セシリアの道化師


1.湯浴みと婚約者
生まれてこの方、あたしは自分の父親以上に情けない男を見たことがない。
「……父さん、今、何て言ったわけ?」
その声は、我ながら、年頃の女の子とは思えないほどドスのきいたものだったかもしれない。
現にあたしの前で、ひょろひょろの身体をした(人のことは言えないけど)父さんはぶるりと震え上がった。実の娘にここまで怯える父親ってのもどうなのよ。
「で、でもねぇ、ネッティ。父さんは人助けをしたんだよ」
ネッティっていうのはあたしの愛称。と言っても、そう呼ぶのはもう父さんしかいないんだけど。
父さんがあたしをその愛称を呼ぶ時は決まっている。
あたしを甘やかす時と、そして、機嫌を取ろうとしている時。
「父さんはね、困ってる人を放っておくことができないんだよ」
「そりゃあご立派なことよね」
「そうそう。立派なことなんだよ」
あたしのあてつけにも気づかずに、父さんは少し安心したように微笑む。笑うとえくぼができて、あたしみたいなでっかい子供がいるなんて見えないほど若く見える。
人の良さが顔全体に表れているような人だ。人畜無害というか。だからこの辺りの貧民層でも、父さんはすこぶる受けがいい。
そんな父さんの血を引きながら、どうしてあたしはこんなに気が強いんだと、周りからはよくそう言われるけど。
こんな父親だからこそ、あたしの気が強くならざるを得なかったのだと、あたしは声を大にして言いたい。
「あぁそう。困ってる人がいたから、やっとの思いで見つけた荷物運びの仕事を、その人に譲ってやったってわけね。しかもご丁寧に、今日の賃金まで分けてやって」
「だ、だってねぇ。その人、本当に困っていたんだよ。昨日から何も食べていないっていうし、家には子供もお腹をすかせて待っているなんて泣きながらに言ってね……もう父さん、可哀想で可哀想で」
思い出したのか、ぐすっと鼻をすする。父さんの同情を引くなんて、三歳の子供を騙すよりも簡単だ。
米神がぴくぴくと動く。もう、どうしてくれようか、この人。
「父さんにも、あたしっていう、お腹をすかせた子供がいるはずなんだけど?」
今にも殴りかかりそうになる腕を必死に押さえつけて、あたしはにっこりと笑ってみせる。米神どころか、頬もぴくぴくと引きつっていて、このままじゃ顔中が痙攣でも起こしそうだ。いっそそのぐらいすれば、父さんも懲りてくれるんだろうか。
「あぁそうだね。でもほら、ネッティはこんなにも元気じゃないか」
ねぇ? と同意を求めるように、父さんはにっこりと微笑む。
確かにあたしは元気よ。ろくに食事だってしてないけど、寒い冬だって病気一つしないぐらいには元気だ。
だけど、うちが貧乏なことにも、あたし達が毎日お腹をすかせてることにもかわりはない。大体、仕事を無くして、明日からどうしろっていうのよ……?
「健康第一、元気で何よりじゃないか。お金なんて、多少無くたって人間どうにでもなるものなんだよ」
ぽんぽん、と、小さな子供にするかのように、父さんはあたしの頭を撫でる。
この、無駄にポジティブな考え方に、頭がくらくらとする。
ううん、これはポジティブなんかじゃないわ。バカだ。バカなのよ。だって、現実をちゃんと認識できてたら、それこそ多少でも考える頭があれば、そんな台詞は絶対に出てきっこない。
「多少無いどころか……手元に銅貨三枚しかないくせに、どの口がそんなこと言うわけよっ!?」
明日の分のパンを買えば、もうこのお金だって無くなるっていうのに!
「父さんのバカーっ!」
「うわ、ネッティ、ちょっと止め……」
我慢できずに、あたしは父さんに殴りかかった。


*


どうやらあたしは、夢を見ていたらしい。
ううん、夢っていうのとも違うのかもしれない。朦朧とする意識の中で、ぼんやりと思い出していたのは、つい数日前の父さんとのやり取りだ。
父さんが仕事を無くすのも、それに怒ったあたしが殴りつけるのもいつものこと。日常茶飯事とも言えるそんな光景を、あたしは今ぼんやりと思い出していた。妙に懐かしく感じるのはどうしてなんだろう。
「あぁ、やっとキレイになりましたね」
疲れた声で、ため息をつきながらそう言うのは一人の男。
それはわかるんだけど、あれ、こいつの名前って何だったっけ……。
どうにも頭がぼんやりとして仕方ない。三日間、何も食べなかった時にも、こんな風になってたことを思い出す。思考があちこちに飛んでいく。父さんのこと。仕事のこと。そして自分のこと。
「あれ、大丈夫ですか? もう湯浴みは終わりましたよ」
大声を上げたことなんて一度も無いんじゃないかって思えるような、そんなのほほんとした声。
あたしの暮らす貧民層じゃ、間違っても聞かない声だ。だって、ちょっとでも油断をしようもんなら、持ってたパンを通りすがりの子供に奪われるような土地なんだから。油断大敵。他人を見たら泥棒と思え、とまではいかないけど、でも似たような覚悟はみんな持っている。
そんなあたしの前に、どうしてこんなのほほんとした声の男がいるんだろう。
「あぁ、もしかして上せましたか? すみません、人に湯浴みをさせたのはこれが初めてだったもので……」
何で謝ってくるんだろう。
疑問に思うあたしの身体が、ふわりと宙に浮く。あれ、と思っている間に、ふわふわの布に包まれる。そうして、ソファに上に寝かされる。
「大丈夫ですか?」
心配そうにあたしを見つめる瞳は、珍しい琥珀色をしていた。
何かの宝石みたいな色。間近で宝石を見たことなんて無いけど、きっとこんな風にキレイに違いない。
ぼんやりとした頭で、あたしはぼんやりとその瞳を見つめていた。だって、ものすごくキレイだったのだ。沈みかける夕日と同じぐらいには。
「えぇと、こういう時ってどうすればいいのかな。冷やした方がいいのかな。氷? おいクイン、ちょっと氷を……って、そうだ、クインは連れてきてないんだった」
その場をうろうろとしながら、男は独り言をもらす。落ち着きのない奴。
人の服を破いて、無理やり熱いお湯の中にぶち込む割には、どこか足りないというか何と言うか……。
そこまで考えて、はた、とあたしは気づいた。
そうだった。
「あんたねぇっ!」
「うわっ」
いきなりがばりと身を起こしたあたしに驚いたのだろう、ローランドは声を上げた。
でも、それと同時に、あたしはまたぱたりとソファに倒れこんだ。頭がくらくらとする。ぐるぐると回る視界に耐えられなくて、ぎゅっと目を瞑った。病気知らずのあたしなのに、何でだろう。
「あぁ、びっくりした。急に声を出すから……でも、そんな元気な声が出るところを見ると、もう大丈夫なようですね?」
ローランドがあたしの顔を覗き込んでいるのが気配でわかる。でも、返事なんてできそうになかった。頭の中がぐらぐらと揺れていて、とても声が出ない。
でも、もう意識はしっかりしている。
こいつに無理やり服を脱がされ……もとい、破かれたことも、熱いお湯の中にぶち込まれたことも、そんでもって、文字通り身体中をごしごしと洗われたことも、もうすっかり思い出した。
まったくもって、思い出したくない記憶ではあったけど。
だって、年頃の女の子が、何が悲しくて男に素っ裸を洗われなきゃならないのよ!
叶うことなら、今すぐぶん殴ってやりたい。泣いて謝るまでたこ殴りにしてやりたい。
この眩暈が治まったら、まずそのおキレイな顔に一発決めてやる。
そんな覚悟を決めたあたしの額に、何か冷たい物が乗せられた。びっくりして、跳ね起きようとしたあたしの肩を、ローランドがそっと押さえつける。
「多分、冷やした方がいいと思いますので」
目を開けても、今度はくらくらとはしなかった。動いたらどうかはわからないけど、じっとしてる分にはもう大丈夫みたい。
大人しくしてて下さいね、と、その琥珀の瞳が言っているような気がした。あたしの額に乗っているのは、冷たい水で絞った布だ。右手で触れて、そう確かめてから身体の力を抜いた。額が冷えて心地よい。
「すみません。あなたが上せていることにも気づかなくて」
「上せるって、何?」
声を出しても大丈夫。
一々そう確認している自分が、何だか一気に弱くなってしまったようで、情けない反面おもしろくもあった。何せあたしは、今まで一度も身体が弱くなってことなんてないものだから。
あたしの問いに、ローランドは驚いたように目を少し大きくした。天使みたいに整った顔がそんな表情を浮かべてるってのは、けっこう滑稽かもしれない。
「熱いお湯に長時間浸かっていると、上せるものなのですよ」
「だからその、上せるってなに? 色っぽい姉ちゃんに上せるとかとは違うんでしょ?」
「色っぽい……何と言いましたか?」
質問に質問で返されちゃ、会話が続かない。
お育ちのいいお坊ちゃんには、貧乏人の言葉は通じないのだ。
「あたしの話はいいから。あんたの言う上せるって何なのか教えてよ」
「熱いお湯に長時間使っていると、上せるものなんです」
「それさっきも聞いたから」
「えぇと……頭痛がしたり、眩暈がしたり、とかでしょうか」
考えながら、といった風にローランドは言う。でも、その症状は今さっきのあたしにぴったり当てはまる。じゃあ、さっきのが『上せた』ってことになるんだろう。へぇ、とあたしは心の中で頷く。
「でも、もう大丈夫そうですね。冷たい水でも飲みますか?」
喉はからからだ。
頷いてから、起き上がろうとしたあたしの身体を、ローランドの腕がさっと支える。
別にそんな弱々しい病人じゃないんだけど……恥ずかしいから止めて欲しい。起き上がったと同時に、思わずちょっと距離を空けてしまう。だって、何かこそばゆいんだもん。
ローランドは、そんなあたしに気づいた素振りもなく、近くにあった水瓶からコップに水を注いでいる。
今更ながらに、それは不思議な光景だった。だって、こんな身なりのいい、ついでに顔もいい金持ちの坊ちゃんが、一文無しの貧乏人のあたしに水を注いでくれているだなんて。おかしな夢としか思えない。
だってねぇ、着てる物からしてこんなに違うのに……と、自分の身体を見下ろしたあたしは、そこで現実を思い出した。
着てる物も何も、今のあたしは、布一枚しか巻いてない。
それもこれも、こいつの所為だ。
「どうぞ。喉が渇いているでしょう?」
「えぇ、喉は渇いてるんだけどね……」
ふつふつと、こいつに対する怒りがこみ上げてくる。
どうしてくれようか、と睨むあたしに、ローランドはにっこりと微笑む。朝日も霞むような微笑みだ。
「なら、どうぞお飲み下さい。よく冷えた水ですよ」
「ど、どぉもありがとう」
「いえいえ。こちらこそ」
何がこちらこそなんだか。
本当調子が狂う! 殴りたいのに、この人の良い、天使みたいな顔を見てると、殴るに殴れない!
「あ、あのねぇ。あんた、何だって人にあんなことしてくれたわけよ!?」
殴りたいのに殴れない、そんな疼く右腕を押さえながら怒鳴ったあたしに、ローランドはしれっと答えた。
「汚かったので」
そりゃ、自分でもわかってたけどね。
面と向かって言われると、これ以上にキツイ言葉ってないかもしれない。えぇそうよ、あたしは汚いわよ。何せ野良犬以下なんですからね。
言葉を無くすあたしに、にこにこと微笑みかけながら、ローランドは満足そうに言う。
「でも、努力の甲斐あって、ずいぶんとキレイになりましたよ。えぇ、それはもう見違えるほどに」
言いながら、机の上にあった鏡を持ってくる。
あたしに向けたその鏡には―――あたしじゃない女の子が映ってた。
「えっ、えっ、えっ!?」
「ね、すごくキレイになったでしょう?」
「あ、あたしの髪、こんな色だったんだ!?」
「……驚くのはそこなんですか」
だって、今まで土色としか思ってなかった、あたしの髪が。
「何か変な色になってる!」
「赤銅色、でしょうか。いえ、それよりは金に近い色ですね。不思議な色ですが……とてもキレイだと思いますよ」
ふわりと微笑んで、ローランドは、土色じゃなくなったあたしの髪を手にとった。そうして、その髪に唇を寄せて……って。
「何するのよ!」
慌ててあたしはローランドの手から自分の髪を抜き取った。少し痛かったけど、そんなことはどうでもいい。
「すみません。キレイだったもので」
悪びれた様子もなくローランドは言う。
手にキスしたり、髪にキスしようとしたり……男って、どうしてこうろくでもない生き物なんだろう。
呆れるような腹が立つような。世の中に、まともな男なんて存在してるんだろうか。少なくとも、あたしはお目にかかったことがないけど。
「あたしをキレイにするだけなら、何もあんたが洗わなくたっていいはずでしょっ?」
思い出すのも恥ずかしい。
父親に洗われるのだって恥ずかしいのに、こんな初対面の、年の近そうな男にだなんて……。
全部見られた。そう思うと、不覚にも涙が零れ落ちそうになる。やだ、こんな奴の前で泣くだなんて。
「えぇ、できるなら湯浴みの手伝いは女性にして頂くのが一番だとは思ったのですが……でも、ここには他に女性と言うと、その、商売をされている方しかいませんし。湯浴みの手伝いをさせるためだけに呼ぶとなると、色々と気まずいことになるかと思いまして……」
困ったように、ローランドは頭をかく。
信じられないほどおキレイな顔をしながら、そうした様子はひどく普通の人みたいで、何だかおかしい。だって、困った時の父さんとそっくりなんだもの。
「すみません。あなたがそこまで嫌がるとは思っていませんでした」
そう言って、ローランドは。
「申し訳ありませんでした」
あたしに向かって頭を下げた。
何が起こったのか、あたしは一瞬わからなかった。
「えっ、ちょ、ちょっと」
こんな時、どうすればいいんだろう。
金持ちの坊ちゃんに頭を下げられたら、一体どうすれば?
あたしにはそんなことはわからない。ただ焦って、ソファから飛び降りて、ローランドの傍に駆け寄るだけだった。
「あ、あの、確かにそのものすごく嫌なことは嫌だったんだけど……えぇと、あの、そういうのはいいから。あの、謝ってもらいたいわけじゃないし」
「そうなのですか?」
不安そうにローランドは顔を上げる。恐る恐る、といった表現がまさにぴったりな感じで。
「うん、あの、謝るとかはしなくていいから」
「じゃあ、どうすれば良かったのですか?」
そんな生真面目に尋ねられても。
別にあたしは謝られたかったわけじゃない。むしろこう、一発殴らせてほしかったっていうか……それにしたって、その場の状況とかがあるし。こう、もっと悪人面した奴だったら、容赦なく殴りかかれたんだけどな。そんなことは言っても始まらないけど。
思い返してみれば、あたしの身体を洗ってる時も、こいつはエロい顔なんてちっともしてなかった。むしろ、焦げた鍋の汚れを洗い落としてる時のような、そんな顔をしてたなあなんて思い出してしまって。
ってことは、こいつにとって、素っ裸のあたしは汚れた鍋と同じってことなんだろうか。それも何だか女の子としてものすごく複雑なんだけど……。
「……もういいわよ」
拍子抜けした気持ちで、あたしはふうっと息をつく。
顔がいいって本当に得だわ。ぶっさいくな男だったら、遠慮なく股間に蹴り食らわしてやるところだったのに。
「許して下さるのですか?」
「えぇ、許して差し上げるわよ」
「ありがとうございます」
あたしの嫌味にも気づかず、ローランドは微笑んでお礼を言う。
素直っていうか単純っていうか……今時、五歳のガキだってもっと人の言うことを疑うって言うのに。こいつにそういう考えは無いんだろうか。
「ところで、あなたは一体いつから湯浴みをしてな……いえ、やっぱりいいです」
どこか遠い目をしながら、ローランドは途中で言葉を飲み込む。
その判断は賢明だ。水浴びなんかはたまにしてるけど、あんな熱いお湯で、皮がむけるほど身体をごっしごっしと洗われたことなんて今まで一度もない。そんなことを聞けば、きっと毎日でもあんな熱いお湯に浸かってる金持ちの坊ちゃんは、目をむいて驚くんだろうな。
「とにかく、許してもらえてほっとしました。それで、一つお伺いしたいことがあるのですが」
「何よ?」
「今晩だけでなく、明日からもしばらくの間、あなたを傍に置きたいと言った場合……僕は、あなたにいくらお支払いすれば宜しいのでしょう?」
「…………は」
「夜だけでなく、朝から夜までずっと……その、一日中傍にいて欲しいのですが」
ぽかん、と、あたしは口を開けていた。
だって、今、こいつは、何て言った?
「……あたしは、娼婦じゃないんだけど」
それこそ、頬を引っ叩いてやっても良かったのかもしれないけど。
いかんせん、驚いてしまって、あたしは呆然とした声を返すのが精一杯だった。
「えぇ、もちろん、娼婦としてお願いしているのではありません」
呆然とするあたしに、ローランドは続けて言った。
「娼婦ではなく、婚約者として、傍にいて欲しいのです」
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主人公の名前が出ました。愛称ですが。そのうち本名も出る予定です(そりゃあな!
ネッティとローランドの会話が楽しすぎて仕方ありません。
(09.04.17)
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