笑顔を浮かべるローランドに、あたしはきつい眼差しを向けた。はっきりと言ってやらなきゃならない。
「でもね、あんたのやり方には言いたいことが山ほどあるわ」
「……何でしょう?」
あたしがこれから言うことに、予想がついているのかいないのか、その顔からはさっぱり読み取れなかった。
「まず第一に、あんたのやり方は、プリシラを傷つけるしかないってことよ」
「えぇ、わかっています」
「わかってないわよ」
きっぱりとそう言ってやる。
ローランドは口を開いたが、何か言うよりも先にあたしはしゃべりだす。
「あの子と結婚するのが嫌なら、はっきりとそう言ってやるべきなのよ。あんたにはそれができなかったのかもしれない。でもね、あたしなんていう、あんたの『婚約者』を見たら、あの子がどれだけ傷つくか考えなかったの? あんたにはっきり断られたら、プリシラはそりゃ傷ついたでしょうよ。泣くでしょうよ。でもね、別の女を婚約者なんて紹介される方が、もっとずっと傷つくのよ。 そんなこと、あんたは何も考えてないでしょ?」
あたしには恋愛は何もわからない。 今までだれかを好きになったこともなければ、これからだって多分無いだろうなと思える。だって、生活をしていくだけで精一杯だ。男なんて、父さんを見ていれば懲り懲りだって思える。
でも、それでも、同じ女として、プリシラが傷ついた気持ちは、少なくともローランドよりは理解できるつもりだ。
「……そうですね。ネッティの言う通りなのかもしれません」
ローランドは頷く。その、こっちの言われるままの態度に、あたしは心底からイラっとする。反論されても、きっと同じように腹を立てたんだろうけど。でも、ここまでのことをしておいて、自分の意見てものがないのかと言いたくなる。
「結婚の約束までしておいたくせに、その態度は何よ。本当にわかってるわけ?」
ローランドは顔を上げた。怒っているようには見えなかったけど、機嫌が良さそうにも見えなかった。
「それは、子供の頃の話です。結婚の約束は、遊びのようなものでした。もしプリシラがそう思わないとわかっていたら、そんな約束などしませんでした」
「子供の頃の話だろうが関係ないわよ。あたしが言いたいのは、そんな風にずっとあんたのことを好きでいた女の子を、こんなやり方で振っていいのかってことよ。あんたがちゃんと話をすべきなんじゃないの?」
「プリシラには、きちんと話をします。そこまであなたを頼ろうとは思っていません」
静かに、ローランドは首を横に振った。
何だろう。自分の思っていることを、上手く言葉にできない。
多分もうプリシラは、とんでもなく傷ついてる。今更どうにもできないことなのかもしれない。だから、どうしようもなく気分が落ち着かない。
「……あたしなんかを、雇わなきゃ良かったのに」
そうしたら、あたしは今頃どうなってたんだろう?
あの娼館から逃げ出せていたとは思えない。だったら今頃、客を取っていたりするんだろうか? いや、痩せ過ぎで野良犬以下だって言われたんだっけ。どっちにしろ、毎日お腹いっぱいにご飯を食べれる生活にはなっていなかったはずだ。
「それでも僕には、あなたが必要なのです」
「自分一人じゃ、あんな可愛い女の子一人振れないわけ? あんたそれでもホントに男なわけ?」
「……えぇ、一応これでも男なのです」
どうしてか、苦しげな顔でローランドは微笑んだ。まるであたしが、何かとんでもなく悪いことを言ってしまったような。
だって、そんなわけないでしょ? どう考えたって、悪いのはローランドだ。あたしじゃない。
そんな顔を見てしまえば、あたしは何も言えなくなる。言ってやりたいことはいっぱいあったはずなのに、気づくと黙り込んでいた。ローランドも何も言わない。
いつまでこの沈黙は続くんだろう。
額を押さえたタオルが、もう温くなっていた。これ以上押さえていても意味はないかと思って、そっとそのタオルを外す。
「プリシラを見て、どう思いましたか?」
ローランドが先に口を開いた。それにほっとしながらも、そんな様子を出さないように努めながら、あたしは答える。
「可愛い子だと思ったわよ。妖精みたいって。……まあ、暴れっぷりにはびっくりしたけど」
「あの子の癇癪は昔からです。普段は、それこそ庭に咲いている花すらも可哀想と言って摘めないような子なのですが」
見た目は本当にその通りだ。そんな子が、一度切れると椅子をぶん投げるって、だれが信じるんだろうな。
「でも、可愛い子じゃない。あんな子との結婚をどうして嫌がるのかさっぱりわからないわよ」
「ではネッティは、今すぐ僕と結婚して頂けますか?」
「はっ?」
何だそれ。
「僕も昔から、社交界では天使のようだと言われてきました。容姿は人並み以上だと自負しています。そんな僕と、結婚して頂けますか?」
「な、何言ってんの、あんた。頭おかしいんじゃない?」
天使のようだと言われてたって……自分で言うことか、それ。
でも、ローランドの容姿を天使みたいだと表現したのは、あたしだけじゃないんだなあと、妙に納得したりもする。本当に、口さえ開かなければ天使そのものなのに、何てもったいない。
「ほら、ネッティもやっぱりそう言うでしょう」
「やっぱりって何よ」
「今あなたは、プリシラは可愛い子だから結婚した方がいいと僕に仰ったのですよ。でもあなたは、容姿が素晴らしいというだけでは、僕と結婚はできないでしょう?」
「え、や、そりゃ……」
何て返せばいいんだ、この台詞に。
そもそも、そこで自分を引き合いに出す辺りが憎らしいとか、でも事実だから反論できないとか、言いたいことはそりゃもうあるはずなんだけど。
「だ、だって、あんたとあたしは、まだ知り合ってから全然経たないじゃない。そんな、急に結婚とかそんなことは考えられないっていうか……」
「出会ってからの時間が、そのまま結婚へ繋がると? それを言うのでしたら、僕は、自分のことを兄と慕うプリシラのことを、なおさら結婚相手としては考えられませんよ。プリシラが生まれてからというもの、僕自身、ずっと彼女のことは妹のように思ってきたのです。でもネッティ、知り合ってまだ浅いあなたのことは、出会ってからずっと異性としての女性のままです」
あんまり難しいことを言わないでほしい。あたしの頭は単純なんだから。
あたしは何も、ローランドにプリシラと結婚するように勧めたつもりはない。でも、泣いてるプリシラを見たら、どうしても悪い気になってしまうのだ。
それは、人としては当然の感情だと思うのだけど。
「お願いです。僕にはあなたが必要なのです」
ついさっき引き抜いたばかりの手を、もう一度ローランドは握り締める。
「僕を見捨てないで下さい」
大袈裟な、とは思ったんだけど、そう茶化せない瞳をするものだから、あたしは何の言葉を返すこともできなかった。
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かなりお久しぶりな更新となりました。
本当に久々に書いたんですけど、ロラの口調が違和感ないかなと心配…。
ネッティについてはそんな心配も無いのですが。不思議ですこの差が。
(09.08.18)
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