ブラッディ・マリーはいかが?


...3話
「先生、なんか最近元気ないね?」
大丈夫? と問いかけてくるのは、保健室の常連の金髪の巻き毛ちゃん。保健室は怪我をした子が来る所だっていうのに、昼休みにはお弁当箱を持って友達と来ていたりする。まったく、ここをどこだと思ってるんだか。
「先生お昼ご飯食べないの? 買い忘れちゃったの?」
「んー、ちょっと食欲なくてね」
「あたしの卵焼きあげようか、先生」
口々に言いながら、空いている椅子に勝手に座り込んでお弁当をつついている女の子達は、心配そうな眼差しで僕を見上げてくる。可愛いなぁ女子高生は。最近の子はみんな揃いも揃って大人っぽいけど、やっぱりまだ子供らしいところもあってひたむきで純粋で。僕のことを素直に心配してくれてる辺りが本当に可愛いなと思う。
そう、これが普通の女の子の反応なんだ。僕は顔だっていいし、他の先生方みたく偉ぶったところもない。成績を決めるような立場でもないから、みんな気にせず好きなことが言える。ようは気楽なんだ、僕といるのは。保健室って場所も、いい避難所みたく使われているし。
なのにどうして約一名だけ、僕のことをそうは思わないんだろう。僕と一緒にいることを気楽だとは思わなくてもいいから、せめて嫌がらないでほしいのに。生まれてこの方、自慢にしかならないけど、女の子に嫌がられたことなんてない。認めるのは癪だけどけっこうショックだ。気になって気になって仕方が無い。
女の子の一人がお弁当箱のふたに卵焼きを乗せようとしているのを見て僕は小さく笑った。お母さんの手作りの卵焼きはきっと甘いんだろうな。
「ありがとう。でも、僕はもう成長期は終わったみたいだから遠慮しとくよ」
「あたし達だって成長期は終わってるけど。去年から身長なんて伸びてないもんね」
「いやいや。これから大人っぽく成長してくじゃないか。ねぇ?」
ぱちぱちと瞬きしながら言えば、みんなはそれぞれ小さな笑い声をもらす。「あたしもう十分大人っぽいでしょ?」なんて言う女の子にまだ色気が足りないなぁなんて笑って言える。保健室の消毒薬の匂いは慣れれば落ち着くし、若い女の子達との意味のない会話も楽しいと思える。
けっこうこれは天職かもな、なんて考える。
余計なことは気にしないで、適当に仕事して適当に楽して、そんな暮らしがきっと僕には一番似合ってる。
わざわざ自分から、僕のことが嫌いな女の子に声をかける必要なんてないじゃないか。年下のガキに偉そうなことを言われてさ。不味い煙草を吸うぐらいなら、こうして可愛い女の子達とおしゃべりを楽しんでいる方がずっといい。
だからもう、ソフィー・ハッターには関わらない方がいい。命に別状があるわけじゃなさそうだし、例え万が一にそうだったとしても、僕はもう十分気に掛けてやったんだ。何かあっても、それはもうソフィー自身の責任だ。僕には何の関係もないじゃないか。
そう思って目をつぶっても、とたんに鮮やかな赤毛が浮かんで気分が滅入る。まったく、どうかしちゃったんじゃないのか、僕は。
「先生、本当にどしたの? 何か悩み事?」
生徒にこんなこと言われちゃうだなんて、先生失格かな。もっとも、僕は元より先生らしさなんて持ち合わせていないから、そんなことは全く気にしない。
「悩み事ってさ、人に話すとすっきりするよ、先生。あたし達だれにもしゃべらないから、言ってみなよ」
十七歳にしてはしっかりした表情を顔に浮かべている。好奇心じゃなくて、本当に僕のことを心配してくれてるんだってわかってるから僕も思わず笑ってしまう。
この子達に話してすっきりしようなんて思ってわけじゃないけど、軽く笑い話にでもすれば気分もまぎれるかなとは思った。
「今、一人ちょっと気になってる女の子がいてね……」
ここで、えーっと歓声が上がる。興奮した声と、不満そうな声が半々ずつ。僕はひらひらと手を振った。
「って言っても、あのね、君達が想像してるような意味の『気になる』じゃないから。好きとかそんなんじゃなくて、ただ言葉通り気にかかるってだけ。怪しんでるって言ってもいいぐらい」
「そんな怪しい子なの?」
一体どんな子、と目で問いかけてくる。僕は軽く肩をすくめた。
「見た目は別に普通なんだよ。君達と同じく可愛い子なんだけどね。ただ何か不思議な感じがするっていうか……ちょっと普通とは違うような気がするんだよね」
頻繁に倒れるからとか、黒フードをかぶっていたからとか、そんな理由じゃなくて。
本当に何だか、ソフィーを取り巻く『匂い』が違うような気がするなんて―――自分でも、何て根拠のない理由なんだと呆れてしまうけど。
「先生、それ、どういうこと?」
「……どういうことなんだろうね」
意味わかんないと首を傾げる女の子達に、だよねぇと僕も苦笑した。自分で言ってても意味がわからないんだから仕方ない。
きっとソフィーはただの女の子で、ちょっと身体が弱いだけなんだろう。あの黒フードだって、ほら、今はコスプレとか色々流行ってるし、そういう趣味なんだと思えば納得できないこともない。
つまりそれで、僕のつまらない悩み事は解消されるんだ。何て簡単なことなんだか!
「あ。あの子、ハッターさんでしょ?」
なのに、悩み事は無くなったと思った瞬間に、その名前が僕の耳に飛び込んでくるんだから。
……これは一体、何て嫌がらせなんだろう? 忘れようと思ったとたんに、そうさせるもんかとばかりに意識がそっちに持っていかれる。だれの仕業なんだ、本当。
「あー、ホントだ。また早退なのかな。あの子多いよね。単位平気なのかな、あれで」
「―――ソフィー・ハッターって、有名人なわけ?」
何気なさを装った僕の声音は、少し固かったかもしれない。でもみんなはそれには気づかずに、窓の外、校門に向かって歩いていくソフィーの姿を眺めている。具合が悪そうには見えない。むしろこの間よりもずいぶんしっかりとした足取りだ。
「有名人っていうか、ほら、よく倒れたりするじゃない? それでちょっと名前は知ってるだけ。今時病弱っ子って珍しいし」
「でもあの子、頭いいんでしょ? 毎回テストクラスで一位だって、部活の友達が言ってたもん」
欲しくもないソフィーの情報が増えていく。成績優秀、ね。僕に対する態度からは、とてもそうは見えなかったけど。大抵、頭のいい子ってのは当然大学進学を考えてるから、先生への態度もいいものなんだけど。
「あたし、去年ハッターさんと同じクラスだったんだけど」
顔は窓の外を向けたままだけど、耳は自然と言葉の続きを待ってしまう。まったく、これじゃまるで初めて女の子を好きになった中学男子みたいじゃないか。
「貧血で倒れたりしても、早退したりはしなかったのに、たまに具合悪そうには見えないのに早退することがあったんだよね。ほら、今も別に元気そうじゃない? 何かね、家の用事とか言ってたんだけど。どんな用事があるのかもわかんないし、ちょっと変わってる子よね」
ソフィーを変わってると思うのは、僕だけじゃなかった。
いや、それは、ただちょっとそう思っただけで、僕みたく根深くそう思ってるわけじゃないんだろうけど。
でも、そうだ。やっぱりソフィーは変わってるんだ。僕の勘だってそう告げている。関わるなって、年下のガキに言われたからそれが何だって言うんだ? 僕はこれまでやりたいことをやってきた。これからだってもちろんそうするつもりなんだ。
「ごめん、用事があるから今日はもう帰るよ」
「えー! 先生、だって仕事は!?」
「具合の悪い生徒なんてそうしょっちゅう来ないから平気だよ」
先生適当すぎ! と声が聞こえたけど、だってもう午後の授業しかないんだ。消毒して絆創膏を貼るぐらいならだれだってできるだろうし、ベッドで休むぐらい具合が悪い生徒だって、残りの授業が二時間だけなら早退した方が特だって思うだろうし。
「じゃあね、お嬢さんたち。君達は真面目に授業を受けるんだよ?」
「不公平ー!」
「ずるいのが大人の特権、ってね」
白衣を脱いで椅子の背もたれにかける。鞄を掴んで僕は保健室を飛び出した。何だか最近、いっつもこんなことをやってる気がする。その内ストーカーって言われるかなとも思ったけど、こんな美形をストーカーだと思うような奴もいないだろう。犯罪者は決まって悪人面をしてるものなんだから。
今日はしっかりとした足取りだったけど、そこは女の子の歩幅。僕が見つけた時、ソフィーはまだ校門を出てはいなかった。
「具合が悪くもないのに早退かい?」
僕がそう声をかけると、びくりと肩を震わせて、ソフィーはゆっくりと振り返った―――



「やぁ、ソフィー。今日はずいぶんと体調がいいみたいだね」
昨日とは違って、と、その言葉は心の中だけでこっそり呟く。
実際、僕は少し驚いていた。今日のソフィーは顔色も良くて、どれだけ歩いてもちっとも倒れそうにはない。昨日、バスから降りるだけでもふらついていたお嬢さんとは別人のようだった。一日で、どうしてこんなにも体調が変わるんだ? 彼氏と久々に会えたから? そんなバカな。
「どうして早退するのか聞いてもいいかな。あぁ、先生としてじゃなくて、個人的に知りたいだけなんだけど」
「……暇人なんですか、先生は」
ソフィーはどこか警戒したような顔をしている。女子高生が保健医に向けるには相応しくない表情だ。こんな顔をするから、ソフィーには何かあるんじゃないかと疑ってしまうんだ、僕は。
女の子に警戒されるのは、でもまぁ悪いことじゃない。自分がとんでもなくイケナイ存在になったような気にさせられる。これでソフィーにもうちょっと色気があればぞくぞくしていたところだ。生憎と僕は子供には興味は沸かなかったけど。
「まぁ、他の先生方に比べれば暇人かもね。でも、別に仕事が無いってわけじゃないよ。自分の好奇心を優先させてるだけでね」
「好奇心?」
その言葉は、どうやらソフィーの気に障ったようだった。形のいい眉が寄せられる。そういえば、僕はソフィーの笑った顔を見たことがないってことにたった今気がついた。
「ねぇ、あんたちょっとは笑ってみたら? せっかく可愛い顔してるのに台無しだよ」
「好奇心なんかで近づかないで」
先生を先生とも思っていないその物の言い方。でも、僕にはこっちの方が合っている。対等なしゃべり方をされるのは嫌いじゃない。
「どうして近づいちゃいけないの?」
「……危ないのよ」
笑って問いかけた僕に、ソフィーは驚くほど真剣な顔でそう言った。
危ない、だなんて。
本来なら男が女に言うべき台詞だってのに、こんな可愛い顔して、ソフィーは僕にそんなことを言うんだから。やっぱり、ただのお嬢さんじゃない。
「大丈夫、僕はこれでも一応男だからね。自分の身ぐらい自分で守ってみせるよ。今までもけっこう危ない目にはあってきたけど、今のとこ無事に済んでるしね」
実際、バイクで事故を起こした時も無傷だった。その話でもしてあげようかと思ったけど、どうやらソフィーには何を言っても通用しそうにない。よほど頑固なのか、そこまで思い込んでいるのかは知らないけど、これはどうにも一筋縄ではいきそうにない。
他のどんな女の子を口説き落とす時だって、もっと楽だったんだけどな。少なくともみんな、僕の顔を見るだけで笑顔になってくれたのに、ソフィーにはどうやらそんなことはありえないらしい。
「ねぇ、何がそんなに危ないのか教えてくれるかな。僕があんたに近づくと、あんたの彼氏がものすごい嫉妬して、僕に襲い掛かってくるとか?」
この時初めて、ソフィーは警戒心以外の表情を見せた。困っているような、戸惑っているような。
「……彼氏って、だれのこと?」
「昨日あんたと一緒にいただろ。ジャン・バティ、だっけ?」
「あぁ」
ソフィーは軽く頷く。そして、何でもない声音のまま言う。
「ジャンのことね。でも、ジャンは別にあたしの彼氏じゃないわ。あたしに近づくと先生に襲い掛かるかもしれないっていうのは当たってるけど……」
「彼氏じゃないのに僕に襲い掛かるの? そりゃ確かに危ないかもしれないな、何かスポーツでもやってそうな体格してたし」
「でしょう?」
これでわかったでしょうとでも言いたげな口調だった。今にも踵を返して行ってしまいそうなソフィーを、追い詰めない程度に距離を縮めて行かせまいとする。だって今日は、珍しくこんなにも会話が成立してるんだ。ソフィーは倒れないし、ジャン・バティだって現れない。またとないチャンスじゃないか。
「でもね、その心配なら無用だよ。僕も一応学生時代はラグビーをやってたんだ。喧嘩もよくやってたしね。ジャン・バティには負けないよ」
「ジャン・バティって勝手に呼ぶと怒るわよ。そう呼んでいいのはあたしだけなんだから」
「あぁ、古臭い名前だからだろ? ジャン・バティってさ、三百年ぐらい寝かせたワインの雰囲気がする名前だよね」
昨日の生意気すぎる態度が忘れられなくて、ついつい苛立ちまぎれに言ってしまった言葉だった。
やばい、ソフィーは怒るかなと思ったけど―――実際は、その逆だった。
一瞬目を丸くしたかと思ったら、次の瞬間には笑い出していた。笑っちゃいけないとは思いながらも、押さえ切れないように。
「それ、ジャンが聞いたら、間違いなく先生に襲い掛かるわよ!」
「……うん」
何か、襲われてもいいかな、とか思ってしまった。
だって、そうやって笑うソフィーが、思いのほかに可愛くて。
せっかく可愛い顔してるのに、って、ついさっき僕が自分で言った言葉だったけど。本当に、笑ったらこうまで可愛いとは思わなかった。嫌がる顔や、青白い顔しか見ていなかったから、余計にそう思えるのかもしれないけど。想像以上に可愛すぎて、ちょっと、どうしようと思う。
「あんた、本当、いっつもそうやってた方がいいよ」
ソフィーは首を傾げる。無邪気な顔のソフィーがそんなことをすると、何か、いじめたくなるというよりは素直に守ってあげたくなってしまう。
「だから、そうやって笑ってた方がいいよ。すごい可愛いから」
「……え」
ほんの少し開いた口から一文字の呟きが漏れて、次いで頬がかっと赤くなる。そっぽを向いたソフィーの顔は、髪と同じぐらいには真っ赤だ。何だ、本当可愛いところがあるんじゃないか。
「……せ、先生は、どうせだれにでもそんなこと言ってるんでしょ」
「何でさ」
「だって、みんなそう言ってるもの。新しい保健の先生は、女の子には愛想がいいって」
「そんなこと言ってるんだ、あんた達って?」
ちょっと驚いて、僕は目を丸くしてしまった。まぁでも確かに当たってるかもしれない。女好きって言われてたらちょっとへこむけど、愛想がいいっていうのは褒め言葉なんじゃないのかな。
「確かに僕は愛想はいいかもしれないけど、それはみんなに褒めるとこがあるからだよ。ただでさえ、若い女の子ってのはみんなそれぞれ可愛いもんだし。あんたのこともそうだなって思ったから言っただけでさ。別に嘘はついてないし」
「ふ、ふぅん」
恥ずかしがりやなのか、褒められなれてないのか、ソフィーの反応は保健室の常連の子達とはだいぶ違う。ちょっと新鮮でいいかもしれない。耳まで赤くなっちゃってさ。
そんな様子を、僕はまじまじと見つめていた。今日も二つに分けた三つ編みで、前髪は目にかからない長さで切られている。僕の胸に頭が届くかなといったぐらいの身長。体重が軽いことはもうよくわかっている。小柄で、腕なんか折れちゃうんじゃないかと思ってしまう。今日は青白くはないけど、それでも肌は透き通るように白い。他の女の子がこぞって羨ましがるような白さだ。
「あの、先生」
まだ赤さが残った顔のまま、ソフィーは僕を見上げる。その、ちょっと何かを決意したような眼差しに、僕までわずかに緊張する。
「なに?」
「あの……昨日は、すみませんでした」
何か話してくれるのかと思ったら、そんな謝罪の言葉で、正直ちょっとがっかりしてしまった。でも、そんなことは顔に出さないように気をつけて僕はソフィーの顔を見つめている。
「昨日は、すごい失礼な態度取っちゃって……ちょっと、具合が悪かったから。それで、機嫌が悪くて……」
「そうだね。今日のあんたは健康そのものって感じだし、ずいぶんと機嫌も良さそうだよね」
そのあまりの違いが、僕にとっては不思議で仕方ないんだけど。
それを尋ねてみようかとも思ったけど、そんな僕の気配を感じ取ったのか、ソフィーはとたんに身体を怖がらせる。まるで僕が、とんでもなくひどいことをしようとしているとでも思っているみたいに。こんな校門のまん前で、だれか見ているかもわからない真昼間に、何もできやしないってのに。ソフィーは僕相手だと、何でこんなに緊張するのだろう?
「あの、ね、ソフィー。僕は色々あんたに聞きたいことがあるんだけど……」
僕がそう話を切り出した瞬間、ソフィーの顔色が変わった。
けれどそれは、僕の言葉の所為ではなかった。ソフィーは僕を通り越して、向こう側と見つめていた。どうしたんだと思って振り返ると、道の向こうから近づいてくる一台の車があった。……って、これ、見間違いじゃなきゃ黒塗りのベンツに見えるんだけど。
「先生、だめ、早く行って。逃げて!」
「逃げてって……なに、あの車にヤクザでも乗ってるってわけ?」
「先生!」
叫びにも近いソフィーの声を掻き消すように、車は僕達の目の前に止まった。あぁ、とソフィーが小さなうめき声をもらす。そんな声を聞いているのは辛くて、ソフィーの言う通り逃げ出すべきなのかなとも思ったけど、ここでいきなり僕が逃げ出す方がおかしいだろう。捕まえて下さいと言ってるようなものだ。もっとも、僕は何も悪いことなんてしてないけど。あえて言うのなら、今こうして仕事をサボっていることぐらいだ。
人には逃げてと言いながら、ソフィーは自分は逃げようとはしていなかった。鞄をぎゅっと握って、睨みつけるようにしてベンツを見つめている。
運転席の扉が開き、下りてきたのは一人の男だった。金髪を短く刈り込み、グラサンをして、あろうことか白いスーツに身を包んでいる。スーツから覗くシャツは薄い青で、それがまた似合ってはいるんだけど、とにかくこんな街中で目にする格好じゃないことだけは確かだった。
ヤクザではないんだろうけど、一歩間違えればそうも見えるような男だ。
「ソフィー」
ずいぶんと低い声。僕だって長身なのに、その僕よりもさらに五センチは背が高い。
「こちらはどなたかね? 君一人で待っているものだとばかり、私は思っていたんだがね」
「……学校の、保健の先生なの」
「ほう」
おかしそうな男の声。この状況を楽しんでいるようにすら見える。
そんな男に対し、ソフィーはうつむいて足元ばかりを見てる。ソフィーが言っていることは正しいのに、それじゃ何か隠し事をしてますとでも言わんばかりだ。実際には別に、僕らの間に隠すようなことなんて何も無いのに。
「それはそれは。わざわざ君をここまで送ってくれたのかね、ソフィー」
「……オーガスタス」
懇願するようにソフィーは男の名前を呼ぶ。けれど、オーガスタスと呼ばれた男は僕に視線を向けた。もっとも、グラサンでよくは見えないんだけど。
「君は、一体どこまで我々のことを知っているんだね」
「何も知らないわ! あたし、何もしゃべってないもの!」
叫ぶソフィーに、悠然と僕を見つめるオーガスタス。
平和な学校の門先だっていうのに、どうしてこんな日常とかけ離れた光景が繰り広げられているんだろう。
僕の頭は、少し麻痺していたのかもしれない。あるいはもしかしたら、とっくにソフィーという存在に痺れさせられていたのかもしれないけど。
とにかく僕は、言ってはいけないことを言ってしまったようだった。
「ソフィーが―――それに、あんたが。普通とは違う『匂い』をさせてることぐらいしか知らないけど」
その瞬間、ソフィーは悲鳴を飲み込むように口元を押さえ、オーガスタスは小さな笑みを浮かべた。対照的すぎるほどに違う反応。冷や汗一つかかずにそんな様子を見つめていられることが、我ながら不思議でたまらなかった。
「ふむ、なるほど……どうやら、君にも一緒に来てもらわなくてはならないようだ」
「オーガスタス! 止めて! 先生を巻き込まないで!」
「ソフィー、君は少し父親の言うことを聞くべきだよ」
父親? この男が、ソフィーの?
似ても似つかない二人を、信じられない思いで見つめる僕のことなど放って、オーガスタスはソフィーの顔を両手で挟み込む。それこそ、本当に父親が娘にするかのように。
「私だって、何も好き好んで一般人を巻き込みたいわけではない。私は平和主義者なんだよ、ソフィー。事なかれ主義とも言うけどね。けれど仕方ないだろう、君にはまだレティーのような……つまり、このままでは君の体調は悪化する一方なんだよ。いくらジャン・バティストがいても、彼だけでは無理なんだ」
「オーガスタス……」
泣きそうなソフィーの声。今の会話からわかったことといえば、ジャン・バティの名前が、ジャン・バティストってことだけだった。
有無を言わせずオーガスタスは助手席にソフィーを乗せると、後部座席のドアを開いて僕を見た。
「さぁ、乗ってくれるだろうね、先生?」
「……ハウルだよ」
とりあえず、白スーツの男に先生呼びされることだけは阻止したかった。
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