ブラッディ・マリーはいかが?


...8話
もうすぐテストということで、校内中は少し落ち着かない雰囲気になっている。
一応ここは進学校だから、テスト前ともなれば真面目に勉強をする生徒達の姿があちこちで見られるようになる。
休み時間ごとに生徒達が質問に来るもんだから、主要教科持ちの先生方は本当に忙しそうだ。通常の授業はもちろんあるわけだし、それに使うプリントやらの作成をしながらも、肝心のテストを作ったり何なり。職員室はテストの数日前から生徒達は出入り禁止になって、授業が終わっても質問尽くしで教室に足止めされている先生達の姿を何度も見かけた。
学校中が、そんな感じで、ざわざわと落ち着かなくなる。
でも、しがない保険医の僕の生活は何にも変わらない。何て幸せなんだろうこれって。
「ねぇ先生。テストとかもうやだぁ」
いつものように休み時間に保健室に来る女の子達は、そうやって愚痴を吐きこぼす。
根は多分真面目な子達だから、きっと毎日のテスト勉強で参ってるんだろうなぁと思うと、何だか微笑ましい気持ちになってくる。
「まぁまぁ。あとちょっとなんだからがんばりなさいって。終わったらほら、ちょうど連休だろう? めいっぱい遊べるじゃないか」
「じゃ、先生一緒に遊んでくれる?」
「あ、いいなぁそれ! 先生あたしディズニー行きたいー。車で連れてってー!」
「……あのね君たち、これでも一応僕は先生なの」
遊びになんて行けるわけないだろ、とため息をつくと、えーっと非難の声が上がる。勘弁してくれ。
世間一般の男たちからは、『女子高生』なんてシールが貼られた女の子達は、まるでプレミア価値でもあるかのような扱いだけど。でも実際に毎日傍でそんな子達を見てる側として言わせてもらえば、やっぱりまだ子供で、そういう関係にはなれないよなぁという気がしてくる。いや、なっちゃまずいしなる気もないんだけどね。
「だって。休みの日は好きなことしてもいいんでしょー?」
「でもね、教師が生徒と遊びに行ったりしたら、すぐさまワイドショーのネタにされちゃうよ。君たち僕を失業させたい気?」
げんなりしながらそう言うと、女の子達は顔を見合わせてくすくすと笑う。そっちは冗談かもしれないけど、こっちにしたらたまったもんじゃない。
「ほらほら、嫌だなんて言ったってテストは受けなきゃならないんだから。早く教室戻って勉強してなさいって」
「先生までそんなこと言わないでよ! 普段不真面目なくせに」
生徒達にまでそう思われてるのか、僕は。
まぁ自業自得だけどねとため息をつきながら、出て行く女の子達を見送った。勉強することの大切さを知るのはいつだって後からで、その時には気づかないものなんだから仕方ない。気づいた時に勉強するかって言われたら、僕は全くしなかった口だけど。
それにしても、ディズニーねぇ。
眼鏡を外して窓の外の校庭を眺めながらぼんやりと考える。
以前に何度か女の子に誘われて行ったことはあるけど、別に楽しくも何ともなかった。
やたらと人は多いし待ち時間は長いし、大体あんな乗り物に乗って上下左右に動いて何が楽しいのか、僕にはちっともわからなかった。みやげ物を見たって楽しいのは女の子だけで、あんな空間で他の男たちは何をして楽しんでるっていうんだか。さっぱり理解できない空間だった。
それともあれかな、好きな人と一緒にいればそれだけで楽しめるものなのかな。
じゃあ僕には一生縁の無い場所なのかもしれない。それでも別に構わないけどね。
大体において保険医なんて暇なものだけど、それでも何百人も生徒のいる高校に勤めていれば、一日に何人もの怪我人はやって来る。体育の授業で転んだり捻挫したり、腹痛だったり頭痛があったり。今日の午後もそんな生徒がいっぱいで、テスト前だからってあんまり無理しちゃいけないよなんて話を何回したかわからない。
テスト前は部活も無くなるから、放課後はすぐに校内は静かになる。
溜まった事務処理をして、ふと時計を見るともう六時過ぎだった。
「……真面目に仕事してるよなぁ」
信じられない、と自分でも思う。
僕が高校生ぐらいの時には、真面目に働く将来の自分なんて想像もできなかったもんだけど。でもやっぱりなるようになるんだろうな。悩んでたって眠ってたって時間は経っていくんだから。
そろそろ帰ろうかと立ち上がる。白衣を脱いでカバンに必要な物を詰め込んで。
ドアにかけた鍵を預けに行く途中ですれ違ったのは、トルーマン先生。学校の教師らしく地味できちっとした、でもスタイルも良くて可愛らしい顔をした黒髪の女教師。
「あら、ジェンキンス先生。まだお仕事されてたんですか?」
「えぇ。今日は保健室に来る生徒が多くて、事務作業ができなかったもので」
「そうなんですか? テスト前ですからね、なるべく生徒達には体調を崩さないでもらいたいものですよね」
「ですよね、本当に」
微笑み合ってお互いに笑う。
わかってるんだ、お互いに作り物の笑顔だってことは。
いつどこで他の教師が、生徒が見ているかわからない学校ではこんなもの。スリルがあっていいのかもしれないけど、たまに面倒になることも確か。
「重そうですね。その本は図書室に?」
抱えてる本を見て僕は尋ねる。トルーマン先生は国語教師だったか。教科柄授業に本をたくさん使うのかもしれない。
「えぇ。生徒に持っていくように頼んでいたんですけど、この数冊だけ忘れていたみたいで。後ろの黒板の前に置きっぱなしだったんですよ」
「良かったら、僕が戻しておきますよ。女性には重たいでしょう」
「まあ、ご親切にどうも」
とりあえず、この本ぐらいで今日は開放してもらえるのならありがたい。
また明日、と微笑んで僕は立ち去ろうとした。
そのはずだったのに。
「……来月辺りには、約束を果たしてもらえるんでしょうね?」
すれ違い様に。
香水の香りに紛れて聞こえた確かな呟き。
僕は答えずに、視線だけを交わして通り過ぎる。
美人との約束。けっこうじゃないか。確かにそう思ってたはずなのに、どうしてここ最近は気分が乗らなくて先送りにしてたんだ。
最近の僕の日常がめまぐるしいからかもしれない。何も変わったことはない。でも精神的に。つまりそんな気分にならないってだけなんだけど。
受け取った本の重さと無駄な労働に嫌になりながらも、人気のない廊下を歩いて図書室へと向かって行く。当然だけど、日ごろは足を向けないような場所。僕が学生の頃だって滅多に行くようなことはなかった。女の子といちゃつくのには格好の場所だったけど。でも今の子達は平気でラブホに行くのかな。
完全下校時間を過ぎているからか、図書室の中にも人の気配は無かった。
「……これ、どうすればいいんだ?」
カウンターに置いておけばいいものなのか。でもだれもいないし、ここにぽんと置いて行っても困るんじゃないのかな。
ってことは、棚に戻さなきゃいけないのか? そう気づいて、簡単に言い出したことを後悔した。あぁくそ、こうなるとわかっていたらあんなこと言わなかったってのに!
ぶつぶつ言いながら図書室の中を歩き回る。幸い全部、竹取物語やら枕草子やらで、古典のコーナーに戻せばいいだけだから楽だった。それを探して無駄にうろうろしてしまったことは確かだけど。バスを一本や二本逃したかもしれない。
「あー、行っちゃったばっかりかな」
時計を見てため息をついた。やっぱり車通勤にすべきかな。でもバスは乗れば寝ていけるからそれはそれで楽なんだ。
とにかく帰ろうと踵を返したところで、ふと気づいた。
人の気配。
入った時には気づかなかった。図書室の奥の奥。
まだ残ってた生徒がいたのかと驚きながら、やっぱり注意していくべきだよなと思って歩いて行く。チャイムの音が聞こえなかったのか? それとも、カップルがいちゃついてるとか?
「あのねぇ、もう下校の時間は過ぎたんだから、さっさと家に―――」
「……先生」
小さい声なのに不思議と耳に響くんだ。
「うわ、なんだ。ソフィーか。あんた何してんの」
「何してるように見えますか」
驚いて尋ねた僕に、どこか呆れたような口調でソフィーはそう言い返してくる。
机の上には教科書と参考書とノート。たくさん消しゴムのカスが散っている。
「勉強してたの?」
しかもこんな時間まで。図書室に一人きりで。
「テスト前ですから」
「まぁそうだけどね」
当たり前のようにソフィーは答える。真面目なんだろうなっていうのは服装からもわかってたけど、本当に真面目っ子じゃないか。
あぁそういえば、テストじゃいつもクラスで一位だとかだれかが言ってたっけ。こんぐらい勉強しなきゃやっぱ取れないものなんだろうな。
「だけどね、もう下校時間過ぎてるよ。そろそろ鍵を閉めに先生も来るだろうし、あんたも帰りなよ」
「……ホントだわ」
壁にかかった時計を見上げて、ソフィーは少しびっくりしたようだった。時間も忘れるほど勉強に集中してただなんて、担任の先生が聞いたら泣いて喜ぶんじゃないのかな。
ソフィーは慌てたように教科書や筆箱をカバンに詰めていく。立ち上がって、傍にあった紙袋も掴む。
「その袋、何が入ってるの?」
「え? あぁ、他の参考書がカバンに入らなくて、それでこっちに入れてるんです」
呆れるほどご立派じゃないか。
「貸して」
ため息をつきながら僕はその紙袋を取った。大して重くはなかったけど、学校指定のカバンの方にはぎっしりと本が詰め込まれてるんだから、これが無くなっただけでも多少は楽なはずだ。
「え、先生。大丈夫ですから」
「いいよ。どうせ同じバスなんだし」
「え?」
「……あのね、忘れてるかもしれないけど、僕の家はあんたの近所なの」
家の周りでばったり会ったりなんてことはもちろん無いけど、同じバスに乗って、同じバス停で降りるぐらいには近所なんだ。
「あ……」
「思い出してくれた? じゃあほら、行くよ。もう外は暗いじゃないか」
僕は早く帰りたいんだ。さっさと歩き出した僕の後を、慌てたようにソフィーは追ってくる。
幸いなことに、学校を出てバスに乗るまで、だれにも見られることは無かった。見られたところで、何も別に困るようなことは無いんだけど。同じバスを使ってることは確かだし、バス通学をしてる教師は僕だけじゃないんだから。でも、余計な波風は立てないに限る。
その間ソフィーは何もしゃべらなかった。話しかけてこなかったし、僕も何となく話しかけなかった。沈黙が苦にならないのは、少し不思議なことだった。
一番後ろの席に並んで腰掛ける。他の生徒達がいないせいか、バスの中はガラガラだった。
「勉強するのはいいけど、もうちょっと早く帰りなさいね。暗くなったら危ないだろ、女の子なんだから」
「……先生みたいなこと言うのね」
だって僕は先生なんだよ。
と、反論はできなかった。
別に、先生として言ったつもりなんてなかったんだ。ただそう思ったから言っただけであって。
「あんたって勉強熱心だね。勉強好きなの?」
話をそらすように僕は言う。どうしてだろう、保健室に来る女の子達としゃべるのは楽なのに、同じ調子じゃソフィーとしゃべれない。あの子達とソフィーじゃ、全然タイプが違うからなのか。
「好きじゃないです、別に。勉強が好きな子なんていないと思うわ」
ソフィーは小さく笑う。そりゃそうかもねと僕も頷いた。
「でも、こんな時間まで学校に残って勉強するんだから偉いよね」
「先生はしなかったんですか?」
そんなことを、他の子たちもよく聞いてくる。
素直に答えたりしたらダメなんだ。しなかったなんて素直に答えたら生徒達の見本にならない。だれに言われなくても、しがない保険医だってそんなことよくわかっている。わかっているのに。
「うん、しなかったかな」
気づいたら僕はそう答えていた。
もう勤務時間外だから? いや、ソフィーは制服を着ているし、自分の職業を忘れたわけじゃない。でも素直にそう答えていた。
「でも、今ちゃんとお仕事をしてるんだからすごいわ」
ソフィーは茶化すわけでもなく、いたって普通にそんなことを言う。昼休みみたいだ。ソフィーと二人で過ごす屋上の時間。だから僕も素直に答えてしまうのかもしれない。
「どうだろう。何か適当にやってたら、気づいたら保険医になってたんだよね。なりたいと思ってなったわけじゃないから、別にすごいこともないと思うよ」
「それでも、ちゃんと仕事をしてるでしょう? それに、先生って人気あるもの。それってすごいことだと思うわ」
「そうかなぁ」
女の子に人気があるのは今に始まったことじゃないよなんて、もちろんそんなことは言わないけど。
「あんただって、真面目に勉強してるんだからえらいと思うよ」
「……本当はあたしだってしたくないのよ」
悪戯っぽく、ソフィーは笑った。
くすっと音を立てるように。
「―――」
その顔があんまりにも可愛いから、僕は瞬間息を飲み込んだ。
服装は真面目でスカートの丈は長くて、きつく結ばれた三つ編みは長くてそれがさらに堅い印象を出してて。
でも浮かべたその笑顔はものすごく柔らかくて華やかだったなんて。
「先生?」
呼ばれてすぐに我に返る。
笑顔が眩しく見えただなんて、自分でもバカだと思う。あぁ、バカだ。心底から思う。僕は大バカだ。
九つも年下の女の子の笑顔に見惚れてどうするっていうんだろう。こんな子供の笑顔に。そんなことも知らないソフィーは、不思議そうな顔をして僕を見上げてるっていうのに。
「いや、何でも……あぁでもほら、テストが終わったら連休があるだろう?」
すぐさま話を変えることにした。
あぁまずかった。いや何が?
「終わったら遊べるからいいじゃないか。ソフィーはどこか行くの?」
「家族は旅行に行くって言ってたけど」
「家族はって……あんたは?」
驚いて少し目を見開いた僕に、ソフィーは緩くかぶりを振った。
「あたしは行かないわ」
「何で。行けばいいじゃないか。旅行嫌いなの?」
「オーガスタスが行かない方がいいって言うの」
あぁ、つまり、それは。
何泊かは知らないけど、つまりその間、ソフィーは『食事』をすることができないから。
そう気づいて内心で焦った。話を変えたつもりが、ますますまずい方向に行ってるじゃないか。いや、ソフィーはどうとも思ってないのかもしれない。表情は何も変わらないから。でも内心ではどう思ってるんだろう? 僕のこと、無神経な男だとか思ったかもしれない。
「そっか。あー、でもさ。高校生なんだし、家族で旅行行くよりも、友達と遊んだりする方がきっと楽しいだろうしね」
「別にそういう予定もないですけど」
「……えーっと」
僕、もうしゃべらない方がいいんじゃないのかな。
「じゃあ、僕と遊ぼう!」
「え?」
「や、だからさ」
自分でも驚いた。
何を言ってるんだ何を言ってるんだ僕は。
だって一応僕はこれでも学校に勤めていて先生なんて呼ばれる立場で。そんでもってソフィーはそこの生徒なんだぞ?
あぁだけど、そんなことが今更何だって言うんだ。だってもう僕らは先生と生徒なんて言葉だけで済む関係じゃないじゃないか。先生が生徒と遊ぶことと、一般人が吸血鬼に血を提供すること、それのどっちが罪深いことなんだ? どっちも大したこと無い。そう決めたんだ。
「遊ぶって……何言ってるんですか先生」
ソフィーも驚いたようだった。でも、今更引き下がれるもんか。男の意地だ。
「だって暇なんだろ? 僕も何も予定無いからさ。なら一緒に遊びに行こうよ」
「だ、だって……先生となんて」
「僕とじゃ嫌?」
じっと見つめれば、耐え切れなくなったのか、ソフィーはうろうろと視線をあちこちにさまよわせる。
「い、嫌とか、そういうんじゃないです、けど……」
「じゃあいいじゃないか。ね、決まり決まり」
にこっと笑うと、ソフィーは観念したようにため息をついた。って、そんなに僕と出かけるのが嫌なのか? それはそれでショックなんだけど。
「……どこ行くつもりですか」
「どこでもいいよ、ソフィーの行きたいところで。そうだな、ディズニーとか?」
昼間にその話をしたもんだから、つい口から零れ落ちた。人ごみ苦手なくせに。
「連休のディズニーって、混みまくっててろくに乗り物にも乗れないと思いますけど」
「あ、そっか」
え、じゃあどうしよう。
「……映画でも見に行きますか」
ソフィーが助け舟を出してくれる。
「あ、映画。そうだね、いいねいいね映画。じゃあそうしよう。あとどっかその辺で昼でも食べてさ。僕車出そうか。あんたの家までそれで……あ、でも家知らないんだった。え、どうすればいいかなこれ!」
「まだテストも終わってませんから。今度決めればいいじゃないですか」
何でソフィーはこうも冷静なんだろう。
そして僕は、何でこんなにあたふたしてるんだろう。そっちの方が謎だ。
そんなことを話していたらバスはバス停に着いて、僕らは揃って降りていく。
そういや、前はここであのムカつくガキが現れたんだよなぁなんてことを僕は思い出していたけど、今日はジャン・バティは現れなかった。ま、あいつだって学校があるだろうし、そう毎回毎回現れるはずもないか。
「じゃ、先生」
紙袋を受け取って、ソフィーは微笑む。
「あぁ、うん」
もう暗いし、家まで送ってあげた方がいいのかなんてことも思ったけど、その頃にはソフィーはもう歩き出していたから、言いかけた言葉も飲み込んでしまった。
僕もさっさと家に帰るべきなのに、どうしてか足が動かない。
ソフィーが振り返ることを知っていたみたいに。
「先生」
外で先生って呼ばれると、何だか変な感じだなと思いながら、僕は顔を上げる。
「見たい映画、決めておきますね」
それって。
何て最高の捨て台詞だろう。
ソフィーはすぐさま踵を返して行ってしまったけど、何でか不思議と嬉しくて、僕は次のバスが来るまでその場に立っていた。とっくに過ぎ去った青春時代なんて懐かしいものを、思い出すような気分に浸りながら。
back next