ブラッディ・マリーはいかが?


...12話
ビールを開けながらコンビニで買ってきた弁当で夕飯を済ませてから、思わず携帯を取り出して電話をしたのは、別れ際のソフィーがあんまりにも心配そうな顔をしていたからだった。
また一分で通話は終わるのかな、なんて思いながらも電話をかける。一分でもいいや。ソフィーの元気そうな声が聞こえるのなら。
そんなことを思いながら(我ながら自虐的だとは思ったけど)ボタンを押したから、呼び出し音が一回鳴っただけでソフィーが出たことには素直に驚いた。
『先生?』
携帯越しに聞こえるソフィーの声は少し耳にくすぐったかった。
「あぁうん。そうなんだけど」
今更だけど、昼間に会って遊んでたのに、その日の夜にすぐ電話をかけるって少し鬱陶しかったかな。
恋人や友達だったら何もおかしくないことだけど、僕らはそのどちらにも当てはまらない。……あれ、じゃあ僕とソフィーの関係って一体何になるんだ? 保険医と女子高生?
「あぁえっと、その……」
心配してるかと思って、と言い掛けて、それが僕の思い過ごしだったらどうしようなんてことが頭を過ぎった。
『先生大丈夫? 具合が悪くなったりとかしてない?』
でも、僕のそんな心配こそ杞憂だったみたいだ。ちょっと早口にソフィーにそう言われて、本当に心配してくれてたんだとわかってほっとする。
「うん、僕は全然平気。殴られたわけでもないしさ。ちょっとびっくりはしたけど」
『ごめんなさい』
ソフィーが僕に殴りかかったわけでもないのに、申し訳無さそうな声で謝ってくる。その表情まで想像できそうだ。
「別にソフィーが悪いわけじゃないだろ。悪いのはあいつでさ」
そこで、僕の方が悪かったんだから、なんて言えるほど大人じゃないんだ。わかってるけど、下手な嘘をついてもソフィーにはばればれなんだから、それなら素直にそう言ってやる。
『……ジャン・バティのこと、怒ってる、先生?』
そりゃあもう。だっていきなり殴りかかられたんだよ? それも当たってれば大怪我間違いなしの勢いで。
―――なんて、言ってやりたいけど言えるわけがない。言えばソフィーが悲しむことなんてわかってるんだから。
「いや、まぁ……うん、僕の言い方も悪かったしね」
本当はそんなこと全然思ってないけど。
『ジャン・バティも、もう落ち着いてるから。失礼な態度取ってごめんなさい。先生のことが嫌いってわけじゃないの。ジャン・バティは人間が嫌いだから』
ソフィーにいくら謝られたからって、それであいつを許してやろうなんて気にはちっともならないけど。
大体その、人間嫌いっていうのも何なんだ? まだ僕自身が気に入らないって理由の方が納得できる。『人間』なんて大きなカテゴリーに入れられて、それで嫌いだからなんて理由で殴りかかられたんじゃたまったもんじゃない。その内本当に殺されるんじゃないか。
『……先生、許してくれない?』
言葉にはしなくても、電話越しにでも僕の微妙な雰囲気を察したのか、ソフィーの声が小さくなる。
あぁ、くそ。今ジャン・バティが目の前にいれば、絶対嫌味の一つや二つは言ってやるのに。ソフィーにそんな声を出されたんじゃ、例え目の前にいたって何も言えなくなるじゃないか。
「や、気にしてないよ、別に。怪我したわけでもないしね。高校生なんて……って言うよりも、あの年頃の男の子なんてまだまだ子供だしさ。子供のやることに一々目くじらなんてたてないよ」
『本当?』
ソフィーがほっと息をついた様子が目に見えるようだった。
「うん、ホントだって。だから別に、あんたが気にしなくていいから」
『ありがとう、先生。先生が優しくて良かった』
優しいって。
そんなことを本気で言われることなんて中々なくて、嬉しいと言うよりかは照れくさいと言うよりかは、ただただ居心地が悪い。そんな恥ずかしいことを本気で言わないでほしい。あぁまったく。
「……あー、あんたは平気だったの? あいつ、あんたにもすごい怒ってたみたいだったけど」
『えぇ、それは全然。家に入ったら落ち着いたもの。ジャンも謝ってくれたし……今はもういつもと変わりないわ」
ソフィーの返事に安心するどころか、気になったことが一つ。
今はって何?
「何かそれだと、今も一緒にいるみたいに聞こえるんだけど」
『え? だって一緒にいるもの。あ、ジャン・バティは今お風呂に入ってるけど』
お風呂。
「……え、何で、あんたの家であいつが風呂に入るのさ?」
『だって、寝る前にはお風呂に入るでしょう?』
そういうことを聞いたんじゃないんだけど。
「いや、だからさ。それ聞くと、あいつがあんたの家で寝るみたいに聞こえるんだけど……」
『そうだもの。家族が旅行中であたし一人じゃ心配だからって、泊まりに来てくれてるの』
思わず立ち上がってしまった。
でもって机に足をぶつけて転んだ。何やってるんだろう僕。
『先生? 先生、今何かすごい音聞こえたけど……」
「何でもない何でもないよちょっと転んだだけ何でも無いから」
『え、転んだって何で……』
「それよりも! なに、あいつ家に泊まるの!? 何考えてるのあんた!? そっちの方がよっぽど危ないだろ!?」
高校生の男女が家に二人きりとかソフィーは何を考えてるんだソフィーの家族は何を考えてるんだ。
ありえないにも程がある。
『危ないって……ジャン・バティは、あたしのこと殴ったりなんてしないもの。普段はあんなこと絶対にしないのよ。先生にはしたけど……でも、あれはたまたまっていうか』
「……そうじゃなくてね!」
僕が言いたいのは、狼男と二人きりなのが危険なんだってことじゃなくて、男と二人きりなのが心配だってことなのに。
ソフィーは何にもわかってない。自分が襲われる危険性なんて何も感じていないんだ。
『あのね先生、あたしにとって、ジャン・バティは家族みたいなものなの。あたしの家族はみんなそう思ってるわ。あたしが高校に上がった頃からの付き合いなんだもの。だから、そんな心配しなくて平気なのよ』
あくまで僕の心配を、違う意味で受け取って、ソフィーは言い聞かせるような声音で言う。
それに説得されたなんてわけじゃないけど、ジャン・バティが本気でソフィーを押し倒すような奴なら、オーガスタスが黙って見過ごしてるはずはないし。……それに、僕には別に関係のないことだと思ったら、それ以上は何も言えなかった。
「……それならいいんだけど」
『大丈夫よ』
意味の通じ合ってない会話。
何だかなぁと思ったけど、これ以上何も言いようがないんだから仕方ない。万が一ソフィーがジャン・バティに襲われたって―――襲われた、って……あれ、そうしたら僕どうするんだろう。いやどうしようもないんだけど。
『電話ありがとう、先生。また学校でね』
柔らかいソフィーの声を聞きながら電話は終わった。
携帯の画面を見て、通話時間が三分を超えていることを見て少しほっとした。
良かった、前回より二分も記録を更新したじゃないか。
……って、何て虚しい記録なんだ。
それでも、リダイヤルの一番上にソフィーの名前があるのは何となく嬉しかった。
できれば、ジャン・バティのことなんて考えずにいられればもっといいんだけどなぁ。ソフィーはパジャマ姿なんだろうなとか、そんなくだらないことを考えないでいるためにも、僕は残っていたビールを一気に喉に流し込んだ。





残りの二日の連休は、生憎にも雨だった。
まぁそれも、六月に入ったことを思えば当然のことだった。今に思えば、連休の初日が快晴だったことが幸いだったんだろう。
保健室の窓から雨のやまない外の景色を眺めながら、そんなことを思う。雨の日って何でこうも気分が憂鬱になるんだろう。あぁ、それは多分せっかくきめてきた髪が濡れて乱れるからだろうけど。ワックスなんてこの雨で全部流されちゃいそうじゃないか。
「センセー。転んじゃったー見てー」
保健室のドアががらっと開いて、女子生徒が入ってくる。どうしてこの国は数年前からブルマが廃止になったんだろう。若い内はどんどん足を出した方がいいのに、なんて、ハーフパンツ姿の女子生徒を見ながら思う。
「どしたの。何やってて膝擦りむいたのさ。けっこう派手にやったねぇ」
「バレーボールやってて転んだの。相手チーム、バレー部の子が三人もいるんだよ? ありえないって」
「そんなに勝ちたかったの?」
「そんなわけないでしょー。適当におしゃべりしながらやってればいいのに、本気のサーブ打ち込んでくるんだもん」
そのサーブを受けようとして転んだのかどうかは知らないけど、かなりご機嫌斜めのようだった。可愛いなぁこんなことぐらいで一喜一憂して。
消毒をしてから絆創膏を貼ればもう終わり。残りの体育を見学するほどの怪我じゃないから、すぐに体育館に戻ってもいいのに、よっぽどバレーが嫌なのかそれとも単にサボりたいからか、そのまま椅子に座ってため息なんてついちゃってる。
「ほらほら。足はもう平気だから授業に戻りなさいって。残り時間で一回ぐらいはサーブを決めて、相手チームをぎゃふんと言わせてみたいだろ?」
「できるわけないじゃん。先生知らないの? うちのバレー部、全国大会に毎年出場してるんだよ」
「……そりゃ知らなかったよ」
四月にこの高校に来たばっかりだからというよりは、部活動になんて興味も無いから全然知らなかった。だって当然だけど、保健医はどの部活の顧問にもなったりはしないから。
そういえば、ソフィーはどの部活にも入ってないのかな。運動部って柄には見えないし、かと言って合唱なんてしてる感じもしないけど。よっぽど、図書委員とかの方が似合いそうだ。あの三つ編みには。
「先生はいいよね。保健の先生なんていつ見ても暇そうじゃん」
「こらこら。こう見えてもね、僕だって色々とやることがあるんだよ」
「へぇ。どんな?」
そりゃもちろん、吸血鬼のお嬢さんに血を提供したりとか。
―――なんてもちろん言えないし、例え言ったとしても、「センセーってば!」なんて笑われることはわかっている。
「たった今君の足に絆創膏を貼ってあげただろ?」
「それだけー!?」
バカにしないでよ、とでも言いたげな顔で女子生徒は大声を上げる。まったく、そんだけでかい声が出せるぐらいには元気なんだから。あと十回ぐらいは転べるはずだよ。
「ホントなら今は校庭で高飛びの授業だったのに。あたしそっちのが得意なんだよ。自分のペースでできる運動のが好きなの」
なのに雨が降っちゃったからさぁ、と忌々しげにもらす。
体育館の中でも、マットと棒を出せば高飛びはできると思うけど、多分他のクラスとの場所の兼ね合いとかがあるんだろう。校庭の方が広いことは間違いないんだから。
「今月で高飛びの授業終わりなのに。あと何回できるのかなぁ。今日から入梅したってニュースで言ってたよ」
「へぇ、ホント?」
毎朝のんびりニュースを見ている暇なんて無いから、その日部屋を出るまで天気なんてさっぱりわからない。
そうかぁ、入梅かぁ……なんて返事をしてしまってから、何で世間話になってるんだとため息をつく。これだからいけないんだ。生徒のペースに流されるから。
「でも先生には関係ないよね。晴れでも雨でもこの部屋にいるだけだもん。いるだけが仕事っていいなぁ」
しかも僕を一体何だと思ってるんだ。
「学校では毎日どっかのクラスが体育の授業を受けてるんだよ。捻挫する生徒とか鼻血を出す生徒とかで、この保健室は大賑わいなんだから。ほーら、わかったらさっさと授業に戻る! 保健室に来てなかなか帰らない生徒がいるって、この前も注意されたばっかりなんだから!」
「先生怒られたのー?」
おかしそうにくすくすと笑いながらも、やっと女子生徒は立ち上がって部屋を出て行く。
ドアを閉めながら、ちゃんと「ありがとうございましたー」と言う辺りは可愛らしいけど。
「……でもそっか、入梅か」
運動部なんて部活ができなくなって大変だろうなぁ、なんて考えて。
「そうだ。お昼」
屋上で食べてたけど、どうするんだろう。
他で食べようにも、生徒と二人だけで(しかも手作りの)お弁当を食べてるところなんかを見られたらまずすぎる。それを考えると屋上はぴったりの場所なのに。何せ立ち入り禁止なんだから。
と言うかお弁当よりも、大事なのはソフィーの食事だ。もちろんお弁当も大事だけど。ソフィーのお弁当を食べ始めてから肌の張りがよくなったような気がするし。やっぱり栄養って大事なんだなんて思ったりもして。
そんなことを椅子をぐるぐる回しながら考えていたら、ちょうどチャイムが鳴ったから、つられたように僕は立ち上がった。
考えてたって仕方ない。答えが出るもんでもないし。
パソコンもそのままにして僕は保健室を出る。三年生のクラスがある階まで階段を上がりながら、何度も教室に行くとよからぬ噂を立てられるかなぁ、なんて考えながら。
普通の保健医だったらそんな心配はいらないけど、あいにくと僕は普通の保健医ではないから。普通よりいささか外見の良すぎる保健医だから。でも実際、二十代の先生なんて教師の中じゃ最下層ぐらいに若い方で、それだけで生徒達からは微妙に意識される存在になっちゃうんだ。トルーマン先生は男子の間で大人気だし。
なるべく目立たないようにソフィーを呼び出したいなぁと思っていたところに、見覚えのある女の子達を見つけたのはラッキーだった。
「あ、ねぇ、君達ちょっとちょっと!」
トイレにでも行くとこだったのか、三人そろって歩いてくる女の子達に僕は笑顔を向ける。
ソフィーが廊下で倒れた時に一緒にいた女の子達。名前は覚えてないけど顔はわかる。
「ジェンキンス先生、どうしたんですか、こんなところで」
「ちょっとハッターさんに用事があってさ。悪いんだけど呼んできてもらえる?」
「ソフィーなら、今日休みですけど」
「え、嘘」
思いも寄らない返事に、反射的にそう言ってしまう。
「嘘じゃないですよ。学校来てませんもん」
「何で休みなの?」
とっさに浮かんだのは、やっぱり血が足りなかったんじゃないのかってこと。
一昨日、昨日と飲んでない。二日ぐらいなら平気かと思ってたけど、やっぱり平気じゃなかったんじゃないのか?
「さあ」
「さあってなに、さあって。君達友達だろ?」
曖昧な態度に思わずイラっとして語気を強めてしまった。あぁ、生徒に当たっても仕方ないなんてわかってるけど。
でも女の子達は僕のそんな態度は何とも思わなかったようだった。「……友達だって」と、一人で後ろの子を振り返って小さく笑う。何なんだ?
「風邪とかじゃないの?」
むしろそうであって欲しい。風邪だったら僕にはどうすることもできないし……あぁでも、僕にどうにかできる方がいいのか? 学校が終わったら血を飲ませに行くべきなんだろうか?
「わかんないですよ、そんなの。朝のホームルームの時にも先生は何も言ってませんでしたし。先生何でそんなに気にするんですか?」
「……いや、だからほら、彼女体調悪いじゃないか。でも最近は調子も良かったから安心してたのに、また悪くしたのかなって。休みとか早退とか多いと成績にも響くだろ?」
せいぜい真面目に心配してるんだって様子を装う。でも心配しているのは本当だったから、女の子達は素直に信じたようだった。
「それなら、あたし達じゃなくて担任の先生に聞いた方がいいと思います」
「何で君達何にも知らないのさ? ソフィーにメールしたりしないの? 何で休んでるのかって」
「どうせ返事来ませんから」
自嘲気味な笑顔を浮かべて一人が言う。
「あぁそりゃ、具合悪かったら携帯いじくるどころじゃないかもしれないけど……」
「そうですよね。具合が悪かったらできませんよね」
何かさっきから気に障る言い方をする子達だ。
前はそんな風には思わなかった。倒れたソフィーを本気で心配してるように見えた。いや、実際そうだったじゃないか?
どうしたのかと聞きたかったけど、その時ちょうどチャイムが鳴ってしまって、女の子達は駆け足で教室に戻って行った。「それじゃあ先生」と小さく頭を下げる様子には好感が持てたけど、何か引っかかる。
「何だかなぁ」
携帯を取り出しながら保健室まで歩く。
生徒達が全て教室に戻ってしまうと、とたんに廊下ががらんとする。僕の足音だけが響く中で、携帯の画面にはソフィーの名前が映る。
電話かメールかしてみようか。血が足りないのなら今すぐ飲ませに飛んで行ってもいい。でも、遊ぶついでに『食事』をさせるだけでも嫌がるんだから、わざわざ家に行ったりしたらそれこそ本気で嫌がられそうだ。そう考えて電話をすぐさまポケットにしまってしまうんだから、僕も大概意気地なしなんだ。
ソフィーからメールかなんかしてくれないかな。
そんなことを思って、その日学校にいる間だけでも百回以上、僕は携帯を開くことになった。
back next