セシリアの道化師


4.従者クイン
ローランドによる礼儀作法のレッスンは、早速始まった。
「完璧な貴婦人を目指す必要はありません。そうですね、あなたのことは、商家の娘ということにでもしましょう。人に不快感を与えない程度に礼儀を覚えて頂ければ結構ですから」
ってことは、今のあたしは、人に不快感を覚えさせてるってことなんだろうか。
そりゃあね、礼儀なんて何も知らないけど。柔らかい口調で、言いたいことはずけずけと言ってくれるやつだ、本当。
それからローランドは、あたしを部屋の中で歩かせると、色々な注文を付けてきた。大股で歩かないようにとか、なるべくしずしずと、淑やかに女性らしくとか、背筋が曲がっているとか、ローランドの腕に手をかけろとか。
そんなことを言われ続けながら、部屋を十週近く歩いても、まだローランドの注文は尽きなかった。
「足元を見ながら歩くのは止めて下さい。目を伏せるようにとは言いましたが、それは床を見ろということではありません」
「じゃあ一体どこを見りゃいいってのよ」
「僕を睨むのも止めて下さい。あなたと僕は、愛し合う恋人同士なのですから」
その単語に寒気を覚える。
「それに、その言葉遣いもよくありませんね。そのような場合は、『どこを見ればよろしいのでしょうか?』と尋ねて下さい」
「あんたみたいにしゃべろっていうの?」
あたしがそんな言葉遣いをしたって、薄ら寒いだけだ。なのにローランドは満足そうに「そうですよ」と頷く。
バカみたい、と思うけど。
これも全てはお金のためだ。そう思えば、多少はやる気だって出てくる。今日を乗り切れば、とりあえず銀貨一枚が手に入るんだから。バカみたいに歩いて、バカみたいな言葉遣いをして、それで銀貨がもらえるのなら大した儲け話だ。
「どこを見ればよろしいのでしょーか」
「何か気持ちがこもってませんが……」
一体どんな気持ちをこめろっていうんだ。これ無茶なことは言わないでほしい。
「目を伏せる、というのは、自分の足元を見つめろというわけではありません。顔の位置はそのままに、視線だけを少し下げて頂きたいのです。それに、足元ばかり見ていては、ぶつかってしまいますよ」
「でも、地面にお金が落ちてたら、すぐに気づいて拾えるわよ。あたし暇な時は、いっつも地面を見ながら歩いてるもん」
ついそう言い返したあたしだったけど、ローランドは言葉遣いを訂正しようとはしなかった。
それどころか、悪戯っぽい笑顔を浮かべて、あたしの顔を見つめる。
「例えば、こんな風に?」
ローランドが足元を指差す。いつの間にかそこには、鈍く輝く銀貨が一枚落ちていた。一体いつから?
こいつが動いた素振りなんて、あたしにはちっともわからなかった。まるで始めからそこに落ちていたかのようだけど、そうじゃないことはあたしにはよくわかっている。
すかさずしゃがみこんで銀貨を拾おうとしたけど、それよりも早くさっと伸びたローランドの手が、素早く銀貨を拾い上げてしまった。あーあ、わかってたけどね……。
すぐさま懐にしまうのかと思いきや、ローランドは銀貨を持ったまま数歩前へ出る。そうして何を思ったのか、再び床に銀貨を置いた。あたしの視線は、自然とその銀貨を追う。
「そう、それですよ」
「は?」
「今のその視線です。顔は前を向いたままに、視線だけそのぐらいの位置まで下げるのです」
きちんとそれを覚えて下さいね、とローランドは微笑む。
なるほど、とあたしは納得したけど、でもずいぶんと変な教え方じゃないのかなこれ……。確かにあたしにはぴったりな教え方かもしれないけど。
「どうぞ」
あたしの隣まで音も立てずに戻ってきたローランドは、笑顔でその銀貨を差し出した。
「今日の賃金、もうくれるの?」
驚きながらも、あたしは躊躇うことなく銀貨を受け取る。ぎゅっと手の中に閉じ込めながら見上げれば、ローランドは小さく笑った。よく笑う奴だ。そんなところも父さんに似てる。
「いえ。今日の分の給金は、後でまたきちんとお支払いしますよ」
「じゃあこれは何のお金?」
もらえることに不満なんてもちろんないけど、ただ不思議で仕方なかった。ただで貰えるお金ほど、怪しいものはないと思ってしまったのかもしれない。貧乏人は疑い深いのだ。
「何の、と言われても困るのですが……」
そう言ってローランドは、うーんと唸る。あたしにそんなことを尋ねられるとは思ってなかったようだ。本当に困っている。
「えぇと、そうですね、財布に戻すのが面倒だったので」
「……ふぅん」
その『面倒』のおかげでこうして臨時収入が入ったんだから、感謝してもいいはずなのに、あたしは皮肉めいた眼差しをローランドに向けてしまった。
こいつにとっては、銀貨一枚なんて、本当にはした金なのだろう。もちろんそれはわかっていたけど、こうしてまざまざと見せ付けられると、あんまりいい気持ちはしない。いや、正直言ってかなり腹が立つ。
お金なんてあって当たり前の人には、あたし達のような貧乏人の気持ちはわからない。逆に言えば、あたしにだってローランドの気持ちはわからないけど、そんなのわかりたくもない。お金を粗末にする奴は、いつかお金に困って泣けばいい。
「喜んでは下さらないのですか?」
純粋に不思議がっているように、ローランドは尋ねてくる。
お金をあげれば、無条件にあたしは喜ぶと思っているのだろう。それは確かに当たっている。
当たっているのに、心の底から喜べないのはどうしてなんだろう。
施しなんて受けたくないと、心の片隅が叫んでいる。どうしてなのかもわからないまま。あたし、どうかしちゃったのかな。こんな大金をタダで貰えるのに、素直に喜べないなんて。
「……喜んでるわよ。ただその、もらえるお金は、ちゃんと賃金としてもらった方が、あたしも堂々ともらえるなって」
ローランドがあたしを哀れむのは当然だ。
でもその感情は、あまり嬉しいものではない。
あたしの言葉に、ローランドは少し悩んだようだった。
「では、給金を上げる時には、喜んで頂けますか?」
「うん、多分ね」
「それは良かった」
別にあたしが喜ぼうが何だろうが、こいつには関係無いはずなんだけどなぁ。
にこにこと微笑むローランドに、変な奴、とあたしは心の中で呟いた。


それから少しして昼食が運ばれてきた。喜んだのもつかの間、ローランドはここでも食事マナーとやらをあたしに教え込んでくれた。あたしはイライラしながら、フォークとナイフを見よう見真似で使いながら肉を切る。思い切りかぶりつけた方がよっぽど美味しいのに!
「ネッティ、ぎこぎこと音を立てないで下さい」
「したくなくても鳴っちゃうんだから仕方ないでしょ」
「あと、肩が上がっています。姿勢を正して……昼食と戦っているわけではないのですから」
少なくとも、あたしは今この肉と戦っている。
あぁもう、大人しくあたしに食べられちゃいなさいよ!
「あー、両手で掴んじゃいたい!」
「…………あの、お願いですからそれだけは止めて頂けますか?」
何も本気でやろうとしたわけじゃないのに、ローランドは情けない程に泣きそうな顔でそう止めてくる。あたしだったらやりかねないとでも思われたのかな。やっていいって言われたらすぐにでもそうするんだけど。
肩は凝ったけど、お腹はいっぱいになった。背もたれに身体を預けて、あたしは膨れたお腹をぽんぽんと叩く。満腹がこんなに幸せなことだったなんて、今まで知らなかったなぁ。
「満足頂けましたか?」
「もっちろん。あんたは?」
「えぇ、料理には満足でしたよ。料理には……」
他の何に満足できなかったかなんて、聞かなくてもわかってる。あんな小難しい技を、このがさつなあたしがたった一回の食事で習得できるはずがない。というよりも、習得できる日なんか来るのかが不思議だ。
「少し休憩をしたら、またレッスンを始めましょう。時間は無駄にできませんからね」
「はいはーい」
「はいは一回」
「はいは一回」
「……これは繰り返さなくてもいいのです」
疲れた顔でため息をつくローランドに、あたしはぷっと小さく吹き出す。
その時だった。
「ローランド様……っっ!!」
とんでもない大声を上げながら、部屋の中に何かが転がり込むようにして飛び込んできた。
突然のことにびっくりして、あたしは椅子に座ったまま固まってしまった。え、一体何なの……。
「なんだ、クイン。ここで待ってろと言ったのに、どこをほっつき歩いてたんだい?」
平然とした様子で、のほほんとローランドは言う。この突然の登場にも、ちっとも驚いてないって顔だ。
ぱちぱちと瞬きをしながら、あたしは必死に考える。クインていうのは、確かこいつの従者の名前だ。
「どこをほっつき歩いてたじゃないですよ! 僕が今まで、どれだけあなたを探していたかおわかりですか!?」
詰め寄ってきたそのクインとかいう従者は、あたしよりも一つ二つ年下の、まだ少年だった。
短く切りそろえられた髪は、少し赤みがかった茶色だ。鳶色の大きな瞳は、遠慮なくローランドを睨みつけている。ローランドのような天使顔ではないけど、なかなかに可愛い顔をした男の子だった。こんな子が弟だったら、可愛がるのになあと思えるぐらいには。
「僕のこと探してたの? 何でまた」
「ちょっと出かけてくると言って、一晩も帰ってこなかったのはどこのどなたですかっ!」
「たったの一晩じゃないか。おまえ、大の男が一晩帰ってこなかったぐらいで大袈裟な……」
「ちょっとそこまでと言いながら、一晩経っても帰ってこないから、ここまで心配しているんでしょう! 一体昨晩はどこにいらっしゃったのですか? 遅くなるなら遅くなる、泊まるなら泊まると、一言連絡を下さいと日ごろからあれだけ言っているではありませんか!」
「……おまえは僕の母親か」
げんなりした顔でローランドは呟く。
口を挟む暇もなく、面白い主従だなあと、あたしは二人を眺めた。このクインて子も、あたしより年下なのに、ずいぶんとしっかりしてるみたいだし。よっぽどローランドよりも頼りがいがありそうだ。
「大体、僕は何のためにあなたの傍にいると思っておられるのですか? 僕はあなたの従者なんですよ。その僕を置いてふらふらふらふらふ遊び歩いて、何かあったらどうするおつもりで……」
「自分の身ぐらい自分で守れるよ」
むすっとしながらローランドは呟く。
「それはそうと、クイン。いつまで女性の前でぎゃんぎゃん騒ぐつもりだい?」
機嫌を損ねたまま、ローランドは嫌味交じりの声音で言う。むすっとした顔も、少し捻くれた不機嫌な声も、あんまりローランドには似合わない。そう思うのは、知り合ってから今までの短い時間で、こいつの笑う顔ばっかり見てたからなんだろうな。
「……こちらのご婦人は?」
言われて初めて、クインはあたしの存在に気づいたようだった。ローランドの真正面に座ってたってのに、ローランドしか目に入ってなかったというのもある意味すごい。
それにしても、ご婦人だって。ちょっと身体を洗って着る物を変えただけで、こうも人様からの呼び名が変わるんだから面白い。昨日のあたしじゃ、絶対にそんな呼び方はされなかったのに。
「よく聞いてくれたね、クイン」
一瞬にして機嫌を治したローランドは、あたしが今まで見てきた、天使のような笑顔をクインに向けた。
「彼女はネッティ。僕の婚約者だよ」
「……じゃなくて、振りだってば。振り」
さすがにその言葉には黙っていられない。
「あぁそうそう。まあ、振りなんだけどね」
何だその適当な口調は。
もうちょっとしっかりしてほしいなあと、あたしは思わずにはいられない。何かこう、どうも頼りないというか何ていうか……。
「…………ろ、ローランド様。何を考えてるんですか?」
「何って。おまえにも言ったじゃないか。勝手に婚約者なんて決められるのは嫌だから、何とかしてその話を蹴りたいんだって。だから手っ取り早く、婚約者の振りでもしてくれる女性を捕まえてこようかなぁって、おまえにも確かに言ったはずだよ」
「えぇ、確かに僕もその話は聞きましたよ。聞きましたけどね、だからってだれも、そんなはちゃめちゃな話を本気で言っているとは思わないでしょうっ!?」
「あはは。それはおまえの認識不足だよ。僕は本気で考えるさ」
「あなただけですよっっっ!!!」
心からのクインの叫びに、あたしも心から同意した。
だよなぁ。普通は考えないっての。このクインて子も可哀想に。こんな破天荒な主人に仕えなきゃならないだなんて、きっと胃薬が手放せないんだろうな。人事ながらに、あたしは思わず同情してしまいそうになる。
「一体、プリシラ様のどこがお気に召さないと言うのですかっ?」
「どこっていうか……まあ、全体的に」
「我侭もいい加減にしてください! 奥方として、あんなに相応しい方はまたとおりませんよ!」
「あぁそう。だったらおまえが結婚すればいいじゃないか」
これ以上もなくどうでもよさそうにローランドは言う。よっぽど、その婚約が気に入らないらしい。
なげやりなローランドの態度に、クインは力が抜けたように、がくっとその場に膝をついた。何だかその様子が可哀想で、思わずフォローをしてあげたくなるんだけど、あたしにはかける言葉が何もない。
「まあ、そういうことだから。しっかり頼むよ」
うなだれる従者を気にした様子もなく、ローランドはそう言い放つ。
その、いかにも人を使い慣れた、金持ちさながらの態度にあたしは少しむっとする。もうちょっと、従者に対する気遣いとかは無いわけ? あんなにうなだれてるっていうのに。可哀想とか思わないのだろうか。
「クイン、お茶を入れてくれ」
その上、偉そうに命令までして。
わかってる。従者とその主人、どっちが偉いかなんて、わかりきったことだ。えぇ、わかってるわよ。わかってるけど、むかつくものはむかつく。何よ、ちょっと金持ちで顔がいいからってさ!
さっと立ち上がったクインは、さすが従者と言えるのだろう。あたしより年下だろうに、何て偉いんだろう、この子は。
そう思うと、あたしも座ったままお茶を待つ気になんてなれなくて、気づくと立ち上がっていた。慌ててクインの後を追う。
「ネッティ……」
背中に、ローランドの声が聞こえる。
多分、あたしはやらなくていいとか、座っていていいとか、そんなことを言おうとしたのだろうけど気にしない。
「あんたも大変ね。あんなバカに仕えなきゃいけないだなんて」
ローランドには聞こえないように(聞こえても別に困らないけど)こそっとあたしは囁いた。仲間意識、ではないけど、何となく似たようなものを感じたのだ。あたしは味方だと言いたかったのかもしれない。
振り返ったクインは、苦笑を浮かべつつも、「そうですよね」と言う顔を―――しているはずだった。
「……バカ、と、言いましたか?」
「へ?」
「今、バカと言いましたか? ローランド様をっ!?」
あれ。
何か、失敗したらしい。
「え、えーっと、バカは確かに、ちょおっと言いすぎだったかもしれないけど……」
「言いすぎなんてものじゃありません! 撤回して下さい! あなたは、あの方を一体どなただと思っているのですか!?」
いや、どなたとか言われても。
「………………金持ちのぼんぼん?」
素直に答えたあたしに、クインは、その可愛い顔を般若のように顰めた。うん、怖い。素直に怖い。
「ローランド=シャム=ウィル=ラウルフォード様ですよ。ラウルフォード伯爵のご子息です!」
「え……」
長ったらしい名前はさておいて。
ラウルフォード伯爵って……伯爵、って。
お貴族さま、ってこと?
「……うっそぉ」
素直に呟きをもらすあたしに対し、
「だからそれ、行く先々で公言するなって……」
と、ローランドは、疲れたようにため息をもらしていた。
back top next
***
従者のクインが登場しました。あとローランドの出自がわかったり。
あと何話かはこの三人での話になるかと思います。
(09.04.29)
***