セシリアの道化師


5.貴族と従者
翌朝、目を覚ましたあたしが寝室を出ても、ローランドの姿はそこになかった。
「あれ? あいつは?」
「ローランド様は、まだ起きられていません」
ローランド様、というところを、心なしか強調されたような気がする。
多分、あたしの『あいつ』って言い方が気に入らないんだろう。そうわかったけど、訂正する気にはなれない。あたしは確かにローランドに雇われている立場ではあるけど、従者なんかじゃないんだから。言いたいように言わせてもらう。
「まだ寝てるの?」
「朝の遅い方ですから」
何でもないようにクインは言うけど、あたしは呆れた。のんびりいつまでも寝こけてられるって、どんだけ幸せな奴なんだ。
でも、昨日は早起きだったけどな。やっぱ、娼館なんかじゃぐっすり眠れなかったんだろうか。金持ちの坊ちゃんどころか、貴族の坊ちゃんにとっては、きっと寝心地の悪いベッドだったんだろうし。
「まあいいけど。ね、朝ごはんは?」
何を隠そう、お腹がすいて目が覚めてしまったのだ。
「ローランド様がまだお休みになっているのに、先に食べるつもりですか?」
信じられないと、その年相応に可愛い顔にでかでかと書いてクインは言う。
だから別に、あたしはローランドの従者でも臣下でも無いんだけどなぁ……。それとも、相手が貴族というだけで、そこら辺は遠慮するのが当たり前なんだろうか。さっぱりわからない。
「だってお腹すいたんだもん」
「では、ご自身で勝手に食べに行かれたらどうですか? それなら僕は別に止めませんよ」
「え? だって、ご飯ていつもこの部屋に運ばれてきてたじゃない。どこに食べに行けって言うのよ」
クインは、ふんっと鼻で笑った。あたしよりも年下のくせに、ずいぶんと大人びた、ついでに言えば、ずいぶんと腹の立つ態度だった。何様だよこいつ。
いやいや、でもここであたしが怒ってもどうにもならない。すでに昨日からのやり取りで、とても仲良くできる相手じゃないことはお互いにわかりきってるだろうけど、これからしばらくの間一緒にいるんだから、なるべく良好な関係を保ちたい。
それにほら、あたしの方が年上なんだから、ここは大人の余裕を見せなければ。
「わかったわ。なら、せめて場所だけでも教えてよ。そうしたら、後は勝手に何とかするから」
ね? と微笑みかけてみる。多分、ものすごいぎこちない笑みだっただろうけど。
「一応言っておきますけど。僕はローランド様の従者ですから、ローランド様のお世話をするのが仕事です。でも、あなたの世話をする義務はありませんので。僕の仕事の邪魔をしないでもらえますか?」
あたしの笑みはそのまま凍りついた。
あぁ、そお、とあたしはゆっくり頷いた。顔には多分、この上もない笑顔が浮かんでいたはずだ。
だれもあたしの世話を見ろとまでは言ってない。そんなことは頼まない。ただちょっと、どこに行けば朝ごはんがもらえるのか聞いただけだっていうのに。
そのまま、くるりと背中を向けて、ローランドの眠る寝室へと向かっていこうとするクインの背中に、あたしはすかさず容赦のない蹴りを食らわせた。
「な…っ」
油断していたクインは、間抜けな声を上げながらその場にすっころぶ。けっ、ざまあみやがれ!
あたしはその正面に回りこみ、腰に両手をあてながら膝をさするクインを見下ろした。貧乏暮らしを甘く見るなよ。落ちてた銅貨一枚巡って、近所の男相手と殴り合いの喧嘩をして勝ったことだってあるんだから。
「一応言っておきますけど。あたしはね、バカにされて黙ってられるほどお上品な女じゃないの。失礼な口聞かれたら平気で蹴るし殴るわよ。怪我したくなかったらもうちょっと態度に気をつけなさいよねこのクソガキ」
吐き捨てるように言ってやれば、すっとした気持ちだった。
やっぱりあたしには、お愛想笑いを浮かべるのなんて無理だ。何せ今までずっと、言いたいことを言って生きてきたんだから。
「……しっ、信じられない……こんながさつな女が、ローランド様の傍にいるだなんて!」
「がさつで何が悪いのよ。女に蹴りくらってすっ転んでる男の方がよっぽど間抜けじゃない」
立ち上がったクインは、あたしを思い切り睨みつけたけど、蹴り返してはこなかった。ただ、その目に浮かんだ激しい色は、とても昨日の比じゃなかった。
「どうしてよりによっておまえみたいな女を、ローランド様は連れて来たんだ」
すっかり口調まで変わってる。そんだけ蹴られたことがショックなのか。ローランドもクインも、普段どんだけやわな生活をしてるんだろう? 殴り合いなんてあたしにとっては日常茶飯事なのに。
「そんなの知らないわよ。ローランドに聞けば?」
多分、若くて娼婦らしくない女ならだれだって良かったんだろうけど、そんなことはクインには言えない。ローランドもどこに行っていたのかは言ってないみたいだし。
歯噛みをするように、クインはあたしを睨みつけた。
「大体、おまえもわからないのか? ローランド様には、プリシラ様という素晴らしいお相手がいるんだ。もうすぐ婚約話もまとまるというところなのに、おまえみたいなのが来て……。自分が邪魔なのはもうよくわかっただろう。さっさと出て行ったらどうなんだ?」
「生憎だけど、その邪魔をするためにあたしはここにいるのよ。ローランドに雇われてるんだから、しっかり仕事をしてお金をもらうまで帰らないわよ」
「この貧乏人。邪魔をしてまで、そんなに金が欲しいのか?」
無邪気に笑ったクインは、懐から取り出したそれをあたしに放って遣した。反射的に受け止めたあたしは、手の中のそれを見て目を丸くした。宝石だ。
「それをやるから、さっさと出てけよ。おまえみたいな女にやるのは惜しいけど、その辺で飢え死にされても目障りだからな」
お金を持った人たちに、嘲られることには慣れている。
いかにも裕福そうな、全身を着飾ったご夫人から、施しを受けたこともある。
それについて、あたしは何とも思わなかった。そりゃ、いい気持ちはしないけど、お金をもらえることの方がずっと大きかった。ありがとうと受け取って、あたしは食べ物を買いに走った。そうしてその日は、父さんと二人で温かい夕食にありついた。幸せだった。
この宝石の価値を、あたしは知らない。でも、銀貨数十枚で買えるはずがないということぐらいはわかる。
これを売り払えば、どれだけの間、あたしと父さんはそんな幸せな食事をとることができるんだろう? 父さんはあたしがこうしてる今だって、お腹をすかしてるんじゃないのかな。
じっと手の中の宝石を見つめるあたしに、クインは口元を歪めて笑っていた。そうしたこいつの顔は、ひどく醜い。ちっとも可愛くなんてない。
「ありがとう、って……あたしが受け取るとでも思ったの?」
乱暴に、あたしは宝石を投げ返した。
またそれが戻ってくるとは思ってもいなかったのか、クインが受け取り損ねた宝石は、かつんと硬い音を立てて床に転がった。
「あんたって、ちっとも人の気持ちがわかんないのね。あたしの気持ちは、まあわかってくれなくても別にいいけど……仕えてる主人の気持ちもわからなくてどうすんのよ? 嫌がってる婚約を推し進めることが、従者の仕事なわけ?」
「……おまえに、ローランド様の何がわかるんだっ!」
何と言われたら困るけど。
「―――朝から元気ですね」
クインの後ろにあるドアが開いて、ローランドが姿を現した。嫌な時に出てくるなあと思ったけど、ローランドは気にした様子もなく微笑んでいる。
「おはようございます。ローランド様、着替えの時にはお呼び下さいと……」
「だって、取り込み中みたいだったから、邪魔をしたらまずいかなと思って」
これが嫌味ならまだわかるけど、本気でそう思っているらしいことは明らかだった。
「僕に気を使ってどうするんですか。というか、その気遣いはぜひ違う場所でお使いになって下さい」
「あぁうん、覚えてたら」
「覚えてたらって、ローランド様……」
「遅れましたが、おはようございます、ネッティ。よく眠れましたか?」
不満ありありのクインの傍を通り抜けて、ローランドはあたしの目の前で立ち止まる。朝っぱらから、鬱陶しいほどにきらきらとしている。その髪もだけど、服装も。金持ちはいらんところに金を使いすぎだと思う。
「えぇ、まあまあね」
「ところで、喧嘩ですか?」
喧嘩、っていうのかな。どうなんだろうとちらりとクインに目をやると、つまらなさそうな顔をしていたけど、ローランドの手前か、あたしを睨みつけてはこなかった。
「まあ、何ていうか……」
「女性相手に喧嘩なんて、するものじゃないよクイン」
振り返って、ローランドはクインに言う。クインはやっぱりつまらなさそうな顔のまま、「はい」と小さく頷く。さっきの態度はどこに行ったんだ。
「わかればいいけどね。女性と喧嘩をしたって、男が勝てるわけないんだ。何かあったら、すぐに申し訳ありませんと謝るのが一番だよ。勝ち目の無い戦いなんてするものじゃない」
「え、ちょっとそれもどうなのよ」
思わず突っ込んだあたしに、ローランドは神妙な顔を向けた。
「僕は、今までの人生でそう学んだのです」
うわぁ。
こいつの人生てどんなのよ。
よっぽど女運の無い人生だったのかな……今の婚約話だって蹴りたいぐらいなんだし。
「さあ、朝食にしましょう。お腹もすいたでしょう?」
気分を変えるように、ローランドは軽く手を叩く。それだけで、クインはさっと部屋を出て行った。
「食事のマナーは覚えていますか?」
まさか、一晩寝たらすっきり、なんて、いくらあたしでも言えない。
とりあえず、にこにこと誤魔化すように笑ってみたら、釣られたようにローランドもにっこりと微笑んだ。悔しいけど、女のあたしよりも、ずっと華やかで優雅な微笑み方だった。この微笑み一つで落ちる女だってたくさんいるんだろう。もしかしたら男もいるかもしれない。
でもそれも、仕方のないことなのかもしれない。生まれながらの貴族の坊ちゃんに、あたしが勝てるわけないんだから。それこそ、勝ち目の無い戦いってやつだ。
それにしても、貴族なら貴族だって、会った時に言ってくれればいいのに。
クインが朝食を運んできて、テーブルの上に並べるのを見ながら、あたしはぼんやりと昨日のことを思い出した。


見た目にしても金遣いにしても、そりゃあ結構な金持ちなんだろうなぁとは思っていたけど、まさか貴族だとは思わなかった。
あたしの中の貴族のイメージは、ローランドとはかけ離れている。貴族って普通、威張りくさってるものなんじゃないの? こいつみたいに、バカ丁寧な口調で話しかけてくる貴族なんて聞いたこともない。それに何かどっかおかしいし。
呆然としてしまったあたしに、ローランドは申し訳無さそうに苦笑する。
「貴族と言っても、大したことはないのですよ。領地であるセシリアは田舎ですしね」
「歴史のある素晴らしい土地ですよ! 確かに都会ではありませんが、景色が大変美しいと、恐れ多くも国王陛下にもお気に召して頂けた程です!」
「それに、爵位を継ぐのは兄ですから。貴族と一言に言っても色々ですよ。僕自身には何の取り得もありませんし」
「何を仰ってるんですか! 他の貴族のご子息を見ても、ローランド様ほど陛下の覚えのめでたい方はおりませんよ!」
ローランドが何か言う度に、すごい勢いでクインが口を開く。
「クイン、悪いけど、少し口を閉じてお茶を入れてくれ」
疲れた様子でそう言うローランドは、クインのその手の台詞には辟易してるって様子だ。
あたしはちょっと迷ったけど、ローランドが手の平で椅子を指したんで、元いたその場に戻ることにした。クインは慣れた様子でお茶の支度をしているから、あたしがいてもかえって邪魔をしそうだし。
「あんたも大変そうね」
アホと言われて喜ぶなんて変な奴、と思ってたけど、こんな風に四六時中絶賛されてばかりなのなら、バカにされて新鮮味を覚える、っていうのはありかもしれない。喜ぶ神経はやっぱりわからないけど。
「わかって下さいますか?」
ローランドは、ぱっと顔を輝かせると、どうしてかあたしの両手をぎゅっと握る。昨日から思ってたけど、何かやたら人に触りたがる奴だ、こいつ。
「えぇと、まあ、何となくだけどね……」
「そう言って下さるのはあなただけです」
いやそんな大袈裟な。
「あなたが僕の婚約者になってくれて、本当に良かった」
「や、振りだからね、振り。あたしはお金を稼ぐためにここにいるんであってね」
「あぁ、そうですね。でも、そこから真実の愛が生まれることもあると思うのです」
いや……。
無いと思います。
「昨日の僕らの出会いは、運命的な出会いだったとは思いませんか?」
「う、運命的って……」
どんだけ頭の中がお花畑なのよ!
男でそんなことを、幸せそうに微笑みながら言う奴がいるとは思わなかった。せめてその手の台詞は、可愛い女の子に言ってもらいたい。
「一目見て、あなただと思ったのです」
あたしの両手を握り締める手に力がこもる。引っこ抜こうとしたけど、それもできない。
えーと、真面目なのか、ふざけているのか。悪ふざけでも腹立たしいけど、真面目にそんなことを言われるのも嫌だ。そんな臭い台詞、鳥肌が立つっつの。
「あたしは全然何とも思わなかったけど」
言外に、あんたの勘違いだよと言ってやったつもりなんだけど、ローランドには通じなかったようだ。にっこりと笑って、琥珀の瞳があたしをじっと見つめる。
「これから運命を感じて頂ければ十分です」
「いや、あのね」
大の男が運命運命って……。もうちょっとしっかりしたらどうなんだ。少なくともあたしは、運命的だとか赤い糸で結ばれてるとか、その手の話を信じる男には興味が無い。いくら顔が良かろうと、だ。
「あんたに運命感じる日なんて一生来ないわよ」
思い切り力を込めて、両手を引っこ抜いた。空っぽになってしまった手を見つめて、ローランドは少し寂しそうに眉を下げる。まるであたしがいじめたみたいだから、そんな顔は止めて欲しい。
「人生は、何が起こるかわからないものですから。運命の出会いの下には、人は逃げられないものなのですよ」
言い聞かせるように、ローランドはゆっくりとそう話す。
何だかなあ。脳みその足りない奴なのかな、とは思ってたけど。足りないっていうよりもむしろ。
「あんた脳みそ腐ってんじゃないの?」
ぽろっと零れ出た言葉に、すぐさま反応したのはローランド、では無かった。
「の、脳みそが腐……! あなた、ローランド様に対して何と言うことを言うのですか!」
あたしの前に置かれたカップからは、勢いよく紅茶がこぼれた。でも、もったいない、とか思っている場合ではなかった。
「さっきに引き続き、あなたという人は……ローランド様のどこを見れば、そんな言葉が出てくるんですか!」
どうやら、またクインに火をつけてしまったらしい。一々反応しなきゃいいのに。めんどくさいなぁ、とあたしは心の中だけでそっと呟く。
「脳みそが腐る……一体どこを見れば、そんなことがわかるのですか? ネッティ、あなたは、人の頭の中がわかるのですか?」
バカにされた張本人は、首を傾げながら、真面目腐った顔でそんなことを言っている。
「……えーっと、こういうところ?」
ローランドを指差して、あたしはクインの顔を見た。
どう見ても脳みそ腐ってるよな、としか思えないのに、クインは同意してくれないどころか、ますます燃え上がるのだから困ったものだ、本当に。
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主人に心酔している予定のクインが、心酔もしてるんですけど性格も悪い少年になりました。
おかしいな……そんでもって、ローランドはだいぶアホな子になりました。
(09.05.01)
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