ブラッディ・マリーはいかが?


...4話
車の中はさぞかし居心地の悪いものになるだろうと思ったのに、それはどうやら僕とソフィーにとってだけらしかった。
「学校はどんな様子だい、ソフィー」
優雅に片手だけでハンドルをさばきながら、オーガスタスは楽しげな声音でソフィーに尋ねる。それは本当に、父親が娘に尋ねているような口調だった。
「……別に。いつも通りよ」
「またそれかい? いくら尋ねても、ソフィーはこればかりでね。君がソフィーの担任なら、もっと細かい話も聞けるのだろうが」
後半は僕に向けられていた。残念だよと言いながら、オーガスタスはバックミラーで僕に笑いかけてきた。僕は何て返せばいいのかわからなくて、とりあえずあやふやに笑っておく。
この状況は、一体どう捉えるべきなんだ? 白スーツの男に有無を言わさずベンツに乗せられたのは、もしかしたら誘拐と言えるのかもしれないけど、それが生徒の父親の場合はどう受け止めればいいのだろう。学校の様子なんてのほほんと聞かれた場合には?
「でも、ずいぶんと成績は優秀らしいって聞いたけど。テストじゃいつもクラスで一位なんだって?」
僕はソフィーに問いかけたんだけど、窓の外を向いてるらしいソフィーの表情は後部座席の僕からはちっともわからない。さっきオーガスタスに答えた声からは、ソフィーの機嫌があまりよろしくないことしかわからなかった。怯えているのかどうなのか……僕は少なくとも怯えてはいない。ドラマや映画じゃあるまいし、まさか殺されるなんてことはないだろう。何をされるかはわからないけど。
「この子の持って帰ってくるテストは、どれも満点ばかりだよ」
誇らしげなオーガスタスの声。この台詞だけを聞けば、ずいぶんと娘バカな父親だと思ったことだろう。白スーツとグラサンさえなければ、いい父親に見えないこともないのに。
「そりゃあ、さぞかしご自慢でしょうね?」
「確かに、赤点の答案用紙を見せられるよりかはいいが……もう少し普通の高校生らしく遊んでくれてもいいと、思わずにはいられないよ」
「遊んでないの、ソフィーは?」
まぁ確かに、きつく編みこまれた三つ編みからは、そんな様子が漂っているけど。例えばソフィーがカラオケでオールしたり、ハメを外して酒を飲んでるような姿なんて想像つかない。僕の保健室の常連ちゃん達はきっとやっていることなんだろうけど。
「丸きり遊んでないというわけではないが、今時の高校生と比べるとずいぶん大人しいのではないかな。小遣いをねだられたこともないし、夜遅く帰ってくるようなこともない。生活態度のことで、私がソフィーに何か小言を言ったようなことはないからね。模範的な娘そのものだ」
「なら、この話はもう終わりにしてくれる?」
不機嫌そうな声でソフィーは言う。いらいらして、今にも爪を噛みそうな声だ。僕以外にもこんな声を出すことがあるのかと少し驚いた。でも、オーガスタスは慣れっことばかりに何も気にしてはいない。いつものバスが通っている道をすいすいと進んでいる。
「私は、もう少し自由を満喫してもいいと言っているんだよ。君の生活を縛りつける気はない。君には普通に、他の高校生と変わりのない日常を送ってほしいんだ」
「十分送ってるわよ。学校に行って、たまに友達と遊びに行って、宿題をやって。これ以上何をしろって言うのよ?」
「普通の高校生というのは、多少なりともハメを外して遊ぶものだよ。そうして親から叱られる。ハウル、そうは思わないかい?」
まるで旧友のような気安い口調で名前を呼ばれて驚いた。バックミラー越しにオーガスタスは笑いかけてくる。生真面目なソフィーの反応を面白がっているような顔だった。まあね、と僕は頷いておく。
初めて乗ったベンツはさすがの乗り心地で、僕は椅子に身体を沈めている。何だか妙な感じだった。オーガスタスは僕以上に愛想がいいし、ソフィーは不機嫌だし、僕は一体これからどうなるのか、さっぱり検討もつかないし。
「……でもまぁ、ソフィーがそれでいいって言うのなら、いいんじゃないの? あんまりハメを外すようなタイプにも見えないし」
思ったままに答えると、オーガスタスはわずかに目を見開いた。バックミラーに映ったその顔を見て僕も悟る。何だ、オーガスタスだってそう思ってるんじゃないか。
妙に納得した気持ちで僕は口を閉じる。そこからは、オーガスタスは何も言わなかったし、ソフィーの方から口を開くようなこともなかった。高校生のお嬢さんらしく、あんまり父親とは打ち解けていないのかなとも思ったけど、別段居心地が悪いほどではなかったから僕も黙っておく。余計なことは言わない方がいいだろうから。
てっきり車は、ソフィーの家があるのだろう僕の近所に向かっていくと思ったのに、途中からだいぶ反れて来ていた。この辺の地理ならだいぶわかっているつもりだったけど、あまり馴染みのない場所に向かってベンツは突き進んでいく。閑静な高級住宅地。澄んだ青空がここまでおあつらえ向きに似合う場所もそうはないよとなと思いながら、どでかい門をくぐって入っていった先に見えた豪邸に、僕の目は釘付けになっていた。
「さあ、下りてくれるかな、ハウル」
歯磨き粉のCMに出てきそうな笑顔でオーガスタスは言う。あぁうん、と頷くだけで精一杯だった。何だ。何なんだこの家は。この狭い日本でどうしたらこんな馬鹿でかい家が建てられるんだ?
汚れ一つ無さそうな白亜の壁に、上品なグレーの屋根。玄関の扉にたどり着く前に、けっこうな階段を上らなければならない。お年寄りには優しくない造りだねなんて呟いたところで、ひがみにしか聞こえないなんてことはわかっている。
「……あんた、すごい家のお嬢さんだったんだね」
先に歩くオーガスタスに付いて二人で歩き出しながら、少し呆然としながら僕はソフィーに話しかける。
「あたしはここには住んでないわ。ここはオーガスタスの家だもの」
「そうなの?」
小声だったけど、ソフィーの声はちゃんと僕の耳に届いた。相変わらず不機嫌な顔のまま、僕の方を見ようともしないでソフィーは前だけを見つめている。凛とした横顔、とも言えるのかもしれないけど、可愛らしいお嬢さんが意地を張っているようにしか僕には見えない。
「入ってくれ」
お邪魔します、と言えるような状況なのかわからなかったから、小さく会釈だけしておいた。どうやら靴は脱がずにそのまま上がるらしい。大きなステンドグラスがはめ込まれた玄関は、それだけで何だか未知の場所に来てしまったような感じにさせられる。真っ直ぐに廊下を歩いて、多分右手のドアの先はダイニング・ルームなんだろう。人のいる気配を感じた。そこには入らずに、オーガスタスは廊下を真っ直ぐ歩いていく。壁には落ち着いた西洋画が何枚も飾られている。ついつい、これ一枚でいくらなんだろうなぁなんて考えてしまう。きっと庶民なんてみんなそんな物だと思うけど。
「さぁ、どうぞ。あぁ、ソフィー。君は同席しなくてよろしい」
大きな三つの革張りのソファが、敷かれた絨毯を囲むようにして並べられた部屋だった。多分、言うとすればゲスト・ルームみたいなものだと思う。きっとこんな大きな屋敷には、そんな名前のついた部屋が確かあってもおかしくないだろうから。
僕の後について入ってこようとしたソフィーは、オーガスタスの言葉に目を見開いた。それはもちろん僕も同じだ。
「……どうしてよ」
「大人同士の話し合い、というやつなんだよ。君に余計な口出しをされては困るんだ。向こうで大人しくしていなさい」
オーガスタスの声音は落ち着いていたけど、有無を言わさない口調でもあった。大人でも思わず息を呑んでしまいそうになるような、そんな声。
だけどソフィーは慣れているのか、ちっとも気おされた様子はなかった。食って掛かるようにしてオーガスタスを怒鳴りつける。
「あたしに関係することなのに、そのあたしを省いて話し合いなんてできると思ってるの!?」
「あぁ、できる。この件に関して、決定権を与えられているのは私だからね」
「そんなのずるいわ、オーガスタス…っ!」
「君が」
女をたらしこめようとする時のような声で良い、オーガスタスはソフィーの頬から顎にかけてをそっと撫でる。静電気でも起きたようにソフィーは一瞬びくりとすると、ぎゅっと唇を結んでオーガスタスを睨みつけた。
「私のことを名前ではなく、お父さんと呼んでくれるのであれば、少しは君の意見を尊重したかもしれないな」
「オーガスタス!」
「お父さん、だよ」
笑ってオーガスタスは言う。ソフィーのことなんて、これっぽっちも相手にしてはいなかった。
僕に座るように目で合図してから、何でもないことのように振り返って、閉めかけたドアを少しだけ開ける。ソフィーはまだそこに立っていて、顔を赤くさせていた。
「今日はジャン・バティストも来ている。私の書斎で勉強しているはずだよ、あまりにこの前のテストの結果が悪かったのでね。良かったら少し見てあげてくれないか? それから食事をさせてもらいなさい。世の中はギブ・アンド・テイクだからね」
ソフィーの返事を待たずに、オーガスタスはドアを閉めてしまった。扉は分厚く、ソフィーが例え廊下で何か叫んでいても聞こえそうにはなかった。でも、閉まる寸前に、先生、という言葉は聞こえたような気がした。聞き間違えじゃなかったはずだ。ソフィーが僕のことをそんなに心配してくれているのなら、それはけっこう嬉しいかもしれない。
もっとも、ソフィーにいくら心配されたところで、僕の状況は何も変わらないんだけど。
「さあ、これで子供はいなくなった」
暖炉(なんて物が実際にあるなんて、本当信じられないんだけど)の上にあったウィスキーのボトルを手に取ると、テーブルの上に置いてあったグラスにゆっくりと琥珀色の液体を次いで行く。
「昼間っから飲むのかい?」
「男には、たまにはそんな時間も必要だろう?」
この笑顔が曲者だ。爽やかに笑ってはいるけど、グラサンの奥の目は、多分油断なく僕を見ているはずだから。それが何となくわかる。多分、これが肌で感じるってやつなんだろうけど。 オーガスタスは悠然とソファに腰掛け、にこやかに僕を見上げる。挑発されたわけでもないのに、僕は勢い良く向かいの席に座り込んでいた。
どちらからともなくグラスを取って、一気に喉に押し流す。多分ものすごく上等のウィスキーなんだろうけど、味なんてちっともわからなかった。ただ、胃がかっと熱くなっただけで。
同時にテーブルにグラスを置いた、それが始まりの合図だった。
「さて、大人の話し合いを始めようか」



僕の生活なんて、適当に仕事して適当に遊んで適当に人付き合いをして。そんな繰り返し。
「まず第一に―――我らは、自分達の正体について、決して口外してはいけない決まりになっている」
のっけから、オーガスタスはそんなことを言った。
正体とか何とか……その言葉からして、この話し合いがただのそれでは終わらないことを告げているような気がした。今更ながらに、とんでもない方向へ向かっているんじゃないのか、僕は。
「それなら、今こうして僕と『話し合い』をしてるっていうのも、もしかしてやばいんじゃないの?」
「何事にも例外はあるだろう」
ここで初めて、オーガスタスはグラサンを取った。彫りの深い、ハリウッドスターみたいな顔が明らかになる。瞳は薄い青で、じっと僕を見つめる眼差しには親しみすらも感じられそうだった。大人の目にしては無邪気に見える。同時に、隙がないようにも見えるんだけど。
「私はあの子が可愛い。これが他のだれかであれば、私には関係のないことだと切り捨てていたが―――これがソフィーとなると、そうも言っていられないのだよ。現に彼女の体調はごらんの通りだ。今はジャン・バティストによって抑えられているが、それだけではダメなんだ。彼女の成長には……人間の血が、必要なのでね」
「―――」
よくもまぁ。
自分でも、叫びださなかったものだと思う。
日常と非日常の、ものすごい分け目に立っているような気分だった。今こうして僕は確かに座っていて、目の前には初対面の男がいて、こうしているのは確かに現実だというのに、まるで現実とは思えないこの会話は何なのだろう。
「良ければもう少し飲むといい」
オーガスタスはそう言って、空になった僕のグラスにウィスキーをついでくれる。お言葉に甘えて、僕はそれをまた喉の奥に流し込んだ。さっきよりも、もっと味はわからなくなっていた。ただ、喉を流れ落ちる感覚に、これは現実なのだと思い知らされただけ。十分だ。
「……なるほど、人間の血が必要ね。それで?」
「君には、それをソフィーに提供してもらいたい―――食事としてね」
「食事? あんたそれじゃまるで―――」
吸血鬼みたいじゃないか。
口から出かかった僕の言葉を見透かしたように、オーガスタスは笑う。この上もなく満足そうに。
眩暈なんてものは感じなかったけど、一瞬、頭の中が白くなったような感じはした。冗談と言って笑うには、この会話は確かに真実なのだとわかっていた。そしてこんなことは信じられないと言って逃げ出すことなんてできそうもないぐらいには、僕は柔軟力がありすぎた。
「……本当に、あんた達は、吸血鬼だって?」
「証拠をお見せできなくて辛いのだがね」
「目の前で人を吸うところなんて見たくもないんだけど……」
頭の中は、今までに無いぐらいに必死になって回転していた。
これだけ科学が発展した世の中になってさえ、それでも今になってやっと発見される生物がいるぐらいなんだ、それを考えれば吸血鬼だっていてもおかしくはないのかもしれないけど―――それでもやっぱり、映画や物語の印象が強すぎる。目の前のこの、白スーツが似合いまくってる男と吸血鬼って言葉は、どう考えても似合わない。
「え、だってあんた、さっき普通に外を歩いてたじゃないか。吸血鬼ってあれだろ、日の光に当たると灰になるんだろ?」
「純血の吸血鬼は確かにそうだ。だが私は―――私だけでない、今生きている大半の吸血鬼には、もうだいぶ人間の血が混じっている。日の光に当たっても平気だし、肉や魚や野菜などの食事も必要とする。その点においては、我らは君達と何ら変わりはない。ただ、多少の血が必要なだけでね」
「あぁそう……」
その、最後の一点が、ものすごく重要な気がするんだけど。
「つまりあんた達は、吸血鬼の末裔ってことなの?」
「そうとも言える。君は話の飲み込みが早くて助かるよ。レティーの選んだ男は、まったく大変だった。私が話し始めた瞬間に、くだらん冗談は聞く気がないと席を立ってしまったからね」
よっぽどその男の説得が大変だったのか、思い出しても疲れるようにオーガスタスは頭をふった。やっぱりそうだよな、普通はそういう反応をするものだろう。
「君はそれに比べて、本当に落ち着いたものだな、ハウル。驚きはしないのかね?」
「いや、驚いてはいるけど……まぁ、まだ多少実感が沸かないってのもあるけどさ。僕が知らなかっただけで、吸血鬼だって宇宙人だっている所にはいたんだな、と思ってさ。世界は広いんだし、いてもおかしくはないって気はするかな」
世の中の大半の人たちは、自分の目で見ない限り―――時には見たとしても―――その存在を信じはしないものだけど。
こういう時、いかに自分が日ごろ真面目に生きてないかを浮き彫りにされる気がする。真面目に日常を送っていれば送っているほど、この手の非常識な事柄にはついていけなくなるものだろうし。その点僕は日ごろからいい加減だから、目の前の男がいきなり吸血鬼だと名乗っても、まぁ別にいいかなぐらいにしか思わない。それで僕に襲い掛かってくるのなら話は別になるけど。
僕の答えに、オーガスタスは非常に満足したようだった。もしかしたら、こんな風に答えたのは僕が初めてだったのかもしれない。
「やはり、私の見る目は確かだったな。君を選んでよかった」
選んだ、っていうのは、もちろんソフィーへの血液提供者ってことなんだろうけど。
この目の前のオーガスタスが吸血鬼ってのはまだいい。何となく怪しげな雰囲気がそれっぽいと思えなくもない。だけど―――ソフィーが、吸血鬼。これ以上似合わない組み合わせってあるんだろうか。あんな可愛い、どこにでもいそうな女子高生が吸血鬼だなんて。
「僕を選んだ基準、ってのは何なの?」
「基本、別にだれでも構わないんだよ。健康な人間であれば」
だれでもいいと言われて、ちょっとがくっとする。別に何か特別な理由が欲しかったわけじゃないけど。
「ただまぁ、子供やお年寄りはあまり好ましくはない。多少血が無くなっただけでも体調不良を起こしてしまうからね。その点、君のような大人の男は一番好ましい。多少吸いすぎてもそう簡単には倒れそうにはないからね。ソフィーも久々に満腹感を味わえるだろう」
「いや、あの……」
娘のことを思って笑顔になるのはいいんだけど、あんまり吸いすぎてほしくないんだけどな、こっちは……。
「そして―――これが一番重要であり、だからこそ選出が難しくなるんだ。選ばれた人間は、相手の吸血鬼に対し情がなければならない」
「情……?」
「愛情であったり友情であったり。その種類は問わないが、何かしらかの情がなければならないのだよ」
「何で?」
思わず問いかけた僕に、オーガスタスの方が驚いたような顔になった。グラスを口に運び、僕とは違い存分に味わってから口を開く。
「わからないかね? 毎日のように血を吸われるんだ。噛みつかれ、自分の血が吸いだされる音を聞く―――何の情もない赤の他人のためにそこまでのことができるとでも?」
「でも、僕は別にソフィーの恋人でも友達でもない」
「だが、情はあるだろう」
反射的に言った僕に、オーガスタスは間髪いれずにそう返してくる。
「もちそん、そう厚いものではないのかもしれない。だが君は、今日もソフィーを心配してあの場にいたのではないのかね? ソフィーもずいぶんと君の心配をしていた。あまり人付き合いを好まないソフィーにしては珍しいぐらいにね。ただの保健医と生徒という、それだけの関係には見えなかった」
「……あんたの買いかぶりだったら?」
確かに僕はソフィーのことを心配していた。でもそれは、純粋に心配と言うには少し違うような気もする。ソフィーには何かがありそうで、それがずっと気になっていた―――実際、何かがありそうなんてものじゃなかった。吸血鬼だったわけなんだけど。
「そう、その可能性は多いにある。だが私は、その可能性にすら賭けてみなくてはならないのだよ。即急に見つけないことには、あの子の体調は悪化するばかりだ」
「血液提供者を見つけるのも大変、ってわけか」
「私はパートナーと呼んでいる。恋人であれ友人であれ、かけがえの無いパートナーであることに違いはないからね」
言い方を変えればいいってもんでもないと思うけど、それは吸血鬼側からしてみれば重要なことなのかもしれない。
もしかしてオーガスタスは、ソフィーの“パートナー”を探すのに、今までけっこうな苦労をしてきたのかもしれない。確かにけっこうな情がなきゃできない仕事だけど、かといってあのお嬢さんは、自分の友達から血を吸うなんてことは嫌がるだろう。そういえば校門のところでも、オーガスタスのベンツを見かけた瞬間にものすごく慌てていたけど、それってこうなることを見越していたのかな……。
「もちろん、ただ血を吸われるだけでは、君にとっては損な話だろう。だからこれでどうだね?」
ゆっくりと、天井に向けて、オーガスタスは人差し指を立てた。
大人同士の話し合いで、金が持ち出されるのはよくある話だ。だからソフィーを同席させなかったのか。ベンツに、この豪邸。まさか一万なんてことは無いだろう。
「……百万?」
「もう一つ零をつけてくれて構わないよ」
「って、え……」
ありえない金額に言葉がつまる。一千万って、軽く宝くじの賞金額だ。
「もちろん、それは一月に支払う金額だ。ソフィーが高校を卒業するまで、毎日とは言わないが、あの子が倒れない程度に血液を提供してやってほしい。今あの子は吸血鬼としての成長期というやつでね……そうでなければ、ジャン・バティストだけで十分なんだが。それもあと一年もすれば終わるだろう。どうだね、悪い条件ではないだろう?」
「―――ソフィーが高校を卒業する頃には、ソフィーは体調良好に、僕は億万長者になってるってわけか」
オーガスタスはゆっくりと頷く。僕の発した億万長者って言葉に、もう僕の気持ちは決まったものだと思ったらしい。
ウィスキーの入ったグラスを空にした。最後の最後で、ようやく味がわかってきたような気がする。暖炉の上に置かれたボトルを見る。ぱっと見ただけではあまりわからなかったけど、日本で売られていない種類のものであることはわかった。もしかしたら一千万という金額だって、この男にとってはそう高値でもないのかもしれない。
「オーガスタス」
「何だね」
「その条件は気に入らないな」
オーガスタスの笑顔はちっとも崩れない。まったく、大した男だ。ここで残念そうな顔の一つでもしてみれば、多少の親近感は沸きそうなもんなのに。
「一千万では不足かな。私の知っている限りでは、学校の保健医の給料からは程遠い金額だと思うのだが」
「あのねぇ、そこなんだよね」
オーガスタスの口調は、まるっきり商談を進めようとするビジネスマンだ。でも生憎なことに僕の血は商品なんかじゃない。こんな金のやり取りが行われていることを、ソフィーが知ったらどう思うんだろう?
「確かにね、僕の給料は微々たるものだよ。贅沢らしい贅沢なんて何もできないよ。でもね、自分が楽しむ程度の金ならやりくりできてるし、あんたから貢いでもらう必要はこれっぽっちも無いんだ」
「……この話し合いは決裂ということかい?」
「だから、最後まで僕の話を聞いてくれよ。だれもそんなことは言ってないだろ? 僕はただ金は受け取らないって言ってるだけだよ。ソフィーに血は提供する、だけど金はいらない。ただそれだけだ」
その台詞に、初めてオーガスタスの笑顔が崩れた。純粋な驚きでいっぱいになる。信じられないものを見るような。って、吸血鬼にそんな目で見られるっていうのもあれなんだけど。
「だってさ、考えてもみてよ。相手が男だったりしたらさ、そりゃ多少の金でももらわなきゃやってらんないなって感じだけど……ソフィーみたいな可愛い女の子が相手なのにさ、ちょっと血をあげるぐらいで金もらっちゃうとか、それって男としてかなり最低だなって思わない? 僕は嫌だよ」
金をもらってやるぐらいなら、いっそ善意でやってしまった方がよっぽどいい。ソフィーに血を吸われるたびに、これでいくらだななんて考えてしまうようなことは絶対に嫌だ。
世の中全て金で動くなんて思ってほしくない。可愛い女の子は、僕にとって金以上の存在なんだからさ。
「君は、ずいぶんと変わった人間だな、ハウル」
「よく言われるよ」
「本当にこれでいいのか?」
僕は頷く。全然これで構わない。もっとも、ソフィーがどう思うかは非常に謎だったけど。
「そうか……わかった。君には感謝する。何かあったらいつでも言ってくれ、私でよければ君の助けになろう」
「おやおや。吸血鬼の味方ができるってのは心強いね」
「そうだろう?」
笑いながら僕らは立ち上がる。話し合いが終わって部屋を出る。多分ソフィーの所に行くんだろうなと思いながら、僕はふと気づいたことを尋ねてみた。
「ねぇ。今、ソフィーはジャン・バティから血をもらってるんだろう? えぇっと何だっけ、成長期だからそれだけじゃ足りないってこと? ってことは、ソフィーってなに、かなり血を吸ってくれるわけ?」
採血して倒れたことはないけど、あまりに飲まれすぎたら僕もまずいんじゃないのか。ソフィーが貧血にならないために血をあげるのに、それで僕が貧血になったりしたらたまらない。
「いや、それは別に平気だよ。ソフィーは人間的にも我々的にも小食でね、満腹になるぐらい吸ったとしても、せいぜい君にとっては献血されるぐらいのものだろう」
「それなのに、ジャン・バティだけでは満足できないわけ?」
「言っただろう、ソフィーには人間の血が必要なんだ」
成長期にはそれが欠かせないんだとオーガスタスは言う。だからジャン・バティがいるんじゃ……。
「ジャン・バティストは人間ではない。狼人間なんだよ」
「…………………………………………へぇ」


僕の生活なんて、適当に仕事して適当に遊んで適当に人付き合いをして。そんな繰り返し。

どうやらそれに、ソフィーへの食事提供って項目が追加されるようだった。
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