セシリアの道化師


8.レディー・プリシラ
目の前には、知らない女の子が立っている。
「あぁ、ネッティ。実によくお似合いですよ」
ついさっき髪を結い終わったローランドが話しかけているのはあたし。つまり、目の前のこの女の子は―――鏡に映っているのは、紛れも無くあたしなのだけど。
何度瞬きをしても、ついでに、鏡に触ってこれがまやかしなんかじゃないって確かめても、やっぱり信じられない。
それを言えば、ローランドに出会ってから、信じられないことばっかりだ。髪の色にしてもそう。この、お姫様みたいに着飾った女の子が、あたしだってこともそう。
もう何度目かわからない瞬きをする。何度目を閉じても、やっぱり映る姿は変わらない。これは確かにあたしなんだ。
「僕の見立ては確かでしたね。まるで、朝露に濡れる薔薇の蕾のように可憐です」
「朝露に……え、何?」
思わず顔を向けたあたしは、とたんに後悔した。
今あたしは、仕立て屋から届いたばかりの青いドレスを着ている。レースの飾りがこれでもかというほど使われた、ふんわりとしたスカートのそれはもう上等のドレスを。
いつもよりも複雑に髪の毛を編み込まれて、ついでに生まれて初めての化粧なんかもされて、そうしてやっと鏡の前に立てているのだけど。
そんな、かれこれ身支度に二時間もかけたあたしより、素のままのローランドの方がよっぽど美人ってのはどうしてなんだろう。
「とても素敵です。僕の理想そのままで、どうにかなってしまいそうです」
うっとりとあたしを見つめるローランドの頬は上気していて、いつもよりも三割り増しで美人度がアップしている。遥か空の上であたし達を見守ってるっていう神様も、危うく一目惚れをするんじゃないかって勢いだ。何でこんな可愛い顔した奴が男なんてやってるのか、あたしはいまだに理解できない。
「あぁ、本当に可愛いです。このままどこかに連れ去ってしまいたいぐらい可愛いです」
こいつにそんなこと言われてもなぁ。遠回しな嫌味なんじゃないかと思えてしまうのは、あたしの性格が悪いからなのか。
絹糸のような金髪と、染み一つない白い肌。そのままお人形にでもなれるんじゃないかって顔をしながら、よくあたしのことを褒められるものだといっそ感心する。こいつの恋人なんかになった女の子は、さぞ惨めな思いを味わうんだろうなぁ。どうやったって敵いっこなんかない。あ、だから女運が悪いのかな。
「ローランド様。馬車の手配が整いました」
「いいところに来た、クイン。ほら、僕の婚約者は、また一段と可愛くなっただろう?」
「いや、だから婚約は振りで……」
言いかけたあたしの身体を、無理やりにぐいっとクインの方に向ける。
出立の準備で朝から慌しくしていたクインは、あからさまに「どうでもいい」という顔をした。あたしの頭のてっぺんから足元までを一瞥して、やっぱり「どうでもいい」って声で言う。
「あぁ、そうですね。一応女性には見えるんじゃないですか?」
…………おい。
「ほら、ネッティ。クインもこんなに褒めてますよ」
「え、今の全然褒めてないでしょ!? むしろ貶されたような気がするわよあたしは! あんた耳クソつまってんじゃないの?」
「耳ク……! おまえという女は! ローランド様に向かって何と言う口の利き方だ!?」
怒鳴るあたしに、クインも負けじと怒鳴る。先に喧嘩売ってきたのはどっちだよ!
「まあまあ、クイン。ネッティは照れてるんだよ。そんなところも可愛いじゃないか」
のほほんとした声はいつものことだけど、気が立っている時に聞くとますます腹が立つ。
「あたしのどこが照れてるように見えんのよ! 目ついてんのかあんたはっ!」
「ご覧の通り付いてますが。ここに二つ。見えませんか?」
「見えてるわよこのアホっ!」
人をおちょくってんのか!
「あぁ、そんな可憐な姿で貶されるのもいいものですね。今まで僕の周りには、ネッティのような方はいませんでした。もう少し貶して頂けませんか? すごく新鮮で、心臓がどきどきしてます。これ、何かの病気ではありませんよね?」
「………………お願いだから、あと三年ぐらい口閉じててくんない? じゃないと後ろからその頭かち割りたくなるから。けっこう本気で」
出入り口に立ったクインが、殺気立った視線で睨み付けてくるのがわかったけど気にしない。というか、こんな主人にあんだけ熱心に仕えられるってことがあたしには驚きだ。そういう意味では心底から感心する。
「本当に可愛いですね。どうして僕のネッティはこんなに可愛いんでしょう」
可愛い可愛いって、おまえはあたしの父さんか。しかも勝手に人を所有物にするんじゃない。頭割るぞホントに。
「ローランド様、もう荷物は全て馬車に積み込みましたから。あまり待たせますと、馬が不機嫌になりますよ」
「あぁ、そうだった。そろそろ行きましょうか。ネッティ、忘れ物はありませんか?」
そう言われても、あたしの荷物なんて元から何もない。大事なのは銀貨の入った皮袋だけど、それはもちろんきちんとしまってある。ローランドが仕立てさせたあたしの着替えやら何やらは、クインが全て馬車に運んでしまったし。
こくっと頷くと、ローランドは微笑んであたしの手を引く。一人で歩けるわよと言いたかったけど、初めて履いた踵の高い靴は歩き辛くて、正直ローランドの腕があるのはありがたかった。杖代わりだと思えばいいか。
ドアをくぐりながら、思わずあたしは振り返って、部屋の中を見回してしまった。
もう二度と、こんなお高い宿屋に来ることなんて無いんだなあと思うと、さすがに感慨深い。
「ネッティ? どうかしましたか?」
「ううん。何でも」
しんみりしたって仕方ない。
あたしの仕事は、やっとここから始まるんだから。


あたしがローランドとあの娼館で出会ってから、今日で三週間とちょっと。皮袋は、もうちょっとした重さになった。
婚約者として相応しい服も仕上がったし、礼儀作法もまあ何とかなりそうだってことで(そう言うローランドの顔は引きつってた気もするけど)、いよいよあたし達はローランドの家へと向かうことになった。
「あんたの家ってどこにあるんだっけ。えーっと、セルビアだっけ?」
「セシリアです。ですが、今はセシリアに向かっているわけではありませんよ。王都にも屋敷がありますので」
あっちにもこっちにも家があるって、どんだけ金が有り余ってるんだ、こいつは。
羨ましいというよりは、あまりのこの境遇の差に、何だか妬ましくなってくる。僻みたくなんてないけど、神様もあんまりにも不公平なんじゃないのか、これって。
じと目で眺めるあたしに気づいたのか、ローランドは少し慌てたように言う。
「いえ、王都にある屋敷は、借り物なのですよ。仕事でこちらに滞在する時に使っているだけのもので……」
「恐れ多くも、国王陛下が自らの別宅を、ローランド様に貸し与えて下さったのです。これも一重に、ローランド様が陛下から厚い信頼を頂けているという証です!」
「単なる気まぐれでしょう。陛下はたくさん別宅をお持ちですし、僕に貸して下さったこともお忘れだと思いますよ」
「そんなことはありません! あのお屋敷は国王陛下がお持ちの別宅の中でも、庭の白薔薇が大変美しいことから有名で、別名を白薔薇館と言えば知らぬ者はいないほどのお屋敷なのですよ! 恐れ多くも皇太后様が幼少の頃を過ごされたお屋敷としても有名で……」
「クイン、頼むから少し黙っていてくれないかな」
呆れた顔でローランドが言えば、向かいの席に座ったクインもさすがに口を閉じた。
とりあえず、その借り物のお屋敷の薔薇がキレイだってことはわかった。あと、クインは色々しゃべってたけど、その辺りのことはローランドにとっては割りとどうでもいいみたい、ってことも。
「何だ。てっきりあんたの家に行くのかと思ってたのに。プリシラ様に会わなきゃいけないわけでしょ?」
「プリシラは王都に住んでいますから、セシリアに行っては余計に会うことは難しくなりますよ。……ところで、どうしてプリシラを様付けで呼ぶのですか?」
「あ、何となく」
と言うよりも、クインの口調がうつったみたい。
「あなたは僕の婚約者なのですから、プリシラのことは呼び捨てで結構ですよ」
「だけど、あんたの婚約者候補ってことは、その子も貴族なんじゃないの?」
「まあそうですね。あぁほらネッティ、今日もいい天気ですね。屋敷についたら、テラスでお茶にしましょうか」
いや、何かそんなのどうでもいいって風に流されたんだけど、いいのか、それで。
クインにとっては全くもって良くないようで、あたしのことをぎろっと睨み付けている。こいつの前で呼び捨てにでもしようものならしこたま嫌味を言われそうだ。考えただけでめんどくさい。
「テラスでお茶ってね……」
テラスとやらが何のことかはよくわからないけど、こっちはそれどころじゃない。婚約者のフリがばれないかどうか、それなりに緊張してるのに。
「薔薇園でお茶にしても構いませんよ。ネッティはどちらがお好みですか?」
「どっちだっていいしそんなの。ていうかね、あたしは茶飲みに行くわけじゃないのよ。あんたが一番よくわかってるでしょ」
「大丈夫ですよ。とりあえず屋敷には使用人しかいませんし、そんな硬く考えなくても」
使用人だけって……。いや、それ十分気になるんですけど。
いっそ使用人として雇ってもらった方が楽だったかもな、なんて思う。少なくとも、慣れない靴で足が痛むようなことはないだろうし。これ脱いじゃダメかな。
「どうかなさいましたか?」
「ねぇ、この靴何とかなんないの? さっきまで履いてたぺったんこの靴のがいいんだけど」
「少しはそのような靴にも慣れて頂きませんと。よくお似合いですよ」
「お似合いとかどうでもいいんだけどさ。大体、こんな靴履いてたら走れないじゃん」
「淑女は走る必要なんて無いからいいのです」
「お腹痛い時とかどうすんのよ。下痢の時とか」
にっこり笑った、ローランドの顔がそのまま凍りついた。本当お人形みたい。
「ネッティ」
「何よ」
「今から、レディーらしかぬ発言をした時には、罰金を取りましょうか」
笑ったまま、なんてことを言う奴だ。
「嫌よそんなの! 貰った金は絶対に返さないからね!」
「でしたら気をつけて下さい。レディーという以前に、女性が口にすべきことではありませんよ」
何だそりゃ。文句を言いたかったけど、それで本当に罰金をとられても嫌だから、あたしはぶすっとして窓の外に顔を向けた。
人間なんだから、貧乏人だってお貴族様だって、同じように下痢する時ぐらいあるじゃない。それともレディーとやらは、トイレにも行かないもんなのか?
「……どんなにキレイに着飾ったって、おならぐらいするっつーの」
「ネッティ。銀貨を一枚……」
「あああ、うそうそ! 冗談だから! もう言わないわよ!」
ローランドは眉を寄せたまま、はあっとため息をついた。どことなくローランドとあたしの父さんは似てるとこがあるんだけど、確かにね、ローランドが屁こく姿は想像もできないわよ。お貴族様ってのは特別なものなのかもしれない。おならが出ないって言われても不思議じゃない。
「ローランド様。今からでも遅くはないですから、もう少し人並みな女性を見つけてきてはどうですか? こんな女を連れて行っては、ローランド様の品位が疑われますよ」
「僕の婚約者に対してその口の利き方は何だ、クイン。少し黙ってろ」
いつもよりもきついローランドの声。だいぶ機嫌が悪いみたいだ。屋敷に着くまでちょっと黙ってた方がいいかもしれない。
ローランドは窓枠に肘をついて外を眺める。むっとしている、というよりは、無表情だ。何か考え事でもしているみたいな。そうしていると、普段よりも男の人らしく見える。へらへら笑ってばかりいないで、少しはそうやって真面目な顔をしてればいいのに。
賑やかな通りを、馬車はがらごろと音を立てながら走っていく。お屋敷まではあとどれぐらいかかるんだろう。
馬車の揺れが心地よくて、ついうとうとしてしまう。テラスとやらで行儀良くお茶を飲むよりも、お昼寝の方がずっと気持ちいいだろうなぁ。
「ネッティ、ネッティ」
肩を揺さぶられて、あたしははっと目を開いた。
「え、なに?」
「何、ではなくて。着きましたよ」
一瞬目をつぶっただけのつもりなのに、しっかり眠ってしまっていたらしい。目をこすろうとしたら、その手はローランドに掴まれて、馬車から下ろされてしまった。
「あたし、けっこう寝ちゃってた?」
「三十分程でしょうか。可愛い寝顔を堪能させて頂きました」
「……あぁそう」
どうやら、もう機嫌はすっかり治ったみたいだ。それとも、別にそんな怒ってはいなかったのかな。
「涎垂らして寝るなよ。余計に不細工面になるぞ」
すれ違い様にクインが言う。その背中に、あたしは拳を叩き込んでやった。
「こらこら、二人とも。喧嘩はいけませんよ」
まるで母親みたいなことを言いながら、ローランドはあたしの手を引いて、クインの開けた扉をくぐっていく。
寝起きの頭で気づくのが遅れたけど、まずい、もう本当にお屋敷に着いちゃったんだ。どうしよう、心の準備なんて何もできていないのに、ローランドはさっさと中に入ってしまう。ちょっと待ってよ!
「どうぞ、ネッティ。白薔薇館にようこそ」
優雅に微笑んだローランドの向こうには、文字通り、見たこともない光景が広がっていた。
「―――」
まるで別世界に迷い込んだみたいだ。
どこまでも続く絨毯とか、高い天井に描かれた天使の絵だとか。あんな高い所に、どうやったあんなキレイな絵を描いたんだろう? 弧を描いて続いてゆく階段は、驚くほど広い。あんなに広い階段が必要なほど、人が殺到したりするんだろうか。
もうこの時から婚約者のフリは始まっているということも忘れて、あたしはきょろきょろと辺りを見回してしまった。だっておかしい。まだ屋敷に入ったばかりだというのに、今あたしの目の前に広がる空間だけで、今日後にしてきたばかりのあの宿屋が、すっぽりと入ってしまいそうなのだ。あんな大きな宿屋が丸ごと! 一体どれだけ大きなお屋敷なんだろう、ここは? その上、ローランドはこんなお屋敷をぽんと王様から貸してもらえるだなんて。
「お帰りなさいませ、ローランド様」
急に聞こえてきたその声に、あたしはバネみたいに全身を震わせた。
足音も立てずに、一人の男の人がすぐそこまでやって来ていた。皺一つない黒スーツの、何だかちょっと怖い顔をした人だ。
「ただいま、ハーヴェイ。こちらは僕の婚約者のネッティ。しばらく滞在するから、客室の準備を頼むよ。あと、テラスまでお茶を持ってきてくれ」
「かしこまりました」
それで会話は終わりとばかりに、ローランドはハーヴェイと呼ばれた男の人の前を通り過ぎてしまう。大階段を上がり、その先の長い廊下を勝手知ったる我が家のような顔で進んでゆく。
「ね、ねぇ、今の人……」
「彼はハーヴェイ。この屋敷の管理を任されている者です。まあ、執事のような役割を請け負っていますね。先ほども言った通り、この屋敷も使用人も全て陛下からの借り物です。僕がいきなり婚約者を連れてきても、気にする人は一人もいませんからご安心下さい」
「ハーヴェイさんも気にしてないってこと?」
「ハーヴェイで結構ですよ。使用人をさん付けする必要はありません。えぇ、彼の仕事はこの屋敷を管理することであって、その屋敷の中で僕が何をしようがどうだっていいのです。セシリアの屋敷になればこうはいきませんけどね。基本的にこの屋敷で僕に文句をつけるのは、クインぐらいです」
「お言葉ですが、僕は何も文句をつけているわけではありません」
後ろからついてくるクインが不満をもらす。ドアを開ける時でもない限り、クインは常にローランドの後ろを歩く。どうやら、それが従者の仕事らしい。まあ、主人が落し物でもした時には便利だろうけど。
「じゃあ、小言を言うに訂正しておくよ。おまえは本当に口うるさいんだから」
「うるさいことを言われたくないのでしたら、もう少し考えて行動なさって欲しいと言っているだけじゃありませんか。いつも言っていますけど、僕はあなたの従者なんですよ。なのに隙あらばいつだって僕を置いてお一人で出かけようとなさって……」
「だから小言はいいって、今さっき言ったばかりだよ、クイン」
早速始まったクインの小言に、ローランドは軽いため息をもらしながら、一つの部屋に入っていく。その中もどんどんと通り抜け、たどり着いたここが『テラス』かとあたしは納得する。なるほど、確かに心地よい風に吹かれながら飲むお茶は、部屋の中で飲むそれよりもずっと美味しいだろうけど。
それにしても、本当どれだけこの屋敷は広いんだろう? 階段を上がってから何番目の部屋なのか、数えておくべきだったかもしれない。一人でうろついたら迷子になりそうだ。
「どうぞ、ネッティ」
微笑みながら、ローランドはあたしのために椅子を引いてくれる。二人で歩いてる時にはドアだって開けてくれるし、馬車に乗り降りには必ず手も出してくれる。紳士というのは女性には礼を尽くすものなんだと教えてもらったけど、どうにもこそばゆい。こそばゆいというよりも、むしろ鬱陶しい。人目が無い所でぐらい止めてくれんもんか。
「一息ついたら、屋敷の中を案内しますよ。その頃には客室の準備も終わっているでしょうから」
「あぁ、客室ね……」
こんな立派なお屋敷の客室で、これからしばらくの間あたしは暮らすのか。何だか、自分のことではないような気がして、少し呆然としてしまう。
「客室よりも、僕の寝室の方がよろしかったですか?」
お茶を飲んでたら吹くところだ。
「な、なに言って……!」
「そんな照れなくても。時間の問題ではありませんか。僕はいつでも歓迎しますよ」
何が時間の問題だ。やっぱりこいつの頭はおかしいんじゃないか?
危うくそう怒鳴りつけるところだったけど、すぐにハーヴェイがやって来たことに気づいた。ローランドは、きっとハーヴェイに聞かせるためにそんなふざけたことを言ったんだろう。そうであってほしい。
手際よく紅茶をいれ、ビスケットやケーキやサンドイッチなんかの乗った皿をテーブルに並べるハーヴェイの顔は驚くほど無表情で、ローランドの台詞を聞いていたのかいないのかも、ちらりと伺っただけではわからなかった。黒いスーツをぴしっと着こなして、同じ色の髪は一本も乱れていない。一日にどれだけ櫛で撫で付けてるんだろうと不思議になる。
そんな不思議な空気をまとった、そんでもってちょぴっと顔の怖いハーヴェイは、やっぱり感情の浮かばない顔のままローランドに話しかける。
「ローランド様。陛下からのお手紙が届いておりますが、こちらにお持ち致しましょうか?」
「陛下から?」
尋ね返すローランドは、さして驚いてもいないようだった。国で一番偉い人から屋敷を貸してもらったり手紙が来たり、本当に貴族の坊ちゃんなんだなあと、美味しそうなケーキを眺めつつあたしは思う。早く食べたいんだけど、勝手に食べ始めたりしたら、マナー違反だって後で怒られそうだし。
「はい。一時間ほど前に、使者の方がお持ちになられました」
「そう……返事を書きたいから、書斎まで行くよ。申し訳ありませんが、ネッティ、少し席を外してもよろしいですか? すぐに戻りますので」
「行ってらっしゃい」
「ここの給仕はクインに任せるから、君も下がっていいよ」
そう言うと、ローランドはさっさと部屋を出て行ってしまった。その後にハーヴェイも続いていく。着いたばっかりだっていうのに、忙しい奴だ。
「王様からの手紙だって。何が書いてあるんだろ」
「ローランド様は、それはもう陛下に厚い信頼を頂いているからね。直々のお手紙を頂くなんてよくあることさ。並の貴族じゃ、陛下からの遣いが来ることはあっても、直々のお手紙をもらうことなんてまずありえないことだけど」
「手紙もらってるのはあんたじゃなくてローランドでしょ。何であんたが自慢げに言うのよ」
「主人の幸福は従者の幸福だ。自分の仕える主人が陛下のご寵愛を受けているだなんて、これほど従者冥利に尽きることはないね。ローランド様は本当に素晴らしいお方だよ」
そう思うのなら、少しは小言を減らしてやればいいのに。
「なら、婚約したくないっていうローランドの気持ちも組んでやんなさいよ。主人の幸せがあんたの幸せなんでしょ?」
ビスケットに手を伸ばす。ローランドもいないとなると、礼儀作法なんて気にせず食べれるのだから楽なものだ。口いっぱいに頬張ったビスケットは、ジンジャーの味がぴりっときいていて何とも言えない美味しさだった。
「何も知らないくせに、知ったような口をきくんじゃない」
「そりゃ、あたしは何も知らないわよ。歩き方や食事のマナーなんかは教わったけど、ローランドの婚約については何も聞いてないもん」
テラスの隅に立ったままのクインは、むっと顔をしかめた。少し迷ったような素振りを見せたのは数秒だった。
「プリシラ様と結婚すれば、ローランド様は侯爵になれるんだ。プリシラ様には、他に爵位を継げるご兄弟がいらっしゃらないからね」
「そうすれば、もっとお金持ちになれるの? でもローランドは、もう十分お金なんて持ってると思うけど」
あたしの言葉に、クインはイラっとしたように顔を歪めた。なかなかの可愛い顔がもったいない。
「金金って、これだから貧乏人は嫌なんだ。貴族として本当に大事なのは金なんかじゃない。血筋と爵位だ。ラウルフォード家は名門貴族だ。新興貴族とは格が違う。ローランド様に必要なのは、後は爵位だけなんだ。プリシラ様と結婚すれば、その全てが揃うというのに……!」
悔しげにクインは唇を噛み締める。
爵位もそうだけど、血筋ってのもあたしにはよくわからない。貴族ってだけじゃダメなんだろうか。それがあると無いとでは、一体何が違うっていうんだろう?
こんな大きなお屋敷で暮らして、使用人がいて。毎日美味しい物を食べて。少なくともローランドは、今の暮らしに満足しているようにあたしには見えたけど。
「あんたがそう思うのは勝手だけどさ、肝心なのはやっぱりローランドの気持ちじゃないの? いらないって人に無理やり押し付けても意味ないと思うけど」
「うるさい! 貧乏人が、わかったようなことを言うな!」
貧乏人とこれと、何の関係があるっていうんだ。
むっとしたけど、確かにあたしが口を出すべきことじゃないっていうのはわかってる。決めるのはローランドなんだし。いや、あたしがここにいるってことは、もう決めたってことなんだろう。爵位だとかそんなのは、あたしには関係のない話だ。
あいつも色々と大変なのかもな。のほほんとして見えるけど、あたしのいないところじゃ、クインにも色々言われてるのかもしれない。でも何を言われても、適当に流してそうな気もするけど。
それからあたしがサンドイッチを二切れとケーキを一つ食べ終える間、クインはずっとイライラしたみたいに床を睨み付けていた。だけどあたしが紅茶を飲み干すと、何も言わずにおかわりを注いでくれた。いくらあたしに腹が立っていても、従者としての仕事を疎かにする気は無いらしい。そういうところは、まだ子供なのにすごいなあと思えるのに。
いくら美味しい物を食べていても、辺りの空気が悪いと素直に美味しいとは思えなくなる。早くローランドが帰ってくればいいのに。イライラすることはあっても、基本的にローランドと一緒にいるのは嫌じゃない。というよりも、クインとの関係が悪すぎるんだと思うけど。
しんと静まり返っているから、ドアの開く音はよく聞こえた。そうして、ぱたぱたという軽い足音が続く。
ローランドが帰ってきたのかな? それにしてはこの足音は何かおかしいような……。
「ローランドお兄様!」
飛び込んできたのは妖精だった。
何で羽が生えてないんだろうと、数秒の間、あたしは割りと本気でそんなことを考えてしまった。
目が合うと、その妖精は、ううん、人間の女の子はぱちぱちっと瞬きをする。飛び込んできた張本人が、あたしと同じぐらいに驚いているっていうのはどうしてなんだろう。
「……あら?」
いや、そんな、可愛らしく小首を傾げられても。むしろ、こっちの方が「あら?」って言いたいぐらいなんだけど。
でも、とてもじゃないけどそんなことは言えなかった。何だこの可愛い生き物は。可愛い、可愛すぎる!
ローランドをそのまま女の子にしたらこんな風になるんじゃないかと、そう思えるぐらいには可愛い。天使みたいだ。緩くウェーブのかかったプラチナ・ブロンドに、くりっとした目はキレイな若葉色。小さな顔に、細い身体。それに関しちゃあたしもどっこいどっこいだけど、部屋の中にちょこんと飾っておきたいような、そんな可愛らしさだ。例えるなら砂糖菓子。
「あの……ローランドお兄様がお帰りになったと聞いたのですけど」
見惚れてしまって、数秒、話しかけられているということにも気づけなかった。
「あの?」
「あ、えっと、ローランドはですね、手紙を読みにちょっと今席を外してます」
「あぁ、そうなのですか」
口調がローランドに似てる。そう思って気づく。今この子、ローランドのことを、お兄様って呼んでなかった?
この子、ローランドの妹なんだ。
そう気づけば、少しは緊張も和らぐ。兄妹そろって人形みたいなキレイな顔をしてるんだなぁ。こんな兄妹が生まれるってことは、やっぱりお父さんやお母さんも人形顔してるのかな。
「あの、すぐ戻ってくるって言ってましたから、良かったらそちらどうぞ」
「まあ、ありがとうございます」
妹さんはにこっと笑う。これぞ花のような微笑みと言うんだろう。ローランドと並んだら、辺り一面お花畑になるかもしれない。
「あら、クイン。お久しぶりね。お帰りなさい」
紅茶をいれるクインに、妹さんはにっこりと微笑みかける。ただいまぐらい言えばいいのに、クインは小さく頭を下げただけだった。愛想のない奴。
「お兄様とどこに行っていたの? すぐ帰ると仰っていたのに、一月近くも帰ってこないんですもの。心配してたんだから」
「ローランド様は、仕事でこの所お忙しくされておりますから」
「お仕事お仕事って、そればっかり」
優雅に紅茶を飲んでから、妹さんはあたしに拗ねたような顔を向けた。
「お兄様もクインも、何かというとそればっかり言うんです。私には何も言わずに出かけてしまうし。酷いと思いません?」
「そ、そうですね」
「男の方って、そんなにお仕事が好きなのかしら。私にはちっともわかりません」
あたしにもちっともわかりません。
でもこの一月、ローランドが仕事で出かけてたんじゃないってことはわかってる。だってその間の大半は、あたしも一緒にあの宿屋にいたわけなんだから。もちろん言えないけど。
ローランドも、せめて妹さんにぐらいは言っておけばいいのに。どうやらこの屋敷で、あたしの事情を知っているのは、とても仲がいいとは言えないクインだけみたいだし。こんなんで、上手くみんなを騙せるのかな。
「そういえば、あなたはお兄様のお友達でしょうか? ごめんなさい、まだお名前も聞いていなかったわ」
「あ、えっと、ネッティです」
「ネッティさん、ですか? 可愛らしいお名前ね。私は―――」
その時、足音が聞こえてきて、あたし達は同時に顔を上げた。
妹さんよりも色の濃い金髪が、日の光りを受けてきらきらと輝いている。
「楽しそうですね。僕の分のケーキも残っていると嬉しいのですが」
「ローランドお兄様!」
今までのお上品な態度なんて忘れてしまったみたいに、妹さんは椅子の音を立てながら立ち上がると、飛び込むようにしてローランドに抱きついて行った。
まるで一枚の絵を見ているみたいだ。
あたしは観客。絶対に、この絵の中には入っていけない。
「ただいま。いい子にしてたかい?」
ぎゅっと抱きついてくる妹さんの背をぽんぽんと叩きながら、もう片方の手でローランドはその頭をゆっくりと撫でる。
仲のいい兄妹なんだなぁと眺めるあたしに、ローランドはいつもの笑みを浮かべながら言った。
「紹介するよ、プリシラ。こちらは、僕の婚約者のネッティだ」
多分あたしと妹さんは、同じぐらい驚いたはずだった。
響いた声は、見事に二人分重なっていたのだから。
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名前だけ出ていたプリシラがやっと登場です。
そして、途中ネッティが色々下品ですみません…。
(09.05.30)
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