ブラッディ・マリーはいかが?


...5話
「おっと、仕事先からの電話だ。悪いがハウル、先に書斎に行っててくれ。そこの廊下を曲がったところにある」
一緒に廊下を歩いていたオーガスタスは、ポケットから携帯を取り出してそう言った。吸血鬼がいったいどんな仕事をしてるんだか……。気になったけど、尋ねる前にオーガスタスはどこかの部屋に入って行ってしまった。
言われた通りに廊下を曲がり、その突き当たりの書斎へと向かって行く。ノックをして扉を上げる。扉は重く、一般家庭には到底ありそうもない重厚な扉だ。
「……だから、どうしてそこでその数字を入れちゃうの? それはこっちに代入するってさっきも……」
「待てよ、ソフィー」
扉を開けたとたんに聞こえてきたのは、どうやら数学を教えているらしいソフィーの声。声をかけようとした瞬間に、ジャン・バティストはソフィーの腕を引っ張り、机に向かっていた二人はくるっとこっちを振り返る。
「先生様のお出ましだぜ」
憎らしい顔に、皮肉めいた笑顔を浮かべるジャン・バティストと、僕の顔を見て固まりつくソフィー。僕の姿を見て凍りつく女の子は、きっとソフィーが最初で最後だろうな。
「やあ、ソフィー」
軽く手を上げてソフィーに近づこうとすれば、それを邪魔するように僕らの間にジャン・バティストが立ちふさがった。前にも思ったけど、こいつはガキにしてはずいぶんと背が高い。僕だって人並み以上に長身だけど、その僕と同じぐらいの背丈じゃないか。もっとも、分厚い筋肉のついた腕は僕よりも太そうだけど。
「さっさと出てけよ。ただの人間風情が」
どうやらもう、僕の前で正体を隠す気はさらさら無いらしい。……ただの人間風情、ね。なかなか味のある台詞じゃないか。
「そういうわけにはいかないんだよ。僕はオーガスタスに頼まれたんでね」
「頼まれたからにはやらなきゃならないとでも? ずいぶん正義かぶれな野郎だな。そんなこと言えないようにしてやろうか。俺に噛みつかれたらただじゃいられないぜ」
そう言ってジャン・バティは唇をむく。ずいぶんと尖った、鋭い犬歯があらわになる。ソフィーよりもずいぶん立派な歯をしてるじゃないか。むしろ本当はこいつの方が吸血鬼なんじゃないのか?
「確かにね、自慢するのもわかる立派な歯だよ。それならそこらの野良犬と喧嘩しても勝てるんじゃないの? どうやらオツムの方はどっこいどっこいなようだからね」
人差し指を頭に向けてくるくるっと回してみれば、牙を向いたままのジャン・バティの顔にしわが寄った。喉の奥から、本物の狼のような唸り声が漏れる。それにはさすがにびっくりした。
「おまえの死体を野良犬の餌にしてやるよ」
「もう、止めてよジャン・バティ。先生にひどいこと言わないで」
腕を引っ張りながら、ソフィーが可愛らしく懇願する。話を聞いた後でも、やっぱり信じられない。この可愛い、どこにでもいそうなお嬢さんが吸血鬼だなんて。そして僕はソフィーに血液を提供する―――そういう言い方をすればまともに聞こえるけど、ようは吸わせてあげるんだ。人生初の試みじゃないか。
僕には威勢のいいことを言うジャン・バティも、ソフィーに止められれば素直に口を閉じる。可愛い彼女のお願いには勝てないってわけかと、僕は笑いながら二人を見る。狼人間と吸血鬼のカップルだなんて、ハロウィンぐらいにしか流行りそうにないけど。
「えーっとさ、ソフィー。あのね、そういうわけで……僕はオーガスタスに頼まれてさ……」
何て言えばいいんだ。パートナーだなんて言葉、どうにも恥ずかしくて口にできない。かと言って血液提供者だなんて、そんな身もふたもない言い方をしていいものなのか。そもそもどんな言い方をするのが正しいんだ? 吸血鬼に対する礼儀マナーなんて、当たり前だけど僕は何も知らないんだ。
「知ってるわ」
でも、悩む僕をよそに、ソフィーは少し青ざめた顔で小さくつぶやく。
「知ってるって……話し合いが終わってから、まっすぐこっちに来たんだよ。オーガスタスだってまだこっちには来てないし」
「ジャン・バティが聞いてたの」
聞いてたって、僕らの話し合いを?
そんなバカなと思ったけど、ちらりと見るとジャン・バティは勝ち誇ったような顔をしている。何さ、ガキが。
「ジャン・バティは耳がいいの。ここからでも、二人の話し合いはよく聞こえるのよ」
それって、耳がいいどころの話じゃない気がするんだけど……。
「じゃあ、僕が改めて話しをする必要はないってことか。盗み聞きごくろうさん、ジャン・バティ」
「よっぽど殺されたいらしいな、先生さん。気安く呼ぶんじゃねぇよ」
「止めて、ジャン・バティ。先生も、ジャンを怒らせるようなこと言わないで」
ソフィーは僕ら二人を睨み付けながら強い口調で言う。やれやれと僕は肩をすくめた。別にこんな子供と喧嘩をしたいわけじゃないけど、でも妙に勘に触る奴だ。大体、何でこんなに僕を敵視するんだか。オーガスタスなんてあんなに友好的な態度だったっていうのに。狼人間は粗野なのか。
椅子に腰掛けたままのソフィーは、少し俯いてから顔を上げ、まっすぐにジャン・バティを見上げた。
「先生と話があるから、ちょっと二人きりにしてもらえる?」
「は? こいつと何話すことがあるんだよ。俺がその窓から放り出してやるよ」
「そんなことしたら、オーガスタスに怒られるわよ、ジャン・バティ」
その台詞はずいぶんと効果があったらしい。顔をしかめると、けっと椅子の脚を蹴飛ばしてから、ジャン・バティは僕の横をすり抜けてドアへと向かって行く。でも、捨て台詞を残すことは忘れなかった。
「ソフィーに妙な真似したら噛み殺すからな」
「ジャン・バティ!」
真っ赤な顔でソフィーが叫ぶ。ジャン・バティはそんなソフィーには目もくれず、僕を睨み付けてからドアの向こうに消えていった。
ソフィーに妙な真似って、一体何を想像したんだか。こんな子供に手を出すほど、僕は女に不自由なんてしてないってのに。
「あんたの彼氏はずいぶんと心配性みたいだね」
燃え上がりそうなほど真っ赤な顔をしているソフィーの気を解そうと、わざと軽い声を出しながら僕はソフィーの隣に腰掛ける。机の上には数学の教科書が広げられたままだ。何て懐かしい。
「だから僕が近づくのが嫌なのかな。自分の可愛い彼女を取られるとでも思ってたりとか?」
「……彼氏なんかじゃないって、さっきも言いましたけど」
「あれ、そうだっけ」
でもなぁ。ソフィーの態度はともかく、あいつの態度はどう見ても独占欲の強い子供っぽい彼氏にしか見えないけど。
「ジャン・バティは人間が嫌いなの。まぁ、先生には特に態度がきついけど……でも、普段は優しいのよ。あたしにもすごく良くしてくれてるもの。数年前に初めて会った時から、ずっと傍にいてくれてるし」
「それって、あっちはあんたのことが好きだからじゃないの?」
「そんなわけないでしょ? 勝手なこと言うと、またジャン・バティに怒られるわよ、先生」
少し笑ってソフィーは言う。くだらない冗談を聞いたかのような顔をしながら。
そうかな、と僕は内心で首を傾げる。恋愛の機微には人一倍鋭い自信があるんだけど。そうでなくても、さっきのジャン・バティの態度はあからさまだ。気づいてないのはソフィーだけなんじゃないのか?
「あんたは、どうなの? あいつのこと好きじゃないの?」
「え? そりゃ、好きよ。妹たちと同じぐらい。今じゃ家族みたいだもの」
どうしてそんなことを尋ねられるのかわからないって顔でソフィーは答える。僕が聞きたかったのはそういう意味じゃないんだけど……あいつも苦労してるんだなと、うっかり同情しそうになってしまう。自分の恋愛が上手くいかないから、だから八つ当たりをしてるとか? ありそうだな、それも。
「それはそうと、先生」
とたんにソフィーが真面目な顔になる。唇を引き結んでるこの顔は、ソフィーを知ってからよく見てきた顔だ。さっきみたく笑ってる方がずっと可愛いってことを、本人は気づいてないのだろうか。
「どうして……どうして断らなかったの。どうして嫌だって、オーガスタスに言わなかったの?」
「どうしてって……」
泣いて喜ばれるとは思っていなかったけど、泣きそうな顔で責められるとも思わなかった。
理由を聞かれると、少し困る。どうしてって、そんなの僕自身でもよくわからないんだから。
「だれでもね、多少の良心があれば、困った人を助けてあげようって思うんだよ。まぁ僕の場合は若い女性限定だけど。男はほっとくね」
「そんな、道を教えてあげるとか、重たい荷物を運んであげるとか、そんなのとは違うのよ? 先生はあたしに……あたしに……」
膝の上で拳をぎゅっと握って、ソフィーは俯いてしまう。自分の握りこぶしをじっと見つめる。泣くのを堪えるかのように、その小さな体が震えている。
―――参ったなぁ。
女の子のこんな姿を見るのは、大抵別れ話を持ちかけた時ぐらいだ。血液提供を嫌がられた場合には、一体どうすればいいんだ? 慰めるべきなのか、やさしく抱き寄せるべきなのか。
「あのさ、何でソフィーはそんなに嫌がるのかな。あんた、このままじゃ体調の方だってまずいんだろ? あんなしょっちゅう貧血で倒れてたら、授業だってまともに受けられないしさ。それを、僕がちょっと……ねぇ? すればさ、解決できるっていうのなら、ありがとうって頷けばいい話じゃないか。あんたにとっちゃ損のない話だろう?」
「先生とっては、損ばっかの話じゃない」
「でもまぁ、若い女の子に噛まれるのはそんな嫌じゃないっていうか……」
「女の子じゃないわ。化け物じゃない!」
びっくりした。急にソフィーが立ち上がって、ぶるぶる震えながら僕を見下ろしている。
「ちょっと、ソフィー……」
「女の子なんかじゃないのよ、あたしは! どこの世界に、人の血を飲まなきゃいけない女の子がいるっていうの? 血を飲まなきゃ具合が悪くて倒れてばかりいるなんて、そんなの女の子なんかじゃない、ううん、人間ですらない……! 化け物なのよ、あたしは! 先生はなのに、そんな気安く、ちょっと手助けするぐらいの気持ちで、あたしに……!」
「わかった、わかったからちょっと落ち着いてよ、ソフィー」
「先生はなんてバカなのよ!」
あぁ、まったく。
女の子の癇癪には慣れている。でも赤毛の女の子には慣れてない。だからだろう、泣き顔を見ただけで、こんなにも嫌な気持ちが胸いっぱいに広がっていくのは。
僕の目には、やっぱりソフィーは普通の女の子だ。どこにでもいるようなお嬢さん。僕が別れ話を切り出す時、大抵の女の子はこうやってみんな泣き叫ぶ。同じじゃないか。だからそれと同じように僕も扱う。抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。
「やだ、放して先生……!」
「あんたが泣き止んだら放してあげるよ」
それまでは僕の服を好きに濡らすがいいさ。
大体女の子は、泣き顔を見られるのは嫌なものなんだから。化粧が崩れるからね。ソフィーはそんな心配はいらないようだったけど、でも、涙と鼻水でぐちょぐちょになった顔なんて、なるべく人には見せたくないだろうから。僕も女の子の泣き顔を見るのは苦手だし。
「あんたが泣き喚くと、ジャン・バティが来ちゃうじゃないか。僕が泣かしたなんてばれたら、本当に腕の一本ぐらい噛み千切られそうだよ。すごい八重歯だからね」
ひっくひっくと嗚咽をもらすソフィーの頭を、よしよしと撫でてやる。何だか妹でもできた気分だ。何となく、ソフィーを恋人のようには思えない。色気が足りないからなのかも。
ソフィーの涙はすぐに止まった。そうわかって、ゆっくりと腕を放してあげる。恥ずかしそうに、ソフィーは腕で顔を拭っている。泣いているところを見るのは苦手だけど、泣き終わった後の恥ずかしそうなところは可愛いと思う。
「落ち着いた?」
「……泣いちゃってごめんなさい」
「や、慣れてるからいいんだけど」
でもさすがに、自分の勤める学校の生徒ともなると、何だか妙な心境だったけど。
「あのさ、泣かないであんたとも話し合いをしたいんだけどさ……そんな悲観的にものを考えないでさ、もっと簡単に考えたらいいんじゃないのかな」
って、思ったんだけど。
少し赤くなった目で、睨み付けるようにしてソフィーは僕を見上げてくる。
「楽観的に考えろって? でもね、どう考えようがあたしが化け物であることに変わりはないのよ」
「だからさぁ、その化け物っていうのも……別にちょっと人と食生活が違うだけじゃないか。そんな、人生の終わりみたいな顔しなくても。ねぇ?」
「ちょっと? えぇそうね、ちょっと人と違うだけよね。ほんの少し人の生き血をすするだけだもの。ちょっとしか違いなんて無いわよね!」
言ってから、自分で自分の台詞にショックを受けたようにソフィーは黙り込んでしまう。まったく、真面目なのも考えもんだね。自分を追い込んじゃうんだから。
「そうは言うけどさ。僕前にテレビで見たことがあるよ。どっかの国の女性でさ、泥を食べる人がいるって。もう何年もずっと泥を食べて生活してるんだよ。そういう人に比べたらさ、あんたのが全然人間らしいと思うけどなぁ……ほら、だって普通の食事も食べるんだろう?」
全然問題ないよと笑ってみせれば、ソフィーはあきれ返ったように目を見開いた。
少しの沈黙の後、恐る恐るといった感じでソフィーは口を開く。
「……先生、それ本気で言ってるの?」
「僕はいつでも本気だけど」
本気で不真面目に人生を送ってきたつもり。
「だってさ、オーガスタスも……見た目はまるっきり普通の人間じゃないか。まぁちょっとあのファッションセンスは痛いかなと思ったけど。白スーツにサングラスってちょっとね……。決められた人間からしか血を貰わないっていうのもいいと思ったけどな。見境なく襲い掛かったりしたら大変だし。それに、人から血を貰うのは今だけなんだろ? 成長期だとか言ってたけど。そう考えればさ、別にそう大したことはないじゃないか。そうは思わないかな」
僕の説得を聞いているのかいないのか、ソフィーはまん丸な目で僕を見上げ続けている。
「僕は別に、あんたが吸血鬼だろうと何だろうと気にはしないけど」
見た目が可愛きゃ問題ないよ、って言葉は飲み込んでおいた。何となく怒らせるような気がして。
「ね、ソフィー」
「……おかしいわよ、先生」
ソフィーの声は震えていて、また泣き出すのかなと思ったけど、ソフィーは何とか笑顔を浮かべていた。
「まぁ、それはよく言われてるから」
「そりゃそうよ」
諦めたようにソフィーは息を吐く。納得してくれた……の、かな。
「先生が貧血になったって知らないわよ」
「大丈夫、今日からレバーをいっぱい食べるよ」
「……あたし、レバー苦手」
「あんたそんなこと言ってるから貧血になるんじゃないの?」
つまりそういうことで話は決まりだった。
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