セシリアの道化師


7.そこは危険な無法地帯
ローランドの朝は遅い。
この宿屋で寝起きをするようになってから数日目。あたしはようやく、それがあいつのライフスタイルなんだということに気づいたところだった。
あの娼館での朝が例外的だったらしい。考えてみれば、貴族の坊ちゃんがあんな庶民の娼館のベッドなんかで熟睡できるはずもない。きっと眠れずに一夜を過ごしたんだろうが、だからと言って宿屋に戻ってきたとたん、こうも毎朝惰眠を貪るっていうのはどうなんだろう。
「あー、貴族の生活って本当理解できない」
顔を洗ってから服を着替える。どうせ今朝も、まだローランドは起きていないに違いない。クインが何も文句を言わないところを見るに、もしかしたら貴族っていうのはそういう生活が当たり前なのかもしれないけど、あたしから見れば時間の無駄にしか思えない。たまにならいいけど、毎日ぐーすか寝こけてる暇があるのなら、その分少しは働けばいいのに。
そうしてローランドの起床が遅い分、その間の時間をクインと二人きりで過ごさなきゃいけないっていうのもまた辛い。
「おはよ、クイン。今朝も早いのね」
気に入らない相手だけど、にこやかに挨拶をする分、あたしの方がずっと大人だと思う。そりゃ、確かは年齢も上だけど。
そんなあたしに対しても、クインは笑顔を返すどころか、ちらっと視線をやるだけだ。
「だれかさんと違って、色々とやることが多いんでね」
せめて挨拶ぐらい返さんか。
思い切りそう突っ込みたかったけど、ローランドの服にアイロンをかけているクインは確かに暇には見えない。ここで突っかかっても、あたしの方がバカみたいだ。
あたしがローランドに雇われてから早数日。その間に礼儀作法のレッスンは進んだり、ドレスの仮縫いに行ったりと慌しく毎日は過ぎて行ったけど、クインとの関係は一向に良くならないままだ。先は長いっていうのに、さすがにこれじゃまずい。と言うよりも、あたしが居辛い。
「従者の仕事って大変なのね。何かできることがあれば手伝うけど?」
にっこりと微笑んで言ったあたしに、クインは視線すらも向けてはくれなかった。忙しそうに手を動かしながら、面倒そうに言うだけだ。
「おまえなんかに手を出されたら、余計に仕事が増える」
「…………あぁ、そう」
やっぱり無理だ。こいつと仲良くするのなんて無理!
あたしの顔からとたんに笑顔が消え失せる。気の短いあたしが、決して好意的じゃない相手と仲良くなんてできるはずがない。
「じゃ、あんたは大好きなローランド様のために、一人であせくせ働いてなさいよ。あたしはのんびりさせてもらいますから」
あたしの嫌味に、むっとしたようにクインが鼻の上に皺を寄せるのもいつものことだ。好きでやってるわけじゃないんだけど、毎朝同じことを繰り返してるような気がする。我ながら大人気ないとは思うけど、どうしようもない。
一向に仲が良くならないどころか、日増しに悪化してるような気がするのは気のせいだろうか。
このままじゃ、依頼が終わる前に、クインに後ろから刺されたりしてね。……あは、笑えない。
「よりによって、何だっておまえみたいな凶暴な女をローランド様は連れてきたんだ」
それも、最近じゃクインの口癖になっている。一々蹴り倒したいとまでは思わなくなったけど、聞いていい気持ちはしないものだ。そんなのローランドに聞けっての。
「せめて人並みな、普通の女だったら、僕だってもう少し協力的になれるのに」
それじゃなんだ。あたしは人並み以下ってことか。普通じゃないってことか。
あたしよりちょおっといい暮らしをしてるからって、どうして年下のガキんちょにここまで言われなきゃならないんだろう。年上は敬えって教わらなかったのか? まあ、あたしがローランドを敬っているかはさておいて。
「あたしの悪口言うのもいい加減にしといた方がいいんじゃないの? それって、あんたの大好きなローランド様の目が狂ってるって言ってるようなもんだと思うんだけどねぇ」
にっこりと笑うあたしに、クインは一瞬言葉につまったようだった。でも、すぐに何でもない顔に戻る。可愛くない奴。
「ローランド様はあの通りお優しい方だから、おまえの粗忽さにも目を瞑って下さってるんだよ。女性にはとくにお優しい方だからね。まあおまえも生物学上は雌に分類されるわけだし」
雌って、あたしは動物か!
「ローランド様も、一体何をお考えなんだか……こんな女を連れてきてまで、プリシラ様との婚約を嫌がるだなんて……」
アイロンをかけた洋服をキレイに畳みながら、クインはぶつぶつと呟く。
数日前にも聞いた名前だ。名前だけはずいぶんと可愛いけど。
「そのプリシラ様って、どんな人なの? あんた、会ったことあるの?」
「おまえなんかに教える必要はないね」
素直に教えてくれるとは思っていなかったけど、案の定だ。どこまであたしに嫌がらせをすれば気が済むんだろう。あたしだって短気だけど、ここまで性格は悪くない。
「あぁそ、別にいいわよ。ローランドに聞けば教えてくれるだろうし」
「さすがは庶民だな。金も教養もないくせに、野次馬根性だけは旺盛だ」
「何が野次馬よ。そのプリシラ様とやらとの婚約を邪魔するためにあたしは雇われてるんだから。そのためにも、最低限のことを知っておく必要はあるじゃない」
そりゃまあ、好奇心が無いってわけじゃないけどさ。だって、あのローランドがここまで嫌がる女性なんてちっとも想像つかない。女性とならだれとでも仲良くにこにこしてそうなのに。
「おまえが知ったって無駄なだけだよ。おまえが勝てる相手じゃない」
「何よそれ。別に勝ち負けじゃないでしょ」
ローランドの寝起きしている寝室へと向かったクインは、振り返ると、ふっと口の端を上げて笑った。子供が浮かべるには似合わない、皮肉めいた笑い方だ。
「あぁ、そうだな。ガキにしか見えないその格好じゃ、確かに勝負にもならないね」
「うるさいわねっ!」
近くにあった花瓶に手を伸ばした時には、クインはもうドアの向こうに姿を消していた。
あー、くそっ。戻ってきたら一発殴ってやる!
でも、悲しいかな、鏡を見れば、確かにクインの言っていることは事実だと自分でもわかってしまう。
子供用の服は裾が短い。棒みたいな足を出したあたしは、良くてクインと同い年ぐらいにしか見られないんだろう。元々大人っぽい顔立ちだとは自分でも思ってないけど、年相応の服を着ればもう少しマシになるのに。
こんなキレイな服を着ているのに、文句を言っちゃいけないとは思いつつも、クインにバカにされるのは非常に悔しい。やっぱり三発ぐらい殴っておこう。
お腹がくうっと鳴る。
「早くローランド起きてこないかなー」
ローランドの顔を見るのが待ち遠しくて仕方ないのは、朝のこの時間ぐらいのものかもしれなかった。


*


小さな皮袋を取り出すのが、最近のあたしの最大の楽しみだ。
正確には、大事なのはその中身。何と言っても、賃金である銀貨がその中には入ってるんだから。
毎日少しずつ重たくなっていくのがわかる度に、あたしはつい頬をにやにやとさせてしまう。数えなくても何枚入っているかなんてわかっているんだけど、それでも暇さえあればこうして銀貨を数えてしまうのだ。
「銀貨八枚かぁ」
今までは、こうやって手にすることができるのは全部銅貨ばかりだったのに。それよりも一回り大きな銀貨は、ずっしりと手に重い。少なくとも、あたしにはそう感じられる。
この依頼が終わる頃には、銀貨はどれだけ増えるんだろう。もしかして、この袋がパンパンになっちゃったりするのかな。幸せすぎて、そんな想像をするとますますにやにや笑いが止まらない。
でも唯一、心配なのは父さんのことだ。あたしが家を出てからかれこれ一週間近くにはなるし、父さんは無事だろうか。家で干乾びてたりしたらどうしよう。
窓の外を眺める。よく晴れた、春らしいいい天気だ。カーテンを揺らす風が心地よい。
散歩日和だなぁと思ったら、あたしは居ても立ってもいられなくなった。ちょうど今日のレッスンは終わった所だし。銀貨一枚だけをポケットに入れて、あたしは皮袋を机の引き出しにしまいこんだ。
父さんにこの銀貨を渡してこよう。もう家のお金は尽きてるはずだし、父さんが自分から働きに出ているなんて思えない。あたしが帰った頃に白骨化していても困るし。
となれば、やっぱり一応ローランドに声をかけないとまずいだろう。まさか行かせてくれないなんてことは無いと思うけど。
「ねぇ、ちょっといい?」
ドアを開けると、ローランドの目立つ金髪は窓際で風に揺れていた。ばさばさ、と小さな音が聞こえる。
「あぁ、ネッティ。どうかしましたか? それはそうと、人の部屋に入る際にはノックをするのが礼儀ですよ」
「あー、ごめん忘れてた。っていうか、あんたそこで何してたの?」
「鳩に餌をあげていました。可愛いですね、鳩は」
ローランドは天使の笑みを浮かべる。窓辺で鳩に餌とか、どこの乙女だよ本当。
「ネッティは鳩はお好きですか?」
「まあ好きよ。お肉は何でも好きだし」
「……いえ、そういう意味で聞いたのではないのですが」
ローランドの頬が引きつる。この様子じゃ、お腹減った時に鳩を捕まえて丸焼きにしたこととかは言わない方がいいみたい。鳩はあちこちにいるけど、なかなか捕まえられないから大変なのだ。
「何かご用があったのでは?」
「それなんだけどね。今から、ちょっと家に行ってきたいなと思うんだけど、いいでしょ?」
「……家に、ですか?」
何も無茶なことを言っているわけではないのに、ローランドは難しい顔になった。
「父さんにお金を渡したいのよ。あたしがいないと飢え死にしちゃいそうだし、あの人」
「それなら、遣いを出しましょう。名前を教えて頂けますか?」
「いいってば、そんなの。あたしが自分で渡しに行けばいい話じゃない。父さんの顔だって見たいし」
別に恋しくなってるわけじゃないけど、元気なのかどうかは気になる。あたしのことだって、きっと父さんは心配してるだろうし。
「いいでしょ? 行って来たって。父さんに会ってお金だけ渡したらすぐに帰ってくるわよ」
「それならなおさら、遣いを出せばいい話でしょう。すぐにクインに行かせましょう」
「だーかーら、あたしは自分で行きたいんだっつーの!」
話のわからん奴だなあ!
「どうしてそんなに帰りたいのですか?」
逆に、どうしてそんなに帰らせたくないのかをあたしは聞きたい。どこに反対する理由があるっていうんだ。
「どうしてって、そりゃ、自分の父親だもん。色々心配だし、やっぱり会いたいじゃない」
「僕よりも父親を選ぶのですか?」
「うん」
「……………………」
「え、だって、他人より家族を選ぶもんでしょ。違うの?」
「……他の女性は、家族よりも僕を選ぶと言ってくれたものですが」
「だってあたし、別にあんたのこと好きじゃないもん」
恋人と一緒にされたって困る。というか、駄々っ子か、こいつは。何で行ってらっしゃいの一言が言えないんだろう。
「じゃ、あたし行って来るから」
「待って下さい。家の場所はわかるのですか?」
部屋を出ようとしたあたしの腕を、ローランドは掴む。ええい、しつこい奴。
「わかんないわよ。だから、とりあえずあの娼館に一度寄ろうと思って。あたしを連れてきた奴に聞けばわかるでしょ」
「あなた一人で娼館に行こうと言うのですか?」
「そりゃ、あんなとこ二度と行きたくないけど、行かないと道がわからないし」
「わかりました。では、僕もご一緒しましょう」
「いいってば!」
自分の家に帰るだけなのに、どうして付き添いなんて連れて行かなきゃいけないんだ。子供のお使いじゃないんだから。
「ご一緒しなくて結構だから! あんたは鳩に餌でもあげてて!」
「もうあげ終わりました。あげすぎると肥満になってしまいますから。さあ行きましょうか」
「いや本当付いてこなくていいってば。つーか付いてくんな」
「どうしてそんなに嫌がるのですか。僕に何かご不満でも?」
悲しそうな顔をするローランドには悪いけど、そんなの父さんに会わせたくないからに決まってる。ついでに言えば、近所のおばちゃん達にも見られたくない。あたしのこの格好だけでも誤魔化すのは大変なのに、その上いかにもいいところの坊ちゃんですってだれが見てもわかるようなローランドを連れて行ったら、後で何を言われるかわかったもんじゃない。
おばちゃんほどこの世に恐ろしいものはないんだ。
「うん。こういうしつこいところがすごい不満」
「粘り強いと言って下さい。それにネッティ、あなたの住んでいる所は……その、あまり治安が宜しくは無いのではありませんか? あなたを一人で行かせるのは心配です」
だからこんなにしつこいんだろうか。心配されるのは嫌な気持ちではない。基本的にはいい奴なんだともわかっているから、あたしはちょっと口調を和らげた。
「大丈夫だってば。そりゃ、治安がすこぶるいいとは言い辛いけど、ずっとあたしはそこで暮らしてるんだから。せいぜいあの辺りにいるのなんて、ゴロツキとかスリとか酔っ払いとかその程度だし……」
「そんな所に一人で行こうとしていたのですかっ!?」
だから全然大丈夫、なはずなんだけど……。あれ。何か間違えたっぽい。
おかしいな。殺しをやるような奴はさすがにいないってことを言いたかったんだけど。
「危険極まりない無法地帯に女性を一人で行かせるだなんて、そんなことは紳士としてできかねます」
「いや、だからあたしはずっとそこで暮らしてたわけでね」
危険極まりない無法地帯って。あたしの住処だぞおい。
「大丈夫です。何かあっても、あなたのことは僕が必ず守ります」
あたしの手をぎゅっと握り締めてローランドは言う。家に帰るだけだってのに、どうしてこんな台詞を聞かされなきゃならないんだろう。敵国にでも行くのか、あたしは。
「さあ、そうと決まったら、明るい内に行きましょう。暗闇では向こうの思うツボです」
「つーかね、ゴロツキやスリがいるって言っても、あたしは顔見知りのご近所さんなわけでね、むしろあんたが一緒に来た方がよっぽど危険なぐらいで……」
「あぁ、ちょうどクインがいません。良かった、この隙に行きましょう」
聞いてないし人の話。
さあ、と腕を引かれるままに歩き出す。何かもう、抵抗するだけ面倒だ。このままじゃ本当に日が暮れちゃうし。
アホの相手をするのは本当疲れる。
どでかいため息をつきながら、あたしはローランドと宿屋を出た。


向かった先の娼館は、当然だけどまだ明るい真昼間とあっては開いてはいなかった。だけど気にせず入っていくローランドは、そこにあの男がいないと知ると、今度はその辺にいた小間使いの女の子に金を握らせて呼びに行かせた。物腰は柔らかいのに、平気で金や人を使うところを見ると、本当に貴族の坊ちゃんなんだなあと思わずにはいられない。
しばらくすると、小間使いに連れられて、あの男がやって来た。相変わらず無駄なほどの筋肉だ。この男の顔をまた見るとは思わなかったな……。
「この前君が連れてきた少女がいただろう? あの子の家を教えて欲しいんだ」
「大体の場所しかわかりませんけど、それでいいのなら……ここからだとちょっと距離があるんで、馬車の方がいいと思いますよ。でも旦那、あそこは貧乏人しか住んでいませんよ。旦那のような方々が行くような所じゃないと思いますけどね」
住んでる本人目の前にして言うことか、それが。
「あんたねぇ……もがっ」
「それで結構。近くまで行けばわかるからね」
文句を言おうとしたあたしの口をローランドは塞ぐ。ちょっと、何するのよ!
ばたばたと暴れるあたしを、男は不思議そうな目で眺めていた。あたしは精一杯の力を込めて睨み付ける。そうだ、今思い出したけど、こいつには胸も揉まれてたんだった。文句の一つや二つ言ったところで何の罰も当たらないのに。
「ありがとう。これで酒でも飲んでくれ」
用件が済むと、ローランドは取り出した銀貨を男に渡した。こいつは簡単に人に金をあげすぎだ。何てもったいない。
店を出て少ししてから、ようやくあたしの口は自由になった。
「ちょっと! 何で人の口を塞ぐのよ。せっかくあいつに文句言えると思ったのに!」
「あの男は、あなたがあの時の少女だとは気づいていませんでしたよ。下手に気づかれて、また良からぬことを考えられては困るでしょう」
「……気づいてなかったの?」
「あの時とはまるで別人ですからね」
どこか嬉しそうにローランドは微笑む。別人か。確かに自分でも、髪の色が変わったのにはびっくりしたけど。
今日もあたしの髪は、ローランドが可愛らしく編んでくれた。そうして子供の服を着ているあたしは、もしかしたらローランドの妹にでも見られていたんだろうか。うわ、何か嫌だな。
通りに出て、ローランドの拾った辻馬車に乗り込む。大した段差でもないのに、一々手を差し出してくるローランドは少しうざったい。それとも、貴族っていうのは皆こんなものなんだろうか。
「一つ言っておくけど」
「はい」
「家の近くになったら、なるべく顔を隠して目立たないようにして、そんでもってできるだけあたしから離れて歩いてちょうだい」
「それでは、何かあった時にあなたを守れません」
ローランドは不満そうに言うけど、不満なのはこっちだ。
家に帰るだけで何があるっていうのよ。何だ、あの辺り一体は魔の巣窟だとでも言うつもりか。
「あのね、あたしは生まれ育った家に帰るだけなの。危ないのはよっぽどあんたの方でしょ。スリに財布取られたってあたしは知らないわよ」
「自分の身ぐらい自分で守れます。あなたといいクインといい、どうして僕のことを信用してくれないのですか?」
そりゃ普段の態度が態度だからなんだけど。
まあいいけどね。それで痛い目にあうのはあたしじゃないし。こいつの場合、一度ちょっと痛い目にあった方がいいような気もする。貴族の坊ちゃんは考えが甘いっていうかな……。
でも、ローランドが来てくれて助かったと言えないこともない。さっきの娼館でもそうだけど、今だってこうやって馬車に乗れているのはローランドがいるからだし。あたし一人だったら、絶対に馬車になんて乗るもんか。二時間だって三時間だって歩く気でいたから、これに関しては楽ができて非常に嬉しい限りではある。言わないけど。
「今日は本当にいい天気ですね。夕食は、外に食べに行きましょうか。若い恋人同士に人気の店があるのですよ」
流れる景色を眺めながら、ローランドはのほほんと言う。腰に下がった剣が、いつ見てもやっぱり不似合いだ。よっぽど頭に花でも飾ってる方がいいんじゃないのか。
「まあ別にいいけど……何でわざわざそんな店なのよ」
「ずっと行きたいと思っていたのです」
「一緒に行ってくれるような女性はいないわけ?」
「いたら、今こうしてあなたは僕の隣には座っていませんよ」
ローランドは小さく苦笑する。まあそれもそっか。それにしても、鳩が可愛いとかずっと行きたかった店だとか、本当に乙女的な思考の奴だなぁ。
ローランドは飽きもせずに、どこかわくわくとした顔で窓の外を眺めている。することもなく、あたしもぼんやりと窓の外に目をやった。その景色が、見知った物に変わってきたのは、しばらく経ってからのことだった。
「この辺りだわ」
「では、家までの道はおわかりですか?」
頷けば、ローランドは御者に声をかけた。あたし達は馬車を降りる。
「旦那、悪いことは言いませんがね。ここは旦那のような方が来る所じゃありませんて。貧民街ですよ。今すぐお戻りになった方がいいと思いますがね」
「ちょっと用事があるんだ。それが済んだらすぐに戻ってくるよ」
「はあ、用事ですか」
御者台に座った男は、明らかにあたし達を怪しんでいるようだった。こんないい服を着て貧民街に来るような奴はまずいない。不審者だとでも思われたんだろうか。
「悪いんだけど、それまで待っていてもらえるかな」
気にした様子もなく、ローランドはにこやかに御者に話しかける。少し迷った様子だったけど、御者は小さく頷いた。でも、襲われるのが怖いからと、来た道を少しばかり戻って行った。よほどここには居たくないらしい。
「さあネッティ、案内して下さい」
ここが貧民街だってことを、本当にわかってるのかな、こいつは。
さっきの御者みたいな態度も見ていて嫌だけど、まああれが普通の人の反応なんだろう。それと比べて、ローランドの態度には別の意味で不安になる。タタキにあってもあたしは助けてやらないからな。
「ちょっと、こっち」
「そちらなのですか?」
「そうじゃないけど、なるべく人目に付かずに行きたいでしょ」
「何だか、まるで人目を偲ぶ恋人同士のようでどきどきしますね」
「……置いてっていい?」
八割がた本気で言ったあたしに、ローランドはにこやかに微笑んだまま「それは困ります」と言う。だったら黙ってろ。
薄暗い路地裏だ。あちこちに捨てられた酒瓶の間を、ネズミがちょろちょろと走り抜けていく。こもった空気は汚臭を含んでいたけど、ローランドは気にした様子もない。いたって平然と、あたしの隣を歩いている。
久しぶりに戻ってきたあたしでさえ、やっぱりこの辺りは臭うなぁと鼻の頭に皺を寄せてしまうのに、こいつは何にも感じてないんだろうか。鼻つまってるとか?
「ネッティのご家族は、どのような方なんですか?」
知り合いに会ったらどう誤魔化そうかとあたしが必死に考えていることになんて気づかないで、ローランドはまるで散歩でもしているような気楽さだ。
「家族って言っても、父さんしかいないわよ。母さんはあたしが小さい頃に死んじゃったし」
「ご兄弟は?」
「いたらいいなと思ったことはあるけどね」
頼りになる兄ちゃんでもいれば、生活も少しは楽だったのになあなんて。父さんは頼りになるとかならないとか、そんな話以前の問題だし。
「いればいたで、なかなかに大変なものですよ」
「あんた、上にお兄さんがいるんだっけ」
だから爵位がうんたらかんたら言ってたことは覚えてる。
ローランドは、前を見つめたまま「えぇ」と小さく頷く。その拍子に揺れる金髪は、まるで金糸みたいにキラキラとしている。あたしの髪も洗われてずいぶんキレイになったけど、ローランドの髪と比べればとたんに色褪せて見える。金なのか赤毛なのかわからない、中途半端な色は妙に気になるし。
「兄弟がいたら楽しいもんでしょ? あたしの知り合い見てるとそう思うもん。一緒に遊んだりしてさ。あんただってそうじゃないの?」
「遊んだり……えぇ、まあ、そういうこともありましたが、面白おかしく遊ばれる方が圧倒的に多かった気がします。年が離れているので、兄にとって僕は格好の玩具だったのでしょうね」
飄々としてるこいつも、お兄さんには頭が上がらないってことなんだろうか。
何だか想像つかないけどなぁ。見上げるあたしと目が合うと、ローランドはにこっと微笑む。男のくせにお花畑が似合いそうなその笑顔は、本当何とかならんもんだろうか。
辺りを警戒しながら歩いたけど、幸いにも知り合いに見つかるようなことはなかった。自分の家に帰るのに、こんなに神経を使ったのは初めてだ。
「父さん、ただいま」
穴の開いたドアを、あたしは慎重に開ける。以前ちょっと乱暴に開けたらがこっと外れてしまったことがあって、それ以来ドアにはなるべく優しく接することにしているのだ。
「お邪魔します」
礼儀正しくそんなことを言いながら、ローランドが付いてくる。
だけど、部屋の中に父さんの姿はなかった。狭い家だ、あちこち探す必要なんてない。
「あれ? おかしいなぁ。父さんどこに行ったんだろ」
「まだ明るいですし、お仕事では?」
「父さんが自分で仕事なんか見つけられるわけないでしょ」
今までの仕事は、全てあたしが見つけてきたものだ。でも、あたしが苦労して見つけてきた仕事も、お金が無くて困ってる人を見つけるとあっさり譲ってしまうほどの、どうしようもない男なのだ、うちの父さんは。
近所のおばちゃん達は「人がいい」なんて言うけど、それじゃご飯は食べていけないんだっつーの。性格なんて悪くたって構わないから、もっとお金を稼いでくれる父親の方がずっといい。
「家で干乾びてるかと思ったんだけどな」
「ひ、干乾びる、ですか?」
「ちょっとその辺見てくる」
踵を返したあたしの背中に、ローランドの声がかかる。
「待って下さい、ネッティ。一人では危ないですよ」
あー、もう。あたしは深窓のお姫様かっ!
振り切るようにして、ローランドの前でドアを閉める。何か嫌な音がしたけど気にしない。どうかこれ以上外れませんように。
きょろきょろと辺りを見回したあたしは、ちょうど角から現れた知り合いの姿を見つけた。グレンだ。喜んでいいものかどうなのか……。誤魔化すのが面倒だけど、会っちゃったものは仕方ない。
あたしと目が合うと、グレンはにやにやと笑う。この笑顔は前からどうも受け付けなかったけど、ローランドの笑顔を見た後ではなおさらだ。どうしてこんな気持ち悪い笑い方をするんだろう。
「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど」
「あぁ、何でも聞いてくれよ」
今日に限って親切ぶった返事だ。何かといえば金を取ろうとする奴なのに。
「あのね、うちの父さ……」
「ただし、出すもん出してからな。有り金全部置いてけ」
えっ、あたしが銀貨を持ってるのがばれた? 何で?
びっくりしたのは一瞬で、次の瞬間には、汚れたグレンの手が後ろから抱え込むようにして、あたしの口を押さえていた。
……ちょっと待て。何だこれは。
「んーっ! んんっ!」
「大人しくしてな。言うことを聞けば命までは取らねぇよ」
チンケな強盗みたいなことを言うと、グレンは取り出したナイフをあたしの首元に当てた。悪ふざけも度が過ぎるぞ、これは。
「さあ、有り金全部置いてくんだな。隠そうったって無駄だぞ」
隠すも何も、銀貨一枚しか持ってないってば!
いや、そりゃあたし達にとってみればものすごい大金だけど、でもだからって、こんな風に知り合いをナイフで脅すような奴だとは思わなかった。それとも、ちょっと見ない間に、何かショックなことでもあったのか。
一体どうすりゃいいっていうんだ。
「どうかしたのですか? ネッ……」
タイミング悪く家の扉が開き、出てきたのはローランド。間抜けなあたしの姿を見て、言葉を無くしている。あぁもう、家の中でじっとしててくれればいいのに!
「何だ、連れもいたのか。おい兄ちゃん。こいつの命が惜しけりゃ、金目の物は全部置いてきな」
案の定だ。何とかもがくけど、グレンの腕は離れそうにない。せめて向かい合ってれば、思い切り股間でも蹴り上げてやれるのに。んーんー言葉にならない声を上げるだけで精一杯だ。
「ほら、さっさとしな。それともこのお譲ちゃんが怪我してもいいってのか?」
お譲ちゃん……? 今まで一度だって、グレンにそんな呼び方をされたことはない。
ってことは、もしかしてあたしだって気づいてない?
「んー! んっ、んっ! んんーっ!」
「うるせぇな、静かにしてろ!」
頭の上から怒声がとぶ。別に怒鳴られたって怖くなんかないけど、その拍子に首元に突きつけられたナイフが食い込んで、あたしは黙らずにはいられなかった。ちょっとこれはまずいかもしれない。
「彼女を放して下さい。女性に乱暴を働くなどもっての外ですよ」
この状況がわかっているのかいないのか。さすがに笑顔は消えていたけど、それでもどこかのほほんとした調子は残っている。
あちこちで簡単に人にお金をやってるんだから、今だってそうしてくれればいいのに。
全神経が、首にあたったナイフに集中する。グレンの奴、本当に信じられない。ちょっと人が身奇麗になっただけで、ご近所さんの顔もわからなくなるだなんて最低だ。悪いのは顔だけにしろっての。
「つべこべうるせぇな。こいつが怪我してもいいってのか? あぁ?」
ぴりっとした痛み。もしかしなくても、肌が切れたのかもしれない。ぞぞっと背中に冷たいものが走る。
あぁもう、ローランドのアホっ! さっさと財布出しなさいよ! そんな思いを込めて睨み付けるあたしに、ローランドは深いため息をついてみせた。だから、何でそんな緊張感が無いのよ。
「……わかりました」
ローランドがじっとあたしを見る。「だから言ったのに」と言われてるような気がして、さすがのあたしも視線を逸らした。悔しいけど、確かにローランドの言う通りだってことはわかってる。もしかしたら、これから先もタダ働きになったりして。ローランドの財布に、あんまり大金が入ってないことを祈ろう。
ローランドは懐に手を伸ばす。そうして財布を取り出した―――はずだった。
風が切る。
口を押さえられていなければ、あたしは「え?」と声を上げていただろう。
「もう一度だけ言いますよ。彼女を放して下さい」
声は、すぐ傍から聞こえた。本当に、あたしの目の前から。目の前にローランドがいて、そうして、グレンの首に剣を突きつけていた。
……信じられない。
いつ剣を抜いたのかもわからない。本当に魔法みたいに、一瞬の間に目の前に現れたみたいだった。そうとしか思えない。
「なっ、お、おまえ……こ、こいつが怪我しても」
ローランドは小さく笑う。いつも見ている笑みと違うのは、多分、その目が笑っていないからだ。口元だけで作った笑み。
「その鈍らなナイフと、僕の剣と―――どっちの切れ味が上かなんて、試してみなくてもわかるだろう?」
勝者がどっちなんて、もうとっくのとうに決まっていた。グレンなんて、元々ただのチンピラなのだ。
カランっと、軽い音を立ててナイフが落ちる。同時に、ローランドにぐいっと腕を引かれた。勢い余ってそのまま胸に倒れこんだあたしを、ローランドは片方の腕で抱きしめる。
「さっさと行け。二度とこんな真似はするな」
足音だけでも、グレンが逃げるようにして去って行ったのはわかった。あいつにしても予想外の反撃だったのだろう。あたしにとってもそうなんだから。
「あんたね……」
「話は後で。お金だけ置いて、早く行きましょう。あまりのんびりしていると、先ほどの馬車が行ってしまうかもしれません」
急かされるままにあたしは再び家へと入る。確かに、ここでいつまでも父さんを待ってるわけにはいかない。悩んだ末、寝室に入り、枕の上に銀貨を一枚置いてきた。まさかこんなボロ屋に入ってくる盗人もいないだろう。
「行きましょう」
どちらともなく早足になる。ローランドに手首を掴まれたままだったけど、不思議と気にならなかった。
「あんた、剣には自信無いとか言ってなかったっけ? 何で嘘つくのよ」
「嘘ではありませんよ。本当に剣技には自信がありません」
「よく言うわよ。あっさり勝っておきながらさ」
「相手は素人でしたから。軍人や熟練の剣士が相手となれば歯が立ちませんよ」
いや、それはだれだってそうなんじゃ……。何もそんな人たちと比べなくてもいいと思うんだけど。
「十分強いわよ、あんた」
「……ありがとうございます」
せっかく褒めてやったのに、ローランドはあんまり嬉しくなさそうに苦笑している。何だろ、グレンみたいなチンピラ相手に勝つなんて、それこそ大したことじゃないと思ってるのかな。
馬車はちゃんと停まっていた。小走りに戻ってきたあたし達を見て、御者のおっちゃんは何か言いたそうな顔をしたけど、黙ったまま馬車を出した。
腰を下ろせば、何だかどっと疲れが押し寄せてくるような気がする。グレンの奴、今度会ったらどうしてくれよう。どぶ川にでも突き落としてやるか。
「ネッティ」
「なに?」
ローランドはあたしの首に手を伸ばす。くすぐったい、と思ったのは一瞬で、ローランドの手はすぐに離れて行った。指先には、赤いものがついている。
「ナイフで切ったんですね」
「あぁ、やっぱりね。そうじゃないかとは思ったんだけど」
ここに来るまでの間に、そんなことはすっかり忘れていた。ほっといてもその内止まるだろうし。
「じっとしていて下さい」
ハンカチを取り出すと、ローランドはそれをあたしの首にあてようとする。
「ちょっと、いいってば。ハンカチ汚れるわよ」
「使うために持ち歩いているのですから、汚れたところでハンカチだって本望でしょう」
いやいや、そんな高そうなハンカチを汚すとか罰当たりな。しかも本望とかわけがわからないし。
「いいってば! しまいなさいよそれ!」
伸びてくる腕を、狭い馬車の中であたしは必死になって避ける。汚してもいいとか思ってるのなら、そのハンカチいっそあたしにくれないか。
「……ネッティは頑固ですね」
諦めたのだろうか。仕方ないなあとでも言うようにローランドは笑う。どうせあたしは頑固ですよ。父さんにも散々言われてるからそんなの自分でもよくわかってる。
「では、そうですね。このハンカチはしまいますが……」
もったいぶった言い方をする。
なに? と見上げるあたしに、ローランドは再び手を伸ばした。いや、顔を近づけた。
首を、ぺろん、と舐められたのは、次の瞬間のこと。
「な…っっ!」
「あぁ、僕にとっては役得ですので、むしろハンカチは無い方がいいですね」
いや、何だ役得って。何で一人でそんな幸せそうに笑ってるんだ。人に今、何をしたと思ってこいつ。
言いたいことはそれこそ山のようにあるのに、口はぱくぱくと動くだけで言葉にならない。お、乙女の身体を何だと思ってるんだいったい……!
「そういえばネッティ、僕はまだあなたから感謝の言葉を聞いていないのですが。僕の心配を無視し、案の定危険な目にさらされることになったのですから、精一杯心を込めて可愛らしく、お礼の言葉を述べるぐらいはして頂けますよね?」
いつものように、天使のような笑顔を浮かべてローランドは言う。
……実はこいつって、もしかしてものすんごく性格悪かったりするんじゃないか? あれ? あたし騙されてる?
「さあネッティ。なるべく可愛らしくお願いしますね」
驚きのあまり、口は上手く動きそうにない。
だからあたしは、拳にぎゅっと力を込めて、言葉にならない分の『感謝の気持ち』をたっぷり味わってもらうことにした。
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いくら書いても終わらなくて、数日に渡ってぽちぽちと書いてました。
そろそろ話を進めたいなあと思います。キャラも増やしたいなと。
(09.05.23)
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