セシリアの道化師


2.銀貨一枚
「僕の婚約者になって頂けませんか?」
婚約者って。
そんなお上品な言葉を聞いたのは初めてだ。
貧乏人の暮らしに、そもそも婚約なんてものはない。好き合った男女にいつの間にか赤ん坊ができて、じゃあ結婚するかと口約束だけで一緒に暮らし始めるのが普通だ。その日の暮らしにも困るような生活で、結婚式なんて挙げられるはずもない。 教会で誓いを立てるわけでもないから、認められた正式な結婚ではないんだけど、そんなのはあたし達には関係のない話だ。あたしの父さんと母さんだって、そうやって夫婦になったんだから。
そんなあたしに、婚約者って、ちょっと……。
こいつ、脳みそが足りないどころか、実は一欠けらも入ってないんじゃ?
「もちろん、振りで構いません。あなたには、僕の婚約者の振りをしてほしいのです」
「……え? あ、あぁ、振りね、振り」
なんだ、びっくりした。てっきり本気で婚約者になってほしいだなんて言ってるのかと思った。さすがにそこまでのバカじゃないってことか。
「でも、また何だってそんな……あ、わかった。あんた、どっかいいところの坊ちゃんで、でもって財産を持ってる頑固な爺ちゃんが病に臥せってたりするんでしょ? それで孫のあんたに、婚約者を連れてきて、一人前の男であることを証明しない限り、財産は譲らないとか何とか言われたんでしょ。どうよ、あたしのこの推理!」
「えーっと、申し訳ありませんが、全然掠ってもいません」
はっきり言いやがってこいつ。
おっかしいなあ。お金持ちの人たちって、大抵財産でもめるもんだとばっかり思ってたんだけどな。領主の家もそれでごたごたしてるとか、跡継ぎ争いがどうとか、そういうのってやっぱりただの噂話だったりするんだろうか。
「じゃあ何だっつーのよ」
名推理を掠りもしないと言われて、あたしはちょっとぶすくれる。
身体の熱が冷めてくると、とたんに空腹を思い出した。机の上に視線を向けると、もうすっかり冷めてしまっただろうけど、それでも十分美味しそうな香りがこっちに向かって漂ってくる。
「実は、今僕には婚約者候補の女性がいるのですが……」
「ねぇ。そんなことはいいんだけど、身体はキレイになったんだし、ご飯食べてもいいでしょ?」
「……話を聞き終わってからにして頂けますか?」
ちっとあたしは舌打ちをする。そんなこと、とローランドは何だか落ち込んだように俯いてるけど、それこそあたしの知ったことではない。あたしがどんだけ空腹だと思ってるんだ。これだから毎日温かいご飯を食べてる金持ちは嫌なのよ。
「じゃあさっさと話せば?」
「あぁ、はい……。ですからその、僕には婚約者候補というか、もうほぼ婚約者と決まったような状況の女性がいるのですが、その方とは婚約したくないのです。ですからあなたに婚約者の振りをして頂いて、どうにか僕との婚約を諦めてもらいたいと思いまして」
遺産相続なんてよりも、ずっとシンプルで、ついでに言えばつまらない話だった。
貧乏人に、他人の恋愛話ほどどうでもいい話はない。好きにすればの一言で終わるようなもんだ。
「そんなの、何もわざわざあたしが婚約者の振りなんかしなくたって、あんたとは結婚できないってきっぱり言やあいい話じゃない。五秒で終わるわよ」
「そんな失礼なことを女性に向かって言えません」
きっぱりとローランドは言う。何も別に、ブスとかバカとか言えって言ったわけでもないのに。
「あたしに婚約者の振りなんかさせて振るのと、どっちが失礼なのよ」
「……いえ、まあ、それはそうなのですが」
自覚があったのか、痛いところを突かれたようだった。少しの沈黙の後、困ったように頭をかきながら、ひくひくと料理の匂いを嗅ぐあたしにローランドは白状するように口を開いた。
「確かにその、正直に言うのが一番だとは思うのですが……僕はどうも、そういうことを態度に表すのが得意ではないと言いますか……」
「得意じゃないって言うか、苦手なんでしょ?」
「…………えぇ、はい」
あたしの前で頷くのもやっとという風情で、ローランドは苦々しげに頷く。
「今回の婚約の話も、何とか回避できないかと思ったのですが、気づいた時にはここまで話が進んでしまっていて……婚約発表の日取りが決まるのも、もう時間の問題かと」
重苦しいため息がもれる。
断りきれずに婚約話がとんとん拍子で進んでいくって、どんなもんよとあたしは思ったけど、いかにも頼りなさそうな目の前の男の容姿を見ているとそれも納得してしまう。日焼けなんて一度もしたことがありませんってぐらい真っ白な肌とか、絹糸みたいな金髪とか。見ている分にはキレイでいいけど、どこを探しても男らしさとか、頼もしさってのが見当たらない。
その上、あたしみたいな貧乏人にも頭を下げる性格を見れば、婚約話が本人を置いて進んでいくのも無理ないような気がしてくる。きっと意見を求められても、「はぁ、まあ」とかしか言ってなかったんだろうな。
「まあ、勝手に結婚相手を決められるってのは、可哀想だとは思うけど」
「そうでしょう?」
「でも、あんたがだれと結婚しようがどうでもいいし」
「そんな! これも何かの縁と思って助けて下さい」
「何の縁よ何の!」
娼館で出会った縁とか? そんなの冗談じゃない。
「大体、そんなのはっきり自分で断らないあんたが悪いんでしょ! あたし関係ないもん」
「断るの苦手なんです! 仕事場ですらそうなのに、恋愛事になったら余計ですよ! 泣かれそうになるのを見ると、デートの誘いだろうが婚約だろうがとにかく何でも引き受けなきゃらならないって気になってしまって」
「あんたそれどんだけ情けない男なのよ!?」
女に弱いにも程がある。
「情けない……初めて言われました。僕って情け無い男なのですか? 本当に?」
しかも目を輝かせてそんなことを言うし。
……あー、何か頭痛くなってきた。父さんと話してる時のことを思い出す。いっつもこんな風に、話が噛みあわなかったよなあ。
その婚約者候補の女ってのも、もしかしたらこいつのそんな性格を知った上で迫ったんじゃなかろうか。金持ちの坊ちゃんみたいだし。お金のために泣きまねするぐらい、女にとっては朝飯前だ。きっとローランドには一生わかりっこないんだろうけど。
「あんたは、その相手の女が気に入らないわけ? よっぽどのブスとか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
微妙にローランドは視線を逸らす。
はっきり言わないだけで、きっとよっぽど不細工な女に違いない。だからきっとここまで嫌がるんだろうな。
不細工な上に、もしかしなくても財産目当てとなると、さすがに本気で可哀想な気はしてくる。
でもなあ。こいつの相手するのってすごいめんどくさいし、婚約者の振りなんてもっと面倒だし。
「もちろん、協力して頂くのですから、きちんとその分の賃金はお支払いしますよ。先ほどもお聞きしましたが、一日辺りあなたにいくらお支払いすればよろしいですか? 銀貨一枚で足りるでしょうか」
銀貨一枚。
耳がぴくっと動いた。そんでもって、心はだいぶ動いた。
銀貨一枚で足りるかどうかって……こいつは、あたしが今一日働いて、やっと手に入るのが銅貨二、三枚ってことをわかってるんだろうか? 銀貨一枚あれば、あたしと父さん、一週間は食べていける。それもパンだけじゃなくてベーコンまで付いて。
いやいや、でも、世の中にそんな上手い話がごろごろしてるはずがない。現に今、あたしがこうして娼館にいるのだって、父さん共々騙されたからだ。立派な宿屋で女中として働けるなんて聞いて連れられてきたのは、こんな古びた娼館だ。
二度も続けて騙されてはたまらない。ローランドのこの話が、全部作り話だって可能性もあるんだから。
「賃金はさて置いて……あたしを婚約者に仕立て上げて、無事その女との婚約話が流れたとしてよ。その後あたしはどうなるわけ? いつまでもあんたの婚約者の振りなんてできないんだけど」
「えぇ、それはそうですね。しばらく僕の屋敷に滞在してもらった後、家族の具合が悪くなったとか理由をつけて、実家に帰ったことにでもします。そうしてほとぼりが冷めた頃に、僕が振られたとでも話をつければいいでしょう。失恋の痛手を引きずる振りをすれば、いくら何でも当分は婚約の話も持ち込まれないでしょうし」
考えながらそう話すローランドは、嘘をついているようには見えない。って、ついさっき別の男に騙されて、まんまと娼館に連れてこられたあたしだから、我ながら全く頼りにならない感覚だとは思うんだけど。
でも、お金にちっとも困ってないどころか、有り余ってそうなローランドが、あたしを騙す理由なんて到底考えも付かない。
それに、銀貨一枚……ローランドが嘘をついてないとしたら、これは破格の仕事だ。
「お願いです。僕を助けてくれませんか?」
あたしの手をぎゅっと握って、ローランドは床に片膝をつく。顔を覗き込まれ、懇願するように言われれば、あたしの心はぐらりと揺らいだ。
顔がいいって、それだけでどれだけ人生得をしてるんだろう。あたしがこいつの運命を握ってるような、そんな気にさせられる。だれかにこんなにも必要とされたことなんて今まで無かったあたしには、もうそれだけで十分だった。
えぇそうよ、この顔に負けたのよ。でも、美形に弱いのはあたしの所為じゃない。女って生き物は、生まれた時からそうできてるんだ。今あたしがそう決めた。
「……わかったわよ。婚約者の振りをしてあげるわよ」
「本当ですか?」
「本当本当。やりゃいいんでしょ。銀貨一枚払ってくれるのなら、確かにやってあげるわよ」
「ありがとうございます」
まるで花が咲くような笑顔を浮かべて……って、男に対する表現じゃないけど。でも、そんな言葉がぴったりの笑顔を浮かべたローランドは、さっと立ち上がると、あたしの肩に手をかけた。
素肌に触れられて、びくっとする。そうだ、忘れてたけど、あたしはいまだに布一枚巻いただけの姿だ。これでも一応年頃の女の子だってのに、何やってるんだろう。でも、あたしの持ってた唯一の服は、さっき目の前のこいつに無残にも破かれてしまったのだ。そう、目の前のこいつに……。
「なっ」
いくら目の前とは言っても、近すぎるその距離に驚いた。
だって、本当に言葉通り目の前にいる。ほんの少し顔を動かすだけで、ぶつかってしまうんじゃないかって距離に。
びっくりしたあたしは、何も動けなかった。避けるとか、殴るとか、そんなことはできなかった。
硬直するあたしの頬に、温かい物が触れて、すぐに離れていった。少しだけ離れた距離で、ローランドはふわりと微笑んだ。
「助かります。ありがとうございます」
「あ……」
いや、ありがとうございますって……。
「い、いいいいいま、あ、あんた、何したわけ?」
「感謝の気持ちを伝えただけですが」
しれっとローランドは答える。
感謝の気持ちで、何で勝手に人の頬にキスをするのよ。
たかが頬と侮るなかれ。乙女の肌はそんだけ貴重なものなのだ。別にあたしに恋愛経験が無いからとか、断じてそんなわけではない。
「こっ……このバカーっ!」
「うわあっ」
思わず父さんにするように殴りかかったあたしに、ローランドはこの上もなくマヌケな叫び声を上げた。


いつまでも布一枚身体に巻きつけてるわけにはいかないし、さてどうしたもんかと考え込むあたしに、ローランドは衣装棚を開けると上等の寝巻き着を寄越してきた。
「明日になりましたら、適当な服を用意しますので」
そう言うローランドの声は、ちょっとびくびくしている。あたしの様子を伺っているというか。ついでに言えば、あたしとも微妙に距離を空けている。
ちょっと頬を叩いただけなのに、ずいぶんな警戒されっぷりだ。何も血が出たわけじゃないし、ほんのちょっと腫れてるだけなのに……その腫れが気になるのか、さっきからローランドはしきりに鏡を覗いている。
まあね、そんだけおキレイな顔なら、ちょっとした腫れも気になるのかもしれないけど。でも、男ならそんぐらい放っておきなさいよと、イライラしながら思う。だって、まるであたしが悪者みたいじゃない。キスされたのはこっちなのに。
「まさか、殴られたのも初めてとかは言わないわよね?」
嫌味たっぷりなあたしの声音に、さすがにローランドは苦笑を浮かべながら振り返った。
「女性に殴られたのは初めてですが……。でも、稽古中に怪我をすることはしょっちゅうですよ」
「稽古?」
尋ねながら、あたしはローランドの腰に目を向けた。細身の剣がそこにはある。
「あんたって、剣士なの?」
「いえ、違いますよ」
「でしょうね」
「……どうしてそこで納得するのですか?」
不思議そうに尋ねてくる。自分でわからないんだろうか。
「だってあんた弱っちそうだもん」
さすがに怒るかな、と思ったけど、ローランドは生真面目な顔で頷くだけだった。
「そうなんですよ」
「……あたしが言うことじゃないけど、ちょっとは怒ったら?」
「え? どうしてですか?」
何かなぁ。こいつと話してると、本当に調子が狂う。人に対して怒ったりすることってあるんだろうか。想像がつかない。
いっつも何かしらに大して腹を立ててる自分が、すごくみっともなく思えてくる。どうやったら、そんな風に平静に過ごせるんだか聞いてみたい。人に殴られたら、あたしなんて倍返しにしなきゃ気が済まないのに。
「ちょっとあっち向いててよ」
「はい?」
首を傾げながらも、ローランドは素直にあたしに背中を向ける。
その隙に、あたしは渡されていた寝巻き着を着込んだ。って言っても、纏ってた布を外して寝巻き着を被るだけだったから、ちっとも時間はかからなかった。
「ありがと。もういいわよ」
振り返ったローランドは、あたしの姿を見て、なぜか目を見開いた。
「何よ」
上品なレースのついた寝巻き着が似合わないことなんてわかってる。でも、この服を渡してきたのはこいつだし、そもそもあたしの服を破り捨てたのだってローランドだ。なのに、この後に及んで似合わないだのなんだの言おうものなら、もう一発殴ってやるとあたしは右手に力を込める。
「着替えるのでしたらそう仰って下さい」
「何で」
「女性が着替える際には席を外します。当然でしょう?」
いや、当然でしょうって言われても……。
さっき人の服を遠慮なく破いた人に言われたくない。そんでもって、素っ裸のあたしの身体をごっしごっしと洗ってくれたのはだれなのよ。
思い出したくもない。間違いなく、あたしの人生で最悪の記憶だ。そりゃ、ローランドにとっては、汚れた鍋も同然だったのかもしれないけど。
「着替えるって言っても、数秒で終わったようなもんだし。別にいいわよ、そんなの」
「ですが……」
ローランドは何かを言いかけて、けれどすぐに口を閉ざした。諦めたのかもしれない。緩く頭を振る。
「今日は、このままここに泊まりましょう。もう夜更けですし、僕の泊まっている宿までは少し距離がありますから……。明日、あなたを買い取って宿に向かいましょう」
「……あたし、別に娼婦じゃないんだけど」
買い取って、なんて言い方が引っかかった。まるで物みたい。
「えぇ。ですが、それが一番平和的な交渉だと思いますので」
平和的な交渉。物は言いようだ。確かにね、金さえ渡せば、あの香水臭い女は何も言わないでしょうよ。あたしだって、鞭も焼き鏝もごめんだ。多分これが一番いい方法なのだろう。
「今夜はもう休みましょう」
その言葉に、あたしは急に緊張し出した。
だって、ここは娼館で。でもって夜で。すぐ傍にあるでっかいベッドが、何をするための場所なのかわからないほどの子供ではない。
ローランドはそういう目的でここに来たわけじゃないだろうし、何かそういう感じもしないけど、でも一応男なわけで。
そんなことを考えると、急に心臓が激しく動き出した。どうしよう。
「あ、ええええっと、あの、その」
「どうぞ。お休み下さい」
どもるあたしに、ローランドは小さく微笑んで大きなそのベッドに手を向けた。
「……え?」
どうぞって。そういう風に言われると、何だかまるであたし一人がベッドで寝るみたいな感じがする。
でもそれは、勘違いではなかった。戸惑うあたしに、ローランドは微笑んだまま言う。
「どうぞ、そちらでお休み下さい。僕はこちらで寝ますので」
こちら、とローランドが指したのはソファだった。ぽかん、とあたしは口を開ける。
「今日はお疲れでしょう? どうぞお休みになって下さい」
「え、いや、確かにお疲れだけど……何であんたがそっちで寝るの? あたしがソファで寝るわよ」
わけがわからない。
金を出してるのは自分なのに、どうして寝心地のいいベッドをあたしに譲ったりするんだろう。
っていうかこいつ、ここが娼館だってことをわかってるのかな……。
「自分だけベッドで眠って、女性をソファに追いやるなんてことはできません」
情けない男かと思いきや、きっぱりとそう断言する。
カッコいいんだかそうでないんだか、いまいちよくわからない。そんな風に、婚約話も断ればいいのに。それはできないのだから不思議なものだ。
「だって、金払ってるのはあんたでしょ? なのに、そのあんたが寝心地の悪いソファで寝るってのはおかしいじゃない。あたしなら平気よ。普段はそのソファより寝心地の悪いベッドで寝てるんだから。床で寝るんだって平気なぐらいだし」
「そんなわけにはいきません」
言葉は少ないながらに、断固とした態度だった。
金持ちの坊ちゃんってのは、女性に対しても礼を尽くすように教育でもされてるんだろうか。そういうのはむず痒いから止めてほしいんだけど。お腹いっぱいご飯を食べられただけであたしは満足だし、そこのソファで寝ろって言われた方がよっぽど楽だ。
何だかなぁ。
本当に、調子が狂うというか、扱い辛いと言うか。
「じゃ、あたしはベッドで寝るわ」
「そうして下さい」
「で、あんたもベッドで寝るの」
「……はい?」
ついさっき貞操の心配をしながら、そんなことを言い出すあたしは本当にバカだって、自分でもわかってる。
でも、ローランドのこの態度が演技だとは、とてもあたしには思えない。それに結局、同じベッドで寝てようが寝ていまいが、襲われる時には襲われるんだから。どっちだって一緒だ。
「あたしはあんたにベッドで寝てほしいし、あんたはあたしにベッドで寝てほしいんでしょ? なら、間を取って一緒にベッドで寝ればいいじゃない」
「いえ、理屈的に言えばそうかもしれませんが、女性と一緒のベッドで眠るわけには……」
あぁもう。そういう、女性だからとか何とか、そういう言い方がすごく嫌。礼儀を尽くしてくれてるのはわかるんだけど、めちゃくちゃ居心地が悪い!
「とにかく! お互いに譲るつもりがないのなら、歩み寄るしかないでしょ? これで決まり! 何か文句あんの!?」
「…………いえ、ありません」
良し、と頷く。
ローランドはとても納得してる顔ではなかったけど、もう反論する気は無いようだった。
あたしは満足して、広いベッドの中にもぐりこむ。こんなにふかふかのベッドで寝るのは初めてだ。その感激のベッドの上で、普段は何が行われているのかなんてことは、あえて考えない。考えちゃダメだ。
「では、あの……失礼します」
「どうぞ」
って、あたしがそう答えるのも何かおかしいんだけど。
どうしてここまであたしに遠慮するのかがわからない。そういう性格なのかもしれないけど。この調子じゃあ、婚約話がとんとん拍子で進むわけだわ。
ローランドが、ランプの明かりを吹き消した。元々明るい部屋じゃなかったけど、一気に辺りは暗くなる。
自分から言い出したことだとはいえ、やっぱり落ち着かない。もぞもぞと身体を動かして、ローランドに背中を向ける。
幸いなことに、このベッドは十分すぎるほどに広かった。何のためのベッドか考えれば、それもごく当たり前のことなんだけど。
今日は色んなことがあった。いつも通り働いて、帰ってきた早々に、宿屋への奉公だと騙されて娼館に連れて来られて。そうして今は、見ず知らずの男に背中を向けて、あたしはベッドの中にいる。
何だか、とんでもないことになっている。
それも明日から、婚約者の振りだなんて、どうかしている。
「……ねぇ」
「何でしょう?」
寝ちゃったかな、と思ったけど、返事はすぐに返って来た。まだ当分寝そうにないって声。
「あんたってさ。婚約者の振りをしてくれる相手を探して、ここに来たわけ?」
「はい」
「何だってよりによって娼館なのよ」
ローランドと娼館って、一番似合わない組み合わせな気がする。顔を見た時にも思ったけど、喋ってみてより一層そう思う。
だって何か、こいつって、女の子にそういう気持ちになることがそもそも無さそうに思えて仕方ない。そんなわけはないんだろうけど、想像つかないっていうか何ていうか……。
「若い女性がたくさんいる所となると、真っ先に浮かんだのがここでして」
まあね。確かに女はたくさんいるわよ。
「でも、普通に考えて、娼婦に金持ちの婚約者の振りができると思う?」
娼婦は、見ているだけでそうとわかる。色気に溢れてるとか胸が大きいとか、そんなことじゃなくて、もう纏ってる空気が違うのだ。商売人には商売人の、金持ちには金持ちの纏う空気があるように、娼婦はそれ独特の空気を放っている。
「えぇ、ですから、なるべく若い子に頼もうと思っていたのです」
「まだ染まりきってない子に、ってこと?」
「まあ、そういうことですね」
ローランドは、少し答え辛そうだった。場所が場所だからかもしれない。
でも、今の答えを聞いて納得した。どう見てもあたしは娼婦には見えない。だからきっと、ローランドはあたしに決めたんだろう。
「でも、よりによって娼館になんて来なくても良かったじゃない。そこら辺歩けば、若い女の子なんてたくさんいるわよ。あんたの顔があればたらし込めるんじゃないの?」
「街中で出会った女性に、いきなり婚約者の振りをしてくれと頼んでも、怪しまれるだけですよ」
小さく笑ったようだった。
「まあ、それはそうよね。それに、娼館にいるような女なら、お金をチラつかせれば頼みを聞いてくれそうだもんね」
「……いえ、それは」
「別にいいってば。事実あたしだってそうなんだし」
何も声は聞こえない。でも、ローランドは困っているのが空気でわかった。
ちょっと意地悪だっただろうか。そう思っても、何だか謝るのも癪で、あたしは黙り込んでいた。だって、ローランドがそう考えて娼館に来たことは間違いないんだから。
「……あなたは、どうしてここにいたのですか?」
今度こそ寝たかなと思い始めた時、ローランドはそう尋ねてきた。
あたしは少し考え込む。上手い言い訳を考えようとしたけど、でも無駄だった。何も思いつかない。
「でっかい宿屋で奉公させてくれるって、そう聞いて付いて来たら、気づいたらここにいたのよ」
「騙された……ということですか?」
ローランドが身じろぎしたのがわかった。何となくだけど、多分、あたしの方に身体を向けたのだろう。
「えぇそうよ、騙されたの。バカだったのよ」
あたしも父さんも。
ううん、父さんが騙されるのなんていつものことなんだから、あたしがもっと気をつけていればいいことだった。
迎えだと言って、あの屈強な男が現れた時も、あたしは疑いもしなかった。さすが大きな宿屋だけあるなんて、感激するだけだった。本当にバカだ。父さんは、あたしが今娼館にいるなんて知ったらどう思うんだろう。想像すると、乾いた笑みが漏れた。
沈黙が肌に痛かった。
眠ったのだろうなんて、今度は思わなかった。
「バカだって思ってるんでしょ。正直に言っていいわよ。自分でも思ってるんだから」
「いいえ」
あたしが言い終わるよりも早く、ローランドの言葉が返って来た。
「慰めなんていらないわよ」
「そんなのではありません。何と言っていいのかはわかりませんが……」
そりゃそうだろう。金持ちの坊ちゃんには一生縁のない話だ。騙されてどこかに売られるだなんてこと、一生ありえないんだから。毎日美味しい物を食べて、毎日身体を洗う生活なんて、あたしには想像もつかない。なし崩しに婚約者が決められてしまうことだって。
「この娼館は、潰しましょう」
「はあ?」
「あなたを騙して娼婦にさせようとした、そんな店は許せません」
驚いて、あたしは思わず身体を回転させていた。反対側を向けば、案の定こっちを見ていたローランドと視線が合う。でも、広いベッドだから、あたし達の間にはもう一人入り込めそうな隙間がある。
「あんたねぇ、何言ってんのよ」
正確には、連れてこられたあたしは、痩せっぽっちの小娘だって理由で、娼婦にはなれないところだったんだけど。
そんな訂正をする気にもなれないぐらい、その冗談はおかしかった。
暗闇にも目が慣れれば、至近距離にあるローランドの顔ぐらいは見えてくる。笑顔の引っ込んだその顔は、さっきよりもずいぶん男らしく見えた。不覚にも胸が高鳴る。
「あなたを騙しただなんて許せない」
憤りの混じった声だった。
「……別に、あんたが怒ることじゃないわよ」
どう言えばいいのかわからなくて、結局そんな言葉だけを返して、あたしはまたくるりと背中を向けてしまった。
心臓が、どきどきと騒がしかった。
あたしのために、だれかが、男の人が怒ってくれている。
それが何だか誇らしいようで、同時にひどく居心地が悪かった。もぞもぞと、心の奥底が疼くような。
―――よくわからない奴。
こんな奴の婚約者代わりを引き受けて本当に良かったのかと、考えている内に、あたしの意識は闇に飲み込まれて行った。
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ものすごく長くなりました。二人の会話がもう終わらない。
でもやっと本筋に入れました。つまりそういう話です。
(09.04.19)
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