セシリアの道化師


1.プロローグ
人生何が起こるかわからない。
それでも今わかっているのは、案の定父さんは騙されたんだってこと。
そうしてその父親を、今のあたしは心の中でどつくぐらいしかできないってこと。
……父さんなんか、父さんなんか、今度会ったら頭の毛を全部むしりとって、禿げにしてやる!


「また、ずいぶんと汚らしい娘を連れてきたもんだね」
出会い頭に、それはそれはひどい言いようだ。
普段のあたしなら、そんなことを言われようものなら威勢よく言い返してやるところだったけど、今はそれもできなかった。
とても宿屋とは思えない周りの風景に驚いていたとか、あたしの後ろに立った屈強な男に掴まれた腕が痛いとか、まあ色々と理由はあるんだけど、一番は何より、この女の香水がとてつもなく臭いってことだ。鼻が曲がる!
香水なんてつけたこともなければ、ゆっくり香りをかいだことだってないけど、わざわざ買ってつけるものなんだから、もっといい香りがするものなんじゃないの? 相手の嗅覚を破壊しようとしてるような、この殺傷力ってどうなのよ。あたしの鼻を壊して何がしたいわけ?
「それに、骨と皮しかついてないじゃないか。野良犬の方がまだマシだね。あんたが連れて来る女はいっつもそうだよ。もっと肉のついた女を連れてきたらどうだい?」
野良犬以下って。
そりゃあたしは、今までとても恵まれた生活をしてきたとは―――いや、それどころか、はっきり言って毎日のパンにも困る生活をしてきたけど。だからって、野良犬の方がマシだなんてことを言われたのは初めてだ。
大体、宿屋の裏方仕事で、どうして肉付きが問題になるんだ。
建物自体は普通の宿屋と変わらないけど、妙に薄暗いし、活気ってものがないし、そもそもさっきから一人の客の姿も見てないし……。
いやまさか、そんな。
頭に浮かんだ一つの単語を振り払いたくて、あたしはぶるぶると頭を振る。
でも、できなかった。まるであたしの動きを読んだかのように、男があたしの頭をがしっと押さえたからだった。
「まだ子供だ。ちょっと食わせりゃすぐに肉もつくって」
「なら、もう少し肉をつけてから連れてくるんだね。痩せたガキはもう余ってるんだよ」
「そんなこと言うなよ。汚れてはいるが、なかなかのもんだぞ? それにほら、骨と皮だけってのは言いすぎだ」
そう言うと、頭を押さえていた手が外され、そのまま肩越しにあたしの胸に伸びた。……って。
「何すんのよっ!」
やっと香水の呪縛から解き放たれたあたしは、振り返りざまにそう怒鳴ると、男の足を思い切り蹴飛ばしてやった。
でも、痛んだのはむしろあたしの足の方だったんだけど。
信じられない、信じられない、信じられない! さ、触るなんてもんじゃなくて、思い切り揉みやがった、こいつ……!
「こんなに鼻っ柱が強いんじゃ、客は取れないね」
ほれ見たことか、とでも言いたげな口調で、香水臭い女は言う。
まさか、なんてものじゃなかった。正真正銘、ここは娼館だ。あたしも父さんも騙されたんだ。
だけど幸いなことに、あたしは娼婦にはなれないらしい。それも骨と皮しかない野良犬以下の身体つきで、鼻っ柱も強いから。って、全然嬉しくないことばっかりだけど、でも今は嬉しい! 骨と皮万歳! 一日一食万歳!
「ほら、わかったらさっさと出てくんだね。邪魔だよ」
「そりゃ無ぇだろ? 俺が今までどれだけ女を連れてきてやってると思ってるんだよ」
「何が女だよ。どいつもこいつも痩せっぽっちな小娘だったじゃないか。あたしが欲しいのはね、もっと肉のついた一人前の女なんだよ。あんただって男なら、どんな女が欲しいかぐらいわかるだろ? ガキなんてこっちは欲しくないんだよ」
何か散々な言われようだけど、とにかく今は我慢する。いくら貧乏してたって、身体を売るなんてまっぴらごめんだ。まあ最も、この女の言い方じゃ、あたしは売りたくても売れないっぽいけど。
「なら、下働きでもいいから買ってくれよ」
この男も諦めが悪い。
何より悔しいのは、こんな男にまんまと騙された自分よ。先に騙されたのは父さんだけど。
「あんたも諦めが悪いね。下働きはもういるんだよ。あぁほら客が来た、おどき、邪魔だよ」
そう言って女は、しっしと手を払った。扉が開き、入ってきた客の相手をするために、女は前に出て行く。
「いらっしゃいませ。本日はどんな花をお求めで?」
うわ、すごい猫なで声。
花って、やっぱり娼婦のことなんだろうな。そう表現するところを見ると、やっぱりあたしは娼婦には向いてない。だれがあたしを花に例えるっていうのよ。
「そうですね、なるべく若い子がいいのですが……」
こんな所に来るなんて、さぞかし女の子にもてない、脂ぎったでぶでぶの親父ばっかりだと思ってたから、その声に驚いた。だって、ものすごく若いのだ。その上、聞いてるだけで恥ずかしくなるような、お上品な声色。
好奇心が押さえられなくて、あたしはつい背伸びをしてしまった。女の肩越しに、その客の姿が見える。
薄暗いランプの明かりでもわかるほど見事な金髪に、あたしの視線は釘付けになった。
それに、何だろう。本当に男の人なの? あたしよりもよっぽど可愛い。や、男の人に対して可愛いっていうのはおかしいんだろうけど……何でこんな人が、女なんて買いに来るんだろう。鏡見てりゃ十分なんじゃないの?
あたしは教会なんかに行ったことはないし、神様だって信じてないけど、きっと天使ってのはこんな顔をしているに違いない。
この隙にさっさとこんな所から抜け出しても良かったはずなのに、あたしはその天使顔の男をぼーっと見つめてしまった。見惚れてしまった、と言った方が正しいのかもしれない。
と、あたしの視線に気づいたように、男が顔を向けてきた。
あんなに顔も服も何もかもキレイな人には、あたしみたいな汚れた貧乏人はどう映るんだろう。普段は気にも留めないそんなことが、今は恥ずかしく思えて仕方なかった。何せあたしはこの場では野良犬以下なんだから。
「えぇ、うちには若い子もたくさんおりますよ。髪の色や目の色など、何か好みは?」
「彼女は?」
女なんて選り取り見取りな顔をして、こんな店の常連なのか。いつものやつお願い、みたいに、彼女なんて呼べる娼婦がいるだなんて。
「彼女と仰いますと……」
「えぇ、そこの彼女ですが」
そう言って、男は手でこっちを示した。指で指すんじゃなくて、手の平を上にしてこっちを示す、何ともお上品な所作だ。
だけど、何でこっちを見てるんだろう。あたしは思わず、隣に立った屈強な男を見上げた。男も同じように、ううん、あたし以上に驚いた目であたしを見ている。何なのよその目は。
「あ、あの娘ですか?」
「えぇ。できれば彼女がいいのですが。もう先約が入っていますか?」
「い、いいえ。とんでもない。ですがあの、何もあんな汚れた娘でなくとも……」
「汚れは洗えば落ちるでしょう。何も問題はありません。湯浴みの準備をして持ってきて頂けますか? あとそうですね、何か食べる物もあれば。とりあえずはこれだけお支払いしておきます」
男は懐に手を入れ、何かを女に手渡した。きっとお金だろう。それも、とんでもなく高額な。手元までは見えなかったけど、女の顔を見ていればそんなことはわかる。ぽっかりと口を開けて、受け取ったお金と男の顔を交互に見つめる。
一体どんだけ払ったんだろう。あたしなんか、一日働いたって数枚の銅貨を手に入れるのがやっとなのに。それだって、ほんのちょっとのパンを買ったらおしまいよ。
「さあ、お部屋に案内致します」
これ以上ないほどの笑顔で言った女は、通り抜けざまにあたしの腕をがしっと掴んだ。
「えっ、何よ」
「しっかり旦那の相手を務めるんだよ。少しでもヘマをしてみな、身包み剥いで鞭で叩いてやるからね」
男には聞こえないように、あたしの耳元で女は囁く。とたんに強くなる香水の匂いも、今はあたしの口を塞ぎはしなかった。
「はあ? 勝手なこと言わないでよ。あたしはこんな所で働きたくなんか……」
「逃げられるとでも思ってんのかい? あんたはあたしが買ったんだ。うちの商品になったからには、勝手な真似はさせないよ。こんな棒のような腕で、あの男をのしてみせるっていうのなら話は別だけどね」
真っ赤な唇で、女はにやりと笑う。
あの男、と言うのが、天使顔の客ではなくて、あたしを騙して連れてきた、屈強な男の方だというのはすぐにわかった。振り返れば、男は思わぬ展開に顔を輝かせてる。涎でも垂らしそうな顔だ。そりゃそうよね、さっきまで野良犬以下だって言われてた小娘が、目の前でこれ以上ないほどの上客を掴んでみせたんだから。 さぞかし美味しい展開でしょうよ。このクソ野郎!
「いいかい、旦那に逆らったりしたら承知しないよ。焼き鏝をあてられるのは嫌だろう?」
鞭の上に焼き鏝って。
まさかそんな、と笑えないのが辛い。多分この女は本当にやる。だって、金で人を買うような女だもの。やるったらやる。
怯えの色が走ったあたしを見て、女は満足そうに笑った。鞭も焼き鏝も怖いけど、何より蛇みたいな女の笑みが一番怖い。
「なあに、おまえはただ大人しく、旦那の言う通りにすればいいだけさ。そうすりゃ明日の朝、おまえには銀貨を一枚やろうじゃないか」
えっ。それホントに?
銀貨が一枚でもあれば、あたしと父さん、一月はゆうに食べていける。それも三食付きで。
そんな計算をとっさにしてしまったあたしの腕を引っ張って、女は階段を上り始める。二階はもちろんそういう部屋なわけで。無理! と心が叫ぶのに、あたしは足を止められなかった。逃げたら焼き鏝。いや、そもそもこの場から女一人逃げられるはずがない。 悔しいけど、事実棒のようなあたしの腕じゃ、女の腕を振り払うことすらできないのだ。
絶体絶命って、多分こういうことを言うんだわ。
あぁでも、銀貨一枚か……。世の中じゃ、すれ違った男に無理やり引っ張り込まれて、そこでひどいことをされちゃう女の子だって大勢いるんだから、そう考えればあたしはまだマシな方なのかもしれない。
いやでもやっぱり無理。超無理。何とか受け入れようとしたけどやっぱり無理。ファーストキスだってまだなのに、初恋だってまだなのに、色々全部すっ飛ばしていきなり身体を売るとか無理。せめて好きな人と一度でも経験した後じゃないと絶対に無理。
だって、初めてが金で買われた相手って、それって女としてどんだけ惨めなのよ。
「あ、あのっ!」
「さあ、こちらですよ。一番広い部屋ですわ。どうぞごゆっくり」
もちろん女が話しかけたのはあたしじゃない。足音は聞こえなかったけど、後ろから男もしっかり着いて来ていたらしい。
「えぇ、ありがとうございます」
ありがとうじゃないっつの。そんな上品な笑顔を浮かべて、こいつは今自分が何をしようとしてるのかわかってるんだろうか? 街中でちょっと声でもかければ、お金なんて無くてもついてくる女なんて山ほどいるじゃない。
娼館になんて来なくたって。
それでよりによって、あたしなんかを買わなくたって!
女が開けたドアを、男は颯爽とした足取りでくぐっていく。娼館に来る客なんてあたしは知らないけど、でも絶対に、こんな堂々とした、気品に満ちた足取りで部屋に入るものじゃない。間違っても違う。
「ほら、あんたもお入り」
立ち止まっていたあたしの背中を、突き飛ばすようにして女は部屋に押し込めた。
そしてあたしの背中で、無情にも、その扉は閉められたのだ。


部屋に押し込められて数秒。あたしが真っ先にしたことは、勢いよく窓を開けることだった。
ここが二階なことはわかっている。そのまま飛び降りるのは無理でも、近くに木でもあれば飛び移って……と思ったのだけど。
木なんて一本も生えてなかった。細い裏路地が広がるだけ。ここから飛び降りれば、あたしの痩せっぽっちの腕も足も間違いなく折れるだろう。もしかしたら逃げられるのかもしれないけど、この高さを見ると、とたんにそんな気も失せてしまう。いくら貞操がかかってようが、怖いものはやっぱり怖い!
「あぁ、この部屋はちょっと空気がこもってますからね。換気をした方がいい」
すぐ後ろで声が聞こえた。振り返ると、男があたしのすぐ背後に立っている。そうして、窓枠に手をかけながらあたしに微笑みかける。
近くで見ると、余計にその笑顔が眩しい。何であたしの目の前に、こんなにキレイな人がいるんだろう。しかもそんな人にあたしは買われたって。何かの冗談じゃないの?
お日様みたいに輝く金髪なんて初めて見た。日焼けなんて一度もしたことがないような白い肌も。あたしよりずっと背は高いのに、そのにこにことした顔とか細い身体は、どうも男には見えない。剣なんて腰に下げてるけど、女物のドレスの方がよっぽど似合うんじゃなかろうか。
そんなことをまじまじと考えていたあたしに、男は何かに気づいたように「あ」と小さな声を上げた。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。僕はローランド。今晩はよろしくお願いします」
よ、よろしくお願いしますって……。
何か違う気がするのは気のせい? それともこういう場でも、そうやって挨拶するのが礼儀なんだろうか。あたしには何もわからない。
呆然とするあたしの手を、いきなりローランドは取った。握手でもするのかと見ていると、あたしの汚れたその手にローランドは唇を寄せた。そうして触れた瞬間、あたしは思い切りその手を引っこ抜いた。
「な、何すんのよあんた!」
「挨拶ですが」
「挨拶なら今したでしょ! な、何で手にキスする必要があるのよ!」
さっきは胸を揉まれて、今度は手にキスまでされて。何で男ってこうなのよ。ちょっとキレイな顔をしてると思ったら、どいつもこいつも似たようなことばっかりして!
……あぁうん、そんな男だから、こういう場所にいるんでしょうけども。
「必要性を聞かれると僕にもよくはわからないのですが、とりあえずそういうものだと教わったので、それなりに必要なものだと思いますよ」
からかわれているんだろうか。
よくわからない返事に、あたしは眉を寄せる。そのバカ丁寧な口調が、何だか一気に胡散臭く思えた。
だってそうでしょう。始めから思ってたけど、こいつはこんな場所には似合わない。似合わなさ過ぎる。着ている服もいい物だし、その顔からしてどこか金持ちのお坊ちゃんに違いないのに。
「あんた、何でこんな所に来てるのよ」
「女性が必要だったもので。皆さんそうではないのですか?」
少しきょとんとした顔になる。えぇそうね、皆さん必要で来てるんでしょうね。わかってるけど、その天使も顔負けな容姿でそんなあけすけと言わないでほしい。こっちはキスも未経験な純情な乙女だっつーの!
それなのに、何が悲しくて、娼館で男と二人向き合わなきゃいけないんだろう。これからのことを考えるだけで、背筋が震えそうになった。冗談じゃない。
「あのね、もうお金を払ったあんたにこんなこと言うのは悪いんだけど、あたしは違うの。娼婦じゃないの。だから今からでも違う女の子に代えてもらうのね。大丈夫よ、何も知らないあたしが言うのもなんだけど、絶対にもっと可愛い子がいっぱいるはずだから。若い子だってわんさかいるわよ」
「あなたは、娼婦ではないのですか?」
少し驚いたようにローランドは尋ねる。あたしは大げさなまでに笑って頷いてやる。
「えぇそうなの。全然違うの。無理やり連れてこられただけで、まったくもって娼婦じゃないの。だからね、わかったらさっきの女の人を呼んで……」
「あぁ、やっぱりそうなのですね。もしかしたらと思ったのですが、僕の読みは外れていなかった」
あたしの話を聞いているのかいないのか、ローランドは満足そうに頷き返した。
「大丈夫ですよ。何も問題はありません。娼婦であろうとなかろうと、お金は払ったのですから、今晩のあなたは僕のものです」
花も恥らうような笑顔を浮かべて、ローランドは言う。
って、全然大丈夫じゃない。
「だから、安心して下さいね」
「……そのどこで安心しろっつーのよ! あたしは娼婦じゃないって言ってんでしょ!? 耳の穴かっぽじってちゃんと聞きなさいよこのアホ!」
いつも父親を叱り付けるのと同じ調子で怒鳴ってしまってから、あたしははっと息を呑んだ。やばい。怒らせたかも。
でもそんな後悔は、次の瞬間にはすぐに溶けて無くなった。
ローランドは、ぱっと顔を輝かせてあたしの手をぎゅっと握り締めた。
「アホ! そんな風に言われたのは初めてです。僕のどこがアホでしたか?」
「……は」
こいつ、アホって言葉の意味を、もしかしたら勘違いしてるんじゃないだろうか。
「あ、あんた、今あたしが何て言ったかわかってる? 褒めたんじゃないのよ。思い切り貶したのよ、このアホって」
ローランドはますます嬉しそうな顔になって、ゆっくりと頷く。
「えぇ、もちろんわかってます。いつも賛美されてばかりなので、何だか新鮮で。あぁ、何だかいいですね、人に貶されるっていうのは。すごくどきどきします」
あたしの手が泥とか埃で汚れまくってることなんか、ちっとも気にならないって様子で、ぎゅうぎゅうと握り締めてくる。細い腕に似合わず、けっこうな力でちょっと痛い。
こいつは、アホっていうよりも、ちょっと脳みそが足りない奴なのかもしれない。そう思うと、何だか合点がいく。だからきっと、不釣合いなこんな店に入ってきたのよ。だって探せば、金持ち用の、もっと小奇麗な店だってあるはずなんだから。
うん、きっと、正真正銘のバカなんだ、こいつ。
でも、いくらバカが相手だって、あたしの身が危険なことには変わりない。目をぎらぎらにさせた男よりかは遥かにマシだけど。とりあえず、何とか他の女の子に代えてもらうぐらいしか手は無さそうだ。
「あ、あのねぇ……」
言葉を考えながら口を開いた時、ドアが小さくノックされ、何人もの女が次々と入ってきた。
食欲をそそる香りに、あたしのお腹はとたんに鳴り出す。料理の乗った皿が、何皿も運ばれてくる。美味しそうなお肉の香り。それに温かそうなパンも、飲み物も。あたしが一生の内に食べられたらいいなと望むものが、全て目の前にあるようだった。信じられない。
そして最後に女達が運んできたのは、大きな細長い箱だった。部屋の隅に置くと、そこに桶で次々とお湯を入れていく。あっという間に、細長い箱は熱いお湯でいっぱいになった。
「ありがとうございます」
お礼を言うローランドに、女達は艶やかな微笑みを返す。きっと、この店の娼婦達なんだろう。だれもかれもが身体を隠そうともしない服を着て、盛り上がった胸をこれでもかと言わんばかりに見せ付けている。あぁうん、こんな女達が一人前の娼婦だっていうのなら、あの女があたしのことを骨と皮だって言ったのも頷けるわ。
娼婦達は、ローランドの次にちらりとあたしに視線を向ける。その視線が如実に語っていた。何でこんな小娘がここにいるのよ、と。そんなのあたしが聞きたいっつーの。
多分こいつはバカだから、女の子ならだれでも良かったんじゃなかろうか。さっき一番近くにいたのがあたしだから、あたしに決めたに違いない。そうに決まってる。
あぁでも、今はそんなことはどうでもいいや。
「ねぇねぇ。この料理、あんたが全部一人で食べるの?」
娼婦達がいなくなってすぐに、あたしは我慢できずにそう尋ねた。娼館ってのはただやらしいことだけをする場所なのかと思い切り、こんなに美味しそうな料理が出てくるだなんて知らなかった。
「まさか。一人ではこんなに食べ切れませんよ。僕はあんまりお腹がすいてないですし。あなたはきっと空腹だろうと思いまして」
あたしのこの汚れた恰好を見て、すぐに満足にご飯も食べていないことに気づいたのだろう。
哀れまれたんだとしたって構わない。お腹いっぱいに食べれるのなら、この先のことだって少しは忘れられる。
「今日は朝から何にも食べてないのよ!」
今日はっていうか、いつもそうなんだけど。
食事に突撃かまそうとしたあたしの腕を、ローランドはぐいっと引っ張った。
「何よ、邪魔しないでよ。今更ダメだとか言ったって聞かないわよ。あたしのお腹はもうご馳走を食べる準備満々なんだから!」
「ダメだなんて言いませんよ。でもその前に湯浴みをしましょう。食事は少しぐらい冷めても平気ですが、お湯が冷めては湯浴みになりませんから」
浮かべた笑顔は穏やかなままのに、あたしの腕を引っ張る力は有無を言わせなかった。あたしが非力なだけかもしれないけど。あのご馳走を全部食べつくしたら、こんなひ弱そうな男ぐらい、軽く突き飛ばせるようになるかも。
「嫌よ、あたしはお腹すいてるの。ユアミだか何だか知らないけど、後にしてちょうだい」
「食事は逃げませんよ。さあ、服を脱ぎましょうね」
バカだバカだと思って、油断していたのかもしれない。
は? と口を開けるあたしの襟首に、ローランドは両手をかけた。
そうして次の瞬間、思い切り、何の遠慮もなく、あたしの服を縦に引き裂いた。
「なっ、なななななななあああああああ……っ」
確かに、ここはそういう場所だけど。娼館だけど。
だからって、服を破くか!? いきなり!? 何でボタンを外すって発想が無いわけ!?
あまりのことに、動くことも逃げることもできないあたしに、ローランドは笑顔はそのままに、あっさりとした口調で、ひどいことを言う。
「この服は、洗ってもキレイになるとは思えませんので、処分しましょう」
あたしが、ゆいいつ持ってる服だったのに。
その服が、今は見るも無残な姿になって、あたしの足元にぱさりと落ちた。あたしはこれから、一体何を着て生活すればいいっていうの……? ありえない。信じられない。
容赦の無いローランドの手が、今度は肌着にかかった。また破く気だ。確かに服同様、この肌着だってそりゃあもう汚れたもんだけど。この前洗ったのがいつなのかなんて覚えてないぐらいだけど。
だからって、いくらなんでも肌着まで破かれたら困る。いや困るなんてもんじゃない。
「待って! 待ちなさいってばこらっ! あ、あんた、自分が何してるかわかってるわけ!?」
「えぇ、もちろん。湯浴みをするためには、服を脱がさなくてはならないでしょう」
脱がすっていうか、破かれてるんだけど。
「大丈夫ですよ。僕が責任もって、きちんとキレイにしてさしあげますから」
「待っ……」
あたしの制止も虚しく、天使の顔をした悪魔は、躊躇うことなくあたしの肌着を引き裂いた。
初対面の男に素っ裸にされたあたしは、多分今までの人生で一番の悲鳴を上げたはずだった。
いつかこいつぶっ殺す、と胸に硬く誓いながら。
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エイプリルフール仕様の時は、プロローグと1話に分かれていたのですが。
ちょっと短いかなーと思って、繋げてプロローグにまとめました。
テンションの高い主人公と、飄々としてる精神的ドMの話です。
(09.04.01)
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