ブラッディ・マリーはいかが?


...11話
「先生って、いつもこういう所に来て遊んでるんですか?」
まだ帰るには早い時間だったから、ぶらぶらとショッピングモール内をぶらつくことにした。そうしたら、ソフィーはそんなことを尋ねてくる。
「別にいつもってわけじゃないけど。男同士だったらあんまり来ないしね」
「じゃあ女の人と来てるんですか」
「いや、えっと……」
つまりまあその通りなんだけど、そこで素直に頷くのは抵抗があって、曖昧な返事になってしまう。
そこでソフィーが、ちょっとは気になる素振りとか、せめて拗ねるフリでもしてくれればこっちもまだ対応があるっていうのに、いたって普通に淡々と、事実をありのままに言ってますって様子でしゃべるからいけないんだ。言い訳するのも頷くのもどっちもできなくなってしまって。
「ソフィーだって、友達と来たりするだろう?」
「……あたしは別に」
そういえばソフィーは今日、コンビニに行くような格好をしていて妹に止められたんだっけ。こんな洒落たショッピングモールで買い物をしてたらそんなことを言われるはずは無いか。
「買い物するの、嫌いなの?」
「そういうわけじゃないですけど」
一応ソフィーだって女の子なんだから、まぁそりゃそうか。
僕の知ってる女の子は、みんなお洒落でショッピングが大好きで流行を追いかけるのに夢中で、見ていてちょっとバカだなぁと思えちゃうような辺りが可愛くて、そんな子達ばっかだったから、つくづくソフィーは変わったお嬢さんだなぁと思えてしまう。
どっちかって言うと地味目だけどよく見れば可愛いし。クラスでも何人かの男から影でこっそり想われてそうなタイプだよなぁと思って、ちょっと微妙な気持ちになる。ソフィーが普通の女の子みたく、彼氏なんて作って放課後に制服のままデートする姿なんて想像もできない。大体彼氏ができたとしても、吸血鬼だってことをばらせるのか? 「あたし実は吸血鬼なの」なんて言われた日には、大抵の男は冗談だと思って笑い飛ばしそうだ。
……あれ、そう考えたら僕って、かなりすごい男じゃないか? あんな簡単に受け入れちゃってさ。やっぱ器の大きさが違うのかな。
「じゃあ、たまにはこういうとこで買い物するのだっていいじゃないか」
「……そうですね」
ちっともそうは思って無さそうな顔。
隣を歩いてる女の子にそんな顔をされるのは心外だなぁと思ったら、流すのが嫌になった。何でそんな顔をするんだ。
「浮かない顔してくれるなぁ。何が気に入らないっていうのさ」
「似合いませんから」
少しムキになったような声だった。
「は? 何が? こういうとこで買い物するのが?」
「お洒落な服を買ったって、どうせあたしには似合いませんから」
ソフィーの歩調が速くなる。元々ソフィーの歩幅に合わせてゆっくり歩いていた僕だから、ちっとも苦にはならない。ただ驚いただけ。
何で急にソフィーが怒るのかがわからない。買い物をするかしないかってだけの話じゃないか。今の会話のどこがソフィーの気に障ったっていうんだ。
「何もそんなこと言ってないじゃないか。今日の服だって似合ってるよ」
可愛いって、確か今日も会った時に言ったはずだ。ソフィーだって喜んでたように見えたのに。
「これは妹のですから」
振り返って、キっと僕を睨み付けるようにしてソフィーは言う。
あんまり見ないソフィーのそんな顔。何で睨まれなきゃいけないんだ。わけがわからない。
「妹さんのだっていいじゃないか。似合ってるんだから。姉妹で服の借りっこなんてさ、よくあるものなんじゃないの?」
やったことないから知らないけど。
「あたしには似合わないからいいんです。こんな所に買い物にだって来ませんから」
頑固なまでの声音で言われて、僕は首を傾げる。
一体どうしたんだか。普通の女の子ならこうするだろうなって行動が、ソフィーには全く当てはまらないから本当に困る。どこまで個性的なお嬢さんなんだ。買い物に来て女の子を怒らせたことなんて、他の女の子についつい目が行っちゃった時ぐらいなのに。「どこ見てるのよ!」って、その台詞はもう何十回と聞いたことがあるけど。
「似合わないって、こんな所で買い物したことないんだろう? なら似合うも似合わないもまだわからないじゃないか」
「わかるわよ! ……あたしはレティーとは違うもの」
レティー?
そういや前もどっかで聞いたことがあるような名前。首を傾げると、ソフィーは大声を出してしまったことを少し恥じるような顔で、声のボリュームを落としてから「妹です」と付け加えた。
「あぁ、その服の持ち主の? サイズもぴったりみたいだし、年近いんだ」
「年子だもの」
「ふぅん、そっか」
何となく事情が飲み込めた。
兄弟なんて元々比べられやすいもんだ。僕だって姉のミーガンと比べられることなんてよくあった。大抵は僕が何か問題を起こした時に。ミーガンはそつのない(僕に言わせれば面白みのない)優等生だったから。
年子で姉妹だったら、多分もっとそうなんだろうな。親や周りに悪気なんてないんだ。ただ、無意識の内に比べてしまうだけ。そんなことをしたって意味はないのに。悪気がない分厄介なんだ。
「レティーはすごい美人なの」
聞いてもいないのにソフィーは教えてくれる。僻んでいるわけじゃなさそうだけど、寂しそうな声。
「そりゃ、それはあんたを見てればわかるけど」
「どうしてよ」
「ソフィーだって可愛いよ。妹さんだったら多少は似てるものだろ?」
「似てないわよ。レティーは黒髪だもの。背だって高いし、あたしよりもずっと大人っぽいわ。一緒に歩いてると、レティーの方が年上に見られるもの」
あぁそういえば、中高生って大人っぽく見られたがる年頃だっけ。
いざ大人になったら、女の人なんてとくに、少しでも若く見せようと見せようとしてるのに。僕の周りはそんな女ばっかりだ。
背伸びしてるのが子供なんだよと思って口元に笑みが浮かぶ。それをソフィーに見られて、ソフィーの眉がますます寄った。
「そうせ先生にはわからないわ」
「いやー、そりゃ僕は女子高生でもないし年子の美人な妹がいるわけでもないからなぁ……」
「ふざけないで下さい」
そんなつもりはなかったんだけど、なぜかソフィーに叱られた。
女子高生に叱られる保険医ってどうなんだろうと思いつつも、まぁ別にいいかと思い直す。仕事に命かけてるわけでもないし、怒ってるソフィーは不思議と生き生きして見える。今のソフィーにそんなことは言えないけど。
「まぁいいからさ、とりあえずじゃあ服見に行こうよ」
「あたしの話ちゃんと聞いて……」
「聞いてたよ。でも別にそれと服買うことは関係ないだろ? そんなこと気にしないで、欲しい服があったら買えばいいし、そうじゃなくてもただ見てるだけでも楽しいってもんだろ。女の子ならとくにさ」
優等生にありがちなことだなぁと思って僕はソフィーを眺めていた。
何も難しいことなんて考えなくてもいいのに、必要以上に考え込むんだ、きっと。ミーガンもそうだった。だれに何を言われたわけでもないのに、あれはダメこれもダメって自分に言い聞かせてばっかりで。自分で自分を追い詰めて何がしたかったんだろう。多分そんなことも忘れてるんだ。今のソフィーみたく。
それともそれって、しっかり者の長女の体質なんだろうか。だったらずいぶん損な体質だ。
「可愛い服いっぱいあるから見ていこうよ。せっかく来たんだから何か買っていけばいいしさ。あぁでも、あんたセンス悪そうだから僕が選んであげようか」
何せコンビニに行く格好だもんなぁと呟いたら、ソフィーは顔を真っ赤にした。
「センス悪いは余計です!」
「いやいや、別に遠慮しなくていいってば。僕がちゃーんとあんたに似合うの見立ててあげるからさ」
「先生!」
ムキになって叫ぶソフィーに僕は思わず吹き出した。
それから一時間ほど色々な店を見て回ったけど、結局ソフィーは何も買わなかった。店員に話しかけられると挙動不審になっていたから、本当にちょっと洒落た店で買い物をしたことなんて無いらしい。天然記念物だな、と僕はそんな様子を眺めながら思っていた。
見て回るだけだったけど、十分ソフィーは楽しそうだったから、今度来た時には何か買ってあげてもいいなぁなんてことを考えていたんだけど。
今度っていつだろう。
―――そもそもそんな機会が訪れるのかもわからないのに?





見慣れた道を走る。
ソフィーは待ち合わせをしたバス停の所でいいと言ったけど、どうせ近くなんだからと助手席からナビを受けてソフィーの家まで車を走らせた。
僕の家から歩いて五分といったところ。近所ではないけどそれなりに近い場所。でも住宅地のど真ん中だから、近い割りには今までこの道に入ったことなんて無かった。普段車を走らすのはもっと大きな通りだから。こんな小道、いつ子供が飛び出してくるかわかったもんじゃない。
「今日は付き合ってくれてありがとね」
せっかくなら夕飯も一緒に食べて行こうと思ったのに、家に帰って作るからいいと言われてしまった。多分、僕が奢ることがわかっていたからだ。昼食(と言うには遅い時間だったけど)の会計の時にも微妙な顔をしていたから。
「いえ、あたしの方こそ。ありがとうございました」
そんな風に返事をされると、何だか妙な感じだ。半日遊んだにしてはずいぶん堅苦しい返事じゃないか。
また誘って下さい、とでも言ってくれれば嬉しいのに。大抵の女の子はそう言ってくれる。デートの終わりに次に約束を取り付けられることだってざらにある。あぁわかってる、ソフィーにそんなことを期待するのは無駄だって。そもそもデートなんかじゃない。僕が無理やり誘って遊ぶことになった。ただそれだけ。
良かったらまた遊ぼうね、なんて、どの女の子にも言ってる台詞。そうじゃなくても、社交辞令としてだって言う台詞だと思う。良かったらまた。でも今、そんな台詞をソフィーに言うことができない。家の前に車を止めて、でも僕のそんな気配を察しているのかソフィーはシートベルトを外そうとしない。
「……先生?」
もう暗い車内で、首を傾げて見上げられるとちょっとどきっとする。
「あぁ、えっと」
良かったらまた。
暇な時にでも声かけてよ。
……あぁ、無理だ。ダメだ。さりげなさを装って言うなんてことができない。いつからこんな情けない男になったんだ、僕は。
「うん。楽しかったなって。若い女の子と遊ぶのっていいね」
「先生、その発言てなんかおじさん臭いですよ」
「え、ひど! 僕まだ二十七だよ! あんた達と大して年だってちがわないよ!」
「十歳近く離れてればずいぶん違うと思いますけど」
「八十歳と九十歳だったら全然ちがわないじゃないか。ひとくくりでご老人だろ? 差別だよねそれって」
こんなくだらないことならいくらだって滑り落ちるのに。何て役立たずな口なんだか。
ひとしきりソフィーは笑った後に、ぎゅっと鞄を持ち直した。あぁ、今日はもう終わりか。そう思ってひどく自分の中でテンションが落ちた。おかしい。他の女の子と遊び終わった後は、さあ帰ってビールでも開けようかなとか、そんなことを考えていられたのに。
「じゃあ、先生」
さよなら、の言葉を聞くのを少しでも遅らせようなんて思ったわけじゃない。
時間を稼ごうなんて思ったわけじゃ。ただ、その瞬間に思い出した。大事な―――ソフィーにとっては大事なことを。
「あのさ、ソフィー」
シートベルトを外したソフィーの腕を軽く掴む。その細さにびっくりする。学校がある日は毎日顔を合わせているのに、そういえば腕を掴んだことなんて数える程しかないんだ。だって触れる理由なんて無いから。
「先生?」
「いや、その。帰る前に、食事、しなくていいのかなって」
レストランでパスタを食べたけど、僕が言いたいのはそうじゃないってことにソフィーだって一瞬で気づいたはずだ。
一瞬。
その一瞬で、ソフィーの表情が見る間に変わった。
僕としては親切心―――なんておキレイなものではないけど。それでも一応はソフィーのためを思って言ったはずだった。ソフィーはまだ自分から、『食事』をさせてくれなんて言えないだろうから。まだ抵抗感があるらしいソフィーに、だから僕の方から言い出しただけのこと。
でも言い出したことを即座に僕は後悔した。
「……そのために、今日あたしを誘ってくれたんですか」
じゃあ行かなければ良かったと言外に言われた気がした。
「ちがう、そうじゃないよ」
「休日まで先生を付き合わせるのは申し訳ないですから、もうこんなことはしないでくれて結構です。別にそれで死ぬわけじゃありませんから。今日かかったお金も、学校で会った時に返しますから」
硬くなったソフィーの声に僕は慌てた。だからどうしてそうなるんだ。
「わざわざすみませんでした。迷惑かけて」
「違うって言ってるじゃないか!」
思わず声を張り上げる。狭い車内だからこれ以上ないほどよく響く。ソフィーが黙りこんで、次の瞬間にもう辺りはしんと静まり返る。居心地の悪い沈黙だった。どうして最後の最後でこんな空気になるんだろう。
「……僕だって、別にそこまで暇人じゃないんだ。あんたに食事をさせるためだけに映画に行ったりなんかするもんか」
「だって、じゃあ」
「ただ遊びたかっただけだよ。それだけの理由であんたを誘うのはそんなに不思議なこと? それでついでに、食事をさせるのは悪いことなの?」
正直言って、どうしてソフィーがここまで過剰な反応を示すのか僕にはわからない。
まだ『食事』に慣れていないことは見ていればわかるけど、それだって自分の体調に関わることなんだ。ここで僕から血を吸っていた方がいいってソフィーにだってわかるはずだ。明日も明後日も学校は休みで、次に僕らが会えるのは明々後日になるんだから。
そんなのは本当、ちょっとでも考えればわかることで。とくにソフィーは、貧血でばたばたと倒れてたのは、本当につい最近のことなんだから。
ソフィーはぎゅっと膝の上で握ったこぶしを見つめてしゃべらない。何を考えているのか僕には想像もできない。吸血鬼の女の子の思考回路なんて知るもんか。
「もう少しあんたと仲良くなりたいなと思って誘ったんだよ。学校では毎日会ってるけど、それじゃ仲良くなるのだって限りがあるじゃないか。それしか考えてないよ。でも、せっかくこうして休日に会ってるんだから、それならついでに食事をしてったっていいじゃないか」
どうして血を吸われる側の人間が、こんなに必死になってるんだろう。普通逆じゃないか?
「いいじゃないか。ちょっと吸うだけなんだから。大して痛くもないし僕はもう慣れたしさ。あんたももうちょっと慣れるべきだよ」
女の子ってのは何てまぁ繊細なんだろう。それともこれはソフィーだけなのか?
ずっと腕を掴んでいたことに気づいて、慌てて離す。ソフィーはその間何も動かない。どうしようかと悩んで、そろそろと頭に手を伸ばした。そっと撫でる。俯いてるソフィーが、どうしようもなく脆そうに見えた。現実にそうなんだけど、きっと多分それ以上に。
「ほら、ソフィー。ね?」
「……いいです」
どこまで頑固なんだ。
「あのねぇ、ソフィー」
これ以上なんて言って説得したらいいんだとため息をつく僕の耳に、消え入りそうなソフィーの声だけが聞こえる。
「だって……せっかく、今日、楽しかった、のに……」
「……うん?」
泣きそうな顔に見えた。
いや、もしかしてちょっと泣いてる?
「ソフィー?」
「あたし……だって、最後にこんなの……楽しいだけで、終わりにしたいから……っ」
慌てたようにソフィーが袖で涙を拭う。
僕が思ってる以上に、ソフィーは僕から血を吸うことに、まだまだ深い抵抗があったらしいと、目の前で泣かれて初めて理解するなんてどれだけバカなんだ。
これ以上説得する言葉なんて浮かぶはずもなくて、僕はソフィーが泣き止むのを待っていた。無力すぎる。でも、恋人でもなければ泣いてる女の子を抱きしめることもできないんだ。今の僕にできるのは、せいぜいが頭を撫でるぐらいだった。ソフィーは嫌がらないから、泣き止むまでずっとそうやって頭を撫でていた。
「……今日、楽しいって思ってくれてたんだ?」
泣いて嫌がるぐらいには。それって不謹慎だけどすごく嬉しかった。
「じゃあさあ、また遊ぼうよ」
さっきは言えなかった台詞が今はこんなにも簡単に口にすることができた。
「僕もさ、すっごく楽しかったんだ。だからさ、また遊ぼうよ」
最後の涙を拭ったソフィーの顔を覗き込んで笑って言えば、ソフィーは少し戸惑ったようだった。
「言っておくけど、社交辞令とか気を使ってるわけじゃないからね。あんたが泣いたから誘ってるわけでも、食事のためでもないよ」
先手を取ってそう言っておく。言いたい言葉を奪われたからか、ソフィーは開けた口をまたすぐ閉じなきゃいけなかった。
「今日だけで終わりになんかしないでさ。また今度遊べるって思ったら、寂しくも何ともないだろ? 僕らの当たり前にしちゃえばさ。ね?」
ソフィーが楽しんでくれてるって、それだけのことでどうして僕までこんなに嬉しくなってるんだろう。泣き顔を見れたことすらラッキーだと思えてしまうような。そんなことはとても口には出せないけど。
「また遊んでくれる?」
「……はい」
小さくソフィーが頷く。その顔を見て僕も笑顔になった。
女の子って何て可愛いんだろう。些細なことで怒ったと思ったらすぐに泣き出して。でもまたすぐに笑ってくれる。
時たまそんな変化を面倒だとも思うけど、ソフィーにはそんなことは思わない。ただ嬉しいと思うだけ。泣き顔だって可愛かった。泣き止んでくれたからこそ思えることだけど。
「……いいですか?」
何が、なんて聞き返さなくたってわかってる。
ソフィーがその気になってくれたことにほっとする。どれだけ飲まなければ体調が悪化するのかわからないけど、三日間ていうのはちょっと際どい時間だと思うから。
シャツのボタンをいくつか外して、首筋を出す。ソフィーが噛むのはいつも決まって同じ場所だから、いつまで経っても痕が消えない。でもその痕を見る度にソフィーを思い出すから、そんなに悪いものでもないと思う。
助手席から身を乗り出して、いつものように僕の胸元を両手でぎゅっと掴んで、ソフィーが首筋に噛み付いてくる。そう痛くはないのは、僕がもう慣れてしまっているからか、元々そういう風になっているのか。それよりも、ソフィーの身体が柔らかいこととか、髪から漂うシャンプーの香りとかに気を取られているからかもしれない。
吸われる音。もう馴染んでしまった、肌に直接当たるソフィーの唇の感触。血を吸われるって、始めは注射器で血を抜かれるようなものかと思っていたけど全然違う。慣れた今は妙にぞくっとする。少し快感かも、なんて言ったら、ソフィーはもう二度と吸ってくれないかもしれない。
吸われた後は、少し頭がくらくらする。貧血でというわけじゃなくて、これは多分吸血鬼の毒なんだろう。ハイになったりはしないけど、それでも少し頭の一部がスカっとしている……ような気がする。
「―――ごちそうさまでした」
「はいはい。お粗末様でした」
おどけて笑う。
こんなの何でもないことなんだって、ソフィーが早くわかってくれればいいのに。
見詰め合って笑って、ソフィーは泣いてしまったことが今更ながらに恥ずかしいのか、はにかむような顔で僕を見上げている。気のせいかもしれないけど、ちょっと近づけたような錯覚。いいじゃないか。それぐらいささやかな幸せに浸ったって。
でも、浸れたのはその一瞬だった。
「……てっめ! ソフィーをどこ連れてこうとしてんだよ!」
何でこいつは毎回毎回こういい所に出てくるんだろう。
「ジャン……」
「おまえも! 何でそいつの車になんて乗ってんだ!?」
ソフィーを怒鳴りつけるジャン・バティを見るのは初めてだった。と言っても、こいつの顔を見ること自体、まだ数えるほどしかないんだけど。それだけしか無いのに、すっかりもう嫌いな相手とインプットされているのが問題だったけど。
車を蹴り飛ばしそうなジャン・バティの様子を見て、ソフィーは慌てた様子で車から降りる。僕が車から降りるのと、ジャン・バティがソフィーを背後に隠すのは同時だった。まるで僕が襲い掛かるとでも思っているような態度。だからどうしてそう僕にばっかり敵意を向けるんだ?
「ちょっとジャン・バティ……」
「休みの日にこんなとこで何してんだよ。てめぇソフィーに何しようとしてんだよ!」
僕がソフィーに襲い掛かってるようにでも見えたんだろうか。あぁでも、車に男女が二人きりだったら、普通はちょっとそういうことも勘ぐるのかもしれない。デートの帰りだとか密会だとか。別に普通に映画を見て食事をして帰ってきただけだけど、それでもきっとこいつには気に入らないんだろうなぁと思って答えに悩む。下手にぶつかり合うとソフィーが怒るから。
「何してってね。別に何もしてないけど。それともなに、人に言えないようなことでも想像したの? やーだね、青少年って想像力豊かでさ」
まぁ僕も青少年だった時代があるからそれはよくわかるんだけど。
どうにもこいつは気に食わない相手なんだ。ソフィーを背中にかばって、まるで自分こそがヒーローみたいな感じで人を睨み付けて。年下のガキなのに、身長が変わらないっていうのもまた腹が立つ。何で最近の子供はこんなにでかいんだ。
「案外あんたの方が、ソフィー相手にそんな想像してんじゃないの?」
高校生なんて一番危なっかしい年頃で、その上ソフィーに好意を持ってるとなればそんなことは確実なんだ。
それを突いたのは我ながら大人気ないとわかっている。でも、ジャン・バティが一気に顔を赤くしたのを見ていい気分だった。大人を相手に口で勝とうなんて間違ってる。
―――なんて笑っていられたのはそこまでだった。
ジャン・バティが動いた。と思った瞬間にはもう僕の目の前にいて、頬を何かがかする。反射的に避けていた。これでも運動神経はいい方なんだ。それともこれって本能的にだろうか。だってあの拳が顔面に当たっていたら、絶対に鼻が折れてた。いや、顔が潰れてたかも?
「―――っ」
風を切る音。
恐怖なんて、感じることになると思わなかった。
オーガスタスが、ソフィーが、吸血鬼だと知っても怖いなんて思わなかった。不思議に思っただけ。でも今、ジャン・バティの拳を避けるのに恐怖を感じる。だってこれ、死ぬんじゃないか、マジで?
「ジャン・バティ!」
悲鳴にも似たソフィーの声が響いた。その瞬間にジャン・バティの動きが緩まる。
「ジャン・バティ、止めて! 何するの! 止めて、バカなこと止めて…!」
後ろからソフィーがジャン・バティに抱きつく。動きを止めようとしたのかもしれないけど、ソフィーとジャン・バティの体格差じゃ、ソフィーが後ろから抱きついたようにしか見えなかった。傍から見れば、多分これって、ソフィーを巡って争う二人の男って構図なんだろうな。何て昼ドラ。
「先生を殴ったりしないで……!」
普通だったら、一発殴ったぐらいじゃどうってことはない。せいぜいが鼻血を出すぐらい。みっともない顔になるぐらい。
でも、今の力で殴られていたら本気で死にそうだ。それがわかっているからか、ソフィーの声も切羽詰っていた。
一日で色んなことがあったなぁなんて、現実逃避しそうになる頭でそんなことを考える。女子高生と映画を見ると思ったらそれがペンギンで、でも案外面白くて、奢ってあげると言ったら拒否されてさっきは泣かれて今こうして殴られそうになって、危うく大怪我するところで。
立っていられる自分を褒めてやりたい気持ちだった。呆然としているのに、しっかり足には力が入っている。良かった。ソフィーの前で腰を抜かすところなんて見せなくて。
「……あんた、人間じゃないよ」
動きが目に見えないんだ。速過ぎて。避けられたのは奇跡だった。高校生だとは思えないとか、そんなレベルを遥かに超えている。
「忘れたのかよ。俺は狼人間だぜ」
勝ち誇ったような、皮肉めいたジャン・バティの声。
あぁそうだったっけ。


つまり今日の僕は、初めて吸血鬼の女の子と遊んで、狼人間に殺されかかったってことらしい。何て素敵な一日だったんだ。
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