ブラッディ・マリーはいかが?


...9話
「先生って、いい匂いがするのね」
いつもの昼休み。何だかもうすっかり血を吸われるのにも慣れてきてしまった今日この頃。
もう初めての時みたく頭がハイになることは無かったけど、それでもやっぱり脳細胞が急に活性化しだすような感じはする。吸血鬼の毒とやらの所為で。何でこんな風になるのかはわからないけど、だんだんとその効果は薄れてきているようだから、多分大したことは無いんだろう。
何か、こんな状況を『大したことじゃない』なんて言えてしまう辺りで、我ながらすごいなぁと思ってしまうんだけど。
でも慣れてしまえば日常なんだ、こんなの。
ソフィーが僕の白衣の胸元をぎゅっと掴むのも、「いただきます」なんて小声で呟いてから首筋に顔を寄せるのも、その瞬間にちょっとぞくっとなんてしちゃってることも、慣れてしまえば日常なんだろう……きっと。
平常心を装うのはお手の物。ポーカーフェイスには自信があるつもり。
だけど今日のソフィーはすぐには離れなくて、そのまま僕の白衣を握ったままで。僕の首筋に顔を寄せたまま、匂いをかいでそんなことを言われたりしたら。
「え、あ、そう? 香水つけてるからね」
だけど僕の声音はいつものもので、あぁ本当素晴らしいもんだね。自分で自分を褒め称えちゃうよ。
「だけど今じゃもう、消毒薬の匂いの方が染み付いてるんじゃないのかな」
「そうかも。だって今まで気づかなかったもの」
気づかなかったことを不思議に思っているみたいだった。確認するみたいに、ソフィーはもう一度僕の首筋に鼻を寄せる。何かまずくないかなこれ。
「花の香りね。先生に似合ってるわ」
「……あ、そう。どうも」
香水の香りをここまで直球で褒められたのなんて初めてだ。
でも、首筋に顔を寄せられるのは初めてじゃない。今までいくらだって。それでもこんなに緊張したことはないし、どうしようなんて内心で焦ったこともない。どうかしてしまったんじゃないのか僕は。
だってこの距離は、ちょうどキスができちゃうような距離感で。
もちろんソフィー相手にそんなことはしないけど。しないのにそんなことを考えちゃうのがちょっとまずくないのか。まるで欲求不満の高ぶった高校生みたいじゃないか。もう二十代も後半の男がバカみたいに。溜まってるわけでもないっていうのに。
「ソフィーは、香水つけたりしないの?」
変わらない表情のまま尋ねて、そっとソフィーの肩を押す。突き放すというよりは、その場に座らせるような感じで。長身の僕の首筋に顔を寄せる時、ソフィーはいつも少し腰を上げてるから。
いつもの距離感に戻ってほっとする。騒がしくなった心臓もこれで元に戻るはず。
「持ってはいるけど、つけたりはしないわ」
「え、持ってはいるんだ?」
てっきり持ってすらないと思ったのに。
「オーガスタスがお土産でくれたの。ピンクの瓶ですごく可愛いのよ」
そう言って微笑むソフィーは、何だかちょっと新鮮で。
いつも変わらない硬い三つ編みを見てると、どうしてもそんなイメージになっちゃうんだけど、でも女子高生であることには変わらないんだから、お洒落とかにも興味があったりするんじゃないのかな。
「気に入ってるのなら、つけてみればいいのに」
うちは一応は進学校だけど、それでも化粧してる子なんていくらだっている。それほど派手なメイクじゃないからって先生達も見逃してるのが現状。一々注意してたって、それで女子生徒たちが止めるはずなんて無いってわかってるんだから。
そんな生徒もいる一方で、ソフィーは何て模範的すぎる女の子なんだろう。せめてその髪の三つ編みだけでも止めればいいのに。
「つけると、ジャン・バティが嫌がるんだもの」
何でもないことのようにさらっと言ったソフィーの台詞。
久々に聞いた名前。ここで出るとは思わなかったから、不意打ちを食らったような気持ちだった。
「何でそこでジャン・バティが出てくるのさ」
「ジャン・バティって、鼻がすごく利くのよ。だから香水の匂いも、ジャンにとっては臭いみたい。前に一度つけたら、臭い臭い騒がれて大変だったのよ」
「最低な男じゃないか、それって」
びっくりして僕は呟いた。女の子がつけた香水を臭いって、何なんだそりゃ。
間違っても僕は一度もそんなことは言ったことはない。思ってても言わないのが普通だろう。さりげなく、その香水よりこっちの方が合うと思うな、なんて言ってプレゼントしたことはあったけど。
ソフィーは僕の本気の声音にびっくりしたように目を見開いた。臭いなんて言われた本人なのに、ちっとも気にしてませんって顔。最近の話じゃないからか。それともソフィーがお人よしだからか。何となく後者って気がする。
「でも、仕方ないのよ。狼人間はそうなんですって。嗅覚も聴力もするどいって……あたし達と変わらないのは視力だけみたい。だから、ジャン・バティが悪いわけじゃないのよ。臭いって言われても仕方ないわ。そりゃ、その時はちょっとショックだったけど……」
臭いなんていわれながらも、どうしてソフィーがあんな奴をかばえるのかが僕にはさっぱり不思議でたまらない。
「僕なら絶対そんなこと言わないよ」
「先生は女の子に優しいものね」
そういう意味で言ったんじゃないんだけど。
女の子全般じゃなくて、あんたに優しくしたいんだよって、言おうと思ったけど止めておいた。何だか意味深な台詞になりそうで。いや、そんなつもりはないんだけど。
「でも、ジャン・バティも優しいのよ」
僕に言い聞かせるようにソフィーは言う。
まだ数えるほどしか会ってないけど、僕とあいつの仲は良好じゃないから。だからソフィーがそんなことを言うんだってわかってはいたけど、何だか嫌な気持ちになってくる。
だって、向こうが最初からこっちに敵意を持ってるんじゃないか。僕は別に仲違いする気なんてさらさらない。そんな面倒なこと。なのに向こうが噛み付いてくるのがいけないんだ。全部悪いのはあいつじゃないか。
「あいつも、女の子にだけは優しいんじゃないの?」
「……もう、そんなんじゃないわ、先生」
あぁ、わかってる。
僕の態度だって十分大人気ないさ。そんなことわかってる。
「ジャン・バティにも、いいとこはたくさんあるんだから。もう少しお互いのことをよく知れば、先生ともきっと仲良くなれると思うわ」
ソフィーは本当にそんなことを信じているんだろうか。
ある程度の年齢になれば、気の合わない相手には近づかない方が利口だってこともわかるのに。いつかは仲良くなれるなんて、本気でそう信じてるらしいソフィーに僕は少し呆れた。ソフィーもジャン・バティも子供なんだ。まだ。わかってたけどさそんなことは。
「早くテストが終わるといいね」
ジャン・バティのことを思い出したら気分が悪くなって、振り切るように僕は言う。
「え、どうして?」
小さく目を見開くソフィー。本気で驚いてるみたいに。
別に深い意味なんてなくて、何となくそう言っただけだよなんて思ったけど、その瞬間に、テストが終わったら遊ぼうねなんて約束していたことを思い出しちゃったりして、僕は何て言えばいいのかわからなくなる。
早く遊びたいから、そんなことを言ったわけじゃなかったけど。
でも、そんな風に聞き返されちゃうと、ソフィーは僕と出かけたくないのかななんて考えてしまう。
昔から、遊ぶ女の子には事欠かなかった。みんな僕と二人きりで出かけるのを喜んだし、楽しんでくれた。でもソフィーはそんな女の子達とは違うから。何を考えてるのかもよくわからないし、今だってそうだ。
「え、だって……ほら、テストなんて嫌だろうからさ。早く終わるといいねって。それだけなんだけど」
「あぁ、そうですか。ほら、先生達は、そんなこと言わないから」
「まあね」
勉強しろ勉強しろ言うだけで、確かにそんなことは言わないかもしれない。
「だってあんた優等生だしさ。言わなくてももちろん勉強なんてしてるんだろ?」
「別に優等生じゃないですけど……だって、勉強しなくて後で困るのは自分だもの」
その発言が優等生なんだって、どうして気づかないんだろう。後で困るってわかってても、それでも目先の勉強から逃げ出したいのが普通の学生なんだから。
「あんたってさぁ……」
本当変わってるよね。
そこが可愛いなんて思っちゃう僕も変わってるのかもしれないけど。
「あ、先生。そろそろ授業始まっちゃうわ」
「あぁ、僕の昼寝の時間か」
「もう、先生、真面目に仕事しないと!」
でも怒った顔はもっと可愛いかもしれない。
そんな考えは、ちょっと保険医としてはまずいんだってわかっていたけど。





テストが終わった瞬間の学生達の歓声っていうのは、相変わらずものすごい。
特に今回は、明日が祝日でその次が土日で、三連休になってるからなおさらだったような気がする。
連休だけど羽目を外さないようになんて、先生達はそんな決まりきったことを言ってるんだろうけど、だれもそんなこと聞いてないのはよくわかる。僕が学生のころだってそうだったんだから。
でも、三連休だと思うと、浮かれるのは先生達だって同じだと思う。もちろん僕だって。
その日、寝る前(って言ってもそう遅くはない時間に)に電話をかけた。明日の待ち合わせについて、ちょっと聞きたいことがあって。
「あのさ、明日家まで迎えに行こうか。車だからさ。住所教えてもらえればナビで行けるし」
『でも、住宅地だから似たような家ばっかりでちょっとわかりにくいと思うし……バス停のところで待っててくれれば平気です』
「あぁそう……」
『じゃあ先生、おやすみなさい』
通話は一分ぐらいで終わった。
女の子としゃべった通話時間で、最短記録かもしれない。
普通さ、遊びに行くぐらい仲がいい相手と電話をしていたら、それなりにちょっと色々話をしたりするものなんじゃないだろうか。少なくとも今まで僕はそうだった。
それに、できれば家まで迎えに来てほしいって思うものじゃないのかな。そっちの方が楽だし、それに女の子にとって、男に車で迎えに来てもらうって、一種のステータスみたいなものじゃないのかな。……多分ソフィーは間違ったって、そんなことは思わないんだろうけど。
前日になって、何かだんだん不安になってきた。
これでよかったのかな。何となくノリとよくわからない衝動に突き動かされたみたいにして誘っちゃったけど、ソフィーは実は迷惑に思ってたりするんじゃないだろうか。僕の方が年上だし、教師だし―――それに何より、『食事』の相手だから。気を使ってたりするんじゃないだろうか。
今頃ソフィーは、明日面倒だなとか思ってたりして。
「……うわ死にそう」
ソフィーに迷惑がられてるかもと思ったら、何か思わずベッドに突っ伏したくなっちゃったりして。
女の子と出かけるのに、こんなに憂鬱な気持ちになったのは初めてだ。ちょっと通話時間が短かったぐらいで。いやでも一分は無いと思うんだよね。よっぽど嫌な相手とでもない限り、一分の通話ってさ……ソフィーにとって、そのよっぽど嫌な相手が僕ってことは……無い、はず、だけど。
明日ソフィーが、とんでもなく嫌そうな顔をして現れたりしたらどうしよう。あぁでもソフィーは優しい子だから、きっとそう思っても顔には出さないんだろうな。きっとにこにこ笑ってくれてるんだ。それもすごくショックだけど。
何てことをぐだぐだ考えていたらなかなか寝れなくて、でも気づいたら眠っていたらしくて、起きた時は待ち合わせの二時間前で本当びっくりした。
「やばい遅刻する」
何たって僕の風呂は二時間かかるんだから。
でもさすがにここから二時間入ったら遅刻することは間違いないから、何とか急いでそこを一時間で押さえる。ゆっくりできなかったけど仕方ない。とりあえず寝癖は直ったから良しとしよう。
―――いつもと同じヒヤシンスの香り。
休日に出かける時はいつも違う香りをつけていたんだけど。
手早く着替えて車のキーを掴んで家を飛び出す。エレベーターに乗って楽をする気分でもなかったから、階段を軽く駆け下りる。
家までだって迎えに行ってあげるのになぁ。
でも断られたのだから仕方ない。大人しく、バス停のところで待っている。バスが来ても邪魔にならないように、バス停のまん前に車を止めるようなことはしなかったけど。
わりと大きな道路だけど、住宅地の中だから。車の通りはそんなに無くて、ハンドルに持たれかけながら僕はぼーっとする。半分眠りかけていたかも。
こんこん、と、窓ガラスがノックされたのはその時。
「先生?」
「……うわっ」
あぁそうだ、忘れていた。いや、忘れていたわけじゃないんだけど。
僕は慌てて車のロックを外す。内側から助手席のドアを開けると、回り込んできたソフィーはドアを開けて乗り込んできた。
「先生、今寝てた?」
「や、ううん、ちょっとぼーっとしてたかも」
「大丈夫? 昨日寝れなかったの?」
「そんなことはないんだけど……」
慣れたようにソフィーはシートベルトを締める。その時になって、ようやくソフィーの方を見ることができた。
初めて見た。ソフィーが三つ編みを解いているところを。長い髪が背中をおおっている。ふわふわの赤毛。こんなに量が多いと思わなかった。お人形さんみたいじゃないか。
「先生?」
「……私服可愛いね」
裾にシフォンフリルがついてる、シンプルなワンピースだった。だけど両脇のポケットの部分にはリボンがついていて、それにブーツを履いている。
思ったよりも今時の女の子って格好で、それが少し意外だった。もっと地味な服を着ているのかと思ったのに。
「……妹がね、貸してくれたの」
「妹さん? 何で?」
「あたしの着てた服を見て、近所のコンビニに行くんじゃないんだからって」
思わず吹き出した。
つまり僕の予想は当たっていたようだ。
「あんた、一体どんな服を着てたのさ」
笑い出す僕に、ソフィーは少しむくれたようだった。そっぽを向いてしまったから、僕からは表情が見えない。
エンジンを吹かすと、その音の大きさにソフィーは驚いたようだった。
「ごめんね、ちょっとぼろいんだ、この車」
「……走るの?」
「ここまで走ってきたじゃないか」
ソフィーはまじまじと僕の握るハンドルを見つめる。
エンジンを吹かす音はでかかったけど、その後はすんなりと車は走り出したから、ソフィーは見ていてもわかるほどに安心していた。この車、気に入ってるんだけど、やっぱり買い替え時なのかな。
高速に入って、スピードが上がる。ソフィーがちょっと声を上げた。怖いのかな。
何を話せばいいのかわからなくて、ソフィーも何も話しかけてはこなかったから、僕は黙って車を運転させる。
映画を見に行くのに、高速で車を飛ばしたのは初めてだ。だって、近場の映画館なんかに行って、万が一にも同じ高校の生徒達に会ったりしたら冗談じゃないから。別に悪いことをしているわけじゃないけど……その、つもりだけど。
二人しか乗っていない車の中で、沈黙っていうのはすごくちょっと居心地が悪い。
ソフィーは寝てたりするんだろうか。そう思ってちらっと助手席を見ると、ソフィーは欠伸をもらしている。
……やっぱり、つまらないのかな。
「ごめん」
「え、先生なに?」
「や、あの、欠伸してるから……」
「あ、ごめんなさい、眠くて」
見られてたことを恥ずかしがるように、ソフィーは顔を赤くする。本当に眠かったのならいいんだけど。あぁ、昨日から僕、何か悲観的すぎないか?
「あの、昨日なかなか眠れなくて」
ソフィーは早口にそう言う。
「え、何で? あ、僕と出かけるのが楽しみでとか?」
笑ってくれることを期待して僕はそう言ったんだけど、ソフィーはそのまま黙りこくって俯いちゃうんだから驚いた。
……あれ、外したかな……。
「……緊張する、から」
少ししてから、ソフィーがぽそっと呟く。緊張。とてもそんな風には見えないんだけど。
でも、退屈で欠伸をしてるよりは、よっぽど嬉しい理由には違いない。そっか、緊張してるのか。うん、そっか。
「先生は、女の子と遊びに行くのなんて慣れてるんでしょうね」
「え、や、まぁ」
そんなことないよって言うべきなのかもしれなかったけど、僕がそんなことを言ってもうそ臭いことは多分ソフィーもわかってるだろうから、曖昧な返事しかすることができなかった。
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